渇きの糸
崖の上の五百は、動かなかった。
三頭獣もまた、岬の関の手前で、動かなかった。
海風の街道が岬を回り込むその一点は、片側が切り立った断崖、片側が荒れる冬の海。道幅は荷車二台分しかない。街道随一の隘路であり、ここを通らねば、聖都へ糧は運べない。兵たちは、いつしかそこを「岬の関」と呼ぶようになっていた。関所のように、行く手を扼しているからだ。
睨み合いのまま、三日が過ぎる。
その三日を、しかしロズヴェータは無駄にしていない。
トーロウの耳と、ホルベクの目が、崖の上の五百を養う糸を探していた。あんな崖の上に、糧倉はない。五百の胃袋は、必ずどこかから、日々満たされている。その道を見つければ、勝てる。
「見つけましたよ、隊長」
四日目の夜、雨に濡れた猿顔で、トーロウが天幕に滑り込んできた。濡れた外套から、ぽたぽたと雫が落ちる。泥に汚れた指で、地図の一点を叩いた。
「崖の上の陣。糧は、海から来てます」
「海?」
「ええ。夜になると、小舟が入るんです。崖の裏側、波の穏やかな入り江に。そこから縄と籠で、崖の上へ荷を引き上げてる。──陸の道を探してた俺らの、裏をかいたわけです」
ロズヴェータは、地図を睨んだ。
海からの補給。冬の荒れた海を、夜、小舟で。危険な芸当だが、確かに、陸に道を作るより速く、こちらの目に触れにくい。首狩り総督の、抜かりのない一手だった。
「その入り江、塞げるか」
「陸からは無理ですね。崖が邪魔で、近づけない。──ですが」
トーロウの目が、猿の面の奥で光った。
「海からなら」
◇◆◇
海の話となれば、この男だった。
ガディフォールで雇い入れた、片目の潰れた元香具師。港の噂を売って生きてきた男は、船乗りの知り合いも多い。焚き火の煙を避けるように片目を細め、潮の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせながら、しゃがれた声で語った。
「入り江に小舟を入れるにゃ、夜の凪を待つ。冬の海が凪ぐのは、嵐と嵐の合間の、ほんの数刻だけでさ」
「その数刻を、こっちが先に押さえるのか」
「そういうこって。漁師に金を握らせて、入り江の口に、網を張らせる。ただの漁師の網だ。帝国の小舟が咎める謂れはねえ。だが、暗がりで網に舵を取られりゃ、小舟は進めねえ」
「戦わずに、荷を止めるのか」
「戦えば、帝国も気づく。気づかれずに詰まらせるのが、上等でさ」
ロズヴェータは、口の端で笑った。
地形でこちらの補給を殺しに来た敵の、その補給を、漁師の網一枚で殺す。剣は、一度も抜かない。
「──やれ」
金は、ラスタッツァが出した。無論、後で色をつけて取り立てる顔で。
◇◆◇
効き目は、静かに、しかし確実に現れた。
網が張られて以来、崖の上の陣に、荷が上がらない。
冬の海は荒れ、凪の数刻に入り江へ滑り込もうとした帝国の小舟は、暗がりで漁網に舵を絡め取られ、立ち往生する。無理に進めば座礁し、退けば手ぶらで戻るしかない。
こうして、崖の上の五百の兵糧は、日ごとに細っていった。
攻めれば石で潰せる街道の敵が、目の前にいる。だが、その敵は動かない。そして自分たちの腹だけが、日に日に減っていく。
兵とは、飢えれば動揺する。
まず、逃亡が出た。次に、崖を下りて略奪に走る者が出た。統制は、糸の切れるように、少しずつ緩んでいく。
「──崖の上に、動きがあります」
ホルベクの斥候が、報告した。
「陣の一部が、崖を下り始めました。糧を求めて、街道へ。……もう、じっとしていられないようです」
ロズヴェータは、頷いた。
攻めない敵を、攻めずに、動かした。
動いた敵は、もう、崖の上の要害の敵ではない。ただの、飢えて崩れかけた五百だ。
「バリュード、ルル。崖を下りてきた分だけ、街道で刈れ。深追いはするな。──追い詰めるな。追い詰めれば、死兵になる。ただ、じわじわと、削れ」
音を殺すバリュードの分隊が、崖を下りた帝国兵を、闇と雨の中で静かに削っていく。ルルの後衛は、街道を渡ろうとする敵を、退屈なほど確実に押し返す。
石を積んだ崖の要害は、いつしか、空になろうとしていた。
◇◆◇
聖都。
その報告を聞いたイブラヒムは、しばらく、香炉の煙を見ていた。白檀の煙が、細く、まっすぐに立ち上っている。
「……網、だと」
「は。漁師の網に、補給の小舟が阻まれ、崖の陣は自壊しつつあります。我らは、一兵も、斬られておりません」
斬られていない。
だからこそ、始末が悪い。剣で崩されたのなら、剣で立て直せる。だが、この崩れは、剣の届かぬところで起きている。
イブラヒムは、卓の翡翠の獣を、また指先で撫でた。冷たく滑らかな石の感触が、なぜか、今日は落ち着かなかった。
「私は、崖の上から石を落とす罠を張った。あれは、攻めてくる敵を殺す罠だ。──だが、あの三頭獣は、攻めてこなかった。私の補給を、静かに絞めてきた。私が糸を絞めた、そのやり方で」
彼の声に、初めて、僅かな熱がこもった。
「面白い。……率いているのは、誰だ」
「は?」
「四百の、頭だ。名を、調べさせろ」
断ち潰した後で聞けばいい、と思っていた名。
だがこの一件で、イブラヒムは、それを先に知りたくなった。
攻めてくる敵は、いくらでも殺せる。だが、攻めずに、こちらの息の根を絞めてくる敵は──面倒だが、退屈しない。
「私の罠を、罠のまま突き返す頭が、あの四百にはある。……見てみたいものだ。その顔を」
開いた窓から忍び込む冷気が、香炉の煙を、細く裂いて流した。
◇◆◇
岬の関が開いたのは、進発から十二日目の朝だった。
崖の上の陣は、もぬけの殻となっている。飢えた帝国兵は、あるいは逃げ、あるいは略奪に散り、あるいはバリュードとルルの手で削られて、要害を保てなくなったのだ。積み上げられた石だけが、雨に打たれて、空しく残る。
三頭獣の荷駄が、ようやく、岬の関を抜けていく。
車輪が泥を跳ね、御者の掛け声が、隘路の岩壁に反響する。右手では、依然として冬の海が断崖を叩き、その音が地の底から響いてくる。だが今、その狭い道を、糧が流れていた。一台、また一台と、聖都へ続く道を、荷が繋がっていく。
「──繋がったな」
ロズヴェータは、関を抜けていく荷車の列を、馬上から見送った。剣を、一度も抜かずに開いた道だった。
「隊長」
ユーグが、馬を寄せてきた。
「後方から、早馬です。──それも、うちの伝令じゃない。王家の使いだと」
「王家?」
こんな泥の街道の果てに、王家の使いが何の用か。訝るロズヴェータの前に、雨を蹴立てて、一騎が駆けてきた。泥の飛沫が、盛大に跳ね上がる。
その顔を見て、ロズヴェータは、思わず馬上で目を見開いた。
泥だらけの、しかし、見間違えようのない、屈託のない顔。
「ロズー! やっと追いついたぞ!」
リオリス。
騎士校からの同期にして、王家の血を引く友が、西の果てで十字軍を止められぬまま、東の泥の街道へ、帰ってきた。
ただし、私情で来たのではない。腰には、王家の使者を示す封書筒が下がっている。
「王家派閥からの、正式な連絡使だ。──総指揮官殿への伝令と、遠征軍各隊への通達を預かってる。お前の隊は、その巡回路の途中でな」
言い訳めいた口調だが、目は笑っていた。西方の使節団を解かれたリオリスに、王家が新しい役目を与えた。数万の兵が散らばる戦線を、王家の言葉を携えて回る、近衛団長にふさわしい任だ。そして、その巡回路の一本が、たまたま──あるいは、意図して──三頭獣の守る補給線を通っていた。
「うまいこと役目をこじつけたな」
「人聞きの悪い。ちゃんと通達も届けるさ。ついでに、お前の顔も見られる。一石二鳥だろう?」
◇◆◇
その夜、関を抜けた先の宿営で、二人は久しぶりに、同じ火を囲んだ。
雨は上がっていたが、天幕を叩く風は湿って冷たい。焚き火が、湿った薪を燻らせて、時折ぱちりと爆ぜた。
リオリスは、西方での顛末を語った。交渉の決裂。十字軍の発進。ルフィーネ女子爵とナウリッツ男爵が、なお敗戦処理の交渉に残っていること。そして、自分は復命を終えて、剣の届く戦線へ来たこと。
「……俺は、言葉では、何一つ止められなかった」
火を見つめて、リオリスは、いつになく静かに言った。
「だから、せめて剣の届く場所で働こうと思ってな。連絡使の役目を願い出たのも、半分はそのためだ。──王家の使者なら、どの隊にも堂々と居座れる。腰を据えるなら、お前の隣がいい。そう思った」
「連絡使が、一つの隊に長く留まっていいのか」
「巡回の起点を、どこかの隊に置く決まりでな。──その起点を、三頭獣にしてもらった。ここを拠点に、各隊を回って、また戻る。名分は、立ってる」
都合のいい役目だ、とロズヴェータは思う。だが、都合のいい役目を、王家に願い出て、通してみせるだけの立場と器量が、この空気の読めない男には、いつの間にか備わっていた。
「西の話は、こっちにも届いている」
ロズヴェータは、火に薪を足した。爆ぜた火の粉が、夜の闇に吸われて消える。
「雪解けに、十字軍が来る。数万の兵と、十数万の民の群れが。……だから、こっちは急いでいる。連中が着く前に、聖都を落とす」
「聞いたよ。狂気の沙汰だってな」
「ああ。狂気だ」
ロズヴェータは、口の端で笑った。
「だが、考え抜いた狂気だ。──ちょうど今、俺たちの前に立ちふさがってる男も、同じことを言っていたそうだ」
リオリスが、火の向こうで、目をしばたたかせた。
「敵将が?」
「首狩り総督イブラヒム。……厄介な相手だ。攻めてこない敵ほど、厄介なものはない」
二人の頭上、冬の雲が切れて、満ちた月が覗いた。
西からは十字軍が。東からは首狩り総督が。そして自分たちは、その狭間の泥の街道を、聖都へ向けて這い進んでいる。
賭けの盤面は、日ごとに大きく、そして、日ごとに危うくなっていた。




