水を断つ者
草原をかける奔馬のように、その名は三日で聖都に届いた。
イブラヒムは、幕僚の差し出した報告書に、指先だけを走らせた。ロズヴェータ・スネク・カミュー。辺境伯家の三男。城塞都市ゲイルノアの勲功第一。銀の獅子。──要点だけを拾い、あとは読まなかったが、ある一点で視線が止まる。
カミュー辺境伯家。二つの大国を敵に回して、なお辺境に独立の牙城を築く、油断ならぬ一族。東方にも、その悪名は聞こえていた。
そしてその名は、別の書簡でも最近見た覚えがあった。
十数人いる子供の一人、娘のアリマ──妥協派の太守として、自由都市エルデッサを治める娘のもとへ、そのカミュー辺境伯家から縁談の打診が来ている。相手は、辺境伯家の三男。孫娘のユーシャルに、と。
イブラヒムは、報告書の三男という文字を、しばらく見ていた。
我が血に婚を求めてきた家の末子が、今、我が糧道を絞めに来ている。
東方と西方の、辺境と辺境。その二つの蝮が、片手では縁を結ぼうとし、片手では喉を狙い合っている。
「……くだらん符合だ」
イブラヒムは興味を、すぐに切り捨てた。孫娘の縁談も、目の前の戦も、勘定の別々のことだ。混ぜれば、判断が濁る。
「辺境の、蝮の子か」
呟きは短い。
それで全て腑に落ちた、という顔だった。蝮は獲物を噛み殺さない。締め上げて、息を止める。あの糧道の絞め方は、育ちの通りというわけだ。
イブラヒムは、報告書を卓に伏せ、壁の地図に向き直った。焚かれた香が、白檀の甘さを部屋に沈ませている。海風の街道を指で辿る。井戸の印、泉の印、川。指が触れるたび、頭の中で水場の一つ一つが数えられていく。
「街道沿いの水場を、すべて調べさせろ。井戸、泉、川──飲めるものを、残らず」
「調べて、いかがなさいます」
「潰す」
幕僚が、息を呑んだ。
「街道沿いには、我らの民の村も……」
「それが何か?」
感情の欠けた計算を告げる声に幕僚が後ずさる。
「兵が糧の次に要るのは、水だ。この冬、雨は多いが、飲める水は限られる。街道の水を殺せば、あの四百は、糧を運びながら渇く。──そして」
イブラヒムは、地図の街道沿いに散る、村を示す小さな印を、指の腹で潰すように撫でた。
「補給線を守るのが、あの部隊の役目だ。ならば、その線の上で渇く民を、見過ごせまい。糧を割いて水を運べば糧が減る。見殺しにすれば、将としての名が腐る。──どちらを選んでも、脅威は目減りする」
計算は、それで済んだ。
民の生死は、その計算の、端数ですらない。
「村は、計算に入れるな。──あの男の名声が、勝手に補給線を締め上げる」
◇◆◇
異変は、岬の関を抜けて三日後、街道沿いの村で起きた。
三頭獣の斥候が村の井戸を検めると、汲み上げた桶の水面に、油のような膜が、鈍く虹色に光っていた。
「毒です」
治癒術師のアウローラが、その水を一嗅ぎして、静かに言った。掌の上で、水を光にかざす。
「即死する類ではありません。ですが、飲めば腹を下し、続ければ弱って死ぬ。……人にも、家畜にも効きます」
ロズヴェータは、その水を柄杓で少量掬い、迷いなく口に含んだ。
「隊長!」
斥候が青ざめて止めるより早く、彼は舌先で転がし、すぐに吐き出す。口をゆすぎ、舌に残る味と、微かな痺れを吟味してから、静かに言った。
「……金属の後味だ。井戸を石灰で潰す類の、じわじわ効く手だな」
昔、受けた毒で死にかけたことがある。以来、彼の舌は毒の種類を覚え、体を毒にならしてきた。並の兵なら一口で寝込む量を、彼は味見に使える。
「常人の真似を、なさらないでください」
副官のユーグが灼眼で睨む。だが、次の瞬間には、その視線はもう、次の桶の検分に動いていた。彼もまた、この主の体が並でないことを、誰より知っている。
街道沿いの、三つの村。その井戸と泉が、同じように毒されていた。上流の川には家畜の死骸が投げ込まれ、水は濁り、饐えた臭いが風に乗ってくる。
村人たちは、既に渇き始めていた。
子供が、濁った水を飲んで腹を下し、井戸端では、年寄りが動けなくなっている。
「……これが、首狩り総督のやり方か」
ロズヴェータは、毒された井戸を見下ろした。腹の底の黒い熱が、今度は、心地よくなかった。ただ、冷たく、重く、沈んでいた。
「ロズヴェータ様」
ユーグが、低く言った。
「これは、罠です。──民に水を運べば、我らの糧と水が減る。運ばねば、我らは民を見殺しにした軍として、街道沿いの信を失う。どちらを選んでも、こちらが損をする。そう言う類の策です」
ユーグの発言を聞いていたアウローラが冷めた視線で周囲を見渡す。
「悪辣ね。好みではないわ」
「分かっている」
ロズヴェータは、拳を握った。
補給線を守るとは、この線の上に生きる者を守ることでもある。その理屈で、ガヒル村を吸収した。その理屈で、ここまで来た。
だが、その理屈こそを、イブラヒムは突いてきた。
心根を、弱点として。
◇◆◇
その夜の軍議は、荒れた。
ヴォルクが、諫言役として、真っ先に反対した。
「民に水を割くのは、反対だ。──団長さんよ、あんたの気持ちは分かる。だが、うちは四百で、運べる水も糧も限りがある。民を救えば、聖都に着く前に、うちが渇く。冷たいようだが、軍は軍の役目を果たすのが先だ」
「……正論だな」
「正論だから、言ってる。あんたが優しいのは知ってる。だが、その優しさで四百を殺しちゃ、元も子もねえ」
天幕に、重い沈黙が落ちた。
ヴォルクの言うことは、正しい。軍の理屈で言えば、民は見捨てるべきだ。イブラヒムは、まさにそれを狙って、この手を打った。
そのとき、口を開いたのは、リオリスだった。
これまで、頭脳戦の軍議で、静かに座っていた男が。
「──一つ、いいかな」
近衛崩れの若い騎士が斥候で泥にまみれ、諜報の耳が港を這い、軍法家が算盤を弾く。そんな三頭獣の中で、リオリスの、まっすぐな騎士の声は、場違いなほど澄んでいた。
「ヴォルク殿の言う通り、軍の理屈では、民は見捨てるべきなんだろう。俺も、それは分かる。──でも、一つだけ、聞かせてほしい」
リオリスは、ロズヴェータを見た。
「ロズ。お前が守ってる補給線は、何のためのものだ?」
「……聖都を、落とすためだ」
「聖都を落として、その先は?」
ロズヴェータが、口を噤んだ。
「聖都を落とすのは、十字軍を止めるためだ。十字軍を止めるのは、西から来る十数万の群れに、この地と我らが土地を食い荒らされないためだ。……その上で一つ、王族の末端として問題発言を言うが、ここの王家が戻って来たとして、以前のように統治をできるのか?」
リオリスの声が、静かに、しかし重く、天幕に響いた。
「……つまり、遠征で活躍した者に与えられると?」
「そこまで単純な話じゃないだろうが、ジュルル・サルムはうちの支援なしでは立ちいかなくなる」
ロズヴェータの疑問を受け、リオリスが視線をさ迷わせる。だが口調ははっきりと、その可能性をしてきしていた。
「いずれにしても、目の前で渇いてる民を見捨てて、遠くの民を守る、なんて話は、順序が逆だ。目の前の民一つ救えない軍が、どうして地の民を守れる? ──俺は、そう思う。青いと、笑ってくれていい」
沈黙が、落ちた。
ヴォルクが、潰れた片耳を掻いて、唸った。
「……青いな。青いが」
老従士は、リオリスを、値踏みするように見た。
「筋は、通ってやがる」
ロズヴェータは、リオリスの言葉を、しばらく噛みしめていた。
頭脳では、ヴォルクが正しい。だが、リオリスの言う「順序」は、頭脳の外にある、もっと古い何かに触れていた。
騎士とは、何のために剣を執るのか。
「……両方、やる」
ロズヴェータは、顔を上げた。
「民は、救う。だが、うちの糧は削らない。──また、頭を使う」
その目に、黒い熱が、再び、心地よく灯っていた。
◇◆◇
答えは、水そのものにあった。
冬の中東は、雨が多い。井戸は毒され川は濁った。だが、空からは飲める水がいくらでも降ってくる。
「雨水を、溜める」
ロズヴェータは、地図に村々の位置を書き込んだ。
「毒された井戸は、使わない。代わりに天幕の油布、荷車の幌、あらゆる布を使って、雨水を受ける。溜める桶は、ラスタッツァに港から買い集めさせる。──毒せるのは、地の水だけだ。空の水は、イブラヒムにも毒せない」
ガーデルが、几帳面に計算を始めた。
「……村三つ分の水を雨水だけで賄うには、受ける面積が要ります。ですが、この降雨量なら、不可能ではありません。溜め方と配り方を仕組みにすれば」
「作れ。ガヒルの婆さんの村で、流民を組み込んだやり方の応用だ。村人自身に、雨水を溜める仕組みを作らせる。──与えるんじゃない。作らせて、残す」
毒された井戸の脇で、村人たちが、油布を張り、桶を並べ始めた。
冬の雨が、その布を、静かに叩く。
布を伝った水が、桶に落ちる。細い、しかし、確かな音を立てて。
毒された地の水の脇で、空の水が、少しずつ、命を繋いでいく。
リオリスは、その作業を、村人と一緒になって手伝っていた。近衛騎士団長ともあろう者が、泥まみれで桶を運び、子供に水を配っている。
「……様になってないな」
ロズヴェータが、苦笑して声をかけると、リオリスは、屈託なく笑った。
「俺は、頭を使うのは苦手でな。──こういう、体を使う方が、性に合ってる。それに」
リオリスは、水を飲んで血色を取り戻した子供の頭を、大きな手で撫でた。
「剣を執る理由が、目の前にあるってのは、悪くない気分だ」
◇◆◇
聖都。
報告を聞いたイブラヒムは、地図の前で、長いこと動かなかった。
「村ごとに雨水を受ける仕組みを作り、民に配っております。遠征軍の糧は、一切割いておりません。──水を溜めているのは、村人自身にございます」
総督は、答えなかった。ただ、街道沿いの村の印を、一つずつ、指で辿り直した。潰したはずの水場が、頭の中で、勝手に埋め直されていく。地の水を殺せば、空の水を汲む。民を渇かせれば、民が働き手に変わる。彼が組み上げた計算の、行と行の間から、ことごとく水が漏れていた。
しかも、毒された村の民は今、三頭獣に恩を感じ、進んでその目と耳になろうとしているという。
削るはずの一手が、敵を肥やしていた。
イブラヒムは、卓の翡翠の獣を、手に取った。いつもは冷たく心地よいはずの石が、今日は、ただ冷たいだけに感じられる。しばらく掌の中で転がし、それから、常より幾らか乱暴に、卓へ戻した。石の当たる、硬い音が鳴った。
「──三つ首の獣、と名乗ったな」
「は」
「頭が三つあるだけでは、なかったらしい」
声に、忌々しさが滲む。だが、その底に、隠しきれぬ興が、微かに揺れていた。合理の男が、久しく忘れていた種類の興味だった。
「搦め手は、もうよい」
彼は、地図の海風の街道から、指を離した。
「兵を出す。──次は、計算の要らぬ戦だ」
窓の外、聖都の空に、満ちて欠け始めた月が、かかっていた。
搦め手の応酬は、これで終わる。
次に交わるのは、剣だった。




