二つの赤
夜半の宿営地は、まだ鳴り止んでいなかった。
角笛の残響。武具を検める金属音。天幕の間を駆け抜ける伝令の足音。千の兵が眠りから叩き起こされた気配が、地虫の羽音のように低く続いている。
その喧噪の中心で、指揮所の天幕だけが静かだった。
帳簿の上で、ガーデルの指が押さえていたのは、旗下騎士隊の名前だった。
ホルベクの隊。
騎士ホルベク。四十絡みの実直な男で、あの飲み会では下戸のくせに最後まで座に残り、若い騎士たちの杯に水を差して回っていた。攻守に均整の取れた、堅実な隊。だからこそロズヴェータが自分で選んで、旗下に入れた。
乙の予定表を渡した三つの筋のうち、他の二つはディルアンのいる本陣と、他の旗下騎士隊だ。本陣付きの文官達に渡った写しは封蝋が無傷のまま保管されていることを、ネリネが往復のついでに確認している。
消去法は、残酷なほど簡単だった。
「……俺が、選んだ隊だ」
誰に言うでもなく、ロズヴェータは呟いた。
気前の良い旗頭。話せる旗頭。酒を振る舞い、顔と名前を覚え、これはと思う者を旗の下に集めた。その旗の下から、情報が漏れていた。
燭台の火が、インクの染みた帳簿の上で揺れていた。ユーグが静かに口を開いた。
「今すぐ捕らえますか」
「いや」
ロズヴェータは首を振った。腹の底で何かが煮えている。だがそれを面に出すことは、もうしないと決めていた。
「敵は三百で、存在しない集積地に向かっている。空振りを知った連中が次に襲うのは、実在する目標だ。──ホルベクはまだ、こちらが気付いたことを知らない」
ユーグの目が、見開かれた。
「破れた網は、繕うだけじゃない」
ロズヴェータは地図に向き直った。天幕の外では、最初の分隊が既に整列を終えたらしい。ヴィヴィの点呼の声が、夜気を裂いて響いていた。
「破れ目と知って使えば、罠になる」
◆◇◆
紅剣は、早馬から一日半で来た。
噂に違わぬ速さだった。最初に届いたのは地響きで、次が土埃、最後に真紅の隊旗だった。宿営地に乗り入れた馬はどれも脇腹を汗で光らせ、口輪に泡を噛んでいた。一日半でこの距離なら、途中でろくに休んでいない。
先頭の赤毛が、馬から飛び降りるなり大股で歩いてくる。
「話は聞いた! ドマス・バルマー、三百!」
「エリシュ、まず息を──」
「で、あんたの策は?」
息を整える気は欠片もないらしい。ロズヴェータは諦めて、地図の前に彼女を引き入れた。
敵三百は空の集積地を暴いた後、南下している。実在する目標のうち、連中の位置から最も近く、最も柔らかいのは第四中継地点の糧秣庫だ。だが、そこは既に中身を移してある。
「もう一度、偽の餌を食わせる」
ロズヴェータは地図の一点を指した。第四中継地点の南、街道が川と丘に挟まれて細くなる場所。
「ホルベクの隊に、明日の夜第四の糧秣を川沿いに退避させると言う予定を渡す。護衛は手薄、荷は満載、と」
「その退避の列を、ドマスが襲う」
「襲わせる。荷車の中身は空だ。御者は志願の古参だけにする。──谷の口をお前が塞ぎ、丘の上から俺の本隊が蓋をする」
エリシュは地図を睨んだまま、しばらく黙っていた。やがて、にっと笑った。猛獣の笑いだった。
「あんた、性格悪くなったね」
「よく言われるようになった」
「褒めてんのよ」
エリシュは地図の谷を指でなぞり、それから急に真顔になった。
「一つだけ確認。ドマスの首は、どっちのもの?」
「生かして獲りたい。あいつの後ろにいる者の名を吐かせる」
「……あたしが潰したバウムクロネの、義弟なんでしょ。あたしを恨んで集めた三百だ。なら、あたしが正面で受けるのが筋ってもんよ」
仇と名指しされた本人が、囮の正面に立つと言う。止めても聞かないことは、顔を見れば分かった。
「深追いはするな。谷の中でだけ暴れろ」
「はいはい」
「エリシュ」
「分かってるって!」
彼女は片手をひらひら振って、それから思い出したように足を止め、振り返った。
「……あと、その。終わったら、話がある」
「奇遇だな。俺もだ」
エリシュの顔が、夕陽でもないのに赤くなった。彼女は何か言いかけ、結局「じゃ!」とだけ言って走って行った。
入れ替わりに、紅剣の副官がにやにやしながら会釈していく。
「姫さんを顎でお使いとは、いい度胸。──ま、うちの姫さんはあの程度じゃ死なないけどね」
◆◇◆
その夜、月は雲に隠れていた。
空の荷車の列が、谷道をゆっくりと進んでいく。積み荷の代わりに石を括った車体が、轍を踏むたびに重たげに軋んだ。中身が空だと、音で悟られるわけにはいかない。細工を考えたのはガーデルだった。帳簿に嘘を書いた男は、荷車にも嘘を積む術を覚えているらしい。
御者台の古参兵たちは、外套の下に鎖帷子を着込み、御者鞭の横に抜き身を寝かせていた。
ロズヴェータは丘の上で機を伺う。
眼下の谷は暗い。風が丘の草を撫でる音と、遠ざかる車軸の軋みだけが夜に浮いている。左右の斜面には本隊の兵が伏せていた。囁き声一つない。誰かが唾を飲む音すら、聞こえそうな静けさだった。
──来た。
最初の合図は、音だった。谷の奥で夜鳥が続けざまに飛び立ち、それから、大勢の足が枯れ草を踏む微かなざわめきが、風に乗って届いた。
喊声が谷を割ったのは、その直後だった。
三百の歩兵が斜面の陰から雪崩れ込み、松明が次々と火を上げ、谷底が一気に赤く染まった。荷車の列に殺到する影、影、影。荷を奪うつもりの兵の足は速い。
そして、速い足は止まらない。
「──射て」
ロズヴェータの声は、大きくなかった。だが弦音は三百を数えた。矢羽が空気を裂く音が頭上を過ぎ、谷底で悲鳴が弾けた。火矢が一本、空の荷車の幌に突き立ち、乾いた布が音を立てて燃え上がる。炎に照らされて、敵の隊列が丸見えになった。
谷の出口で、紅剣が待っていた。
赤い髪が、松明の海の中を割って進むのが見える。エリシュの剣は、乱戦の中でも見紛いようがなかった。刃鳴りが一度響くごとに敵の勢いが折れ、彼女を中心に、ぽっかりと円が広がっていく。
剣を抜いて駆け下りたい衝動は、もうロズヴェータを縛らなかった。あれはあれの仕事、これはこれの仕事だ。
「ルル隊、東斜面を下げろ。逃げ道を一つだけ開けてやれ」
伝令が斜面を滑るように駆け下りていく。開けた一本道に敵が殺到し、そこをバリュードの遊撃分隊が横から食い破った。盾と盾のぶつかる鈍い音、折れた槍の乾いた音、ヴィヴィの咆哮が谷に反響して、敵の中央が割れた。
三百は、一刻保たなかった。
ドマス・バルマーは、谷の出口でエリシュに向かって突っ込んだところを、ルルの分隊に足を払われ、生きたまま縄をかけられた。仇の顔を目の前にして届かなかった男は、泥の中で獣のように吠え続けた。
その声が嗄れた頃、東の空が白み始めた。
夜明けの谷には、焦げた幌の匂いと、血と泥の匂いが低く澱んでいた。兵たちが無言で矢を回収して回る。折れた得物を集める荷車の音だけが、戦の終わりを告げていた。
◆◇◆
捕虜の列を検分していたロズヴェータの元へ、その女は悪びれもせずやって来た。
「派手にやったねぇ、銀の獅子」
毒蜘蛛のリリー。手下を十騎ばかり連れて、戦場の残り香を嗅ぎに来た蠅──と言うには、身なりが良すぎる蠅だった。朝日を受けた蜘蛛の徽章が、外套の胸で鈍く光っている。
「早耳だな」
「商売柄ね。──で、約束通り、役得はうちがもらってやろうと思ってさ。傭兵の捕虜は身代金にもならないだろう? うちなら引き取り先に伝手がある」
そのとき、検分の列の向こうから、赤い髪が大股で歩いてきた。
エリシュだった。返り血を拭いもせず、革籠手には乾いた血が黒くこびりついたまま、リリーの十騎を一瞥し、それからリリーの前に立った。
赤と、赤。
燃える火のような赤毛と、乾いた血のような赤毛が、朝の光の中で向かい合った。
「……あんたが毒蜘蛛?」
「おや。あんたが狂犬かい」
双方、笑っていた。そして双方、目は欠片も笑っていなかった。周囲の兵たちが、気付けば二人から距離を取っていた。捕虜の列すら静まり返っている。
「うちの隊の獲物に、蠅がたかってるって聞いたけど」
「おお怖い。姫さんは口が悪いねぇ。あたしはただ、戦の後始末って商売の話を──」
「ロズ」
エリシュはリリーから目を離さないまま言った。
「こいつと商売すんの?」
ロズヴェータは二人の間に一歩だけ踏み出した。
「捕虜は全員、本陣に送る。帝国の銭で雇われた傭兵は、それ自体が証拠だ。──商売の話はない」
「……欲のないことで」
リリーは肩をすくめた。存外あっさりと馬首を返し、去り際、いつものように肩越しに振り返る。
「なぁ銀の獅子。そっちの赤いのに言っときな。──牙は、見せてるうちは安いんだぜ」
「あんたのその舌、いつか根本から抜いてやる」
「ひひっ。楽しみにしてるよ」
蹄の音が遠ざかってから、エリシュは大きく息を吐いた。張り詰めていた肩が、ようやく下りた。
「……なにあれ。背中が痒くなる女」
「同感だ」
「あんた、あんなのと賭けだの何だのやってたわけ? 趣味悪すぎ」
返す言葉もなかった。
◆◇◆
ホルベクは、自分から天幕に来た。
戦が終わった翌日の朝、従者も付けず、剣を鞘ごと外して両手に捧げ持って。
差し出された剣は、柄糸が汗で黒ずむまで使い込まれていた。実直な男の、実直な得物だった。
「……気付いておられたのですな」
「乙の予定表は、お前の隊にしか渡していない」
ホルベクは目を閉じた。それから、絞り出すように話した。
妻と娘が、バルマー領の妻の実家にいたこと。ドマスの手の者に囲われ、文が届いたこと。予定表の写しを寄こせば手は出さない、と。最初の一枚を渡した夜から、眠れた夜はないこと。
「申し開きはしません。ただ──妻子には」
「バルマーの館は昨夜のうちに紅剣が押さえた。人質は全員無事だ。今こちらに向かっている」
ホルベクの顔が、くしゃりと歪んだ。実直な四十男が声もなく泣くのを、ロズヴェータは黙って待った。天幕の外を、朝の炊事の煙が流れていく。麦粥の匂いに、村の女たちの話し声が混じっていた。
「……罰を」
「俺に裁く権はない。本陣に送る。ただし──報告書は、お前が自分で書け」
ロズヴェータは静かに言った。
「脅されたこと、渡したもの、日付、全部だ。隠さず書いたものを、俺の報告書に添える。俺は『網の破れは、破れた本人が繕いに来た』と書き添える。それで足りない分は、裁きで払え」
「なぜ、そこまで」
「お前を選んだのは俺だ。俺の目が節穴だったのなら、そう書かれるだけのことだ」
ホルベクは長いこと頭を下げていた。剣は、返した。裁きが済むまで、彼の隊はガーデルの下で兵站を運ぶ。
天幕を出ると、朝の光の中にエリシュが立っていた。聞いていたのだろう、腕を組んで、少し複雑な顔をしていた。
「甘い、って言うと思った?」
「言わないのか」
「昔のあたしなら言った」
エリシュは空を見上げた。
「けど、こないだ潰したバウムクロネにも、ああいうのが何人もいたのかもって、あんたの旗下を見てるとたまに思う。……嫌なもんね、考えるって」
「ああ。嫌なもんだ」
「あんたのせいだからね」
それから二人は、どちらからともなく歩き出した。宿営地の外れ、朝靄の残る丘の上まで、言葉はなかった。草を踏む二人分の足音と、遠くで馬が草を食む音だけが続いた。
「──で。話って?」
先に切り出したのはエリシュだった。腕を組んだまま、視線はあさっての方を向いている。
「あの時の続きだ」
「……う」
「騎士団の話は、この件の始末を見てからだと、ディルアン様に言われている。始末は付いた。近いうちに、話が動く」
「う、うん」
「だから、続きを言う。──俺が騎士団を立てる時、お前には俺の隣で、同じ旗を見ていて欲しい。旗下としてじゃない。紅剣は紅剣のまま、対等に並ぶ旗として。……それと」
ロズヴェータは一度言葉を切った。谷で三百を正面から受け止めた女が、今は耳まで赤くして固まっている。
「それと、の先は、旗とは関係のない話だ。聞くか」
エリシュは、口をぱくぱくさせた。両手が意味もなく宙を掻いた。それから──今度は、逃げなかった。
「……き、聞くだけなら」
朝靄の向こうで、紅剣と三頭獣の兵たちが息を殺して聞き耳を立てていることに、二人はまだ気付いていない。
◆◇◆
三日後、本陣からの使者が届けた書状は、今度も短かった。
『始末、見届けた。ホルベクの件の裁きは軽くなるよう口を利いてやる。あれはお前の言う通り、繕える破れだ。
ドマスの口から出た「参謀」の名、こちらでも裏が取れた。話が大きくなった。
──本陣へ来い。騎士団の話をする』
ロズヴェータは書状を畳み、天幕の外に出た。
夜風が、宿営地の旗を鳴らしていた。三つ首の獣を染め抜いた旗が、篝火の明かりの中ではためいている。その音に、遠くの天幕から漏れる兵たちの笑い声が重なった。
夜空には、満ちた月がかかっていた。
欠けた月は、満ちた。帝国の工作は輪郭を現し、旗頭の仕事は終わりに近づき、そして約束は──二つとも、果たす時が来る。
「ユーグ。出立の支度だ」
「はい。……ロズヴェータ様、良い顔をしておいでです」
「そうか」
ロズヴェータは月を見上げたまま、短く答えた。
「悪くない、とだけ言っておく」




