獣、泥を踏む
月が満ちた朝、三頭獣は泥を踏んだ。
ガディフォールの門を、四百と少しの隊列が、静かに抜けていく。夜半まで降り続いた冬の雨が、街道を一本の泥の帯に変えていた。踏み出すたびに、革靴が泥を噛み、粘る音を立てて足を放す。冷たい飛沫が脛を叩き、脛当ての革の隙間から、じわりと湿りが染みてくる。海から吹き上げる風は塩と海藻の匂いを孕んで湿り、真新しい騎士団旗を重たげに鳴らした。欠けた月を踏む三つ首の獣。その旗が、初めて戦のために掲げられた朝だった。
東の彼方、ちぎれた雲の切れ間に、聖都のある高地が霞んで見えた。その頂だけが、うっすらと雪を戴いている。沿岸に雪はない。あるのは雨と、その雨が生む泥ばかりだった。
港には、見送る者たちがいた。
会計方のメッシーとメルヴが、湯気の立つパンを最後まで配って回る。塩の効いたパンの匂いが、雨の匂いに一瞬だけ勝った。従軍商人のラスタッツァは、荷馬車の隊列の最後尾で、車輪に泥除けの覆いを噛ませながら、ひひひと笑っている。冬の泥は荷車の敵だが、商人にとっては別の意味を持つ。泥に沈む軍がある限り、泥を越えられる荷車の値は上がる。この冬の商いがいくらの利になるか、既に皮算用が済んでいる顔だった。
ロズヴェータは、隊列の先頭近くで馬を進めた。
鞍が軋み、馬の吐く息が白く流れて、すぐに雨に溶ける。半年前の三頭獣なら、この隊列は、彼一人が糸を握って動かすものだった。
だが今は、違う。
前衛のヴィヴィが、泥に足を取られる腕自慢の新入りを叱咤しながら進む。その怒声が、雨音を裂いて後方まで届いた。その後ろで、バリュードの分隊が、ぬかるみの浅い縁を選んで、音を殺して歩いている。荷駄の列にはガッチェとガーデルの目が光り、車輪が泥に沈むたびに、短い指示が飛んで人夫が群がる。後衛にはルルの、退屈なほど堅い守り。斥候のホルベクは、とうに先へ出て、雨に濡れた街道を舐めるように読んでいる。
四百が、四百のやり方で歩き、それでいて、一つの方向へ流れていた。
「──悪くない眺めだ」
馬を寄せてきたユーグが、珍しく素直に言った。合羽の肩から、雨の雫がひっきりなしに滴っている。
「旗頭の頃の三百は、隊長様の手足でした。今の四百は、手足じゃない。……それぞれが、自分の頭で動いています」
「頭が四つある獣は、御しにくいぞ」
「ええ。ですが──強い」
ロズヴェータは、雨に煙る彼方を見た。
海岸沿いに、泥に沈みながら続く一本の道。
海風の街道。ガディフォールから聖都ジュルル・サルムへ延びる三本の街道のうち、最も平坦で、最も速く、最も重い一本だった。他の二本は、他の騎士隊が偵察している。だが、本隊の胃袋を養う補給の背骨は、この道だ。
平坦だからこそ、雨が抜けず、泥が深い。速いはずの道が、冬は最も遅くなる。──それでも、この道を保てるか否かに、冬の賭けの全部が載っている。
「──進む。聖都まで、この道を、うちが繋ぐ」
ロズヴェータの声は、大きくなかった。
だが、四百の獣は、確かに泥を踏んで、東へ歩き出した。
◇◆◇
聖都ジュルル・サルム。千年の城壁の内、かつて十字教の王が座した宮殿の一室で、その男は地図を見ていた。
三日月帝国の首狩り総督、イブラヒム。
西方世界が、その名を口にするとき、必ず声を潜める男。美貌と呼ぶには酷薄すぎる顔に、感情の色はない。焚かれた香が、白檀の甘さで部屋を満たし、長い卓の上には、東方から流れてきた芸術品が並ぶ。彼はその一つ、掌ほどの翡翠の獣を指先で撫でながら、地図の上の一本の線を見ていた。翡翠は、指の下でひやりと滑らかだった。
ガディフォールから、この聖都へ。
海沿いの一本道。
「……妙な軍が、動いた」
傍らに侍る幕僚が、報告を続ける。リオングラウス王国が、雪解けを待たずに進発したこと。三本の街道のうち、海風の街道に、四百ばかりの小さな騎士団が張りついたこと。
「四百」
イブラヒムは、その数を、口の中で転がした。
「聖都を攻めるには、少なすぎる。──攻める気は、ないのだな」
「は。おそらくは、補給線の確保が任務かと」
「そうだろう」
総督は、地図から目を離さない。
「冬に、雪解けを待たずに動く。狂気の沙汰だ。──だが、狂気には、二種類ある。何も考えぬ狂気と、考え抜いた末の狂気だ。この四百は、後者だ」
冬に聖都を落とせば、春に来る十字軍の大義が消える。それを、この痩せ我慢の遠征軍は狙っている。イブラヒムは、敵の意図を、報告される前に読み終えていた。
「その騎士団の名は」
「はっ。旗印は、三つ首の獣。──三頭獣、と名乗っております」
「三頭獣」
総督は、その名を、香の煙の向こうで、静かに繰り返した。
率いる将の名までは、彼の耳に届いていない。届く必要も、まだ感じていなかった。四百を率いる小物の名など、断ち潰した後で聞けば済む。
「──三つの頭を持つ獣、か。ならば、頭を一つずつ落とすより、まず糧道を絞めてやろう」
「補給線を、断てばよろしいのですか。四百など、我らの一部隊で」
幕僚の言葉に、イブラヒムは、初めて薄く笑った。
「お前は、蜘蛛の糸を、指で払うか? 払えば、蜘蛛は逃げて、また張る。──糸を断つのではない。蜘蛛に、糸を張れぬと悟らせるのだ」
総督は、地図の海風の街道の、一点を指した。
海と崖に挟まれ、道が最も細くなる場所。
「ここだ。ここを、我らが押さえる。だが、戦はせぬ」
「戦を、せぬ……?」
「兵を置き、道を扼し、動かぬ。三頭獣は、この糸を通さねば、聖都に糧を運べぬ。攻めれば、崖の上から石を落とすだけ。攻めねば、糧は詰まる。──さて、あの三つ首は、どう出る?」
イブラヒムは、撫でていた翡翠の獣を、静かに卓に置いた。石が木肌に触れて、こつ、と乾いた音を立てる。
「攻めるだけの獣なら、崖で殺せる。だが、待つことを覚えた獣なら──少しは、退屈が紛れる」
窓の外、聖都の空には、満ちた月がかかっていた。高地の夜気は、沿岸より遥かに冷たく、開いた窓から忍び込む風が、香の煙を細く震わせる。宮殿の庭の噴水は縁が薄く凍り、水の落ちる音が、常より硬く澄んで聞こえた。遠い丘の頂は、月光に雪を白く光らせている。
だが、あの三つ首の獣が這い進む海沿いの道に、雪はない。あるのは雨と泥だけだと、イブラヒムは知っていた。
同じ月を、泥濘の街道の彼方で、四百の獣も見上げているはずだった。
◇◆◇
異変を最初に嗅ぎつけたのは、やはりホルベクの斥候隊だった。
進発から六日。雨は降ったり止んだりを繰り返し、街道の泥は一日ごとに深くなった。道の脇では、乾いていたはずの涸れ谷が、山から流れ落ちた雨水で濁流と化し、水音が地鳴りのように腹に響く。渡渉の順番を待つ荷車の列が、じりじりと伸びていた。右手では冬の海が荒れ、断崖の下で灰色の波が白く砕けるたび、潮の飛沫が風に乗って、頬にまで届いた。舌の先が、うっすらと塩辛い。
その海と崖に挟まれて、海風の街道が糸のように細くなる隘路──街道が岬を回り込む一点で、片側は断崖、片側は荒れる海、道幅は荷車二台分しかない。兵たちが「岬の関」と呼び始めた場所の手前で、斥候の一人が駆け戻ってきた。泥を跳ね上げ、馬の脇腹は雨と汗で光っている。連れていたのは、砂漠の目を持つ少年、サッハだ。
「団長。細道の出口、崖の上。──帝国兵が、陣を敷いています」
ロズヴェータは、馬を止めた。
「数は」
「五百ほど。ですが、妙です」
サッハが、砂漠仕込みの目で見たものを、慎重に告げた。
「陣を敷いているのに、攻めてくる気配がない。柵を組み、崖の上に石を積み、じっとしている。まるで──通せんぼをしているだけです」
ヴォルクが、馬上で唸った。潰れた片耳に溜まった雨を、鬱陶しそうに手で払う。
「厄介だな、こりゃ。攻めてくりゃ、こっちも戦える。だが、動かねえ相手は、殴れねえ」
ロズヴェータは、油紙で包んだ自作の地図を、雨から庇いながら広げた。
岬の関。海風の街道で、ここだけが崖と海に挟まれて、道幅が荷車二台分しかない。ここを抜けねば、聖都へ糧は運べない。だが崖の上に五百が陣取り、石を積んでいる。無理に通れば、上から石を落とされ、隘路は荷車の墓場になる。
「攻めれば、崖の上から潰される。攻めなければ、荷が詰まる。──後方の本隊が、飢える」
「見事な一手ですね」
ユーグの声が、硬い。
「戦わずに、こちらの補給を殺しにきている。剣ではなく、地形で。──これが、首狩り総督ですか」
ロズヴェータは、地図の岬の関を、しばらく見つめた。雨粒が油紙を叩いて、細かい音を立て続けている。
これまでの敵は、皆、攻めてきた。バルマーも、間者網も、攻めてくるからこそ、破れを罠に変えられた。
だが、この敵は、攻めてこない。
ただ、そこにいるだけで、こちらを殺す。
「……面白い」
ロズヴェータの口の端が、僅かに上がった。腹の底の黒い熱が、久しぶりに、心地よく疼いた。
「攻めてこない敵は、殴れない。──なら、殴らなきゃいい」
「隊長?」
「ヴォルク。お前、さっき『動かねえ相手は殴れねえ』と言ったな。正しい。だが、一つ抜けてる」
ロズヴェータは、地図から顔を上げた。
「動かない相手は、こっちも待てる。──向こうは五百を、あの崖の上に、冬の間ずっと張りつけておけるか?」
ヴォルクの、潰れた片耳が、ぴくりと動いた。
「……糧だな」
「そうだ」
ロズヴェータは、地図の崖の上の陣を、指で叩いた。
「崖の上の五百も、飯を食う。そして、あんな崖の上に、糧倉はない。連中の糧は、どこかから運ばれてくる。──その道を、うちの目が探す」
彼は、ホルベクとトーロウを見た。斥候の目と、諜報の耳。
「向こうは、地形でうちの補給を殺しに来た。なら、こっちは、向こうの補給を、地形の外から探して断つ。──首を絞め合う勝負だ。どっちの息が先に切れるか」
トーロウが、猿顔を皺くちゃにして笑った。雨の滴が、その皺を伝って顎から落ちる。
「港で張った耳が、早速役に立ちそうですねぇ、隊長」
「向こうは、こっちが待つことを覚えたかどうか、試すつもりらしい」
ロズヴェータは、地図を油紙に包み直した。
「なら、見せてやる。──谷で二刻、動かずに待った男だ。崖の上の五百が飢えるまで、いくらでも待ってやる」
岬の関の向こう、崖の上の帝国陣に、雨雲の切れ間から差した鈍い夕陽が落ちていく。濡れた岩肌が、その光を受けて赤黒く濡れ光った。
攻めない敵と、攻めない獣。
泥と雨に沈む冬の街道で、二つの頭脳が、初めて、静かに噛み合った。




