毒蜘蛛の賭け
朝の宿営地は、音で目を覚ます。
薪の爆ぜる音。大釜の湯が立てる低い唸り。研ぎ石の上を往復する刃の、規則正しい擦過音。点呼を終えた兵たちが革帯を締め直すたび、金具がかちゃかちゃと軽い音を立てた。
ガヒル村の老婆が現れたのは、その喧噪が一段落した直後だった。
最初に気付いたのは門衛だった。街道の先、朝靄のまだ薄く残る中から、車輪の軋みがゆっくりと近づいてきた。油の切れた木の車軸が立てる、悲鳴のような音だった。
杖をつき、背中に大きな包みを負った老婆。後ろには女子供と年寄りが二十人ばかり。継ぎの当たった外套、擦り切れた靴、抱えられるだけの鍋と農具。荷車が三台、痩せた驢馬が一頭。それが、村の全部だった。
槍を構えた衛兵に囲まれても、老婆の目に怯えはない。あの日と同じ、疲れ果てたような静かな意地だけがあった。
「旗頭に会わせろ。決めた、と言えば分かる」
報せを受けたロズヴェータが柵まで出ると、老婆は杖の先を地面に突き立てて、開口一番こう言った。
「早めに決めておけと言われたんでね」
「……確かに、言った」
「村ごと、あんたの世話になる」
後ろでユーグが小さく息を呑むのが分かった。ロズヴェータは表情を変えずに老婆を見下ろす。
朝の風が吹き抜けて、一団の襤褸の裾を揺らした。子供が一人、寒さにくしゃみをして、母親の腰に顔を埋めた。
「働けない者ばかりだと、以前は言っていたが」
「動けない者と、動かない者だと言ったんだ」
老婆は杖を持ち上げ、後ろの一団を示した。
「動かない者が、動くと決めただけだ。麦は挽ける。繕い物もできる。子供は水汲みぐらいはする。──タダ飯を食う気はない」
「……理由を聞いても?」
老婆はしばらく黙った。靄の晴れかけた街道を、来た方角を、一度だけ振り返った。それから、声を一段落とした。
「夜、祠に近づく者がいる」
ロズヴェータの背筋を、冷たいものが走った。
「三日前の夜だ。眠れない婆の目は、犬より利く。男が三人、祠の石積みをいじって、山の方へ消えた。足音がしなかった。──足音のしない男なんぞ、ろくなもんじゃない」
老婆は真っ直ぐにロズヴェータを見上げた。皺に埋もれた目の奥に、鉱石のような硬い光があった。
「あれは、うちの村の厄介ごとじゃない。もっと大きな何かの、通り道にされてる。あんたは、脅威の有無を確認すると言っていたね。確認しな。うちの村は、脅威になる前に村を捨てる。それが村の総意だ」
ミスキンドの網と、眠れない老婆の目。二つの別々の目が、同じものを見ていた。
「……ガーデル」
「はい」
「受け入れの帳簿を作れ。以前、孤児達を雇ったことがある。その時と同じ相場で。アウローラに諮っておけ」
几帳面な騎士が頷いて下がる。老婆の後ろで、見覚えのある子供が母親の腰にしがみついてこちらを見ていた。あの日、木柵の陰から覗いていた目だ。好奇の色は、まだ消えていなかった。
ロズヴェータは老婆に視線を戻した。
「一つ、頼みがある」
「世話になる身だ。言ってみな」
「村を出たことは、当分の間、誰にも話すな。祠のことは──特にだ」
老婆の皺の奥の目が、僅かに細くなった。したたかな婆だ。それだけで、大方を察したらしい。
「……あんた、悪い顔になったね」
「誉め言葉と受け取っておこう」
老婆は鼻を鳴らし、杖を突き直して歩き出した。軋む荷車の列が、ゆっくりと門をくぐっていく。炊事場の方から麦粥の匂いが流れてきて、子供たちの列が、そちらへ吸い寄せられるように乱れた。
◆◇◆
村が空になる。
それが何を意味するか、ロズヴェータはユーグと地図を挟んで詰めていた。
夜の指揮所は静かだった。燭台の蝋が焦げる微かな音と、天幕の布が夜風にはためく音ばかりが耳につく。地図の上には、ガヒル村を示す小さな印と、あの銀貨が一枚置かれていた。
「祠が受け渡しの場所なら、置いた者がいて、取りに来る者がいます。村が無人になれば──」
「取りに来る者は、いつも通りに来る。そして、いつも通りでないことに気付く」
人の気配が消えた村は、間者にとって使えない場所だ。連中は場所を移す。移る瞬間が、一番尻尾を出す。
ディルアンの返書が、机の端に置いてある。三行だけの短い文面。網は好きに張れ、と総指揮官は書いてきた。
ならば、張る。
「ミスキンドの網はそのままだ。祠に触るな。ただし──取りに来た者が『帰る道』に、ルルとヴィヴィ、ガッチェを置く」
「捕らえますか」
「山に入る前にだ。声も出させるな」
見るだけの段階は終わった。村人と言う人質になりかねない者たちは、もう村にいない。
三日後の夜明け前、ルルは音もなく戻ってきた。
夜露に濡れた革鎧が、燭台の火で鈍く光っていた。ルル達三頭獣の精鋭分隊は金物を布で巻いて出ていたから、剣呑な仕事帰りだと言うのに、装具は擦れ音ひとつ立てなかった。
縄をかけられた男がひとり、猿轡を噛まされて担がれてきた。土の匂いと、長旅の汗の匂いがした。見た目は旅装の行商人にしか見えない男だったが荷の底板を短刀で剥がすと、乾いた木の裂ける音とともに、油紙の包みが出てきた。
銀貨の束と、小さく折り畳まれた紙片。
油紙を開くと、銀貨同士が触れ合って、ちりちりと硬く鳴った。天幕の静けさの中で、その音は嫌に大きく聞こえた。
「……暗号か」
「帝国の軍用文字ですらない」
ルルが紙片を検めて言った。夜気で冷えた指先を火で炙りながら、目だけは紙面から離さない。
「数字の羅列だ。換字表がなければ読めん」
銀貨は例の造幣紋。束は三つに小分けされ、それぞれ量が違う。
「三か所分の、支払いだな」
ロズヴェータは呟いた。ガヒルの祠は、受け渡し場所の一つに過ぎない。この道の先に、少なくともあと二つ、同じような祠がある。
男の尋問はヴィヴィが受け持った。男は口が固かったが、素性の見当はついた。掌の胼胝は手綱と荷紐のもの。靴は帝国式の軍靴を潰して古く見せたもので、踵の減り方が行軍の歩幅を覚えていた。正規の教育を受けた連絡役だ。
「本陣に送りますか」
「送る。ただし報告書には、捕らえた場所をぼかして書く」
ユーグが眉を上げた。
「網が生きていることを、本陣への書類に残したくない」
護衛数は、内側から漏れた。どの筋かは、まだ分からない。ガーデルの三通りの予定表は、まだ答えを返してきていない。
それまでは、本陣すら信じきれない。
「……総指揮官にもですか」
「書類を盗み読む奴が、どこにいるか分からない」
燭台の火が揺れた。天幕の外を、見回りの足音が規則正しく通り過ぎていった。
◆◇◆
リリーが現れたのは、その翌日の夕暮れだった。
前触れも、使いもない。夕餉の炊煙が低くたなびき、日没を告げる角笛が鳴り終わった頃──気付けば宿営地の門の外に、蜘蛛の徽章の一団が立っていた。
十騎。馬の脚に泥はねが少ない。急いで来たのではなく、ゆっくりと、見られることを承知で来たと言うことだ。
「よぉ、銀の獅子殿」
夕陽を背にした赤い髪が、燃えるように揺れる。口の端を吊り上げた笑みは、あの日のままだった。腰の剣は飾り気のない実戦の拵えで、鞘の革は使い込まれて黒ずんでいる。
「近くを通ったんでね。賭けの様子を見に来てやったのさ」
「期限まで、まだ二十日ある」
「せっかちなもんでね」
リリーは門の内には入らず、その場で首だけを傾げた。背後の手下たちは馬を降りもせず、鞍の上で好き勝手に体を崩している。それでいて、全員の手が得物から遠くない位置にあることを、ロズヴェータは見て取った。
「──で? ガヒルの村は、息災かい」
来たな、とロズヴェータは思った。
「村は空だ」
「……ほう?」
「村人は自分の意思で村を捨てた。今はうちの炊事場で麦を挽いている」
リリーの笑みが、一瞬だけ止まった。
蛇のような目が、ロズヴェータの表情を探る。値踏みでも威嚇でもない、本気の計算の目だった。
村が空なら、証拠を仕込んでも見つける者がいない。騒ぐ村人も、疑われる村人も、もういない。賭けの盤そのものが、消えたのだ。
やがてリリーは、ひひひ、と喉を鳴らした。短く、それから長く。仕舞いには鞍を叩いて、本当におかしそうに肩を揺らして笑った。驚いた馬が首を振り、轡の留め具がしゃらしゃらと鳴った。
「──盤ごと退げるとはねぇ」
「賭けは流れだ。異存は?」
「ないさ」
リリーは笑いの余韻を残したまま、目だけを細めた。
「なぁ、銀の獅子さんよ。あたしがなんであの村に賭けたか、考えたかい」
「考えた」
「聞かせな」
「お前は、あの道が使われていることを知っていた」
夕暮れの風が、二人の間を抜けた。蜘蛛の徽章を染め抜いた紋章旗が、風にぱたりと音を立てた。
「お前の騎士団には、どうやってかは知らないが、以前から銭の流れる道に伝手があった。帝国の銭があの街道筋を流れていることに、お前は俺より先に気付いていた。──だが、それを報告書に書けば、出所を聞かれる。お前の庭を、軍に見せることになる」
「……くくっ」
「だから賭けに包んで、俺に投げた。掘るなら俺に掘らせて、当たれば言った通りだろうと笑う。外れても、失うものはない」
リリーはもう笑っていなかった。
「六割ってとこだね」
「残りの四割は」
「教えると思うかい?」
リリーは手綱を返した。手下たちが、申し合わせたわけでもないのに一斉に馬首を揃える。存外あっさりとした引き際だった。数歩行って、肩越しに振り返る。
「一つだけ、タダでくれてやるよ。餞別だ」
夕闇の中で、蛇の目が光った。
「バルマーの坊やが、剣を買い集めてる。弔い合戦の二度目は、五十じゃきかないぜ。──精々、気張りな」
十騎の蹄の音が、夕闇に呑まれて遠ざかっていく。最後まで、誰一人振り返らなかった。
その音が完全に消えてから、ユーグが低く口を開いた。
「……あの女、どこまで」
「分からん。だが一つだけ確かなことがある」
ロズヴェータは門の内に踵を返した。炊事場の方から、麦粥の匂いに混じって、村の女たちの話し声が聞こえてくる。昨日までは無かった音だ。
「あれは、俺たちが潰れるより、化けた方が面白いと思っている。当面は静観だろう」
四腕の毒蜘蛛の介入はない。それだけで敵は随分絞り込める。
◆◇◆
ガーデルの答えが返ってきたのは、それから四日後。
夜半。宿営地は寝静まり、篝火の爆ぜる音と、杭に繋がれた馬が時折鼻を鳴らす音だけがしていた。
その静寂を、蹄の音が破った。
一騎。全力で駆けている。当番制でついている門衛の誰何の声、それに応じる叫び、跳ね上げられる遮断の横木。ロズヴェータが天幕の帳を上げた時には、泥に塗れた伝令が転がるように鞍から降りていた。
「第五中継地点の西、糧秣の集積予定地に敵影! 歩兵、推定三百!」
伝令の声は嗄れ、乗ってきた馬は口から泡を垂らして脇腹を波打たせていた。
ユーグが弾かれたように地図に向かう。ロズヴェータは、動かなかった。
第五中継地点の西の集積予定地。
そんなものは、存在しない。
それは、ガーデルが作った三通りの予定表のうち、偽物の一つにしか書かれていない場所だった。
「ガーデル! どの筋だ」
呼ばれる前から、几帳面な騎士は帳簿を抱えて天幕に入ってきていた。寝ていなかったのだろう、外套の下は昼の服のままだった。顔は青ざめていたが、声は乱れていなかった。
「乙の予定表です。渡した先は──」
ガーデルは一度言葉を切り、帳簿の一点を指で押さえた。
ロズヴェータはその先を覗き込み──しばらく、動けなかった。
燭台の火が、ぱちりと爆ぜた。
「……ロズヴェータ様?」
ユーグの声を遠くに聞きながら、ロズヴェータは帳簿から顔を上げた。
網は答えを返してきた。想定していたどの筋よりも、悪い答えを。
「──全分隊長を起こせ。それと、紅剣に早馬だ」
言い終えるより早く、ユーグが天幕を飛び出していく。ほどなく、宿営地のあちこちで角笛が短く鳴り、眠っていた千の兵が身を起こす気配が、地鳴りのように広がり始めた。
武具の触れ合う音。分隊長たちの怒鳴り声。駆け出す早馬の蹄。
その全てを背に聞きながら、ロズヴェータは地図の上の銀貨を見下ろした。
三百の敵は、存在しない糧秣を襲いに来る。
空振りと知った敵が次に何をするか、決まっている。手ぶらでは帰れない連中は、実在する何かを襲う。
欠けた月が、満ち始めていた。




