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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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163/219

主なき軍

主なき軍


 聖都は落ちた。だがそれを祝う声はどこにもなかった。

 城壁の上には旗が林のように立っている。三頭獣《ドライアルドベスティエ》の三つ首。四腕の毒蜘蛛《セルコエシュー》の蜘蛛。近衛の白百合。北方の伯爵家が掲げる熊。南部の傭兵あがりが担ぐ名も知れぬ徽章。──数えようにも数えきれぬほどの騎士団と騎士隊の旗が、思い思いの高さで冬の風にはためいていた。

 それは一つの軍ではなかった。

 寄せ集めだった。

 王家の号令の下に集ったとはいえ、その実この数えきれぬ旗はそれぞれ違う主を戴き違う財布で動き違う戦後を夢見ている。ある者は恩賞を、ある者は武名を、ある者は本国に控える派閥の思惑を背負ってこの遠征へ加わった。反りの合わぬ者も多い。古い遺恨を抱えて同じ陣に並んでいる者もいる。

 そのばらばらな数えきれぬ旗を、たった一人の男が束ねていた。

 総指揮官ディルアン。

 英雄の弟子という声望。数々の戦を勝ち抜いてきた将としての地位。武官派閥の頭として王都と各派閥の思惑を捌ききる政治の力量。そして何より──荒くれた傭兵の頭も驕った名門の当主も、気づけばその背を追ってしまう人としての求心力。

 その四つをただ一人で兼ね備えていたからこそ、あの男は数えきれぬ旗を一つの拳に握れた。

 誰も王家に従っていたのではない。ディルアン個人に従っていたのだ。

 その拳が開かれた。

 残された者の中に、その四つを全て備えた者はいない。

 三将軍には武名と地位がある。だが王家の禄を食む正規兵は束ねられても、禄の外にいる傭兵の騎士隊・騎士団までは御せない。彼らの号令は、その数えきれぬ旗のほんの一握りにしか届かなかった。

 首席参謀ヴァルテンには地位と政治の半分がある。だが紙は捌けても驕った騎士の胸倉は掴めない。

 誰もディルアンの代わりにはならなかった。

 主を失った数えきれぬ旗はその日から、それぞれの主のそれぞれの財布と欲の方を向き始めた。

 ロズヴェータはそれを城壁の上から見ていた。

 崩れの音はまず銭の音から聞こえてきた。


◇◆◇


「給金が止まった」

 三頭獣の宿営でそう告げたのは、会計方を束ねるガーデルだった。几帳面な男の指が帳面の上で珍しく止まっている。

「王都からの軍費が、聖都陥落の報と入れ違いに止められました。──総指揮官閣下が亡くなったからです」

「筋を教えてくれ」

「軍費は武官派閥を通じて王都から下ります。その派閥の頭が閣下でした。閣下が倒れ後継の裁可が下るまで、金庫の鍵を握る者がいない。──誰も二万の給金に判を捺せないのです」

 ロズヴェータは低く唸った。

 勝ったのに一文も入らない。兵から見ればそれが全てだった。とりわけ恩賞と分け前を目当てにこの遠征へ来た傭兵の騎士隊・騎士団には、それが応えた。命を賭けて千年の都を落とし、手に残ったのが空の財布なら──彼らの目は当然、まだ手をつけられていない都そのものへ向く。

「囲んだ都は目の前にある。金庫の鍵は誰も握っていない。──連中はこう考えます。『払われぬ給金は自分で取る』と」

 ガーデルの声が苦い。

「加えてラスタッツァが、兵相手の高利貸しを始めました。今日の酒代を、明日の当てにならぬ給金を質に貸しつけている。……阿漕ですが止める理由もない」

「うちの兵には手を出させるな。うちの分は俺が立て替える」

 言いかけてロズヴェータは口を噤んだ。

 立て替えられるのは四百と少し。残る一万九千の財布と数えきれぬ旗の欲を、彼が温める術はどこにもなかった。


◇◆◇


 その足で、ロズヴェータはラスタッツァを呼びつけた。

 道化師じみた白粉に、翡翠色の瞳。チソッド商会の若き女当主は、悪びれるどころか上機嫌で天幕へ滑り込んでくる。

「お呼びだなんて光栄だねェ、団長。この物入りの折に、あたしと二人きり──口説くにしちゃ、ずいぶん色気のない場所だけど?」

 わざと間合いを詰めてくる。ロズヴェータは半歩も引かなかった。

「高利貸しの件だ」

 声は低い。

「ガーデルから聞いた。当てにならぬ給金を質に、兵へ法外な利で貸しているそうだな」

「阿漕とでも言いたいのかい? けど違法じゃない。貸したいあたしと、借りたい兵。話がついてるだけさ」

 翡翠の瞳が、化粧の下で楽しげに細まる。

「止めろとは言わん。お前の商いだ。だが利は常識の内で取れ」

 ロズヴェータは一歩、間合いを詰め返した。今度は女の方が、わずかに目を瞠る。

「給金が下りたその日、兵の懐に残るのがお前への借金だけなら──その兵はもう二度と、俺たちのために剣を握らん。俺が銭で繋ごうとしている糸を、裏から食い破るな。それ以上絞れば、次にお前の帳簿を検めるのは、俺だ」

 道化の笑みが、ほんの一拍だけ止まった。損得の分かる女ではある。今この若造に睨まれて得はないと、化粧の奥のそろばんが弾いたのだろう。

「……手厳しいねェ、団長は」

 ラスタッツァは翡翠の瞳をひとつ瞬かせ、へえ、と芝居がかった辞儀をして天幕を出ていった。


◇◆◇


 その日の評定は荒れた。

 総指揮官の空いた席を囲んで、三人の将軍と幕僚の列が正面から睨み合っている。

「兵に飯を食わせ銭を握らせろ。話はそれからだ」

 口火を切ったのは前衛将グライン・ガードルードだった。ディルアンの死以来、老将の岩のような顔からは生気が抜けている。それでも声だけは太い。

「城内の蔵を開けて兵に分ければいい。勝った兵が勝った都でなぜ飢える」

「なりません」

 応じたのは首席参謀ヴァルテンだった。型を崩さぬ男の声はいつも通り冷たく整っている。

「占領した都を掠奪すれば、この地の民は我らを解放者ではなく蛮族と見る。──春に十字軍が来たとき、民が門を開ける相手が我らでなくなります」

「その春まで兵が保つと思うか」

 グラインが卓を叩いた。

「軍費は止まった。いつ下りるかも分からん。飢えた兵はもう命令では動かん」

「では蔵を開けて統制を保てるとお思いか。──閣下。仮に我らが『分けよ』と命じたとして、傭兵の騎士隊・騎士団の頭どもが我らの割り当てで大人しく満足すると?」

 ヴァルテンの言葉に天幕が静まった。

 そこが急所だった。

 命じることはできる。だが従わせる力がもう無い。三将軍の号令は正規兵にしか届かず、幕僚の裁可は紙の上でしか効かない。数えきれぬ旗のうち独立した傭兵の騎士隊・騎士団は、そのどちらにも頭を垂れる義理を持たなかった。

 現にその評定の最中に。

 北方の伯爵家の名代が席を蹴って立った。「割り当てを待つ気はない」と言い捨てて、熊の徽章の一団は評定の天幕を出ていった。

 誰も止められなかった。

 ロズヴェータは末席でそれを見ていた。

 数えきれぬ旗を束ねていた要石は抜けた。そしてその代わりを、この天幕の誰も担えずにいる。

 崩れはもう始まっている。


◇◆◇


 その夜、崩れは血の音になった。

「隊長。──東の倉庫街です」

 斥候から戻ったホルベクの声が硬い。旗頭時代からの実直な男の顔に、隠しきれぬ動揺がある。

「熊の徽章の伯爵家の団と南部あがりの傭兵隊が、蔵の取り分で揉めました。口論が刃傷に。……今は通りで斬り合っています」

「兵同士のいざこざじゃないのか」

「団と団の抗争です。伯爵家の側に七つ八つ死人が出ている。傭兵の側も同じくらい。──双方退きません。面子と蔵の中身が懸かっていますから」

 ロズヴェータは立ち上がった。

 味方の軍のその内側で、味方同士が殺し合っている。

 東の空が赤い。倉庫の一つが火をかけられたのだ。逃げ惑う都の民の悲鳴が、風に乗って微かに届いてくる。攻めるでもなく守るでもなく、ただ身内の欲と面子のために、勝ち取ったばかりの都が燃え始めていた。

「評定は」

「まだ揉めています。『あれは伯爵家の管轄か幕僚の管轄か』で」

「……管轄か」

 ロズヴェータは赤い空を見上げた。

 誰の管轄でもない。だから誰も止めない。要石の抜けた軍とはこういうものかと、腹の底が冷たくなった。

 あの獅子が生きていれば、こんな抗争は起きる前に一睨みで消えていた。荒くれの傭兵頭も驕った伯爵家の当主も、ディルアンの前では牙を仕舞った。だがその一睨みを今、誰も持っていない。

「──行くぞユーグ。うちを集めろ」

「ロズヴェータ様。それは越権です」

「越権も何も、権限のある者が誰も動かん。──燃えた都は二度と戻らん」


◇◆◇


 倉庫街の抗争を、三頭獣は真正面から止めにかかった。

 ロズヴェータに伯爵家を裁く格も、傭兵を罰する権も無い。だが今要るのは権でも格でもない。両者の間に力ずくで割り込む一枚の壁だ。

「楔の隊形! 二つの間をこじ開けろ!」

 ユーグの号令の下、三頭獣が隊伍を鏃の形に組み、斬り合う二団のちょうど境目へ突き込んだ。ヴィヴィの前衛が大盾を並べて伯爵家の側を押し戻し、バリュードの分隊が音もなく傭兵の背へ回り込む。ルルの後衛が逃げ場を塞ぐ。

 疲れ乱れ憎悪だけで斬り結んでいた二団は、突如横から割り込んできた隊伍の整った一団になす術がなかった。抗争は勝敗のつかぬ乱戦だ。そこへ息の乱れぬ四百が統率をもって食い込めば、力の差は火を見るより明らかだった。

 三頭獣は双方の得物を次々と叩き落としていく。斬るのではなく殴り、盾で押し伏せ、腕をねじり上げて無力化する。殺しはしない。ただ動けなくする。

 小半刻もかからず、伯爵家の団と傭兵隊は通りの左右へ力ずくで引き剥がされていた。

「双方、得物を納めろ」

 二団を隔てた三頭獣の壁の内側から、ロズヴェータが馬を進めた。抑え込んだ後の声を荒らげはしない。

「蔵の取り分は明日、俺が帳簿で裁く。今、先に剣を納めた側に色をつける。──ここで殺し合って焼けた蔵を奪うか。剣を納めて、焼けずに残った都から冬じゅう絞り出される分を待つか。選べ」

 力で抑え込まれ逃げ場を塞がれ、その上で退く口実と実の両方を差し出されている。ここで意地を張っても、もう得るものはない。

 傭兵隊の頭が舌打ちして剣を鞘に戻した。損得の勘定なら傭兵の方が速い。伯爵家も面子を保つ口実を与えられて、渋々兵を退いていく。

 完全な解決ではなかった。血はもう流れた。死人は還らない。

 だがその夜、東の倉庫街はそれ以上燃え広がらなかった。


◇◆◇


「隊長。……もっと厄介な話です」

 抗争を鎮めた帰り、猿顔のトーロウが音もなく横に並んだ。人懐こい笑みの奥で、その目だけが獲物を値踏みする毒蜘蛛のものに戻っている。

「今の抗争は前座でさ。本番はこれからだ。──古巣が動きます。今夜のうちに」

「セルコエシューか」

「ええ。頭目のリリーが。狙いは東の倉庫街なんてけちなもんじゃねえ。聖都で一番の、両替商と商館の並ぶ中央の富裕区。あそこをまるごと」

 トーロウの声が低くなった。

「考えてもみてくだせえ。数えきれぬ旗の中で一番大きくて一番タチの悪い団が、都の心臓を公然と略奪する。そうなりゃ残りの旗の我慢の箍も全部外れる。『あの毒蜘蛛がやるなら俺たちも』と。──今夜、聖都は丸ごと火の海です」

 伯爵家と傭兵の抗争が火種だとすれば。

 リリーの略奪は、その火を都全体へ広げる油だった。

「評定に諮る時間は」

「ありませんや。将軍様たちはまだ管轄で揉めてる」

 どこか申し訳なさそうに、トーロウは頭を掻いた。

「それに、古巣の方から、俺にも連絡がありました。一緒にどうだ、と。おそらく隊長に対しての頭目のリリーの誘いじゃないかと思うんですが」

 ロズヴェータはしばらく黙っていた。

 これは彼の役目ではない。彼は数ある騎士団の一つの長にすぎない。だが──要石は抜けたのだ。抜けた穴を誰かが塞がねばならない。権限のある者が動かぬのなら、権限の無い者が動くしかなかった。

「ユーグ。兵を集めろ。リオリスとエリシュにも使いを」

「またも越権ですが」

「ああ。派手にな……閣下は、間に合ったと言ったんだ。そうだろう?」

「……ええ、そうですね。間に合った、と」

 美貌のユーグの返答に、ロズヴェータの口の端がわずかに上がった。腹の底の黒い熱が久しぶりに疼いている。


◇◆◇


 聖都、中央の富裕区。

 石畳の目抜き通りに、松明の列がゆらゆらと近づいていた。

 蜘蛛の徽章を掲げた一団。四腕の毒蜘蛛《セルコエシュー》。その数、百は下らない。倉庫街の抗争とは桁が違う。先頭を、赤い髪の女が馬も使わず悠々と歩いていた。

 毒蜘蛛のリリー。

 商館の扉を手下が斧で叩き割ろうとした、その時。

 通りの向こうから、別の松明が道を塞いだ。

 三頭獣の隊列。その脇に近衛の槍衾。そして通りの屋根の上には、返り血の乾いた革籠手の女──紅剣《スカーレット》のエリシュが、細剣を提げてリリーを見下ろしている。

 リリーの足が止まった。

「……おやおや」

 蛇のように温度のない目が、隊列の先頭を捉える。

「三頭獣の団長さんじゃないか。──倉庫街の喧嘩を腕づくで黙らせたそうだねェ。ずいぶん威勢のいいこと」

「リリー。引け」

 ロズヴェータの声は静かだった。

「この一角は俺が押さえる。今夜の『徴発』は無しだ」

 リリーはひひ、と喉を鳴らした。

「権限は? あんた、都の治安官にでもなったのかい。それとも新しい総指揮官様かな。──あいにく、あたしに『引け』と言える辞令なんざ、この軍にゃもう一枚も無いはずだよ」

 その通りだった。ディルアンなら言えた。リリーの牙を仕舞わせる声望も地位も、あの男にはあった。だが末席の若造にその格は無い。

「格は無い。だが勘定なら持ってきた」

 ロズヴェータは一歩前へ出た。

「焼けた都は一晩、保った都は一冬、金を生む。今夜お前が奪えるのはこの一角の蔵だけだ。だが都を丸ごと保てば、そこから絞る冥加金はその何倍にもなる。それを全軍の給金に回す。セルコエシューの分もだ。──指一本汚さず、今夜奪うより多くをこの冬ずっと受け取れる」

 損得だけを見れば乗るのが正しい絵図だった。

 だがリリーは、目の前の商館の半ば割れた扉へちらりと目をやった。

 金蔵はすぐそこにある。

 冬じゅうの分け前より、今夜この手で掴める確かな一掴み。

「……悪くない口上だ。悪くはないが」

 リリーの口の端が酷薄に吊り上がった。

「あたしは手の中の一枚が好きでねェ。帳簿の上の十枚より、ね。──それに坊や。給金の止まった騎士が、目の前の金蔵を本音で要らないわけがないだろう。あんたもあたしと同じ穴の狢さ」

 その一言で決まった。

「野郎ども! 構わず蔵を開けな! 金で動く騎士が金のために味方と本気で殺し合うわけがない──ほら、試してやりな!」

 セルコエシューの百が一斉に得物を抜いた。

 リリーは踏んでいたのだ。この男を自分と同じ穴の狢だと。金を貰って働く騎士。その給金が止まっている。ならば考えることは一つ──貰えぬなら自力で獲るしかない。目の前の蔵をこの算盤屋とて、腹の底では欲しがっているはず。同類が同類の獲物に本気の牙を剥くものか。せいぜい分け前を強請ってくるのが関の山だ、と。

 そして四つ腕の毒蜘蛛から分け前を強請るなんてことを、リリーが許すはずがない。

 その値踏みが外れた。

「──かかれ!」

 ロズヴェータの声に迷いは無かった。

 瞬間、通りの左右の屋根から、返り血の紅剣《スカーレット》が滝のように降ってきた。エリシュの細剣が真っ先に、斧を振り上げた手下の首筋を刈る。

「リリー! 首寄こしな!!」

「──ッチ!?」

 リリーが気付いた時には遅かった。

 猛然と炎のような勢いで襲い掛かるエリシュを尖塔に、スカーレットは鋭い刃のように斬り込んでくる。

 正面ではリオリスの近衛が槍衾を伏せて突き込み、逃げ場と見えた背後の路地からは、いつのまにか回り込んでいたバリュードの分隊が柔らかい脇腹に音もなく刃を差し入れた。

「叩き伏せろ!」

「うひょー、選り取りみどり」

 富裕区の狭い目抜き通りは、セルコエシューにとって逃げ場のない檻に変わっていた。

 ロズヴェータはリリーが「引かない」ことを最初から読んでいた。手の中の一掴みを、この女が手放すはずがない。だから説く前に囲んでいた。近衛を正面に、紅剣を頭上に、三頭獣を背後に。──絵図に載せた餌は乗らせるためではなく、断らせてその隙に罠を閉じるためのものだった。

 百は下らなかった毒蜘蛛がみるみる削られていく。統率のある囲みに、乱れた略奪者は敵わない。

 リリー自身は強かった。細身から繰り出す短刀の冴えは、屋根から降りたエリシュと幾度か火花を散らす。二つの赤が狭い通りで再び噛み合った。だがそれも大勢は覆せない。手下は倒れ囲みは狭まり、退路は一つずつ潰されていく。

「……ちィ」

 リリーは短刀を引いた。勝てぬと見た博打から手を引くのも、この女は速い。

「退くよ! 都から出る! ──足止めする奴は置いていきな!」

 毒蜘蛛の生き残りが頭目の号令で、蜘蛛の子を散らすように夜の路地へ潰走する。追い立てる三頭獣と近衛の松明が、その背を聖都の門の外まで押し出していった。

 富裕区は燃えなかった。奪われもしなかった。

 夜が白み始める頃、四腕の毒蜘蛛《セルコエシュー》の蜘蛛の旗は、聖都の城壁の上から消えていた。

 門の外、追い立てられた馬上で、リリーは一度だけ肩越しに振り返った。

 その顔に憤りは無かった。あるのは酷薄で、それでいてどこか楽しげな──自分を嗤う笑みだった。

「読み違えたねェ。あたしとしたことが」

 毒蜘蛛のリリーはひひ、と喉を鳴らした。

「あの坊やをあたしと同じ穴の狢だと踏んだ。金で動く騎士。給金が止まりゃ目の前の金を自力で獲るしかない──そう考える口だと、なァ。だから蔵の奪い合いはしても、本気の殺し合いにゃ至らないと踏んだのさ。とんだ見立て違いだ。あいつはそもそも金で動いてなんかいなかった。おまけにあたしが引かないことまで勘定に入れて、先に囲んでやがった。値踏みしてたのはあたしじゃない。あたしが値踏みされてたのさ」

 毒蜘蛛が人を読み違える。

 それはこの女にとって、敗けそのものよりよほど可笑しいことだったらしい。

「覚えときなカミューの坊や。──次に会うときは、あたしも手の内は隠さないよ」

 言い捨てて、赤い髪は夜明け前の闇へ消えていった。

 エリシュが返り血を拭いながら、ロズヴェータの隣に立つ。

「……仕留めきれた。逃がしたのは惜しいよ」

「殺すには及ばん。都から追い出せればそれでいい」

 ロズヴェータはリリーの消えた闇を見ていた。

「あの女はいつか、手の内を隠さずに戻ってくる。それでも──今夜、都は燃えなかった。今はそれで十分だ」


◇◆◇


 夜が明ける前から、ロズヴェータは動き続けていた。

 ガーデルが聖都の蔵と商館の帳簿を検め、取れる冥加金を弾き出す。ラスタッツァがそれを銭と糧に換える算段をつけ、無論、自分の取り分もちゃっかり乗せた。ホルベクの斥候が都の各区を回り、火の気と不穏な団の動きを見張る。倉庫街の抗争は約束通り、翌朝ロズヴェータの帳簿で裁定された。剣を先に納めた傭兵隊には色がつき、粘った伯爵家には損が出た。文句を言いに来た伯爵家の名代に、ロズヴェータは帳簿の数字だけを静かに突きつけた。

 掠奪ではなく徴発。

 奪うのではなく、都を回してそこから正しく絞る。壊して奪えば一度きり。生かして回せば幾度でも。──それを、給金の止まった諸隊へ順に配っていく。

「……なぜ他隊の分まで」

 立て替えと配分の帳面を見て、ユーグが眉を寄せた。

「うちの絵図で、他隊の兵の腹を膨らませることになりますが」

「腹の空いた兵は命令じゃ動かん。銭で繋がった兵は、銭を出した者の言うことを聞くようになる。──俺にはあの獅子の声望も地位も無い。無い袖は振れん。なら有る袖で繋ぐしかない」

 ロズヴェータは帳面に判を捺した。

 銭。それが彼に振れる唯一の袖だった。ディルアンがその背中一つで束ねたものを、彼は一枚一枚の銭で繋ぎ止めようとしている。脆い糸だ。だが今はその糸しか無かった。


◇◆◇


 三日後の評定で、潮目は変わっていた。

 相変わらず三将軍と幕僚は、総指揮官の空席を挟んで睨み合っている。だがその日、諸隊の騎士団長たちの視線は、いつのまにか末席の一人の若者へ集まっていた。

 都は燃えていない。抗争は鎮まった。給金の止まったこの数日、崩れかけた数えきれぬ旗を辛うじて繋ぎ止めていたのが、末席のあの男の帳簿だと──誰もが気づいていた。

「ロズヴェータ・スネク・カミュー」

 口を開いたのはヴァルテンだった。型を崩さぬ首席参謀の冷たく整った視線が、まっすぐに末席へ向く。

「貴殿は越権した。都の徴発も、抗争の裁定も、他隊への給金の融通も──いや、そもそもセルコエシューという一個の騎士団を実力で都から追ったこと自体が、貴殿の権限の外だ。騎士団同士の私闘は軍法の最も重く戒めるところ。咎めようと思えば、いくらでも咎められる」

「承知しています」

「その上で。──貴殿以外の誰も動かなかった。動けなかった。型の内にいる我らには塞げぬ穴を、貴殿はまた型の外から塞いだ」

 深い一礼。

「首席参謀として貴殿に、都の治安と当面の兵站の差配を正式に委ねたい。王都の裁可が下るまでの暫定として」

 天幕がざわめいた。

 グラインが岩のような顔を、ゆっくりとロズヴェータへ向ける。老将の目に値踏みの色があった。だがそれは敵意ではない。

「……若造。銭で兵を釣ったな」

「はい」

「兵を銭で買う将は好かん」

 グラインはそう言って、ふ、と息を吐いた。

「だが身内が殺し合うのを管轄だ何だと眺めている将よりは、ずっといい。──前衛軍は貴様の差配に従おう」

 中央のゴルムが無言のまま深く頷く。後衛のサーディラードが、口の悪い顔を珍しく綻ばせた。

「兵站はあんたと組む方が、楽ができそうだ」

 リオリスが末席のロズヴェータの隣で、にやりと笑う。

「王家への繋ぎは俺が持つ。連絡使の役得だ。お前が握った差配、王都にもちゃんと通しておく」

 だがロズヴェータはその全てを静かに受けながら、天幕の隅に目をやっていた。

 傭兵の騎士隊・騎士団の頭の幾人かはそっぽを向いている。北方の伯爵家の名代は露骨に鼻を鳴らした。辺境伯家の三男坊風情に従うのは癪だ──その顔ははっきりとそう言っていた。

 だが鼻を鳴らす以上のことは、誰もしなかった。昨夜、数えきれぬ旗で最も大きく最も凶暴だったあの毒蜘蛛が、都から叩き出されるのを皆見ている。銭で釣られ、逆らえば実力で潰される。それが末席のあの男に頭を垂れる理由だった。

 分かっていた。

 彼が握ったのは、ディルアンのような背中で従わせる求心力ではない。銭と力への恐れ。その二本の糸で辛うじて旗を繋ぎ止めているにすぎない。どちらかが切れれば糸も切れる。数えきれぬ旗を本当の意味で束ねる要石は、まだどこにも無い。

 彼は崩れを止めただけだった。積み直したわけではない。


◇◆◇


 その夜、ロズヴェータは一人、城壁の上に立った。

 東の空に、糸のように細かった月が、また少しだけ肉を取り戻している。あの獅子が逝った夜、消えかけていた月だ。

 その手には、一通の文が握られていた。

 総指揮官ディルアンが事切れる間際、王都へ書き遺したもの。長い戦況報告でも、後事の指示でもない。ただ一言、『間に合った』とだけ。明日、今夜絞り出した銭の帳簿とともに、これを王都へ回送する。

「……間に合った、か」

 ロズヴェータは闇に向けて呟いた。

 そう、英雄の弟子は、そう書き遺した。落ちた都をその目で見ることもなく、遺した軍が崩れ始めるのも知らず。あの人は間に合わせて、逝った。あとを繋ぐのは、遺された者の役目だ。

 あなたはあの背中一つで、数えきれぬ旗を握っていた。俺にはそれが無い。だから銭で繋いでいる。無様でもそうするしかなかった。

 あの男が命と引き換えに開けた門。そこから絞り出した銭で、あの男が遺した軍を辛うじて繋いでいる。

 雪解けはまだ遠い。王都の裁可が下れば、次は誰がこの軍の要石になるかを巡って、武官派閥も王家派閥も文官派閥も牙を剥くだろう。東からはいつか、あの合理の男が軍を立て直して戻ってくる。都の内では勝者たちが、早くも次の分け前を巡って牙を研ぎ始めている。都の外へ追い落とした毒蜘蛛もいつか必ず、今度は手の内を隠さずに牙を剥いて戻ってくるだろう。

 やることは山ほどある。

 ちょうどあの男が最後の夜に、そう言ったように。

 ロズヴェータは肉を取り戻し始めた月を、しばらく見上げていた。それから踵を返し、まだ灯りの絶えない帳場の天幕へと戻っていった。

 要石はまだ無い。

 だが要石が現れるまで、この崩れかけた軍を誰かが繋いでいなければならなかった。


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