↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

159/219

渇きの糸

 崖の上の五百は、動かなかった。

 三頭獣《ドライアルドベスティエ》もまた、岬の関《みさきのせき》の手前で、動かなかった。

 海風の街道が岬を回り込むその一点は、片側が切り立った断崖、片側が荒れる冬の海。道幅は荷車二台分しかない。街道随一の隘路であり、ここを通らねば、聖都へ糧は運べない。兵たちは、いつしかそこを「岬の関」と呼ぶようになっていた。関所のように、行く手を扼しているからだ。

 睨み合いのまま、三日が過ぎる。

 その三日を、しかしロズヴェータは無駄にしていない。

 トーロウの耳と、ホルベクの目が、崖の上の五百を養う糸を探していた。あんな崖の上に、糧倉はない。五百の胃袋は、必ずどこかから、日々満たされている。その道を見つければ、勝てる。

「見つけましたよ、隊長」

 四日目の夜、雨に濡れた猿顔で、トーロウが天幕に滑り込んできた。濡れた外套から、ぽたぽたと雫が落ちる。泥に汚れた指で、地図の一点を叩いた。

「崖の上の陣。糧は、海から来てます」

「海?」

「ええ。夜になると、小舟が入るんです。崖の裏側、波の穏やかな入り江に。そこから縄と籠で、崖の上へ荷を引き上げてる。──陸の道を探してた俺らの、裏をかいたわけです」

 ロズヴェータは、地図を睨んだ。

 海からの補給。冬の荒れた海を、夜、小舟で。危険な芸当だが、確かに、陸に道を作るより速く、こちらの目に触れにくい。首狩り総督の、抜かりのない一手だった。

「その入り江、塞げるか」

「陸からは無理ですね。崖が邪魔で、近づけない。──ですが」

 トーロウの目が、猿の面の奥で光った。

「海からなら」


◇◆◇


 海の話となれば、この男だった。

 ガディフォールで雇い入れた、片目の潰れた元香具師。港の噂を売って生きてきた男は、船乗りの知り合いも多い。焚き火の煙を避けるように片目を細め、潮の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせながら、しゃがれた声で語った。

「入り江に小舟を入れるにゃ、夜の凪を待つ。冬の海が凪ぐのは、嵐と嵐の合間の、ほんの数刻だけでさ」

「その数刻を、こっちが先に押さえるのか」

「そういうこって。漁師に金を握らせて、入り江の口に、網を張らせる。ただの漁師の網だ。帝国の小舟が咎める謂れはねえ。だが、暗がりで網に舵を取られりゃ、小舟は進めねえ」

「戦わずに、荷を止めるのか」

「戦えば、帝国も気づく。気づかれずに詰まらせるのが、上等でさ」

 ロズヴェータは、口の端で笑った。

 地形でこちらの補給を殺しに来た敵の、その補給を、漁師の網一枚で殺す。剣は、一度も抜かない。

「──やれ」

 金は、ラスタッツァが出した。無論、後で色をつけて取り立てる顔で。


◇◆◇


 効き目は、静かに、しかし確実に現れた。

 網が張られて以来、崖の上の陣に、荷が上がらない。

 冬の海は荒れ、凪の数刻に入り江へ滑り込もうとした帝国の小舟は、暗がりで漁網に舵を絡め取られ、立ち往生する。無理に進めば座礁し、退けば手ぶらで戻るしかない。

 こうして、崖の上の五百の兵糧は、日ごとに細っていった。

 攻めれば石で潰せる街道の敵が、目の前にいる。だが、その敵は動かない。そして自分たちの腹だけが、日に日に減っていく。

 兵とは、飢えれば動揺する。

 まず、逃亡が出た。次に、崖を下りて略奪に走る者が出た。統制は、糸の切れるように、少しずつ緩んでいく。

「──崖の上に、動きがあります」

 ホルベクの斥候が、報告した。

「陣の一部が、崖を下り始めました。糧を求めて、街道へ。……もう、じっとしていられないようです」

 ロズヴェータは、頷いた。

 攻めない敵を、攻めずに、動かした。

 動いた敵は、もう、崖の上の要害の敵ではない。ただの、飢えて崩れかけた五百だ。

「バリュード、ルル。崖を下りてきた分だけ、街道で刈れ。深追いはするな。──追い詰めるな。追い詰めれば、死兵になる。ただ、じわじわと、削れ」

 音を殺すバリュードの分隊が、崖を下りた帝国兵を、闇と雨の中で静かに削っていく。ルルの後衛は、街道を渡ろうとする敵を、退屈なほど確実に押し返す。

 石を積んだ崖の要害は、いつしか、空になろうとしていた。


◇◆◇


 聖都。

 その報告を聞いたイブラヒムは、しばらく、香炉の煙を見ていた。白檀の煙が、細く、まっすぐに立ち上っている。

「……網、だと」

「は。漁師の網に、補給の小舟が阻まれ、崖の陣は自壊しつつあります。我らは、一兵も、斬られておりません」

 斬られていない。

 だからこそ、始末が悪い。剣で崩されたのなら、剣で立て直せる。だが、この崩れは、剣の届かぬところで起きている。

 イブラヒムは、卓の翡翠の獣を、また指先で撫でた。冷たく滑らかな石の感触が、なぜか、今日は落ち着かなかった。

「私は、崖の上から石を落とす罠を張った。あれは、攻めてくる敵を殺す罠だ。──だが、あの三頭獣は、攻めてこなかった。私の補給を、静かに絞めてきた。私が糸を絞めた、そのやり方で」

 彼の声に、初めて、僅かな熱がこもった。

「面白い。……率いているのは、誰だ」

「は?」

「四百の、頭だ。名を、調べさせろ」

 断ち潰した後で聞けばいい、と思っていた名。

 だがこの一件で、イブラヒムは、それを先に知りたくなった。

 攻めてくる敵は、いくらでも殺せる。だが、攻めずに、こちらの息の根を絞めてくる敵は──面倒だが、退屈しない。

「私の罠を、罠のまま突き返す頭が、あの四百にはある。……見てみたいものだ。その顔を」

 開いた窓から忍び込む冷気が、香炉の煙を、細く裂いて流した。


◇◆◇


 岬の関が開いたのは、進発から十二日目の朝だった。

 崖の上の陣は、もぬけの殻となっている。飢えた帝国兵は、あるいは逃げ、あるいは略奪に散り、あるいはバリュードとルルの手で削られて、要害を保てなくなったのだ。積み上げられた石だけが、雨に打たれて、空しく残る。

 三頭獣の荷駄が、ようやく、岬の関を抜けていく。

 車輪が泥を跳ね、御者の掛け声が、隘路の岩壁に反響する。右手では、依然として冬の海が断崖を叩き、その音が地の底から響いてくる。だが今、その狭い道を、糧が流れていた。一台、また一台と、聖都へ続く道を、荷が繋がっていく。

「──繋がったな」

 ロズヴェータは、関を抜けていく荷車の列を、馬上から見送った。剣を、一度も抜かずに開いた道だった。

「隊長」

 ユーグが、馬を寄せてきた。

「後方から、早馬です。──それも、うちの伝令じゃない。王家の使いだと」

「王家?」

 こんな泥の街道の果てに、王家の使いが何の用か。訝るロズヴェータの前に、雨を蹴立てて、一騎が駆けてきた。泥の飛沫が、盛大に跳ね上がる。

 その顔を見て、ロズヴェータは、思わず馬上で目を見開いた。

 泥だらけの、しかし、見間違えようのない、屈託のない顔。

「ロズー! やっと追いついたぞ!」

 リオリス。

 騎士校からの同期にして、王家の血を引く友が、西の果てで十字軍を止められぬまま、東の泥の街道へ、帰ってきた。

 ただし、私情で来たのではない。腰には、王家の使者を示す封書筒が下がっている。

「王家派閥からの、正式な連絡使だ。──総指揮官殿への伝令と、遠征軍各隊への通達を預かってる。お前の隊は、その巡回路の途中でな」

 言い訳めいた口調だが、目は笑っていた。西方の使節団を解かれたリオリスに、王家が新しい役目を与えた。数万の兵が散らばる戦線を、王家の言葉を携えて回る、近衛団長にふさわしい任だ。そして、その巡回路の一本が、たまたま──あるいは、意図して──三頭獣の守る補給線を通っていた。

「うまいこと役目をこじつけたな」

「人聞きの悪い。ちゃんと通達も届けるさ。ついでに、お前の顔も見られる。一石二鳥だろう?」


◇◆◇


 その夜、関を抜けた先の宿営で、二人は久しぶりに、同じ火を囲んだ。

 雨は上がっていたが、天幕を叩く風は湿って冷たい。焚き火が、湿った薪を燻らせて、時折ぱちりと爆ぜた。

 リオリスは、西方での顛末を語った。交渉の決裂。十字軍の発進。ルフィーネ女子爵とナウリッツ男爵が、なお敗戦処理の交渉に残っていること。そして、自分は復命を終えて、剣の届く戦線へ来たこと。

「……俺は、言葉では、何一つ止められなかった」

 火を見つめて、リオリスは、いつになく静かに言った。

「だから、せめて剣の届く場所で働こうと思ってな。連絡使の役目を願い出たのも、半分はそのためだ。──王家の使者なら、どの隊にも堂々と居座れる。腰を据えるなら、お前の隣がいい。そう思った」

「連絡使が、一つの隊に長く留まっていいのか」

「巡回の起点を、どこかの隊に置く決まりでな。──その起点を、三頭獣にしてもらった。ここを拠点に、各隊を回って、また戻る。名分は、立ってる」

 都合のいい役目だ、とロズヴェータは思う。だが、都合のいい役目を、王家に願い出て、通してみせるだけの立場と器量が、この空気の読めない男には、いつの間にか備わっていた。

「西の話は、こっちにも届いている」

 ロズヴェータは、火に薪を足した。爆ぜた火の粉が、夜の闇に吸われて消える。

「雪解けに、十字軍が来る。数万の兵と、十数万の民の群れが。……だから、こっちは急いでいる。連中が着く前に、聖都を落とす」

「聞いたよ。狂気の沙汰だってな」

「ああ。狂気だ」

 ロズヴェータは、口の端で笑った。

「だが、考え抜いた狂気だ。──ちょうど今、俺たちの前に立ちふさがってる男も、同じことを言っていたそうだ」

 リオリスが、火の向こうで、目をしばたたかせた。

「敵将が?」

「首狩り総督イブラヒム。……厄介な相手だ。攻めてこない敵ほど、厄介なものはない」

 二人の頭上、冬の雲が切れて、満ちた月が覗いた。

 西からは十字軍が。東からは首狩り総督が。そして自分たちは、その狭間の泥の街道を、聖都へ向けて這い進んでいる。

 賭けの盤面は、日ごとに大きく、そして、日ごとに危うくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
これも陥陣営補正になるかな?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。