英雄の弟子
聖都の城壁は高く聳え立っていた。まるで、唯一の神のみを戴く者とそうでない者とを隔てる境界だと言わんばかりに、内と外を厚く隔てている。
千年の石を積み上げたその壁は、灰色の冬空の下でただ黙して、内に囲うものを包み込んでいた。海風の街道を越え、平原の会戦を制した王国軍二万は、今その城壁を遠く望む野に陣を布いている。凍えた風が幕を鳴らし、焚き火の煙を横へ薙ぐ。だが、どの兵の顔にも勝者の色はなかった。
壁が、あまりに厚い。
「──力攻めは、無理だ」
軍議の天幕で、首席参謀ヴァルテンが静かに断じた。地図の上の聖都に指を置く。
「あの壁は、この戦域で最も厚い。梯子も櫓も、城壁の高さに届く前に上から焼かれて潰される。城内には十年の籠城にも耐える水と糧がある。囲んで干すには、我らの方が先に春を迎えます」
春。雪解け。
西から、十字軍が来る。
塗炭の苦しみを撒き散らしながら押し寄せる、飢えた棄民の群れ。その光景を思い描いて、居並ぶ将の誰もが顔を顰めた。たったその一語が天幕の空気を重く沈ませる。
「間に合わせねば、意味がない」
総指揮官ディルアンが腕を組んだまま言った。そこに、いつもの軽さはない。
「十字軍が来る前に、聖都を落とす。それでこそ連中の大義は消える。──雪解けまでに、この壁をどうにかしなきゃならん」
沈黙が落ちた。
その、誰もが苦悩から目を逸らすための沈黙を破ったのは、他ならぬ総指揮官ディルアン自身だった。
「だから、壁は抜かん」
諸将の視線が総指揮官に集まる。
「抜けない壁を抜こうとするから間に合わん。──抜かなくていい。城の中の敵を、城の外へ引きずり出す」
「引きずり出す、と仰いますが」
グライン・ガードルードが岩のような眉を寄せた。
「あの首狩り総督が、みすみす城を出るものか。奴は、籠って待つのが最も得だと誰より承知しておろう」
「承知してる奴ほど、甘い餌にゃ食いつくのさ」
ディルアンは地図の一点を無造作に指で叩いた。海沿いの街道が聖都の手前で海と湿地に挟まれて細くなる場所──荷車がやっと二台すれ違えるほどの、隘路だ。
「ここに、攻城の切り札を揚げる。ガディフォールから海路で運んだ破城の重い機械──攻城櫓と、大投石機だ。あの壁を抜ける唯一の道具。それを、わざと薄い護りでここに据える」
「餌に、なさるおつもりか」
後衛将サーディラード・サリサが日に灼けた顔をしかめた。
「そうだ。あの合理の男は、あの機械が壁の下に並ぶのを座視できん。据えられる前に叩きに来る。──それも、うんと甘い餌ならなおいい」
ディルアンはにやりと笑って、自分の胸を親指で指した。
「その囮の陣に、俺の獅子の旗を立てる。攻城の切り札と、敵の総指揮官。二つ一度に潰せる好機だ。──あの男の勘定なら、必ず出てくる」
天幕が凍りついた。
総指揮官自らが囮になる。それが何を意味するかを、その場の全員が瞬時に理解したからだ。
囮とは、敵の刃を最も濃く浴びる場所である。
「なりません」
真っ先に立ったのは首席参謀ヴァルテンだった。型を崩さぬこの男の声が、珍しく硬く尖っている。
「総指揮官を囮に据えるなど、兵法の外道。頭を一つ失えば、二万は烏合に還ります。──幕僚一同、断じて賛同いたしかねます」
幕僚たちが次々と同意の声を上げた。反対の声が天幕を満たしていく。
だが、ディルアンはそれを片手で制した。
「聞け」
その一声で、天幕が静まる。
「お前らの言い分は、正しい。正しいから聞く価値がある。──だが、正しさで壁は抜けん。あの男を城から出せるのは、あの男が『出るに値する』と勘定する餌だけだ。そんな餌は、俺の首を措いて他にねえ」
ディルアンは諸将を順に見回した。
「これは、議論じゃねえ。決めたことだ。俺の首の使い道は、俺が決める。──総指揮官として命じる」
誰も、二の句が継げなかった。
剛の総指揮官の、独断だった。その独断の重さの前に、居並ぶ正論は口を噤むよりない。
「それと、もう一つ」
ディルアンは、地図の聖都とその外の街道を、指でぐるりと囲った。
「聖都への商人の出入りは止めるな。街道の関も港も、開けておけ」
「閣下。城を囲みながら商いを通すのですか」
幕僚の一人が戸惑う。囲む敵の城に物を運び込ませる将など、聞いたこともない。
「ああ。物が流れる道は、報せも流れる道だ」
ディルアンは、酷薄なほど楽しげに笑った。
「その道に、餌を一切れこぼしておく。『攻城の機械が揚がった。護りは薄い。しかも、総指揮官が自らそこにいる』とな。──商人の口から口へ、それは聖都へ流れ込む。イブラヒムの間者が必ずそれを拾う」
「わざわざ、教えてやるのですか」
「わざわざ、じゃねえ。あの男に『自分で嗅ぎ当てた』と思わせるのさ」
ディルアンは、指を一本立てた。
「人から手渡された報せは疑う。だが、自分の間者が商人の噂の中から拾い上げた報せは──信じる。合理の男ほど、自分の耳を信じるものよ」
ヴァルテンが、僅かに目を細めた。
剛の将と侮っていた総指揮官の口から出た、その諜報の綾に、型の参謀は内心舌を巻いていた。
「──さて」
ディルアンは、居並ぶ諸将に役目を割り振っていく。
中央ゴルム・マルツァと後衛サーディラード・サリサは、本隊を率いて隘路の砂丘の陰に伏せること。合図と共に、隘路に詰まった敵の横腹へ雪崩れ込む。
「グライン。お前は、俺と一緒に囮の陣だ。お前が渋い顔で隣にいりゃあ、いかにも『主力の一部が孤立した』って絵になる。──演技も、戦のうちよ」
「……老骨に、芝居をさせるか」
グラインは、深く息を吐いた。もはや反対は、総指揮官の独断が呑み込んでしまっている。老将にできるのは、その無茶に最後まで付き従うことだけだ。
「上手いぞ、お前の渋面は。天下一品だ」
ディルアンは、老将の肩をぽんと叩いた。それから末席へ目を向ける。
「三頭獣」
ディルアンの目が、若い騎士団長を捉えた。
「お前らは、退き路を断つ役だ。あの男は、分が悪いと見りゃ鮮やかに退く。前の会戦の、あの退き太鼓を忘れちゃいめえ。──今度こそ、東の退き路を締めて逃がすな」
「……承知しました」
ロズヴェータは、短く応じた。
数ある騎士団の、一つ。与えられた持ち場は、退路の封鎖。それが、この決戦における三頭獣の役目だった。
◇◆◇
軍議の後、ロズヴェータの足は治療天幕へ向かっていた。
薬草と、煮沸した布の匂いが幕の内にこもっている。傷ついた兵の間を縫って、都市国家シャロンの姫アウローラが、いつも通り涼しい顔で包帯を巻いていた。
「──浮かない顔ですこと、私の騎士様」
手を止めずに、アウローラは氷結の蒼の瞳だけをこちらへ向けた。
「総指揮官閣下が、自ら囮に。……軍議は、その話だったのでしょう」
「止められなかった」
ロズヴェータは、低く言った。
「独断だ。誰の正論も通らなかった。──うちは、退き路を断つ役をもらっただけだ」
「あの方らしい」
アウローラは、包帯を結び終えて静かに言った。
「策は、正しいのですわ。あの合理の男を城から出すには、それだけの餌が要る。──ただ」
言葉を、少しだけ切る。
「囮という餌は、食われることを前提にした餌ですわ。据える方も、据えられる方も、いつでもその覚悟を」
「……ああ」
アウローラは、また次の包帯へと手を伸ばした。その横顔は、いつもの計算高い治療師のものだ。
だが、ロズヴェータが天幕を出るとき、姫はその背に、ぽつりと言葉を落とした。
「──あの方は、生き汚くない。それが、あの方の強さで……弱さですわ」
◇◆◇
聖都、宮殿の一室。
焚かれた白檀の香が、冷えた空気に甘く沈んでいた。高地の夜気は沿岸より遥かに鋭く、開いた窓から忍び込む風が、香の煙を細く震わせる。首狩り総督イブラヒムは、掌の中で翡翠の獣を転がしながら、幕僚の報告を聞いていた。石は、指の下でひやりと滑らかだった。
「海沿いの街道の隘路に、敵が攻城の機械を陸揚げしております。大投石機と、攻城櫓。……あの壁を抜くための、重い代物にございます」
「その報せ、出所は」
「城へ出入りする商人どもにございます。王国軍は、なぜか聖都への商いの道を閉じておりませぬ。関も港も、開いたまま。──その隙に潜らせた我らの間者が、幾人もの商人から同じ噂を拾ってまいりました」
翡翠を撫でる指が、僅かに止まる。
閉じられていない、商いの道。そこを流れてきた、報せ。
「護りは」
「それが──妙にございます。護衛が、薄い。本隊から切り離されたように、僅かな兵と共に。しかも」
幕僚は、声を落とした。
「その陣に、獅子の旗が。総指揮官ディルアンが、自らついております」
攻城の切り札と、敵の総指揮官。二つが、薄い護りのままこちらの手の届く場所にいる。
「……甘い餌だ」
イブラヒムは、呟いた。声に、笑いはない。むしろ、警戒があった。
甘すぎる餌には、必ず針が隠れている。あの三つ首の獣が補給線でこちらの罠を悉く突き返してきた手並みを、彼は忘れていない。これが罠であることは、疑いようがなかった。
城を囲みながら商いの道だけを開けておく将など、いない。あの道が開いているのは、この報せをこちらの間者に拾わせるためだ。餌の甘さも、その報せの通り道までも、全てあちらが整えたもの。──それすら承知の上で、イブラヒムは盤に向き合う。
なぜなら、彼が引っかかったのは罠の甘さではなかったからだ。
もっと手前の、一点。
「なぜ、急ぐ」
イブラヒムは地図の前に立ち、聖都を見下ろした。
「総指揮官を、囮に据える。──軍を率いる者にとって、これほどの博打はない。頭を一つ失えば、二万は烏合に還る。あの整った軍の参謀どもが、それを分からぬはずがない」
彼は、指で地図の縁をなぞった。
「私が籠れば、あの軍は春まで壁を抜けぬ。ならば奴らは、じっくり囲むこともできる。時をかけて糧道を整え、援軍を待ち、万全の攻城具で壁を崩すこともできた。──それを、なぜ総指揮官の首を賭けるほど急ぐ」
「それは……冬の間に、と」
幕僚の答えは、歯切れが悪い。
「冬の間に、で説明がつくのは、力攻めを避ける理由までだ」
総督は、静かに首を振った。
「なぜ『この冬』でなければならぬ。なぜ、一年、二年をかけられぬ。──軍事の勘定では、あの急ぎ方は勘定が合わん」
と、卓の隅で黙って地図を眺めていた娘が、口を開いた。
「──お祖父様。あの者たちが競っているのは、時ではなく"誰か"では」
ユーシャル。太守アリマの娘にして、イブラヒムの孫娘である。戦時の今、母の許を離れ、祖父の膝下に身を寄せていた。まだ年若いが、その双眸には、この一族に流れる油断のならぬ光がある。
「時をかければ落とせる城を、時をかけずに攻める。──それは、時をかけている隙に、獲物へ割り込んでくる者がいるから。奪い合う相手が二つに増える前に、と急いでいるのでは」
イブラヒムは、初めて孫娘へ視線を向けた。
「割り込む者、とは」
「そこまでは、私には。ですが、この地の獲物を狙う者が、あの遠征軍だけとは限りますまい」
合理の男は、その言葉を掌の翡翠と共にしばし転がした。
孫娘は、答えの半ばまで正しく辿り着いている。
その半歩先を、イブラヒムは香の煙の向こうに見た。
「──西か」
呟きは、低い。
「奴らが競っているのは、季節ではない。十字軍だ」
幕僚が、怪訝な顔をした。十字軍の来訪は、当然この城でも掴んでいる。春には、西から十数万の群れが押し寄せる。それは、王国軍にとっても帝国にとっても、共通の脅威のはずだった。
「閣下。ですが、十字軍は、あの王国にとっても……」
「同じ西方の、味方だと思うか」
イブラヒムは、初めて酷薄な唇の端を僅かに歪めた。
「聖都は、十字教の聖地だ。十字軍は、この地を『解放』しに来る。──だが、もしその解放を、同じ西方のリオングラウスが十字軍より先に成し遂げたら、どうなる」
彼は、翡翠の獣を卓に置いた。こつ、と硬い音が鳴る。
「聖地は、既に西方の手に落ちている。ならば教皇の号令は、目標を失う。十数万を動かす大義が、宙に浮く。──都を、誰の手で落とすか。それが、あの若い遠征軍の本当の戦だ」
「では、あの急ぎ方は」
「十字軍が来る前に、聖都を落とす。それが、奴らの至上命題だ。だから──総指揮官の首すら、その天秤に載せる」
全ての、辻褄が合った。
合わぬ勘定が合った瞬間、イブラヒムの中で盤面が一枚、静かに裏返る。
彼は、地図の聖都をしばらく見下ろしていた。
千年の都。三日月帝国が、先の戦で聖墳墓の国から奪い取った、聖なる都。
だが今、その価値が、彼の帳簿の中で書き換えられていく。
「……この都は、餌だ」
総督は、静かに言った。幕僚が、息を呑む。
「私が籠れば、奴らは総指揮官の首を賭けてでもこれを落としに来る。落とされれば、十字軍の大義は消え、この地は十数万の蹂躙を免れる。──都を失うことは、敗北だ。だが、その敗北は、西方の聖戦を丸ごと空に浮かせる」
彼は、窓の外の聖都の空を見上げた。欠けていく月が、白く高地の夜気に凍えている。
「都と心中して軍ごと沈むか。都を捨てて無傷の軍を東へ持ち帰るか。──後者だ。都は、いずれ落ちる。ならば、落ちる都のために、我が軍を二つの西方軍の間で挽き潰されてやる義理はない」
「で、では、戦わずに退くと」
「いや」
イブラヒムは、剣の柄に手を置いた。
「一度、出る。あの甘い餌を、叩きに出る。総指揮官の首が獲れるなら、安いものだ。獲れずとも──退き際に、都を捨てる。どちらに転んでも、私の勘定は合う」
合理の男は、勝ちと負けの両方の目を同時に握った。
彼の出撃は、勝つための出撃であり、同時に、負けを最も高く売るための出撃でもあった。
◇◆◇
三日月帝国軍が聖都の門を開いて出撃したのは、月がさらに細った、凍える朝だった。
城壁から吐き出された騎馬の群れが、彩り豊かな絹の軍旗をなびかせ、戦太鼓の轟音を平原に打ちながら、海沿いの街道の隘路へ──攻城具を守る、獅子の旗の孤立した陣へと殺到する。地を揺らす蹄の響きが、腹の底まで届いた。
「来たぞ!」
囮の陣で、ディルアンが吠えた。獅子の旗を掲げた、薄い陣。攻城櫓の巨体が、その背後で冬の雨に濡れて黒く光っている。
「予定通りだ──さあ、渋い顔で耐えるぞ、グライン。本隊が閉じるまで、ここを動くな」
「言われずとも」
グラインが、大盾を構えた。
「囮の看板が真っ先に逃げては、芝居にならん」
最初に空を暗くしたのは、また矢だった。
だが、今日の弓騎兵は、いつものように自在には散開できない。
海と、湿地。
総指揮官がこの隘路に攻城具を揚げさせた理由が、そこにあった。冬の増水で、街道の片側は膝まで沈む泥沼と化している。もう片側は、荒れる冬の海。潮の飛沫が風に乗って頬を叩き、舌の先をうっすらと塩辛くした。弓騎兵が騎射で最も恐ろしいのは、散り、迂回し、包み込む機動にある。だが、この狭い隘路では、散る場所がない。迂回する土がない。
馬は泥に脚を取られ、隊列は隘路に詰まり、騎射の間合いは地形に殺された。
「囲めぬ、だと……!」
帝国の弓騎兵が、初めて狭さに焦る。
その、詰まった敵の脇腹へ──。
「今だ。突き刺してやれ」
街道を見下ろす砂丘の陰から、ヴァルテンの低く硬い声が飛んだ。
◇◆◇
伏せていた王国軍の本隊が、砂丘の陰から雪崩を打って現れた。
中央ゴルム・マルツァの重装槍騎兵が、隘路に詰まった帝国軍の横腹へ、鉄の穂先を揃えて突き込む。後衛サーディラード・サリサは、泥地の縁に沿って矢束を配り、負傷者を後方へ流す差配を、怒鳴りながら回していく。
「泥に嵌まった敵に、遠慮は要らねえ! 押せ、押して海へ落とせ!」
鶴翼の右では、三頭獣とリオリスの近衛が、退路の一角へ回り込もうと駆けた。
「近衛、続け! あの隘路の出口を、塞ぐぞ!」
リオリスの長剣が、朝の鈍い光を弾く。
前章の、反転だった。
あのとき、イブラヒムは偽装退却で獅子を誘い、両翼で包もうとした。今、狭い隘路に詰まった帝国軍を、王国軍が地形ごと包み込もうとしている。狩る者と狩られる者が、入れ替わったのだ。
本陣で全軍を束ねるヴァルテンの絵図の上で、包囲の輪が着実に狭まっていく。
「──閉じます。閣下の睨んだ通り、地形が敵の機動を殺した」
だが。
その輪が最後に閉じきる、その一歩手前で。
イブラヒムは、動いた。
◇◆◇
首狩り総督は、罠を一瞥で見抜いていた。
いや、見抜くまでもない。甘い餌には針がある。針の形が、今、地形と共に見えただけのことだ。彼は、囲まれることに少しも動じなかった。
なぜなら、彼は最初から、勝ちと負けの両方の目を握って出てきたのだから。
「──退き太鼓」
イブラヒムの声は、包囲の中で凍えるほど静かだった。
「殿は、捨てる。本隊を、東へ。都へは、戻らぬ。そのまま帝国へ引く」
「閣下!? 都を、捨てるのですか!」
「捨てる」
言下だった。
「都は、もう私の帳簿には無い。──残すのは、軍だ」
退き太鼓の、独特の拍が鳴り渡った。
突撃を煽っていた連打が、後退の拍に切り替わる。隘路に詰まっていた帝国軍が、混乱の中で、しかし驚くべき統制で、東へと反転を始めた。イブラヒムは、包囲の輪のまだ閉じきらぬ東の一角へ、本隊を鏃のように絞り込んで打ち込む。
閉じかけた輪の、その東の綴じ目をこじ開けるために。
「殿、残れ。お前たちの働きが、本隊を生かす」
殿に残された弓騎兵が、振り向きざまの騎射で追い縋る王国軍を牽制し、自らの命で本隊の退き路を、数刻買っていく。
「退路を塞げ! 東の出口だ!」
ロズヴェータが、駆けた。ホルベクの斥候隊が、東の堤道の一本を既に落としにかかっている。紅剣のエリシュが、殿へ細剣を振るう。
だが──今日は、間に合わなかった。
あのとき、ヴァルテンの型が届かなかった一点を、ロズヴェータの伏せ札が埋めた。だが今日、ロズヴェータの読みが断とうとした退路を、イブラヒムの捨て身の速さが上回る。殿を丸ごと死地に捨て、その血で買った数刻で、首狩り総督は無傷の本隊を、包囲の綴じ目から東へと抜き去っていった。
狩る者と狩られる者は、確かに入れ替わった。
だが、狩られる側に落ちてなお、この男は獲物のまま、罠を食い破って逃げおおせる。
「……逃がした、か」
ロズヴェータは、東へ細くなっていく帝国軍の砂塵を、馬上から見送った。悔しさが、腹の底で冷たく渦を巻く。
勝った。聖都は、開く。
だが、この一点──あの合理の男の首だけは、断ちきれなかった。
◇◆◇
その、殿が命で退路を買っていた、隘路の最前線で。
囮の陣は、殺到する帝国軍の、最初の、そして最も濃い刃を浴び続けていた。
攻城具を守る薄い陣に、退き太鼓の直前まで、帝国の精鋭が頭を獲ろうと殺到する。矢が、盾を、鎧を、雨あられと叩いた。金属を打つ音が絶え間なく重なり、血と泥の匂いが潮の匂いに混じる。グラインの前衛が大盾を並べ、獅子の旗を必死に守った。
「旗を、倒すな! 旗が立っている限り、ここに総指揮官がいると、敵は信じる! それが、囮の役目だ!」
ディルアンは、その最前で暴れていた。
獅子の旗の下、殺到する帝国兵を槍で薙ぎ、剣で払い、味方を鼓舞し続ける。囮の看板が怯めば、芝居が崩れる。彼は、誰よりも派手に、誰よりも前で、敵の刃を己一身に集め続けた。
それは、囮として完璧な働きだった。
完璧すぎた。
退き太鼓が鳴り、帝国軍が東へ反転する、その混乱の一瞬。退きながら振り向いた殿の弓騎兵が、最後の意地に、獅子の旗へ矢の束を集中して浴びせた。
旗を守って前に出ていた、その体に。
「──閣下ッ!」
グラインの絶叫が、隘路に響く。
ディルアンの巨体が、鞍の上で大きく傾いだ。鎧の隙間、脇腹の深くに、幾条もの矢羽が生えている。
それでも、獅子は旗を離さなかった。
傾いだ体を槍で支え、歯を食いしばって鞍にしがみつく。倒れれば、旗が倒れる。旗が倒れれば、ここに総指揮官がいると信じて殺到した敵が、罠に気づく。だから、倒れない。
「……まだ、だ」
血の泡を吐きながら、ディルアンは笑った。
「まだ、旗は、立ってるぞ……」
◇◆◇
東へ退く帝国軍の、その最後尾で、馬首を返しかけたイブラヒムは、隘路の最前に傾ぎながらもなお旗を掲げ続ける獅子の姿を見た。
矢を浴び血に濡れ、それでも倒れぬ、囮の将。
自らを餌として差し出し、その体で二万の勝機を繋いだ男。
首狩り総督の酷薄な瞳が、その姿をしばらく捉えていた。
あの獅子の首を獲れば、この敗北は半ば取り返せる。頭を失った二万は、聖都を得ても束ねる者を欠く。──合理は、そう囁いた。
だが、その合理を、別の合理が上回る。
今、首を獲りに戻れば、閉じかけた綴じ目に再び足を取られる。買った数刻を、失う。無傷で持ち帰るはずの軍を、危うくする。──獅子の首一つと、二万五千の軍。天秤は、傾くまでもない。
それに。
イブラヒムは、あの獅子がなぜあそこに立っているかを理解していた。
あれは、政治の勝利を己の体で買っている。都を十字軍より先に落とすために、総指揮官が自ら囮の看板になって命を張っているのだ。
合理の男は、その合理では説明のつかぬものを、初めてまっすぐに見た。
馬上の首狩り総督と、傾いだ獅子の紋章旗が、束の間、平原を隔てて交わる。
言葉を出すのは、イブラヒムの美意識に反した。
イブラヒムは、ただ静かに馬首を東へ返し帰路を辿る。瀕死の獅子の首を、獲らずに。それは、余裕でも慈悲でもない。ただ──獲るに値するものを、獲るに値する形で残したのだ。
去りゆく合理の背を、ディルアンは霞む目で見送った。
「……逃げ足の、速い野郎だ」
血に濡れた口の端が、微かに笑う。
「だが──都は、置いていったな。俺の、勝ちだ」
◇◆◇
その日の夕刻、聖都は門を開いた。
総督に見捨てられ、退き太鼓と共に主力の去った千年の都は、もはや戦う理由を持たない。城内に残されたのは、少数の守備兵と、戦に倦んだ市民ばかり。彼らは、抵抗の代わりに、城門の閂を自らの手で外した。
三頭獣の掲げる、欠けた月を踏む三つ首の獣の旗が、リオリスの近衛の旗と共に、千年の城壁の上に立つ。
冬の間に、聖都を落とす。
根底から、ひっくり返す。
狂気と呼ばれた冬の賭けは──成った。
だが、城壁の上に立ったロズヴェータの胸に、勝利の喜びはなかった。
開いた城門より、はるかに重いものが、隘路の戦場から運ばれてこようとしていた。
攻城具を守った、あの隘路の、粗末な天幕の中。
ディルアンは、寝台に横たえられていた。
重傷の総指揮官に従軍した治癒術師達は、夜を徹して矢を抜き、傷を焼き、手を尽くした。だが、脇腹の傷は深く、幾本もの矢が体の奥を裂いている。矢に込められたエルフィナス特有の魔術は、リオングラウス王国の誇る治癒術師の治療を拒み続けた。
冬の陣中、傷は膿み、熱が英雄の弟子の巨体を急速に蝕んでいった。
「……正直に、言え」
三日目の夜、熱に浮かされたディルアンが、枕元の治癒術師に掠れた声で言った。
「お前は、嘘のつけん男だ。──あと、どれくらいだ」
同行の治癒術師は、しばらく答えなかった。
いつも、氷のように涼しいその瞳が、この夜だけは僅かに揺れている。
「……結論だけ、申し上げます」
彼は、静かに言った。
「私の術は、傷を癒せます。ですが──もう、癒す先が残っておりません。今夜が、峠かと」
「はっ。……お前でも、駄目か」
ディルアンは、天井を見上げて笑った。
「なら、しょうがねえな。……幾人か呼んで欲しい奴らがいる」
何人かの後に天幕に入ってきたロズヴェータを、ディルアンは霞む目で捉えた。
「よう。……聖都は、どうだ」
「開きました。城壁の上に、うちの旗と、リオリスの旗が立っています。──あなたの、勝ちです」
「そうか」
ディルアンは、満足げに目を閉じた。
「勝ったか。……冬に、聖都を落としたぞ。誰も、できねえと言った戦を、な」
しばらく、沈黙が落ちる。
天幕を叩く冬の風の音と、遠い波の音だけが聞こえていた。
「なあ、ロズヴェータ」
ディルアンが、目を開けた。熱に濁ってなお、その眼光には英雄の弟子の光が残っている。
「そんな辛気くせえ面ァ、するんじゃねえ。──言っとくがな。俺は、こんなもんじゃくたばらねえぞ」
「……ですが、傷が」
「矢の数本で、英雄の弟子が死んでたまるか。グノーシフォの時なんざ、もっと派手に風穴が開いてたわ」
そんなはずはない。冗談と分かる言葉に、悲痛さが混じる。
ディルアンは、豪快に笑おうとして軽く咳き込んだ。口の端に、赤いものが滲む。それでも、その眼光はまだ鋭いものだった。赤いものが滲んだ口の端は、不敵に笑みを形作る。
「開いた門は、まだ守れちゃいねえ。城の中の始末、逃げた総督、春に来る十字軍。──やることは、山ほどある。お前は、行け。今のうちに、その目で見ておけ」
「今夜は、おそばに」
「うるせえ。看取りごっこは、じじいの趣味じゃねえ。少し眠りゃ、じきに良くなる。朝になったら、また来い。──話は、それからだ」
ロズヴェータは、その顔をしばらく見ていた。
まだ、聞いておきたいことが山ほどある気がする。だが、この誇り高い剛の獅子が「一人にしてくれ」と言うのなら、それを容れるのも部下の務めだった。
「……分かりました。朝に、また参ります」
ロズヴェータは、深く一礼して天幕を出た。
それが、生きた総指揮官と交わした最後の言葉になった。
◇◆◇
夜明け前、ロズヴェータはふいに目が覚めた。
理由は、分からない。ただ、胸の奥がざわついて、朝を待っていられなかった。
まだ暗い隘路の陣を抜けて、ロズヴェータは総指揮官の天幕へ急いだ。凍えた夜気が、吐く息を白く濁らせる。
天幕の中には、蝋燭が一本だけ灯っていた。
その小さな灯りの下、寝台を降りたディルアンが、卓に向かって突っ伏している。
その手には、羽根筆が握られたまま。卓の上には、書きかけの一枚。
傍らに寄って、ロズヴェータは息を呑んだ。
ディルアンは、こと切れていた。
眠るように、というには、あまりに無理な体勢だった。最後の力を振り絞って寝台を這い降り、卓に取りつき、筆を執ったまま──そのまま逝っている。
卓の上の一枚は、王都への書状だった。
宛名は、王家。几帳面とは程遠い、大きく荒い字が、たった一行記されているきりだ。
報告でも、戦果でも、まして遺言でもない。
ただ、一言。
──間に合った。
それだけだった。
春に十字軍が来る前に、冬のうちに聖都を落とす。誰もが狂気と呼んだその賭けに、確かに間に合ったのだと──剛の将は、王都へ、たった一言、それだけを報せようとしたのだ。
そして、その一言を書き終えたところで、筆を握る手から力が抜けた。句点の先で、墨が力なく右下へ流れている。
ロズヴェータは、その一行をしばらく見つめていた。
「朝になったら、また来い」と、総指揮官は言った。だが、朝は来なかった。
言い遺す言葉も、託す言葉も、この男は何ひとつ残さなかった。ただ「間に合った」と、それだけを。
ロズヴェータは、卓に突っ伏した亡骸に、そっと外套を掛ける。
自らを囮として、千年の都を開いた、英雄の弟子の姿だった。
◇◆◇
訃報は、瞬く間に二万を駆け巡った。
聖都を落とした歓喜は、総指揮官の死という報せに打ち消される。将も兵も言葉を失い、隘路の陣に、静かな慟哭が満ちた。
グラインは、獅子の旗を抱いて岩のような肩を震わせている。ゴルムは、無言のまま天幕の外に立ち尽くした。口の悪いサーディラードでさえ、この夜ばかりは一言も悪態をつかない。
そして、ヴァルテン。
型を崩さぬ首席参謀は、亡骸の枕元で、深く、長く頭を垂れた。
「……閣下。あなたの突撃を拾うのが、私の役目でした」
その声が、僅かに掠れる。
「最後の突撃だけは、拾えませんでした。お許しを」
ロズヴェータは、天幕を出た。
城壁の上に、二つの旗が冬の夜風にはためいている。その向こう、東の空の低くに、糸のように細い月が、今にも消えそうにかかっていた。
勝った。
だが、上の世代の獅子は、この勝利と引き換えに還らなかった。
合理の男は、東の彼方、帝国へと無傷の軍を持ち帰った。都を代償に、戦域を買って。
剛の男は、この隘路の泥の上で、命を代償に都を開いた。
二人は、ついに刃を交えなかった。
ただ、それぞれの性分に殉じて、それぞれの勘定を払いきったのだ。
ロズヴェータは、細い月を見上げた。
雪解けは、まだ遠い。西からは、大義を失った十字軍が、それでも来るかもしれない。東からは、いつか、あの合理の男が軍を立て直して戻ってくるだろう。そして、聖都の中には、これから勝者の間の、新しい戦が始まる。
だが、今は。
今だけは、この細い月の下で、一人の獅子の死を悼むことを、己に許した。
「……こんなもんじゃ、くたばらねえ。そう、言ったくせに」
ロズヴェータは、細い月に向けて呟いた。
嘘つきめ、と。それきり、言葉にならなかった。
細い月が、雲に静かに隠れる。
欠けた月は、これからまた満ちていく。
だが、その光を、共に見上げる獅子は、もういなかった。




