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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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154/219

【幕間】歩いてあらう

 従士のベックが初めてホルベク家の飯を食ったのは、三十年前、先代の旦那様の代のことだ。

 以来ずっと、槍持ちとして、荷役として、口うるさい古株として、ホルベクの隊の隅にいた。今の旦那が初陣で震えていたのも、嫁御を初めて家に連れてきた日に髭を剃り損ねて血だらけだったのも、娘御が生まれた朝に廏で一人泣いていたのも、全部見てきた。

 だから、判決の日のことも、見ていた。

 位階剥奪。一等を減じて従軍継続。償いは、先手の斥候勤め。

 騎士でなくなった旦那が法廷から出てきたとき、ベックは何と声をかけていいか分からず、結局いつも通りに言った。

「旦那、飯にしましょう」

 旦那は少し笑って、頷いた。

 それでいい、とベックは思った。飯を食う気のある人間は、死なない。


◇◆◇


 隊は、ガーデル殿の下で兵站の荷を運んでいる。

 正直に言えば、隊を抜けた者もいた。内通者の隊にいたと知られれば恥だと、荷物をまとめて出ていった。ベックは止めなかった。若い連中には若い連中の、これからの兵隊人生がある。

 だが、十一人が残った。

 残った理由は、聞かなくても分かる。皆、それぞれに覚えがあるのだ。

 給金の遅配が、ただの一度もなかったこと。

 沼地の行軍で熱を出した若いのを、旦那が自分の馬に乗せて、自分は三日歩き通したこと。

 兵の子供の名前を、全員分覚えていたこと。祭りのたびに、木彫りの玩具を人数分、下手くそな手つきで彫っていたこと。

 あの飲み会で、酔い潰されかけた新参の杯に、こっそり水を差して回っていたこと。

「──あの水をよ」

 荷車の縄を締めながら、槍兵のドマが言った。

「俺は飲んだんだ。だからよ、爺さん。俺は行くぜ。旦那が先手に行くなら」

「儂が決めることじゃねぇよ」

 ベックはそう答えたが、内心は決まっていた。決まっていない者は、そもそもこの荷車の周りに残っていない。


◇◆◇


 出立の三日前、隊はガーデル殿の天幕に呼ばれた。

 几帳面で知られる兵站の騎士は、帳簿から顔も上げずに、卓の上の品々を顎で示した。

 油を引き直した外套が十三着。新しい長靴。乾酪と干し肉の包み。矢束。そして、羊皮紙の筒。

「持って行け」

「……ガーデル様、これは」

「経費だ」

 ガーデル殿は、にこりともしなかった。

「斥候の凍死は補給計画の損失、斥候の餓死は徴発計画の欠陥として帳簿に載る。私はそういう数字を帳簿に載せたくない。以上が理由だ。それ以外の理由は、ない」

 それ以外の理由は、ない。

 そう言いながら、羊皮紙の筒の中身は、先手の戦域の地図の写しだった。それも、印刷や書記の走り書きではない。等高の線から水場の印、崖の記号まで、あの幾帳面な手蹟で一本一本引き写された、恐ろしく精密な写しが三部。

 夜なべ仕事だ、とベックには分かった。兵站の統括が、どれほど忙しい身か知らないわけではない。

「あの……罰金の件も、分割の手続きが通ったと聞きました。あれも、ガーデル様が」

「書式が正しかったから通っただけだ」

 その書式を書いたのは誰か、までは、ガーデル殿は言わなかった。

 代わりに、初めて帳簿から顔を上げた。

「ホルベク殿に伝えろ。──谷の夜、空の荷車に石を積んだのは私だ。あの策は、彼の写しが敵に渡っていたからこそ効いた。皮肉な話だが、私の帳簿の上では、あの男は既に貸し借りなしだ。だから」

 少しだけ、声が低くなった。

「早まった数字にだけは、なるな、と」

 ベックは、深々と頭を下げた。


◇◆◇


 出立の前日には、砂色の外套の男たちが宿営に現れた。

 砂漠人《ベーベナル》。族長のミスキンド殿が、じきじきに、である。

「先手の斥候になると聞いた」

 族長は前置きもなく、ホルベクの旦那の前に座り込むと、地面に短刀で線を引き始めた。

「いいか、一度しか言わん。冬の乾いた土での足跡の読み方。夜、星で道を保つ方法。水場の見つけ方と、見つけた水を疑う順番。──覚えろ。命の値段だ」

 旦那は懐から帳面を出し、族長の言葉を一言も逃さず書き取った。日付、順番、注意の一つずつまで、几帳面に。

 その帳面の使い方を見て、ミスキンド殿は皺の奥の目を細めた。

「……なるほどな。あんたが例の、帳簿の男か」

「お恥ずかしい話です」

「恥じるな」

 族長は短刀を仕舞い、立ち上がった。

「砂漠にはな、こう言う言葉がある。──罪は、水では洗えん。歩いた距離で洗う」

 連れてきた若い衆の中から、一人の少年を顎で示す。

「サッハをつける。砂漠の目だ。道案内と、足跡読みの続きは、こいつがやる。……塩代は、あんたの団長にツケとくさ」

 にやりと笑って、族長は砂色の外套を一枚、旦那の肩に無造作に掛けた。

「冬の先手は、風が刺す。それは、砂と同じ色だ。敵の目からも、風からも、少しはあんたを守る」

 旦那は、外套の端を握ったまま、長いこと頭を上げられずにいた。


◇◆◇


 出立の朝は、よく晴れた。

 宿営の外れ、荷を検める旦那のところへ、嫁御と娘御が来た。ガヒル村の婆様と、女衆も一緒だった。

 嫁御は何も言わず、旦那の外套の内側を指で示した。胸の裏に、小さな布が縫い付けてある。中身は聞かなくても分かる。娘御の、あの拙い大きな字の文だ。監房の旦那を生かした、あの文と同じ手の。

 娘御は新しい文を差し出して、言った。

「おとうさま。こんどのは、かえってきてから、よんで」

「……ああ。約束する」

 旦那は片膝をついて、娘御を一度だけ強く抱いた。婆様が娘御の肩に手を置いて、旦那に向かって、ぶっきらぼうに言った。

「行きな。畑と留守は、婆たちの領分だ」

 そして旦那が馬に向き直ったとき──そこに、儂らが並んでいた。

 十一人。全員、旅装。全員、荷物持ち。ドマなど、旦那の槍まで勝手に担いでいる。

 旦那の顔色が、変わった。

「……何のつもりだ。判決は、俺一人の」

「へい。判決文は読み上げを二度聞きやした」

 ベックは一歩前に出て、懐から書付の写しを出した。

「『ホルベクは償いを先手の斥候勤めをもって充てる』──そう書いてありやす。旦那が斥候をやれ、と。ですがね、旦那」

 三十年仕えて、初めて旦那に胸を張った。

「従士と兵が随行しちゃならねぇとは、どこにも書いてありやせん」

 旦那が、絶句した。

 規則は、書いてある通りにしか縛れない。どこかの団長様の受け売りだが、悪くない理屈だと、ベックは思っている。

「駄目だ。先手は死ぬぞ。お前たちまで巻き込む謂れは」

「巻き込む? 冗談を」

 ベックは笑った。

「儂は先代から数えて三十年、ホルベク家の槍持ちだ。位階ってのは、御上が旦那に貸してた飾りでさ。剥がされたのは飾りだけだ。──儂の旦那は、剥がされてやせん。軍法にだって、そこまでは剥がせやせんよ」

「爺さんの言う通りで」

「行きますぜ、旦那」

「荷はもう積んじまったんで」

 口々に言う男たちの後ろから、几帳面な足音が近づいてきた。ガーデル殿だった。手にした帳簿を開き、事務的に読み上げる。

「本日付、先手斥候隊への転属手続き。ホルベク以下、十三名」

「じゅう……?」

「従士十一名、案内人一名。書式は昨夜のうちに受理済みだ。──兵站の帳簿は、もう書き換えてある。今更覆すと、私の帳簿に消し跡が残る」

 ガーデル殿は帳簿を閉じ、初めて、ほんの僅かに口の端を動かした。

「私は、帳簿に消し跡を残さない主義だ」

 旦那は、儂ら十一人と、砂色の外套のサッハと、ガーデル殿の帳簿とを、順に見た。

 それから、天を仰いだ。

 肩が震えていたのが、笑っていたのか泣いていたのかは、詮索しないのが従士の礼儀と言うものだ。

「……勝手にしろ」

 嗄れた声でそれだけ言って、旦那は馬に跨がった。三十年で一番、頼りになる号令だった。


◇◆◇


 一行が門を出るとき、ベックはふと、遠くの丘に目をやった。

 補給計画の書類を抱えた騎士団長様が、書類から顔も上げずに、こちらに背を向けて立っていた。

 見送りには来ない。来れば旦那が頭を下げるのに朝を潰すからだろう、とベックは見当をつけた。ただ、その傍らの美貌の副官殿が、一度だけ、こちらに向かって深く頷いたのは見えた。

 それで十分だった。

 冬の朝の道を、砂色の外套の一団が北へ歩き出す。

 先頭を行く旦那の胸の裏には娘御の文が縫い込まれ、鞍袋には精密な地図の写しが三部、隊列の中には三十年物の口うるさい従士と、水で救われた若い槍兵と、砂漠の目をした少年がいる。

 罪人の列にしちゃあ、上等な門出だと、ベックは思う。

 罪は、水では洗えない。歩いた距離で洗う。

 なら、洗い甲斐のある長い道のりだ。なにせ聞くところによれば、この軍は春までに、聖都まで歩くつもりらしいのだから。

 振り返れば、小さくなった宿営の柵の前で、娘御がいつまでも手を振っていた。


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