欠けた月の地図
天幕の隙間から見上げた夜空に、欠けた月がかかっていた。
満ちる途中なのか、欠けていく途中なのか。ひと目では分からないところが、どうにも今の状況に似ているとロズヴェータは思う。
机の上には、書きかけの報告書。
その横に、二つの品が並んでいる。
一つは、バルマー家の傭兵から押収した銀貨。刻まれているのは欠けた月──三日月帝国の造幣紋。
もう一つは、第三集落の間者が腰布の下に隠していた、行軍経路の地図の写し。
「……ロズヴェータ様、報告書は明日になさっては」
ユーグが呆れ半分の声で言った。労いのつもりで運ばせた白湯は、とうに冷めている。
「もう少しだ」
答えながら、ロズヴェータの目は報告書ではなく地図の上にあった。
帝国の軍用文字で書き込まれた注記。行軍経路。推定の補給地点。そして日付。
最初に見たときから、何かが引っかかっていた。骨に刺さった小骨のように、飲み込もうとするたびに喉の奥で疼く。
補給地点。
日付。
「……ユーグ。ガーデルの補給計画の控えはあるか」
「は? いいえ、ここには。取って参りますか?」
「頼む」
ただならぬ気配を察したのか、ユーグは問いを重ねずに天幕を出た。
待つ間、ロズヴェータは銀貨を一枚つまみ上げ、燭台の火にかざした。
欠けた月が、鈍く光る。
バルマー家の傭兵の給金。質の良すぎる傭兵。帝国が銭を出している──あの夜ユーグはそう言い、ロズヴェータもそう結論した。豪族の根に、帝国が水をやり始めているのだと。既にここは開戦前は帝国の勢力圏だ。
ジュルル・サルムが陥落してから僅か二年ほど。人心は移ろいやすい。
だが、あれからずっと、答えの出ない問いが残っていた。
水をやるなら、どこに撒くかを決める者がいる。
銭を配るなら、どこを襲わせるかを決める者がいる。
その誰かは、こちらの補給線を知っていなければならない。
天幕の帳が跳ね上げられ、ユーグが戻った。羊皮紙の束を机に広げる。ガーデルの几帳面な字で書かれた、補給計画の控えだった。
ロズヴェータは地図の写しを引き寄せ、二枚を並べた。
「ルルを呼べ。起きていたらでいい」
「叩き起こします」
にっこりと笑うユーグは既に、ロズヴェータの視線の先を追っていた。美貌の副官の顔から、呆れの色が消え、女を狂わす笑みを浮かべてはいるが、目が笑っていない。
ルルは起きていた。夜着のまま天幕に入り、状況を問いもせず地図の前に立つ。
「隊長、夜伽なら副官に呼びに行かせるのはマナー違反だぞ」
あくびをしながら入って来るルルに、ロズヴェータは、笑いもせずに地図を見せる。
「これを」
ロズヴェータは地図の一点を指した。帝国の軍用文字が小さく書き込まれた、川沿いの地点。
「読んでくれ。前に読んでもらった時は、経路と補給地点としか聞いていない」
訝し気に眉を顰めたまま、ルルは返事をする。どうやら真面目な話らしいと表情を改める。
「諾」
ルルは身を屈め、注記に目を走らせた。エルフィナス出身の元傭兵は、すぐに顔を上げた。
「『第三の水場。護衛は二十。月の七日』」
ロズヴェータは、ガーデルの控えに目を落とす。
第三中継地点。徴発部隊の護衛、ガッチェの分隊、二十名。
バルマー家のドマスが仕掛けてきたのは──月の七日だった。
天幕の中が、静かになった。
燭台の火が、ぱちりと爆ぜた。
「……偶然、と言う線は」
ユーグの声は、自分でも信じていない者の声だった。
「護衛の数まで当てる偶然があるか」
ロズヴェータは銀貨を地図の上に置いた。欠けた月の紋が、帝国の軍用文字の注記の横に並ぶ。
同じ手だ。
バルマー家に銭を配った手と、この地図を書いた手は、同じところから伸びている。豪族どもの弔い合戦も、集落に潜んだ間者も、別々の火種ではない。一つの火が、二つの顔をしているだけだ。
そして、その火はこちらの内側を見ている。護衛の人数は、外から数えられるものではない。
「ルル。この字を書いた人間について、分かることは」
「軍の書記の教育を受けている。字画に崩れがない。野の間者が独学で覚える字ではない」
ルルはそこで言葉を切り、少しの間を置いて付け加えた。
「……ハリールとともにいた頃、似た字の命令書を何度か運んだ。書いたのは正規軍の参謀職だ」
「──正規軍」
ユーグが低く繰り返した。
豪族の小競り合いでも、はぐれ間者の小遣い稼ぎでもない。三日月帝国の正規軍が、参謀職の手で、この補給線を図面に引いている。
ロズヴェータは椅子の背に体を預け、天井を仰いだ。
リリーの賭けが、急に小さく見えた。いや──小さくはない。むしろ逆だ。
ひと月のうちにガヒル村から『証拠』が出るかどうか。あの女はそう言った。だが本物の帝国工作がこの規模で動いているなら、リリーが植えるまでもなく、『証拠』の方から湧いて出かねない。
その時、「脅威なし」と書いた報告書だけが残る。
「……ロズヴェータ様。報告書は」
「書く。事実をそのまま」
ロズヴェータは体を起こし、書きかけの報告書を引き寄せた。
「ただし、添付が増える。銀貨の件、地図の件、日付と護衛数の一致。全部だ。明日の朝一番でミスキンドとガーデルを呼べ。それからネリネに伝令の支度を」
「ディルアン様に、ですか」
「ああ。これはもう、旗頭が抱えていい話じゃない」
ユーグは頷き、それから僅かに口元を緩めた。
「……以前のロズヴェータ様なら、まず自分で調べに行くと仰ったでしょうね」
「行きたいのは山々だ」
ロズヴェータは苦笑して、冷めた白湯を一息に飲んだ。
「だが俺が動くと指揮所が空く。それに──」
机の上の銀貨に、視線を落とす。
欠けた月は、これから満ちていく途中なのだ。そんな確信めいた予感があった。帝国の工作は始まったばかりで、この銀貨と地図は、その最初の二枚に過ぎない。
「──焦って月を追うより、満ちる先で待ち構える」
ルルが、ほんの僅かに目を細めた。この寡黙なエルフの、それは笑みだった。良い旗頭だ。言葉に出さないがルルはそう考えていた。
「じゃ、私は寝るぞ」
ルルは夜着のまま天幕を出て行った。
ロズヴェータは筆を取り、報告書の続きに向かった。
天幕の外では、欠けた月が中天に昇っている。
その光の届かぬどこかで、ガヒル村は今夜も眠っているはずだった。
◆◇◆
翌朝、指揮所の天幕に呼ばれた二人は、およそ似ても似つかない組み合わせだった。
一人は、砂漠人の族長ミスキンド。日に灼けた顔に刻まれた皺は年齢のためか風のためか分からず、纏った外套は砂の色をしている。もう一人は、後方兵站を任せている騎士ガーデル。夜明けと共に帳簿を検めてきたのだろう、指先にインクの染みがあった。
「朝から済まない」
「構わん。砂漠の朝は早い」
ミスキンドは短く応じ、勧められる前に敷物の上へ胡座をかいた。ガーデルは折り目正しく立ったままでいる。この対照が、そのまま二人の仕事の流儀だった。
ロズヴェータは、二人に伝えることを昨夜のうちに選り分けてあった。
銀貨と地図の一致。護衛数の漏洩。その全てを話すのは、ディルアンにだけだ。ミスキンドとガーデルには、それぞれの仕事に要る分だけを渡す。
情報は糧食と同じだ。必要な所に、必要な量を。余れば腐り、腐れば毒になる。
まずミスキンドに向き直る。
「頼みたいのは、目だ。中央道の第二集落──ガヒルと言う村を、見張ってほしい」
「潰した村ではなく、潰さなかった村を見張るのか」
「そうだ」
ミスキンドの目が、僅かに細くなった。
「出入りする者を全て。誰が来て、何をして、どちらへ去ったか。手は出すな。見るだけでいい」
「ふん」
族長は鼻を鳴らし、それから皺の奥の目に微かな笑いを浮かべた。
「砂漠では、水場を知る者が生き残る。水場を見張る者は、もっと生き残る。──良かろう、うちの若い者は目が良い」
「恩に着る」
「銭より、次の冬の塩を頼む。あんたの所の会計は、値切りがきつい」
どうやらメルヴあたりが相当やり合ったらしい。ロズヴェータは苦笑して頷いた。
次はガーデルだった。
「補給計画の作り方を変える。今後、徴発の経路と護衛数を記した予定表は、三通り作れ」
「……三通り、ですか」
「中身を少しずつ変えてだ。本物は一つ。残り二つは、経路か日付か護衛の数が違う偽物だ。渡す先ごとに、どれを渡したか記録しておけ」
ガーデルは瞬きを一つした。几帳面な男の頭の中で、算盤が弾かれるのが見えるようだった。そして、その算盤が答えに行き着くのも。
「──もし偽の予定表の通りに敵が動けば、どの筋から漏れたか分かる」
震える声で騎士ガーデルが答えを口にする。
「そう言うことだ」
「承知しました。ただ……」
ガーデルは、珍しく言い淀んだ。
「帳簿に嘘を書くのは、初めてです」
「正確な嘘を頼む。お前の嘘なら、本物より本物らしいだろう」
褒めているのか貶しているのか、自分でも分からない言い方になったが、ガーデルは生真面目に頭を下げた。
「善処します」
二人が出て行くのと入れ違いに、完全武装のネリネが入ってくる。背には油布で幾重にも包んだ書筒。昨夜書き上げた報告書と、銀貨、地図の写し──その全てが入っている。
「本陣まで三日で往復します」
「急がなくていい。確実に届けろ。ディルアン様ご本人以外には渡すな。誰に聞かれても、中身は補給の定例報告だと答えろ」
「はい。……あの、隊長」
「なんだ」
「中身は、定例報告では、ないのですよね」
ロズヴェータは少し考えて、答えた。
「戦の形が変わるかもしれない報せだ」
ネリネは息を呑み、それから背筋を伸ばして敬礼した。旗持ちの少女が伝令の大役に足を踏み出す、その一歩を見送って、ロズヴェータは天幕の外に出た。
朝の空は高く、抜けるように青い。
月は見えない。だが見えないだけで、昼の空にも月はある。
帝国の工作と同じだ、とロズヴェータは思った。見えなくなった時こそ、そこにある。
◇◆◇
遠征軍本陣。
総指揮官ディルアンは、届いた書筒の中身を三度読み返した。
定例報告の体裁で始まる文面は、二枚目から様相を変える。帝国の造幣紋が刻まれた銀貨。参謀職の手による補給線の図面。襲撃の日付と護衛数の一致。そして、その護衛数が外からは知り得ぬものであると言う、簡潔な指摘。
同封された銀貨を、ディルアンは太い指でつまみ上げた。
「……色気のねぇ報告書だ」
手柄を誇る言葉が一つもない。バルマー隊を損害なしで撃退した件は僅か二行で、残りは全て、敵の狙いと当面の手当てに割かれている。飾らないにも程がある。
だがだからこそ、値打ちが分かる。
天幕の隅に控えていた古株の従士が、火に薪を足しながら口を開いた。
「毒蜘蛛の報告と、まるで別の戦を見ているようですな」
「同じ戦を見てんのさ。見えてるモンが違うだけだ」
ディルアンは銀貨を火明かりに透かした。
リリーの報告書は、いつだって戦果で膨れ上がっている。潰した集落の数、挙げた首の数。読めば強くなった気になれる、景気のいい紙だ。
対してこの若造の紙には、数字の代わりに問いが並んでいる。誰が銭を配ったか。誰が図面を引いたか。誰が護衛の数を漏らしたか。
戦果は過ぎた戦の話で、問いはこれから来る戦の話だ。
「──ゲイルノアの時はな」
ディルアンは誰にともなく言った。
「遊撃用の旗下で城塞都市を落としやがった。無謀な博打だ。勝ったから良いようなものの、ありゃあ獅子の仔が崖から跳んだだけの話よ」
「今回は違うと?」
「跳ぶ前に、崖の高さを測ってやがる」
ディルアンは報告書の最後の一枚を、指で弾いた。
護衛数の漏洩──つまりは身内の恥だ。並の旗頭なら、確証を得るまで伏せる。あるいは、気付かなかったことにする。旗頭の任は臨時、次の任命に障る話を、好き好んで上に書き送る馬鹿はいない。
それを、この男は最初の便で書いてきた。自分の網の破れ目を、飾りもせずに。
「なぁ、おい。騎士団の長に要るモンはなんだと思う」
「武勇。あるいは家格ですかな」
「保身のなさだ」
ディルアンは即答した。
「千を率いりゃあ、必ずどこかが破れる。破れを隠す長の下じゃ、破れは腐るまで隠れ続ける。破れを晒せる奴の下でだけ、破れは繕われるんだ」
従士は薪の手を止めて、主を見た。
「……随分な入れ込みようで」
「うるせぇ」
ディルアンは笑って、報告書を畳んだ。
あの若造には言ってある。騎士団の長ってのは、そういう奴を制御できるかどうかも見られてんだ、と。ユーグのことを言ったつもりだったが、どうやら本人は、もっと厄介な奴を制御し始めたらしい。
前に出たがる自分自身を、だ。
炎のような獅子はどこにでもいる。だが、燃えながら待てる獅子は滅多にいない。
帝国が本気でこの地の根に水をやり始めたのなら、要るのはそっちの獅子だ。
「返書だ。筆を寄こせ」
ディルアンは受け取った筆を、しかし少しの間だけ止めた。書いてやりたいことは山ほどある。網の張り方、毒蜘蛛への目配り、本陣の面倒な連中のあしらい方。
全部やめた。教えた分だけ、育ちは遅くなる。
結局、書いたのは三行だった。
『良い目だ。網は好きに張れ。足りぬものだけ言ってこい。毒蜘蛛には深入りするな。あれはあれで使い道がある。──騎士団の話は、この件の始末を見てからだ』
封をして、伝令に渡す。届けてきたのが旗持ちの見習いだと聞いて、ディルアンはもう一度笑った。この報せを見習いに託せる胆力か、あるいは見習いを育てる算段か。どちらにせよ、悪くない。
「銀の獅子、ねぇ」
王国騎士校出身の席次第二位。
黄金の獅子に次ぐからこそ、銀の獅子と言われるその渾名を口の中で転がして、ディルアンは杯を取った。
「銀がずっと銀のままと言うわけでもねえさ。こっちの世代の戦は、もう終わりが見えてんだ」
◆◇◆
ミスキンドからの報せが来たのは、六日目の夜だった。
族長は使いを寄こさず、自分で来た。それだけで、ただの報告ではないと分かる。
「動いたぞ」
敷物に座りもせず、ミスキンドは言った。
「昨夜、月が沈んでからだ。三人、ガヒルに入った」
ロズヴェータは地図を引き寄せた。ユーグが無言で燭台を近づける。
「村人ではないのか」
「違うな。夜目の利く若い者に張り付かせていた。三人とも、足音を殺して歩く。畑を踏まない。犬に吠えられない。──兵の足だ」
「村で何をした」
「井戸の裏の、古い祠だ。そこの石積みの下に、何かを埋めた。四半刻もかからず、来た道を戻って行った」
埋めた。
ユーグと視線が合った。副官の喉が、小さく動いた。
リリーの言った『証拠』──ひと月のうちにガヒル村から出てくるかどうかと言う、あの賭け。盤上に最初の駒が置かれたのだ。それも、こちらの網の目の前で。
「掘り返したか」
「触っていない。見るだけと言われたからな」
「正しい」
ロズヴェータは地図のガヒル村の上に、あの銀貨を一枚置いた。
埋められた『何か』は、そのままにしておく。掘り出せば、こちらが知っていることが知られる。埋めた者より、それを『見つけに来る者』を待つ。証拠は、見つける者がいて初めて証拠になるのだから。
「引き続き頼めるか」
「塩を倍にしてくれるならな」
「メルヴと交渉してくれ」
「……鬼だな、あんた」
ミスキンドが出て行きかけ、天幕の入り口で足を止めた。振り返った族長の顔から、それまでの軽さが消えていた。
「一つ、妙なことがある」
「言ってくれ」
「三人が去った方角だ。てっきりセルコエシューどもの宿営の方だと思ったが──違った」
族長は、地図の上の一点を、節くれ立った指で示した。
中央道の北。山裾を越えた、その先。
三日月帝国の勢力圏だった。
「連中、山から来て、山へ帰った。砂漠の民は足跡を読み違えん」
天幕の中が、静かになった。
燭台の火が、ぱちりと爆ぜた。
リリーの手の者が『証拠』を植えに来たのなら、話は単純だった。だが埋めに来たのが帝国の側だとしたら──あの女の賭けは、何を知った上での賭けだったのか。
ロズヴェータは、ガヒル村の上に置いた銀貨を見下ろした。
欠けた月の紋が、火明かりを受けて邪悪に笑ったように見えた。




