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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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146/219

欠けた月の地図

 天幕の隙間から見上げた夜空に、欠けた月がかかっていた。

 満ちる途中なのか、欠けていく途中なのか。ひと目では分からないところが、どうにも今の状況に似ているとロズヴェータは思う。

 机の上には、書きかけの報告書。

 その横に、二つの品が並んでいる。

 一つは、バルマー家の傭兵から押収した銀貨。刻まれているのは欠けた月──三日月帝国《エルフィナス》の造幣紋《しるし》。

 もう一つは、第三集落の間者が腰布の下に隠していた、行軍経路の地図の写し。

「……ロズヴェータ様、報告書は明日になさっては」

 ユーグが呆れ半分の声で言った。労いのつもりで運ばせた白湯は、とうに冷めている。

「もう少しだ」

 答えながら、ロズヴェータの目は報告書ではなく地図の上にあった。

 帝国の軍用文字で書き込まれた注記。行軍経路。推定の補給地点。そして日付。

 最初に見たときから、何かが引っかかっていた。骨に刺さった小骨のように、飲み込もうとするたびに喉の奥で疼く。

 補給地点。

 日付。

「……ユーグ。ガーデルの補給計画の控えはあるか」

「は? いいえ、ここには。取って参りますか?」

「頼む」

 ただならぬ気配を察したのか、ユーグは問いを重ねずに天幕を出た。

 待つ間、ロズヴェータは銀貨を一枚つまみ上げ、燭台の火にかざした。

 欠けた月が、鈍く光る。

 バルマー家の傭兵の給金。質の良すぎる傭兵。帝国が銭を出している──あの夜ユーグはそう言い、ロズヴェータもそう結論した。豪族《ユンカー》の根に、帝国が水をやり始めているのだと。既にここは開戦前は帝国の勢力圏だ。

 ジュルル・サルムが陥落してから僅か二年ほど。人心は移ろいやすい。

 だが、あれからずっと、答えの出ない問いが残っていた。

 水をやるなら、どこに撒くかを決める者がいる。

 銭を配るなら、どこを襲わせるかを決める者がいる。

 その誰かは、こちらの補給線を知っていなければならない。

 天幕の帳が跳ね上げられ、ユーグが戻った。羊皮紙の束を机に広げる。ガーデルの几帳面な字で書かれた、補給計画の控えだった。

 ロズヴェータは地図の写しを引き寄せ、二枚を並べた。

「ルルを呼べ。起きていたらでいい」

「叩き起こします」

 にっこりと笑うユーグは既に、ロズヴェータの視線の先を追っていた。美貌の副官の顔から、呆れの色が消え、女を狂わす笑みを浮かべてはいるが、目が笑っていない。

 ルルは起きていた。夜着のまま天幕に入り、状況を問いもせず地図の前に立つ。

「隊長、夜伽なら副官に呼びに行かせるのはマナー違反だぞ」

 あくびをしながら入って来るルルに、ロズヴェータは、笑いもせずに地図を見せる。

「これを」

 ロズヴェータは地図の一点を指した。帝国の軍用文字が小さく書き込まれた、川沿いの地点。

「読んでくれ。前に読んでもらった時は、経路と補給地点としか聞いていない」

 訝し気に眉を顰めたまま、ルルは返事をする。どうやら真面目な話らしいと表情を改める。

「諾」

 ルルは身を屈め、注記に目を走らせた。エルフィナス出身の元傭兵は、すぐに顔を上げた。

「『第三の水場。護衛は二十。月の七日』」

 ロズヴェータは、ガーデルの控えに目を落とす。

 第三中継地点。徴発部隊の護衛、ガッチェの分隊、二十名。

 バルマー家のドマスが仕掛けてきたのは──月の七日だった。

 天幕の中が、静かになった。

 燭台の火が、ぱちりと爆ぜた。

「……偶然、と言う線は」

 ユーグの声は、自分でも信じていない者の声だった。

「護衛の数まで当てる偶然があるか」

 ロズヴェータは銀貨を地図の上に置いた。欠けた月の紋が、帝国の軍用文字の注記の横に並ぶ。

 同じ手だ。

 バルマー家に銭を配った手と、この地図を書いた手は、同じところから伸びている。豪族どもの弔い合戦も、集落に潜んだ間者も、別々の火種ではない。一つの火が、二つの顔をしているだけだ。

 そして、その火はこちらの内側を見ている。護衛の人数は、外から数えられるものではない。

「ルル。この字を書いた人間について、分かることは」

「軍の書記の教育を受けている。字画に崩れがない。野の間者が独学で覚える字ではない」

 ルルはそこで言葉を切り、少しの間を置いて付け加えた。

「……ハリールとともにいた頃、似た字の命令書を何度か運んだ。書いたのは正規軍の参謀職だ」

「──正規軍」

 ユーグが低く繰り返した。

 豪族の小競り合いでも、はぐれ間者の小遣い稼ぎでもない。三日月帝国の正規軍が、参謀職の手で、この補給線を図面に引いている。

 ロズヴェータは椅子の背に体を預け、天井を仰いだ。

 リリーの賭けが、急に小さく見えた。いや──小さくはない。むしろ逆だ。

 ひと月のうちにガヒル村から『証拠』が出るかどうか。あの女はそう言った。だが本物の帝国工作がこの規模で動いているなら、リリーが植えるまでもなく、『証拠』の方から湧いて出かねない。

 その時、「脅威なし」と書いた報告書だけが残る。

「……ロズヴェータ様。報告書は」

「書く。事実をそのまま」

 ロズヴェータは体を起こし、書きかけの報告書を引き寄せた。

「ただし、添付が増える。銀貨の件、地図の件、日付と護衛数の一致。全部だ。明日の朝一番でミスキンドとガーデルを呼べ。それからネリネに伝令の支度を」

「ディルアン様に、ですか」

「ああ。これはもう、旗頭が抱えていい話じゃない」

 ユーグは頷き、それから僅かに口元を緩めた。

「……以前のロズヴェータ様なら、まず自分で調べに行くと仰ったでしょうね」

「行きたいのは山々だ」

 ロズヴェータは苦笑して、冷めた白湯を一息に飲んだ。

「だが俺が動くと指揮所が空く。それに──」

 机の上の銀貨に、視線を落とす。

 欠けた月は、これから満ちていく途中なのだ。そんな確信めいた予感があった。帝国の工作は始まったばかりで、この銀貨と地図は、その最初の二枚に過ぎない。

「──焦って月を追うより、満ちる先で待ち構える」

 ルルが、ほんの僅かに目を細めた。この寡黙なエルフの、それは笑みだった。良い旗頭だ。言葉に出さないがルルはそう考えていた。

「じゃ、私は寝るぞ」

 ルルは夜着のまま天幕を出て行った。

 ロズヴェータは筆を取り、報告書の続きに向かった。

 天幕の外では、欠けた月が中天に昇っている。

 その光の届かぬどこかで、ガヒル村は今夜も眠っているはずだった。


◆◇◆


 翌朝、指揮所の天幕に呼ばれた二人は、およそ似ても似つかない組み合わせだった。

 一人は、砂漠人《ベーベナル》の族長ミスキンド。日に灼けた顔に刻まれた皺は年齢のためか風のためか分からず、纏った外套は砂の色をしている。もう一人は、後方兵站を任せている騎士ガーデル。夜明けと共に帳簿を検めてきたのだろう、指先にインクの染みがあった。

「朝から済まない」

「構わん。砂漠の朝は早い」

 ミスキンドは短く応じ、勧められる前に敷物の上へ胡座をかいた。ガーデルは折り目正しく立ったままでいる。この対照が、そのまま二人の仕事の流儀だった。

 ロズヴェータは、二人に伝えることを昨夜のうちに選り分けてあった。

 銀貨と地図の一致。護衛数の漏洩。その全てを話すのは、ディルアンにだけだ。ミスキンドとガーデルには、それぞれの仕事に要る分だけを渡す。

 情報は糧食と同じだ。必要な所に、必要な量を。余れば腐り、腐れば毒になる。

 まずミスキンドに向き直る。

「頼みたいのは、目だ。中央道の第二集落──ガヒルと言う村を、見張ってほしい」

「潰した村ではなく、潰さなかった村を見張るのか」

「そうだ」

 ミスキンドの目が、僅かに細くなった。

「出入りする者を全て。誰が来て、何をして、どちらへ去ったか。手は出すな。見るだけでいい」

「ふん」

 族長は鼻を鳴らし、それから皺の奥の目に微かな笑いを浮かべた。

「砂漠では、水場を知る者が生き残る。水場を見張る者は、もっと生き残る。──良かろう、うちの若い者は目が良い」

「恩に着る」

「銭より、次の冬の塩を頼む。あんたの所の会計は、値切りがきつい」

 どうやらメルヴあたりが相当やり合ったらしい。ロズヴェータは苦笑して頷いた。

 次はガーデルだった。

「補給計画の作り方を変える。今後、徴発の経路と護衛数を記した予定表は、三通り作れ」

「……三通り、ですか」

「中身を少しずつ変えてだ。本物は一つ。残り二つは、経路か日付か護衛の数が違う偽物だ。渡す先ごとに、どれを渡したか記録しておけ」

 ガーデルは瞬きを一つした。几帳面な男の頭の中で、算盤が弾かれるのが見えるようだった。そして、その算盤が答えに行き着くのも。

「──もし偽の予定表の通りに敵が動けば、どの筋から漏れたか分かる」

 震える声で騎士ガーデルが答えを口にする。

「そう言うことだ」

「承知しました。ただ……」

 ガーデルは、珍しく言い淀んだ。

「帳簿に嘘を書くのは、初めてです」

「正確な嘘を頼む。お前の嘘なら、本物より本物らしいだろう」

 褒めているのか貶しているのか、自分でも分からない言い方になったが、ガーデルは生真面目に頭を下げた。

「善処します」

 二人が出て行くのと入れ違いに、完全武装のネリネが入ってくる。背には油布で幾重にも包んだ書筒。昨夜書き上げた報告書と、銀貨、地図の写し──その全てが入っている。

「本陣まで三日で往復します」

「急がなくていい。確実に届けろ。ディルアン様ご本人以外には渡すな。誰に聞かれても、中身は補給の定例報告だと答えろ」

「はい。……あの、隊長」

「なんだ」

「中身は、定例報告では、ないのですよね」

 ロズヴェータは少し考えて、答えた。

「戦の形が変わるかもしれない報せだ」

 ネリネは息を呑み、それから背筋を伸ばして敬礼した。旗持ちの少女が伝令の大役に足を踏み出す、その一歩を見送って、ロズヴェータは天幕の外に出た。

 朝の空は高く、抜けるように青い。

 月は見えない。だが見えないだけで、昼の空にも月はある。

 帝国の工作と同じだ、とロズヴェータは思った。見えなくなった時こそ、そこにある。


◇◆◇


 遠征軍本陣。

 総指揮官ディルアンは、届いた書筒の中身を三度読み返した。

 定例報告の体裁で始まる文面は、二枚目から様相を変える。帝国の造幣紋が刻まれた銀貨。参謀職の手による補給線の図面。襲撃の日付と護衛数の一致。そして、その護衛数が外からは知り得ぬものであると言う、簡潔な指摘。

 同封された銀貨を、ディルアンは太い指でつまみ上げた。

「……色気のねぇ報告書だ」

 手柄を誇る言葉が一つもない。バルマー隊を損害なしで撃退した件は僅か二行で、残りは全て、敵の狙いと当面の手当てに割かれている。飾らないにも程がある。

 だがだからこそ、値打ちが分かる。

 天幕の隅に控えていた古株の従士が、火に薪を足しながら口を開いた。

「毒蜘蛛の報告と、まるで別の戦を見ているようですな」

「同じ戦を見てんのさ。見えてるモンが違うだけだ」

 ディルアンは銀貨を火明かりに透かした。

 リリーの報告書は、いつだって戦果で膨れ上がっている。潰した集落の数、挙げた首の数。読めば強くなった気になれる、景気のいい紙だ。

 対してこの若造の紙には、数字の代わりに問いが並んでいる。誰が銭を配ったか。誰が図面を引いたか。誰が護衛の数を漏らしたか。

 戦果は過ぎた戦の話で、問いはこれから来る戦の話だ。

「──ゲイルノアの時はな」

 ディルアンは誰にともなく言った。

「遊撃用の旗下で城塞都市を落としやがった。無謀な博打だ。勝ったから良いようなものの、ありゃあ獅子の仔が崖から跳んだだけの話よ」

「今回は違うと?」

「跳ぶ前に、崖の高さを測ってやがる」

 ディルアンは報告書の最後の一枚を、指で弾いた。

 護衛数の漏洩──つまりは身内の恥だ。並の旗頭なら、確証を得るまで伏せる。あるいは、気付かなかったことにする。旗頭の任は臨時、次の任命に障る話を、好き好んで上に書き送る馬鹿はいない。

 それを、この男は最初の便で書いてきた。自分の網の破れ目を、飾りもせずに。

「なぁ、おい。騎士団の長に要るモンはなんだと思う」

「武勇。あるいは家格ですかな」

「保身のなさだ」

 ディルアンは即答した。

「千を率いりゃあ、必ずどこかが破れる。破れを隠す長の下じゃ、破れは腐るまで隠れ続ける。破れを晒せる奴の下でだけ、破れは繕われるんだ」

 従士は薪の手を止めて、主を見た。

「……随分な入れ込みようで」

「うるせぇ」

 ディルアンは笑って、報告書を畳んだ。

 あの若造には言ってある。騎士団の長ってのは、そういう奴を制御できるかどうかも見られてんだ、と。ユーグのことを言ったつもりだったが、どうやら本人は、もっと厄介な奴を制御し始めたらしい。

 前に出たがる自分自身を、だ。

 炎のような獅子はどこにでもいる。だが、燃えながら待てる獅子は滅多にいない。

 帝国が本気でこの地の根に水をやり始めたのなら、要るのはそっちの獅子だ。

「返書だ。筆を寄こせ」

 ディルアンは受け取った筆を、しかし少しの間だけ止めた。書いてやりたいことは山ほどある。網の張り方、毒蜘蛛への目配り、本陣の面倒な連中のあしらい方。

 全部やめた。教えた分だけ、育ちは遅くなる。

 結局、書いたのは三行だった。

『良い目だ。網は好きに張れ。足りぬものだけ言ってこい。毒蜘蛛には深入りするな。あれはあれで使い道がある。──騎士団の話は、この件の始末を見てからだ』

 封をして、伝令に渡す。届けてきたのが旗持ちの見習いだと聞いて、ディルアンはもう一度笑った。この報せを見習いに託せる胆力か、あるいは見習いを育てる算段か。どちらにせよ、悪くない。

「銀の獅子、ねぇ」

 王国騎士校出身の席次第二位。

 黄金の獅子に次ぐからこそ、銀の獅子と言われるその渾名を口の中で転がして、ディルアンは杯を取った。

「銀がずっと銀のままと言うわけでもねえさ。こっちの世代の戦は、もう終わりが見えてんだ」


◆◇◆


 ミスキンドからの報せが来たのは、六日目の夜だった。

 族長は使いを寄こさず、自分で来た。それだけで、ただの報告ではないと分かる。

「動いたぞ」

 敷物に座りもせず、ミスキンドは言った。

「昨夜、月が沈んでからだ。三人、ガヒルに入った」

 ロズヴェータは地図を引き寄せた。ユーグが無言で燭台を近づける。

「村人ではないのか」

「違うな。夜目の利く若い者に張り付かせていた。三人とも、足音を殺して歩く。畑を踏まない。犬に吠えられない。──兵の足だ」

「村で何をした」

「井戸の裏の、古い祠だ。そこの石積みの下に、何かを埋めた。四半刻もかからず、来た道を戻って行った」

 埋めた。

 ユーグと視線が合った。副官の喉が、小さく動いた。

 リリーの言った『証拠』──ひと月のうちにガヒル村から出てくるかどうかと言う、あの賭け。盤上に最初の駒が置かれたのだ。それも、こちらの網の目の前で。

「掘り返したか」

「触っていない。見るだけと言われたからな」

「正しい」

 ロズヴェータは地図のガヒル村の上に、あの銀貨を一枚置いた。

 埋められた『何か』は、そのままにしておく。掘り出せば、こちらが知っていることが知られる。埋めた者より、それを『見つけに来る者』を待つ。証拠は、見つける者がいて初めて証拠になるのだから。

「引き続き頼めるか」

「塩を倍にしてくれるならな」

「メルヴと交渉してくれ」

「……鬼だな、あんた」

 ミスキンドが出て行きかけ、天幕の入り口で足を止めた。振り返った族長の顔から、それまでの軽さが消えていた。

「一つ、妙なことがある」

「言ってくれ」

「三人が去った方角だ。てっきりセルコエシューどもの宿営の方だと思ったが──違った」

 族長は、地図の上の一点を、節くれ立った指で示した。

 中央道の北。山裾を越えた、その先。

 三日月帝国の勢力圏だった。

「連中、山から来て、山へ帰った。砂漠の民は足跡を読み違えん」

 天幕の中が、静かになった。

 燭台の火が、ぱちりと爆ぜた。

 リリーの手の者が『証拠』を植えに来たのなら、話は単純だった。だが埋めに来たのが帝国の側だとしたら──あの女の賭けは、何を知った上での賭けだったのか。

 ロズヴェータは、ガヒル村の上に置いた銀貨を見下ろした。

 欠けた月の紋が、火明かりを受けて邪悪に笑ったように見えた。


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