西方の温度
温度、と言うものがある。
湯は放っておけば冷め、氷は掌の中で溶ける。熱は高い方から低い方へ流れ、やがて等しくなる──それが世の理であるはずだった。
だが、信仰の熱だけは、この理に従わない。
東では、リオングラウス王国の遠征軍が聖都ジュルル・サルムへの道を血と銭で購いながら、一里ずつ進んでいる。兵たちの熱は、日々の糧と明日の生死という現実の水を浴びて、ほどよく冷めた実務の温度に落ち着いていた。
西では、違う。
──異教徒は殺せ、殺せ、殺せ!
──死んだ異教徒の屍の上にこそ、神の栄光は輝く!
聖ベルドナールは既に亡い。だが彼の説教は、ジュエット派の修道士たちの口を借りて、今も西方世界の隅々で燃え続けている。第四次十字軍の無様な失敗は、熱を冷ますどころか薪になった。あの敗北は卑劣なロスデリア帝国と、非協力的なリオングラウス王国のせい──そう語られる限り、信仰の炎に恥はなく、あるのは晴らすべき雪辱だけだからだ。
西方世界は、第五次十字軍を出したがっていた。
王侯は名誉を、諸侯は領地に余った次男三男の捨て場を、民は現世の苦しみからの出口を、そして天の門の新教皇グリゼルダ三世は、即位を飾る御威光を求めていた。
東の王国だけが、それを望んでいなかった。
既に自国の軍を東に出している彼らにとって、統制なき数万の兵と、糧も持たぬ十数万の民の群れが国土を踏み越えて来ることは、援軍ではない。
災害である。
この温度差の真ん中に立たされた者たちがいた。
聖女の御旗の元の王都ペエル。リオングラウス王国全権使節、ルフィーネ・オルシャ女子爵の一行である。
◇◆◇
「──整理させていただきますぞ、子爵殿」
セティ・ド・ファーラ伯爵は、鷲鼻の先で笑った。
ペエル宮殿の一室。石壁を覆うタペストリーには、聖地を目指す騎士の行列が織り込まれている。暖炉の火は惜しみなく焚かれ、部屋は汗ばむほどに暖かい。
その暖かさが、ルフィーネには一番の皮肉に思えた。ここでは薪すら潤沢なのだ。東の遠征軍が、荷車一台の麦を守るために騎士の血を流している間も。
「貴国の申し入れは、二つ。一つ、十字軍の派兵は無用、代わりに銭を出せ。二つ、それが成らぬなら、御旗の軍を貴国の国境より東へ越えさせるな。──相違ないか」
「言葉を飾らねば、その通りです」
ルフィーネは、務めて静かに言った。
「血は、既に我が国が出しております。王国軍二万が、この時も聖都への道で戦っている。この上、貴国の数万の兵と、糧も持たぬ十数万の民を東へ通せば、道中の国土が丸ごと痩せ細る。それは異教徒を利するだけです。──兵は足りています。足りないのは銭です。貴国が一万の兵を養うおつもりの銭を我らに回していただければ、既に戦っている二万が、三万の働きをいたします」
「ふむ。理屈ですな」
「加えて、どうしても軍をお出しになると仰るなら、陸路ではなく海路を。ジェノビアとフェニキアの船腹は、それだけの輸送に耐えます。少なくとも、諸国の畑を踏み荒らさずに済む」
我ながら、譲れるところは全て譲った案だとルフィーネは思う。
銭だけ出させるのが上策。軍を出すにしても海に載せて素通りさせるのが中策。陸路の大行軍だけは、下の下。
だが。
「銭で、信仰を贖えと仰るか」
部屋の隅から、低い声が上がった。ジュエット派の修道士。この協議に、当然の顔をして同席している男だった。
「免償は、歩いた者にのみ与えられる。聖地への道を、己の足で、飢えと渇きを噛みしめて歩む──その苦難こそが贖罪である。船は、歩みではない。銭は、なおさらだ」
「師父の仰る通り」
ファーラ伯爵は、恭しく頷いてみせた。それから、扇を開いて口元を隠し、声を一段落とした。信仰の言葉から、政の言葉へ。
「──それに子爵殿、仮に師父が頷かれたとて、無駄なのですよ。歩かせることに、意味があるのです」
「……と、仰いますと」
「歩けぬ者は道々で脱落し、歩き切った者だけが兵になる。行軍そのものが選別なのです。加えて、諸侯は増えすぎた食客と厄介な次男坊を吐き出したい。民は畑と借金から逃げ出したい。海の二国は運び賃で肥え太りたい。教皇聖下は御威光を示したい。──お分かりかな。この西方には、十字軍を出したい者しかおらぬ。止まる理由が、どこにもない」
悪びれもしない実利の羅列に、ルフィーネは束の間、言葉を失った。
熱狂の裏に、これほど冷えた勘定がある。冷えた勘定の上で、熱狂が踊らされている。どちらが御しやすいかと言えば──どちらも、御せない。
「畏れながら」
野太い声が上がった。虎髭の男爵、ナウリッツ・メル・ショーラ。武官派閥から付けられた副使は、とうに焦れていた。
「儂は武辺者ゆえ、単純な話しかできませぬがな。その選別とやらで脱落する者は、死ぬのですぞ。道端で、万の単位で。しかも死ぬ前に、腹を空かせて他国の村を食い荒らしてから死ぬ。人間、食わねば死ぬ。神の兵とて、腹は減り申す」
「神は、荒野で民を養われた」
修道士が、顔も上げずに言った。
「四十年もの間、天からの糧で」
部屋の空気が、当然のようにそちらへ傾く。ここでは聖句が、どんな帳簿よりも重い。
そのときだった。
「へえ! それは素晴らしい」
声を上げたのは、それまで物珍しそうにタペストリーを眺めていた近衛騎士団長リオリスだった。
王家派閥からの副使は、屈託のない顔を修道士に向けた。
「では、東へ歩いて行かれる皆さんも、天からの糧で養われるのですね。いや、良かった。道中の村が食い尽くされるという心配は、杞憂だったわけだ。ときに師父様、天の糧は、いつ頃から降るのでしょう? 降る日取りさえ分かれば、我が国は安心して国境をお開けできますし、こちらの伯爵閣下も兵糧の勘定が丸ごと要らなくなる」
部屋が、静まり返った。
嫌味ではないのだ。それが分かるから、誰も返せない。この男は本当に、心の底から、天の糧の日取りを聞いている。
修道士の筆が、止まっていた。
ファーラ伯爵が、扇の陰で咳払いを一つした。笑いを噛み殺した音に、ルフィーネには聞こえた。
だが、その一瞬の裂け目も、扉を叩く音に塞がれた。
入ってきた従者が、ファーラ伯爵に何事かを耳打ちする。伯爵は頷き、扇を畳み、そして今日一番の上機嫌な顔で一同を見渡した。
「天の門より早馬にて報せ。──教皇聖下は、十字軍の御旗を祝別なされた。ジュエット派の説教師二百名が、召集の勅書を携えて諸国へ発ったとのこと」
祝別された旗は、もう畳めない。
召集は始まった。あとは兵と民が集まり、雪解けを待って、雪崩が動き出すだけ。
「と、言うわけですのでな、子爵殿」
ファーラ伯爵は、心底愉しげに締め括った。
「貴国の同意は、もはや議題ではござらん。次の協議では、通過の道筋と宿営地の割り当ての話をいたそう。──実りある話し合いでしたな、本日は」
協議の打ち切りを、これほど丁寧に、これほど無礼に告げる言い方を、ルフィーネは他に知らなかった。
◇◆◇
その夜、使節団の宿舎で、ルフィーネは今日何度目かも分からないため息を吐いた。
「……はぁ」
「二十三回目ですね」
「数えないでください、リオリス殿」
卓の上には、本国への報告書の下書きがある。書き出しの一文から、既に筆が止まっていた。交渉は事実上の決裂。十字軍の発進は秒読み。銭だけ出させる上策も、海に載せる中策も潰え、残ったのは最悪の下策──陸路の大行軍を、いかに被害少なく受け流すかという、敗戦処理だけ。
「ここから先は、通過の道筋、宿営地、糧の値、賠償の取り決め……紙と算盤の戦です。年単位の、ね」
ルフィーネは顔を上げ、二人の副使を順に見た。
「ナウリッツ卿には、残っていただきます。宿営地の選定には武官の目が要る。──リオリス殿」
「はい」
「お帰りなさい。次の便船で」
リオリスは、瞬きをした。
「俺だけ、ですか」
「あなたの密命は『止めること』でした。止まらぬと決した以上、あなたをここに置いておく理由が、私にはもうありません。そして東では、これから王国のすべての剣が要る。近衛騎士団長の剣も、です」
リオリスは、しばらく黙っていた。それから、珍しく静かな声で言った。
「……止められませんでした」
「止まらないものだったのです。誰にも」
ルフィーネは、報告書の下書きを一枚、彼に差し出した。
「陛下への報告の写しです。あなたが自分の言葉で補って届けなさい。文字は嘘をつけますが、あなたは、つけないでしょうから」
褒められているのか貶されているのか分からない顔をするリオリスの肩を、ナウリッツが太い手で叩いた。
「若いの、東で伝えろ。──雪崩が来る、とな。止められなんだ儂らの詫びに、せめて日取りと頭数は、ここから送り続けてやる」
◇◆◇
この世で最も速く走るもの──欲望に塗れた情報という名の化け物は、海の上でも足を緩めない。
「祝別」の一報は、三十日の海路を駆け抜けて、東の遠征軍本陣に到達した。
◇◆◇
「後続が来ねぇって心配してたらよ」
ディルアンは書状を卓に放った。
「──丸ごと来やがる」
「そうなります」
ヴァルテンは、放られた書状を几帳面に拾い上げ、皺を伸ばしながら読み直した。
「西方十字軍、発進は雪解け。兵が数万、後に続く民が十数万。統制はなく、糧は持たず、我らの補給線の上を、東へ向かって流れて来る。……使節団の見立てでは、道中の脱落と分岐を差し引いても、この戦域に届く頭数は膨大です」
「敵より先に、味方の頭数で兵站が死ぬ、か」
「加えて、ジェノビアとフェニキアが動きました。十字軍の輸送特需を見込んで、運賃を既に三割上げています。ガディフォール経由の糧は、これから一俵ごとに高くなる」
「……ってことは、だ」
ディルアンは、天幕の壁に貼られた地図を顎で示した。海湾都市ガディフォールから聖都へ延びる、細い線。
「この線の値打ちが、また上がる。守る側にとっても──断ちに来る側にとってもな」
「帝国の参謀がこの好機を見逃すとは考えられません。混乱に乗じて、本腰を入れて断ちに来る。守りには、実績のある者を──」
「なぁ、ヴァルテン」
ディルアンは、参謀の言葉を途中で断ち切った。
その目は書状でも、参謀でもなく、地図の東の果て──聖都ジュルル・サルムを示す小さな印に、据えられていた。
「雪崩ってのは、なんで起きる」
「……山に、雪が積もるからです」
「そうよ。積もった雪が、重さに耐えかねて、麓に落ちてくる。なら──積もる前に、山の頂をこっちのモンにしちまったら、どうなる」
ヴァルテンの、書状の皺を伸ばしていた指が、止まった。
視線がゆっくりと上がり、総指揮官の視線を辿って、地図の同じ一点に行き着く。
「……本気で、仰っている」
「大真面目よ」
ディルアンは卓に身を乗り出した。
「連中の御旗の大義はなんだ? 聖地の奪回だろうが。なら、雪解けに連中が着いた時、聖都がもう十字教の手に戻ってたら? ──奪回する物が、ねぇんだ。戦をしに来た群れは、詣でに来た群れに変わる。武装した災害が、ただの巡礼に化けるのよ。教皇サマは御旗を祝別しちまった手前、勝利を寿ぐしかねぇ。西の諸侯は面子を保ったまま兵を返せる。誰も損をしねぇ」
そして、と総指揮官は声を低くした。
「奪還したのが誰かと言や──銭も後続も寄こさなかった連中が着く前に、二万ぽっちでやり遂げた、うちの王国だ。十三年前から続く『非協力的なリオングラウス』の汚名ごと、な。……ひっくり返るぜ、ヴァルテン。根底から、丸ごと」
天幕の中が、静かになった。
ヴァルテンは、すぐには答えなかった。型の男の頭の中で、算盤が弾かれている音が、聞こえるようだった。
「──冬季の進軍です。兵站の消耗は夏場の倍。聖都の城壁は、この戦域で最も厚い。守将は帝国の首狩り総督。そして我らには、後続も銭もない」
「だろうな」
「正気の沙汰では、ありません」
「だろうな。──で?」
ディルアンは、にやりと笑った。
「計算は、立たねぇか」
長い、長い沈黙があった。
型を崩さない男は、追従も言えないかわりに、嘘の数字も言えない。
「……補給線が、一冬保つならば」
ヴァルテンは、絞り出すように言った。
「辛うじて、立ちます」
「そこよ」
ディルアンの太い指が、地図の細い線を、音を立てて叩いた。ガディフォールから聖都へ──雪崩より先に頂へ駆け上がるための、たった一本の道。
「この賭けは、剣じゃなくて荷車で勝つ賭けだ。──で、守りには実績のある者を、って言いかけたな。話が早ぇじゃねぇか」
「旗を立てたばかりの、彼に」
「奇遇だなぁ、ヴァルテン。俺もちょうど、同じ顔を思い浮かべてた」
「存じています。任命の書式は、既に整えてあります。……ただし、任の重さが変わりました。書式を、書き直します」
「……お前のそう言うとこが可愛くねぇんだ」
ヴァルテンが一礼して出て行くと、ディルアンは一人、地図の前に残った。
杯に残った酒を呷り、聖都の印を見つめて、誰にともなく呟く。
「こっちの世代の、店じまい前の大勝負だ。──付き合えよ、若いの」
◇◆◇
その書状が本陣に届いた数日後、ガディフォールの三頭獣騎士団の宿営には、公文書便に紛れて一通の私信が届いていた。
差出人の名を見て、ロズヴェータは僅かに目を見開いた。
リオリス。同期で、王家の傍流で、近衛騎士団長で──西の果てにいるはずの、友人だった。
『ロズへ
元気か。俺は元気だ。ただ、任務は果たせなかった。十字軍は、止まらなかった。俺の負けだ。
こちらの偉い連中について、一つ分かったことがある。あの人たちは、話が通じないんじゃない。通じた上で、動かないんだ。動かない方が、それぞれの帳尻に合うから。これは怖いことだ。剣で斬りかかってくる敵の方が、よほど正直だと思ったよ。
ルフィーネ殿のため息は、今日で二十三回だった。着いた頃は三回だった。あの人とナウリッツ卿は、残って敗戦処理の交渉を続けるそうだ。二人とも、負け戦の後始末が一番強い種類の人でな。心強いよ。
俺は次の便船で戻る。陛下への復命が済み次第、戦線に向かう。今度は言葉じゃなく、剣の届く場所で働く。雪解けには、そっちの空の下にいるつもりだ。
積もる話と、白いパンを少し持って帰る。お前の隊の宴に、席を一つ空けておいてくれ。
追伸 こっちでは狼は聖人の伴だそうだ。国が変われば、旗の意味も変わるんだな。お前の新しい旗を、早く見たい』
読み終えて、ロズヴェータはしばらく黙っていた。
能天気な筆致の行間から、西の宮廷の底冷えが立ち上ってくるようだった。あの空気の読めない男に「俺の負けだ」と書かせるだけの場数を、僅かな月日で踏まされたということだ。
そして、その友が今度は剣を提げて、この戦線に来る。喜ぶべきことのはずなのに、素直に喜べない。彼が運んでくる報せが、雪崩の先触れだからだ。
「……ユーグ」
「はい」
「西の熱が、冷めないまま、丸ごとこっちへ来る。うちに仕事が来るぞ。前より重いのが」
ユーグは、既に開封されていた別の書状を、無言で差し出した。本陣の印璽。任命の書式。
「──もう、来ています」
ロズヴェータは書状を受け取り、港を見た。
帆柱の林の向こうで、運賃を吊り上げた船たちが、素知らぬ顔で荷を積んでいる。あの船腹が、やがて西の熱を運んで来る。
頭上では、真新しい騎士団旗が、潮風に牙を剥いていた。
欠けた月を踏む三つ首の獣。その足元の月が満ちるより先に、雪崩が来る。
止められなかったものは、受け止めるしかない──そう思いながら、ロズヴェータは任命書の封を切った。
書き出しの一行に、目が止まった。
『遠征軍は雪解けを待たず、聖都ジュルル・サルムの奪還を企図す。よって三頭獣騎士団に、爾後の全補給線の統括を命ず──』
受け止めるのでは、ない。
雪崩が届くより先に、山の頂を獲る。総指揮官は、勝負に出たのだ。
そしてその賭けの成否は、ガディフォールから聖都へ延びる一本の細い線の上に──荷車の轍の上に、載せられていた。
剣ではなく、荷車で勝つ戦。
ロズヴェータは顔を上げ、帆柱の林の向こうに広がる、冬の色の海を見た。
「……春までに、聖都を」
口に出してみると、その途方もなさに、笑いが漏れた。
欠けた月を踏む獣の旗が、頭上で一際大きく、牙を剥いた。




