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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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161/219

多頭の獅子

 海風の街道が、聖都手前の平原に開ける。

 その広野を、両軍が埋め尽くしていた。冬の風は、泥と、馬の汗と、遠い潮の匂いを孕んで、平原を低く這う。頭上には、鈍色の雲が重く垂れ込め、地には、昨夜の雨が残した水たまりが、鉛色に光っていた。

 リオングラウス王国遠征軍、二万。総指揮官は、英雄の弟子ディルアン。全身を鉄で固めた重装の槍騎兵を核とし、鶴が翼を広げるように、左右へ長く陣を伸ばしていた。無数の槍の穂先が、雲間から漏れる薄い光を弾いて、鋭く瞬く。

 その鶴翼の、右の付け根を、前衛軍が固めていた。率いるのは、グライン・ガードルード子爵。岩のような体躯の老将は、鞍の上で、獅子の旗を担いだディルアンの背を、渋い顔で睨んでいる。

「……また、閣下は最前列か。前衛の将の面目が立たん」

 中央には、ゴルム・マルツァ。細面の、無口で知られる将だ。二万の中軍を預かるこの男は、何も言わず、ただ、敵陣の彩り豊かな軍旗の群れを、値踏みするように見つめていた。

 後方には、サーディラード・サリサ。日に灼けた、口の悪い兵站の将が、矢束と替えの盾を積んだ荷車の列を、忌々しげに数えている。

「戦が始まる前から、いくつ矢が要るか計算させられる身にもなってみろってんだ。……くそ、あの太鼓の数を見ろ。矢の雨が降るぞ。盾を、前に回せ!」

 そして、本陣。

 総指揮官が最前列に出てしまった、主のいない本陣で、一人の男が、全軍の絵図を広げていた。

 首席参謀ヴァルテン。

 型を崩さぬこの男の役目は、いつも通り、決まっている。前に出て暴れる主の代わりに、後ろで、二万を一つに保つこと。

「閣下が突出なさる前提で、陣を組む。──前衛グライン殿は、閣下の突撃に遅れず続け。中央ゴルム殿は、動くな。何があっても、耐えて、崩れるな。後衛サーディラード殿は、矢と水と、負傷者の後送を絶やすな」

 淡々と、しかし一分の隙もなく、ヴァルテンは各軍へ伝令を飛ばした。声を張るでもなく、その低い声は、なぜか喧騒を縫って、伝令の耳へ確かに届く。

 剛の主が、前で火を噴く。

 型の参謀が、後ろで骨格を組む。

 それが、この遠征軍の勝ち方だ。

 三頭獣《ドライアルドベスティエ》は、その二万の一翼、右の端にいた。

 ロズヴェータは馬上で、味方の陣容と、敵陣の両方を静かに読んでいた。冷たい風が兜の隙間を抜け、頬を刺す。遠く、敵陣から響く戦太鼓の重低音が、腹の底を、どん、どん、と押してくる。

「……よく出来た軍だ」

 隣のリオリスに、呟く。

「ディルアン様が前で暴れられるのは、ヴァルテン殿が後ろで全部拾うからだ。グライン殿が突っ込めるのは、ゴルム殿が中央で動かないからだ。誰かが華々しく戦うたびに、誰かが地味に支えてる。──うちの騎士団と、同じだな」

「お前、感心してる場合か」

「感心してる。だが、それだけじゃない」

 ロズヴェータの目が、敵陣の、散らばった弓騎兵と、温存された両翼の重騎兵を捉えた。

「あれだけ組み上がった軍にも、一つだけ、届かない隙間がある。──そこが功績の稼ぎ所と言うわけか」

 リオリスが肩を竦めた。

 昨晩の内に、リオリスには総指揮官ディルアンから直接の伝令が走り、その役割を示されていたのだ。つまり、派閥の政治だった。活躍する場面に誰を配置するのか、それを裏で考えながら、総指揮官ディルアンは最前線で槍を振るう。


◇◆◇


 角笛が、太鼓の轟音を裂いて、平原に鳴り渡った。

「全軍! 我と思わん者は、俺に続けェ! 神の御加護ぞある(エィメェェン)!!」

 ディルアンの大音声が、風を貫く。獅子の旗が、前へ動いた。

 鉄の波が、地を揺らして動き出す。無数の蹄が泥を蹴立て、飛沫が、灰色の空へ跳ね上がった。

 最初に空を暗くしたのは、矢だった。

 王国軍が槍を伏せて前進を始めた瞬間、帝国の弓騎兵が一斉に馬を寄せ、鞍上から弓を引き絞った。合図の一声。次の刹那、数千の矢が、空気を切り裂いて、冬の空へ真っ黒に立ち上る。

 ひゅう、と風を裂く音が、幾千も重なって、平原を覆う。

 蝗の群れのように、それは、王国軍の頭上へ落ちてきた。

 鎧を叩く、無数の硬い音。盾を掲げた兵の腕に矢が突き立ち、馬の首に、脇腹に矢羽が生える。前列の兵が、幾人か声もなく鞍から崩れ落ちた。

 その矢の雨を、最も濃く浴びたのは、中央軍だった。

 ゴルム・マルツァの中軍は、平原の真ん中で、身動きせず、ただ耐えている。

「……盾」

 無口な将が発したのは、その一言だけだった。

 だが、それで十分機能するからこそ、ゴルムは中央軍の将を任せられている。中軍の兵は、幾重にも盾を重ね、亀の甲羅のように身を寄せて、矢の雨を受け止める。盾に矢の突き立つ音が、絶え間なく、ばら、ばら、と鳴り続けた。倒れた兵の穴を、後列がすぐに埋める。一歩も退かず、一歩も出ず。

 派手さは、微塵もない。

 だが、この中央が崩れれば、鶴翼は付け根から折れる。ゴルムは、それを知っていた。だから、動かない。矢が鎧を叩き、味方が倒れ、それでも、細面の将は、口を結んだまま平原の中央に岩のように在り続けた。

 その忍耐こそが、二万の背骨だった。

 一方、後方では、サーディラード・サリサ子爵が、怒鳴り散らしていた。

「盾が割れた奴は、下がって替えを取れ! 突っ立ってるな、死ぬぞ! 負傷者は、こっちだ、荷車へ運べ! 矢を拾え、敵の矢でもいい、拾って前線へ回せ!」

 口の悪い兵站の将は、馬で後方を駆け回り、割れた盾を替え、抜いた矢を集め、負傷者を後ろへ流し、水を配る。血と泥にまみれた兵が、次々と荷車へ担ぎ込まれ、うめき声と、水を求める声が、後方に満ちていた。

 華のない、汚れ仕事。

 だが、彼が矢と盾と水を絶やさぬ限り、前線は、消耗しても崩れない。矢の雨は、体力だけでなく、物資も削る。それを裏で支え続けるのが、この口の悪い男の戦だった。

「……くそ、いくら拾っても足りやしねえ。奴ら、どこまで矢を持ってやがる」

 愚痴りながらも、その指示は止まらなかった。

 矢を浴びても、二万は止まらない。

 重装の槍騎兵は、盾を頭上にかざし、矢の雨を鉄の甲羅で受けながら、なお前進する。泥をこじ開けるように、一歩、また一歩。

 その前衛の先頭で、グライン・ガードルードが吠えた。

「矢なんぞ、鎧で止めよ! 足を止めるな、間合いを詰めろ! 弓は、懐に入られりゃ、ただの棒だ!」

 ガードルード子爵の率いる前衛が、矢を浴びながらも、じりじりと敵との距離を詰めていく。近づけば、弓の脅威は薄れる。矢を射るには、間合いが要るからだ。

 射ても、射ても、止まらぬ鉄の甲羅に、帝国の弓騎兵が、初めて焦りを見せた。

 ならば、と。

 弓騎兵は、二度、三度と矢を放ちながら、後退を始める。射ては退き、退いては射る。近づけば逃げ、離れれば射る。砂を握るような、掴みどころのない戦い方だった。

「──退き始めたぞ!」

 前衛から、勝ち鬨めいた声が上がった。

 だが、ロズヴェータは、その退却を、冷たい目で見ていた。

 あれは、敗走ではない。誘いだ。


◇◆◇


 ディルアンは、退く敵を追った。

 むしろ、待っていたように追う。獅子の旗が、退く弓騎兵を追って、平原の奥へ、深く突き進んでいく。

 その突出に、グラインの前衛が、慌てて続いた。

「閣下ァ!!」

 突出していく獅子の旗に、前衛の兵が悲鳴じみた声を上げた。グラインは、舌打ちを一つ。

「ッお待ちを! ──ええい、行くしかあるまい! 前衛、続けッ!」

 主が突っ込む以上、前衛の将が後ろに残るわけにはいかない。グラインは、内心の危うさを呑み込んで、鶴翼の右を、ディルアンの旗に食らいつかせた。

 鶴翼が、伸びる。

 そして、本陣で。

 ヴァルテンの目が、鋭くなった。

 全軍の絵図の上で、敵の両翼──それまで動かなかった重騎兵の一団が、伸びきった王国軍の脇腹へ、動き出したのだ。

「……包囲か」

 型の参謀は、瞬時に、敵の狙いを読み切った。偽装の退却で獅子を奥へ誘い、左右の重騎兵で脇腹を包んで潰す。首狩り総督の機動の罠だ。

 だが、読み切った、その先が問題だった。

 主が、いない。

 本陣で全軍を差配すべきディルアンは、今、獅子の旗ごと、敵の最深部にいる。ヴァルテンの手元にあるのは、伝令と旗信号だけ。

「両翼の近衛に伝令! 包囲に来る敵騎兵を、迎え撃て。中央ゴルム殿は、なお動くな。前衛は──前衛は、もう届かん」

 ヴァルテンは、次々と手を打った。型通り、隙なく。

 だが、間に合うかどうかは、別だった。

 敵の重騎兵は、速い。ヴァルテンの伝令が両翼の近衛に届き、近衛が向きを変えるより、包囲の輪が閉じる方が、僅かに早い。

 型の参謀の、精緻な差配をもってしても、届かぬ一点。

 その、たった一つの空隙を──。

「──来た」

 右翼の端で、ロズヴェータとリオリスが動いた。


◇◆◇


 総指揮官が罠に敢えて突っ込むことも、両翼の重騎兵が包囲に動くことも、そして、ヴァルテンの伝令がその包囲に間に合わぬことも。全て総指揮官ディルアンは予想の範囲内であった。

 そのために必要な手は、抜かりなく打つからこそ彼は英雄の弟子なのだ。

 流れるように動く敵の包囲軍。その翼を、己が目でしっかりと確認してロズヴェータは声を張り上げる。

「エリシュ!」

 声を張ると、右翼のさらに外、涸れ谷の陰に伏せていた赤い一隊が応じた。

 紅剣《スカーレット》。会戦の華々しい正面ではなく、あえて目立たぬ側面に、ロズヴェータが頼んで置いてもらった、遊撃の刃。本陣のヴァルテンの絵図には、載っていない。載せなかったのだ。誰の指揮系統にも属さぬ、一枚の伏せ札として。

「リオリス!」

 統一された装備に、選び抜かれた精兵をもって鳴る近衛の一隊。率いる気心の知れた親友が、ロズヴェータの声に応じてにやりと笑う。

「包囲に動いた重騎兵の、そのまた横腹だ。──刈れェ!」

 谷の陰から、平原へ。紅剣、近衛、三頭獣《ドライアルドベスティエ》の順番で刃となって突き進む。

 包む側の脇腹に刃が刺さった。

 王国軍の本陣を包囲しようと、脇目もふらず疾駆していた帝国の重騎兵。その無防備な横っ腹へ、紅剣《スカーレット》が全速で突っ込む。

 エリシュの細剣が、先頭を駆けていた。一振りごとに、重騎兵が鞍から落ち、彼女を中心に、円が広がる。包囲するはずだった鉄拳が、逆に横から食い破られ、隊列を崩した。

 そこを押し広げるのは、近衛騎士団と三頭獣《ドライアルドベスティエ》。

 太鼓の連打の中に、初めて、乱れが生じる。勢いを絶たれた重装騎兵は、足を止めた瞬間烏合の衆へとなり果てた。

 閉じかけた包囲の輪は──閉じ切らなかった。

 本陣で、ヴァルテンが、僅かに目を見開いた。

 自分の伝令が、間に合わなかった一点。型の差配では、どうしても埋まらなかった穴。その穴を埋める駒を、総指揮官ディルアンは、盤の外に伏せて、待っていたのだ。ヴァルテンが苦笑の形に口元を歪ませ、動いた名前を数える。

「……三頭獣《ドライアルドベスティエ》に、近衛、紅剣《スカーレット》か」

 型を崩さぬ男の口元に、ほんの僅か、苦いような、それでいて満足げな笑みがよぎった。

 あの査問の日、自分の型を、型の外から突いてきた男。あの時と、同じだ。今日は、その手が味方として働いた。

「──よかろう。ならば、こちらは、型を通す」

 ヴァルテンは、閉じ切らぬ包囲の隙を突き、全軍へ、畳みかけの下知を飛ばした。


◇◆◇


 包囲が閉じないと見るや、ディルアンの掲げる獅子の紋章旗は、止まらなかった。いや、なお一層激しく前に出た。

「このまま一気に、行くぞ!」

 馬上で、返り血を浴びながら、ディルアンは吠えた。担いだ槍を横薙ぎに振るい、湾刀の帝国兵を、二人まとめて鞍から払い落とす。

「囲む軍ってのはなァ、囲みが崩れりゃ、ただの寄せ集めだッ! 突っ切れェ!」

 総指揮官が、敵の最深部で暴れ回る。返り血と泥にまみれたその姿に、味方の二万が、狂ったように奮い立った。

 その勢いを、ヴァルテンが後ろから正確に束ねる。

 前衛グラインが、乱れた敵の側面を食い破り、中央ゴルムが、耐え抜いた岩のような中軍を、ここぞと押し出す。後衛サーディラードが、前線へ矢と替え馬を、切れ目なく送り込んだ。

 剛の主の突撃を、型の参謀が拾い、三人の将が、それぞれの持ち場で活かす。

 三頭獣《ドライアルドベスティエ》と並ぶ右翼では、リオリスの近衛が、槍衾を組んで突撃していた。

「近衛の意地、見せてやれ!」

 長槍と大楯の、王道の重戦車。機動を身上とする帝国軍も、いったん足を止めて乱戦に持ち込まれれば、この重い鉄には敵わない。矢の間合いを潰された弓騎兵は、剣の間合いで、次々と討ち取られていった。

 太鼓は、まだ鳴っている。だが、その轟音は、もう味方を鼓舞していない。崩れゆく戦線の、断末魔の伴奏に変わっていた。


◇◆◇


 聖都の城壁の上で、イブラヒムは、初めて拳を握った。

 包囲が、閉じない。閉じるはずだった輪が、横から食い破られ、その隙に、獅子が奥へ抜けた。

 計算は、正しかった。ディルアンは、読み通り退却の誘いに乗り、両翼の重騎兵も、読み通り包囲に動いた。あの整った王国軍の差配──前で暴れる将、後ろで束ねる参謀、中央で耐える将、後方で支える将──も、全て、読みの内だった。

 だが、その全てを読み切った盤面の、たった一つの空隙に、赤い刃が伏せていた。

 予想外であったのは、あの突破力。重装騎兵をものともしない攻撃力の高さが包囲を崩したのだ。

「……あの、遊撃」

 会戦の主役ではない。数も、多くない。

 誰が、あれを、あそこに置いた。

 答えは、考えるまでもなかった。絵図を描いたのは総指揮官ディルアン。札を選んだのは、蝮の子か。あるいは、ディルアン自身か。

 王国軍の型は、首席参謀が組んだ。その型の、参謀ですら埋め切れぬ一点を、外から埋めていた。前で暴れる剛の獣と、型を組む理の参謀と、その外から盤を読む智の獣。三つの頭が噛み合って、彼の計算を、内側から食い破ったのだ。

 イブラヒムは、己の敗因を、一言で理解した。

 彼の頭脳は、一つだった。全てを一人で読み、一人で計算し、一人で断じる。だからこそ、速く、鋭く、隙がなかった。

 だが、あの軍は──頭が一つではなかった。

 いくつもの頭が、それぞれに考え、それぞれに動き、そして一つの獣として噛み合う。一つの頭が読み落とした一点を、別の頭が埋める。単独の切れ味では、決して届かぬ場所へ、その多頭の獣は、平然と手を伸ばす。

 合理の男のたった一つの冴えた頭が敗れた。

「──退け」

 イブラヒムの声は、静かだった。

「本隊を、聖都へ。城壁を背にして、立て直す」

 幕僚が、絶句する。

「よ、よろしいのですか。まだ、我らの数は、あちらを上回って……」

「数は多い。だが、崩れ始めた軍は、もう軍ではない。ただの、二万五千の、烏合だ」

 総督は、退き太鼓を打たせた。突撃を煽っていた連打が、後退の合図に切り替わり、崩れかけた三日月帝国軍が、その拍に従って、統制のある後退を始める。追い縋る王国軍に、殿の弓騎兵が、振り向きざまの騎射で牽制の矢を浴びせ、深追いを許さない。

 崩れながらも、崩れ切らない。

 合理の男は、負けを負けと認めた。感情ではなく計算で。だからこそ、その退き際は鮮やかだった。


◇◆◇


 平原の会戦は、リオングラウス軍の勝利に終わった。

 帝国軍は、二万五千の少なからぬ数を、泥と血の平原に残したまま、聖都の城壁の内へ退いていく。それでも、全軍崩壊には至らなかった。イブラヒムの、鮮やかな退き太鼓が、それを防いだのだ。

 夕刻、矢の突き立った屍が点々と転がる平原に、諸将が集った。血と、泥と、雨の匂いが、冷えた風に混じって、鼻をつく。あちこちで、負傷者を運ぶ松明の火が、暮れゆく戦場に、赤く点り始めていた。

 返り血で顔の半分を赤く染めたディルアン。矢傷だらけの鎧を鳴らすグライン。無言のまま、汗を拭うゴルム。愚痴を垂れながら負傷者の数を数えるサーディラード。そして、一枚も乱れぬ絵図を巻き取る、ヴァルテン。

 ディルアンが、馬でロズヴェータの前に来て、にやりと笑った。

「見てたぞ。俺が空けといた穴に、よく差し込んだな」

「……絵図に、一つだけ埋めていない隙がありました。あそこへ置け、という下知かと」

「察しがいい。あの赤いのは、お前の札だろ。──俺は、置き場所を用意して、お前が持ってくるのを待っただけよ」

 ディルアンは豪快に笑った。

 罠を読み、味方の突出まで見越し、埋めるべき一点を空けて待つ。その全てが、この剛の総指揮官の掌の内だった。ロズヴェータたちは、その掌の上で、託された一手を寸分違わず指してみせたに過ぎない。

 それでも、とディルアンは、傍らのヴァルテンを、顎で示した。

「こいつが、珍しく唸ってたぞ。『あの隙は、私の型では埋められなかった』ってな。──型の外へ駒を回せるのは、型を持たねぇ奴の役目よ」

 ヴァルテンは、否定も肯定もせず、ただ、型通りの、しかし深い一礼を、ロズヴェータに向けた。査問の日と、同じ礼だった。ただし今日は、敵にではなく、味方に。

 絵図を描いたのも、その絵図に一点の余白を残したのも、総指揮官ディルアン。ロズヴェータは、その余白に己の刃を差し入れた、一つの駒に過ぎなかった。

「──だがな」

 笑いを収めて、ディルアンは、遠く霞む聖都の城壁を見た。

「本番は、ここからだ。イブラヒムは、野戦を捨てて、城に籠もった。あの分厚い壁を、雪解けまでに、抜かなきゃならん。……お前の頭が、もう一度要る」

 ロズヴェータも、その城壁を見た。

 千年の都。その壁は、この戦域で最も厚い。そして、その内には、二度と平原の轍を踏まぬと決めた、冷徹な将がいる。

 搦め手で、糧道を開いた。野戦で、平原を制した。

 だが、最後に立ちはだかるのは、動かぬ城と、退くことを知る敵。

 冬の賭けの、本当の正念場が、聖都の城壁の下に、待っていた。


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