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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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144/219

制御すべき者

 二回目の旗頭就任に当たり、最も違うところは何かと聞かれれば、それは先の見通しだ。

 旗頭──自らの騎士隊の他に、複数の騎士隊を旗下へ束ねて作戦を行う臨時の役職である。今回ロズヴェータが集めた旗下は七百。三頭獣《ドライアルドベスティエ》の三百と合わせ、約一千の兵力となる。

「隊長、今回の旗下に、紅剣《スカーレット》の人たちはいないんですか?」

 騎士見習いとして旗持ちをしているネリネが、突如そんなことを聞いた。長身の彼女は見栄えがする上、ロズヴェータの動きをつぶさに見られる位置にいた方が勉強になるだろうと言う判断から、そこに配置されていた。

「ああ、そうだな。今回は、入れていない」

「はぁ、隊長にもお考えはあると思いますが……」

「ん?」

「報告と連絡と相談は大事ですよね」

「あぁ……そうだな」

 歯切れの悪いネリネの言葉に、振り返ったロズヴェータがネリネの視線を追うと、そこには赤い髪を振り乱したエリシュの姿があった。

 胸元の十字教のロザリオを思わず握り締めてしまいたくなりながら、ロズヴェータはエリシュに声をかけようとし──。

「ちょっと、ロズ!」

 先制攻撃の機会を見逃さないのは、流石に蛮族のお姫さまだった。

「ちょっと、なんで私の騎士隊を選ばないのよ?」

 眉間にシワを寄せ、不満を述べる蛮族のお姫様は、最前線の小競り合いで血に塗れた格好のままロズヴェータに詰め寄った。

「あぁ、おかえり。エリシュ、大活躍だったらしいじゃないか」

 先発して帰ってきた伝令からの話では、三日月帝国側に立った豪族《ユンカー》バウムクロネ家を奇襲して、壊滅させたとのことだ。

 挙げた御首は三十にも及び、捕虜にした数も百を上回る。小競り合いと言うにはかなりの規模で、全軍にエリシュと彼女の率いる紅剣《スカーレット》の名が響き渡る程だった。

「ん、ありがとう。いやそうじゃなくて!」

 地団駄踏んだエリシュは、ロズヴェータに掴みかからんばかりだった。その様子に、彼女とロズヴェータの仲を知らない新参の分隊長ドラッドは、ハラハラとしながら見守っていたが、バリュードやヴィヴィ等は素知らぬ顔だ。

「隊長は、大丈夫なので?」

「じゃれてるだけだよ。気にすんな」

 バリュードの言葉に、訝しげな表情のドラッドは視線で今度はヴィヴィに問うが、彼女も頷くだけだ。

「そうそう、大きな猫が毛玉にじゃれてるのさ。毛玉の方も分かっていてからかってるんだ。好きにさせときなよ」

「大きな猫……」

 ドラッドから見てエリシュは、とてもそんなふうには見えない。どちらかといえば、凶暴な獅子か虎に見えるが、古参の分隊長たちからすればそうではないらしい。

 自らと他の分隊長達との著しい認識の差に、ドラッドは困惑するばかりだった。

「どうして、アタシの騎士隊を誘わなかったのかって話よ!」

 顔を赤くし視線を鋭くするエリシュは、返答によっては剣すら抜きそうに見えた。

「エリシュ」

 肩をすくめていたロズヴェータは、ため息を吐くと、意を決したように真剣な表情で彼女を見る。

「な、なによ」

「俺達はどこまで行く?」

「どこまでって……」

 返答に迷うエリシュに、ロズヴェータははっきりと言う。

「俺は旗頭で終わるつもりはない。騎士隊をいずれは騎士団にして、もっと大きくなるつもりだ」

 ロズヴェータの決意を聞いて、エリシュは黙り込む。彼女にとって騎士隊は、目の前の依頼をこなして勝手に大きくなっていくものだった。

 自然と人が集まり、付いてこれない者から脱落していく。そんな自分の望みを叶える手段。

 だが、同じ望みを叶える手段としつつもロズヴェータにとって騎士隊は、より明確に人を集め大きくしていくものだった。

 ロズヴェータには、騎士団までの道筋が既に見えている。その事実が、エリシュの口を塞いだ。

「だから、その……その時に」

 ロズヴェータは、そこまで言って戸惑う。随分自分勝手なことを言おうとしていると、口に出してから気付いたのだ。一瞬、言葉を濁すかどうか迷う。

 だが、口に出してしまったものは戻らない。エリシュは、顔を羞恥で赤くして視線で続きを待っているようだし、周囲からは頑張れ隊長ー等と囃し立てる声が聞こえる。

 後で覚えていろよバリュードと心のなかで吐き捨てて、ロズヴェータは再び意を決して口を開いた。

「それにその時に、お前には俺の下ではなくて、隣にいて欲しいと思っている」

 周りから口笛が聞こえたが、一瞥して黙らせる。ロズヴェータは続きを口にしようとしたが、エリシュが止める方が早かった。

「だから──」

「ちょっ、ちょっと待った!」

 何故か息を切らしたエリシュが、両手を前に突きだし、慌てたように手を振り回す。

「分かった。私が悪かった! だからなし!」

「なしって?」

「なしったら、なし!」

「お、おう……」

 フゥーフゥーと、獣のような息を吐きながらエリシュは、くるりとロズヴェータに背を向けた。

「ちょっと出直してくる。じゃ!」

「お、おう?」

 脱兎のごとく走り去るエリシュを追って紅剣《スカーレット》の面々も、後について行く。

 副官を務める女も、いいものが見れたわーと手を振り、余裕の笑みを浮かべて帰っていく。あの様子を見るに、急ぎの用事があって来たわけではないらしい。

「やるじゃん!」

「眼福、眼福!」

「ご馳走様だねー」

 なんやかんやと姦しい紅剣《スカーレット》の面々が去って行くと、三頭獣《ドライアルドベスティエ》の宿営地に、平穏が戻る。

「……まるで愛の告白のようだったな、隊長」

 背の低い分隊長ルルが、ジト目でロズヴェータを見上げてくる。

「愛の告白の場面なんて、知っているのか?」

「この前ヴィヴィと劇場で見たな。中々興味深い内容だった。聞くか?」

 ため息を吐きつつ、首を振るロズヴェータに、ルルは素っ気なく頷いた。

「その方がいいだろう。私は良いと思うが、人によっては──」

「あーっと、隊長。邪魔したね!」

 強引にヴィヴィが、ルルの口を塞ぐとまるで荷物でも運ぶように肩に担がれ、連れて行かれる。

 ユーグが不在で助かったなと、ロズヴェータは、内心でため息を吐いた。


◆◇◆


「今日は楽しく飲み食いしてくれ。乾杯!」

 エリシュの襲撃から、ロズヴェータは学ぶこともあった。それは、ロズヴェータの意図が、旗下となる騎士達に正確に伝わっていないことだ。

 そこでロズヴェータは、旗下となる騎士達を一堂に集め、親睦を深めることとした。まぁつまり、飲み会と言うやつだ。

 会計方の娘たちや三頭獣《ドライアルドベスティエ》の財布の紐を握るアウローラからは、疑いの視線を向けられたものの、必要な経費としてユーグに説明させた。

 何せ、集まった面々は初対面の者たちも多く、何が得意で、何ができるのか、どんな人柄なのかすら、分からないのだ。

 彼らの口を割らせ、顔と名前を一致させ、誰が何を出来るか、分からせるためには、酒を入れてやるのが手っ取り早かった。

 人類の友は偉大である。

 陽気になった彼等は、聞かずとも自分達の手柄話や、得意なこと、興味があることを語り出す。

 参加者からすれば、ただで飲む酒ほど美味いものはなく、添えられた酒の肴もまた同じ。全て三頭獣《ドライアルドベスティエ》からの持ち出しであった。

 ロズヴェータを評する声には、話せる旗頭に加えて、気前の良い旗頭と言う評価が付け加わることになった。

 三日で編成を終えられると豪語したユーグからすれば噴飯ものの行事であったが、ロズヴェータは必要なことだと説得した。

「戦場に出てから鍛えればよろしい。または合同訓練でも構わないと思いますが……」

 ユーグからの視線をロズヴェータは、苦笑で受け止めた。

「穏便にやることにしたんだ。今回は」

 旗頭が騎士団と違うのは、その柔軟さにある。臨時に立てられる役職ゆえ、その気になれば一つの作戦に特化した集団すら仕立てられるのだ。

 現に前回ロズヴェータが任命されたときは、森林地帯での遊撃戦に適した旗下ばかりを集めた。結果として城塞都市ゲイルノアを落としはしたが、攻城戦用の旗下を集めたわけではなかった。今にして思えば、かなりの無謀と言える戦いだった。

 対して今回は、総指揮官ディルアンからまだ何の任務も言い渡されていない。だからこそ攻守に均整の取れた騎士隊を集め、騎士団創設の予行のつもりで、時間をかけて縫い合わせることにしていた。

 前回の失敗があるからこそ、ユーグの追撃は鈍い。

 まぁ、ものは試しだ──と言う視線で、ロズヴェータの穏便なやり方を見ている。

「次の依頼はどのようなものになると思う?」

「さて、勿体ぶって何も聞こえませんが……一つ、気になる話は拾いました」

 ユーグは声を落とした。

「エリシュ様が潰したバウムクロネ家の姻戚──豪族《ユンカー》バルマー家が、傭兵を買い集めているそうです。当主の名代は次男のドマス・バルマー。奇襲で死んだバウムクロネの当主は、この男の義兄に当たります」

「弔い合戦か」

「それだけなら可愛いものですが。買い集めた傭兵の質が、豪族の懐にしては良すぎると言う話でして」

 金の出所が別にある、とユーグの目が言っていた。

「準備は入念にやろう」

 旗頭を任されたロズヴェータは、静かな声でそうユーグに言った。

 ユーグは、ロズヴェータの様子に、少しだけ感心した。以前にはなかった落ち着きが出てきたように思えたのだ。

 炎のように走り出すロズヴェータも悪くはないが、今のように風の凪いだ湖面のようなロズヴェータの雰囲気も悪くはない。

 あるいは、他の者から見たら頼りがいのある旗頭に見えるかも知れない。


◇◆◇


 旗下を持つということは、全体を見るということだ。

 ロズヴェータは頭では分かっていた。分かっていたが、体がまだ納得していなかった。

 旗下の騎士隊を招いての飲み会の後、三日してロズヴェータ率いる三頭獣《ドライアルドベスティエ》に対して新たな依頼が到達した。

 補給線の維持。

 数万と言う兵士の胃袋を満たすためには、日々の糧を確保するのは必須であり、それを遠征軍は近隣からの徴収と後方からの支援によって成り立たせていた。

 後方からの支援のうち大きな割合を占めるのは、海湾都市ガディフォールからの海運。そして近隣からの徴収は、全軍の内後軍が担っていた。

 その一角を担えとの依頼である。

 最初の報告が来たのは、夜明け前だった。持ち込んだのは、後方兵站を任せている騎士ガーデルだ。

「補給線の第三中継地点付近に不審な動きがあります。砂漠人《ベーベナル》の隊からの情報です」

 天幕の中で、ガーデルは地図の上に指を置いた。几帳面な指先が、川沿いの道をなぞる。

「バルマー家の傭兵と見られます。歩兵、四、五十人。今朝の徴発部隊が出た後を狙っているのではないかと……」

「バルマーか」

 ユーグの拾った話が、思ったより早く形になった。ロズヴェータは眉を顰める。

「率いているのは分かるか」

「捕らえた斥候によれば、旗印は蔦に短剣と。次男のドマス殿が直々に、と言うことになります」

 義兄の仇討ちに、質の良い傭兵。嫌な組み合わせだった。仇討ちは退かず、金で雇われた玄人は崩れない。

「徴発部隊の護衛は」

「ガッチェ殿の分隊の二十名です」

 ロズヴェータは地図を見た。数は二倍以上。留守番から護衛仕事まで手堅くこなす筆頭分隊長とはいえ、正面から当たれば持ち堪えられるかどうか分からない。しかし徴発部隊を引き返させれば、今日の食料が手に入らない。

「報告をくれたのは、ミスキンドだな?」

 頷くガーデルが、徴集の見通しを述べる。砂漠人《ベーベナル》の族長ミスキンドは、抱き込んで以来、この一帯で最も速く正確な目と耳になっていた。

「今日明日になくなるということはありませんが……止めると食料の見通しが」

「分かっている。だから止めない」

 ガーデルは一度だけ頷いて、引っ込む。言うべきことだけをいう男だ。ロズヴェータは内心でその静けさを評価して、視線を地図に戻した。

 糧食に余裕はある。部隊の安全だけを考慮するなら、引き返すのも手だ。しかし、ロズヴェータの懸念は、ここで引けば同様の手口で食料の徴発行動を延々と妨害されるのではないか、ということだ。

 舐められれば、骨の髄までしゃぶられる。

 それは騎士だけの了解ではない。厳しい世界の現実だった。

 目を地図に落とす。

 歩兵が山道を使って補給線に回り込んでくる。騎馬でないということは、速度よりも隠密を選んでいる。つまり奇襲が狙いだ。

 ──どこで襲ってくる?

 ロズヴェータが独自で作った精密な地図の上で指を動かした。


◆◇◆


 ミスキンドからの追加の情報は日が昇り始めた頃に届いた。

 簡明に必要なことだけを伝えてくる。

「歩兵五十。北の丘沿いに動いている。今なら先回りできる」

 ベーベナルの使者を下がらせると、ロズヴェータはすぐにトーロウを呼んだ。人懐っこく独自の諜報網を築けるこの猿顔の小男を、ロズヴェータは分隊長として重宝していた。

「バルマー隊はどこから出ると思う?」

 若い分隊長は地図を見て、少しだけ考えた。

「北の丘を抜けるなら……このあたりでしょうか。ここを押さえれば、補給線には出られません。更にここ、南の間道も怪しいとは言えば怪しいですが……」

「そうか」

 ロズヴェータはトーロウの指が示した二か所を確認した。ガッチェの部隊はまだその場所を通っていない。こちらが先に着けば、道を塞げる。

「ルルも呼べ。バリュードの分隊は遊撃予備で残す」

「隊長も行かれますか」

「いいや」

 一言で返して、ロズヴェータは地図から目を離さない。義兄の仇はエリシュだ。それを承知で補給線を突くなら、狙いは仇討ちだけではない。もしこれが、一豪族だけの行動ではなく、もっと大きな動きの先触れだとしたら──と言う懸念がロズヴェータの心を占めていた。

 分隊長ルルは話を聞き終えて、片眉を上げた。

「先回りして持ち堪えろ、深追いするな、か。……隊長は?」

「ここで指揮を執る」

「……ここに?」

「俺が動くと指揮所が空になる」

 ルルはしばらくロズヴェータを見た。値踏みするような間ではない。ただ——何かを確かめているような目だった。

「了解した。行って来る。おい、お前も来い」

 ルルがトーロウの首根っこを引っ張る。

「分かってますって!」

 入隊する時の関係から二人の間には、明確な上下関係がある。当然ルルが上、トーロウが下だ。

「一つだけ」

「ん?」

「ガッチェが見えたら、合流を優先しろ。戦果はいらない。持ち堪えるだけでいい」

 余計な言葉もなく、エルフィナス出身の元傭兵は、軽く頷いた。

 夜明けの宿営地は、まだ半分眠っている。

 東の空が灰色から薄い金色に変わる頃、ルルの分隊は音もなく門を抜けて行った。朝靄の中、槍の穂先だけが列になって鈍く光り、やがて丘の稜線に呑まれて見えなくなる。旗は巻いたままだ。隠密で先回りする部隊に、翻る旗はいらない。

 ロズヴェータは柵の際に立って、最後の一人が靄に消えるまで見送った。

 以前の自分なら、あの列の先頭にいた。

 踵を返す。指揮所の天幕までの数十歩が、妙に長く感じられた。

 天幕に一人になってから、ロズヴェータはもう一度地図に視線を落とした。

 信頼できる分隊長ルルに任せた。ガッチェに伝令を飛ばした。ガーデルには補給計画の維持を指示した。ミスキンドには引き続き周辺の監視を頼んだ。

 あとは——待つ。

 何が起こっても、即座に判断できるように、それが大所帯になった三頭獣《ドライアルドベスティエ》を率いるロズヴェータの役割だと自分に言い聞かせた。


◆◇◆


 その後の二刻が、ロズヴェータには長かった。

 一度ならず立ち上がりかけては、気持ちを抑えてまた座る。

 ルルが北の丘を押さえて、トーロウが抜け道を抑えても、人数差から不覚を取ることもある。二つの部隊を合流させ、一気にバルマー家を襲撃した方が良いのではないか。

 あるいは、何かの拍子に持ち堪えられなくなるのではないか。何かあったとき自分がそこにいれば——と言う思考が、頭の中を何周もした。

 日が中天に近づいた頃、その思考を現実が殴りつけた。

 天幕に飛び込んできたのはネリネだった。

「ミスキンド殿より急報! 別働の歩兵およそ三十、南の間道を東進中! ルル分隊は北の丘にてバルマー隊と交戦、膠着とのこと!」

 ロズヴェータは立ち上がっていた。

 南の間道。トーロウが「怪しいとは言えば怪しい」と言った、あの道だ。抜ければ、徴発部隊の帰路に出る。ガッチェの二十は荷駄を抱えている。三十の玄人に横から食い付かれれば、まず保たない。

 五十で北の丘に堂々と姿を晒したのは、こちらの目を引き付けるためだ。本命は南──ドマス・バルマーは、義兄の弔い合戦に頭を使ってきた。

 気付けば、剣の柄を握っていた。

 馬なら間に合う。自分が予備の騎馬を率いて南に出れば──そこまで考えて、ロズヴェータは奥歯を噛んだ。

 俺が出れば、指揮所が空く。北で何かあれば、誰が判断する。

「──バリュードを呼べ!」

 声は、自分でも驚くほど平静だった。

 童顔の分隊長は、呼ばれる前から天幕の外にいたらしい。ひょいと顔を出す。

「南の間道でしょ。聞こえてた」

「遊撃分隊を率いて南だ。間道の出口、ここを塞げ。ガッチェの帰路を守ることだけ考えろ。首はいらない」

「はいはい、了解」

 軽い返事とは裏腹に、バリュードの目は既に冷えていた。音もなく天幕を出て行く。ほどなく、蹄の音が南へ遠ざかって行った。

 ロズヴェータは、立ったままだった。

 ちらりと、視界に入った十字教のロザリオ。

「……っ!」

 敢えてそれから視線を切って、地図に再び視線を戻す。

 埒もない考えだった。敵と妥協しようとしている自身に神が試練を下すなど、不安と言う名の悪魔が全てを神のせいにして悪い方へ考えを誘導しているだけだ。

 ぎりりと奥歯を噛み締める。

 失敗したならば、相手が上手だった。

 それだけのことだ。

 以前の旗頭のときは、前に出ることしか考えていなかった。辛い苦しいことを率先して前に出てやることにより、切り抜けた。それ以外の方法を知らなかったのではない——それ以外の方法を試そうとしていなかったのだ。

 だが今は違う。選択肢がある。

 ルルやトーロウが動いている。バリュードが動いている。ガッチェが動いている。ミスキンドが動いている。ガーデルが補給線を保っている。それぞれに任せたから、それを信じねばならない。そうでなければ、一千もの人間を軍として動かせない。

 ロズヴェータが行けば、今回は何とかなったとしてもいずれ破綻する。

 そう思い、椅子に座り直した。

 邪念を振り払え、今できることは悪い想像を信じることではなく、可能性の検討だ。

 ロズヴェータは、剣の柄に無意識に触れていた手を、ゆっくりと膝の上に戻した。


◆◇◆


 報告は昼を回った頃に、立て続けに届いた。

「北の丘、バルマー隊撃退。ルル分隊とガッチェ分隊は合流。南の間道、バリュード分隊が敵別働隊を捕捉、これを撃破。徴発部隊は予定通り。こちらの損害、軽傷が三名」

 ネリネが読み上げるのを、ロズヴェータは聞いた。

「ドマス・バルマーは」

「北の丘より離脱。ミスキンド殿の隊が追っています。それと──南の敵は、殿を捨てて退いたとのこと。捕虜が九名」

「ガーデルに知らせろ。補給計画の変更は不要だと」

「はい」

「ルルには——よくやった、と」

「……それだけでよろしいですか」

「それだけで分かる」

 ネリネは少し不思議そうな顔をしながら出ていった。

 ロズヴェータは地図に再び視線を落とした。

 誰も死ななかった。徴発部隊は食料を確保した。バルマー家の八十は引いた。

 詩になるような話ではない。記録に残るような戦果でもない。ただ今日という一日が何事もなく終わる。以前の自分が聞けば、拍子抜けするだろう。

 だが、これで終わりではない。

 ドマスは兵を損じたが、頭は健在だ。そして失敗の許されない徴発の計画は、明日も、明後日もある。

 油断は許されない。

 そう思い、ロズヴェータは再び視線を地図に戻した。

 夜、バリュードが酒瓶を一本持って指揮所に来た。

「落ち着いていたね、隊長。あ、ガッチェ殿とトーロウからのお酒。二人とも遠慮しちゃってさぁ。あ、ルルの奴は当然って顔をして出さなかったよ」

 ケラケラと笑うバリュードは、ロズヴェータの前に積み上がっていた書類をわきにどけ、杯を押しつけてくる。それを受け取りながら、ロズヴェータは答えなかった。

「前だったら、南には隊長が自分で飛び出してたんじゃない?」

「かもな」

 ロズヴェータは少し考えて答える。

「飛び出したかった」

 バリュードが少し目を開けた。

「……正直だね」

「嘘をついても意味がない」

 バリュードは杯に酒を注いで、自分の分も注いだ。それから少し考えるような間を置いて、ぼそりと言った。

「今回動きやすかったよ。しっかり指示が来て、考えることが一つで済んだ。いつもは隊長の身の安全を考えなきゃいけないしね」

 お道化て応えるバリュードに、ロズヴェータは鼻で笑って、笑みに苦い物を加えた。

「旗頭ってのは……大変なんだねぇ」

 しみじみと言うバリュード。

「必要なことだからな」

「ま、隊長が言うならそうなんだろうけど……」

 と、そこで天幕の入り口から、遠慮のない声がかかった。

「三頭獣《ドライアルドベスティエ》の旗頭殿に、紅剣《スカーレット》からの届け物よー」

 顔を出したのは、エリシュの副官を務める例の女だった。抱えていた酒瓶を、ロズヴェータの机にどんと置く。見るからに上物だった。

「姫さんから。『こないだの奇襲の礼。それと……』」

 副官はそこで言葉を切り、にんまりと笑った。

「『続きは、出直した時に聞いてやらなくもない』──だ、そうよ」

「……そうか」

 ロズヴェータは、酒瓶に一度視線を落とし、それから口元だけで小さく笑った。バルマー家が動いた原因を作ったのはエリシュの奇襲だ。それを彼女なりに気にした、と言うことなのだろう。礼と詫びと、それから──まぁ、そういうことだ。

「ちゃんと受け取ったと伝えてくれ。それと、楽しみにしている、とも」

「あっはっは! 言うようになったじゃない。姫さん、また息切らすわよ」

 上機嫌で去っていく副官と入れ違いに、バリュードが素早く天幕の入り口に体を滑り込ませる。まるで危機を察した兎のような動きだった。

「ロズヴェータ様」

 直後声をかけて入って来た美貌の副官ユーグは、ロズヴェータの手元を見て視線を鋭くする。

「……バリュードですね」

 宿題をしないで逃げ出した子供を叱る母親の表情でユーグは断定した。だが今夜は追わなかった。代わりに、小さな革袋を机の上に置く。

「南の間道の捕虜からです。九名の内、六名が身に着けていました」

 革袋の口を開けると、銀貨が数枚、鈍く光った。

 ロズヴェータは一枚をつまみ上げ、火にかざす。刻まれているのは、この辺りの豪族の紋ではない。欠けた月──三日月帝国の造幣紋だった。

「……傭兵の給金が、帝国の新しい銀貨で払われている、と」

「バルマー家の懐にしては、質の良すぎる傭兵だと申し上げました。これで得心がいきます。ドマス・バルマーの弔い合戦に、帝国が銭を出している。恐らく、彼だけではありますまい」

 豪族《ユンカー》は、この地に根を張る草だ。その根の一本一本に、帝国が水をやり始めている。今日の五十と三十は、その最初の芽に過ぎない。

 補給線の維持と言う地味な依頼が、静かに底光りを始めていた。

「明日、ミスキンドとガーデルを呼べ。監視の網を広げる」

「はい。──それと、ロズヴェータ様」

 ユーグは出て行き際、振り返らずに言った。

「今日のご采配、見事でした」

 返事を待たずに、天幕の帳が落ちる。

 騒がしいことだ、と思いながらロズヴェータは杯に注がれた酒を一口飲む。

 芳醇な香りがロズヴェータの鼻腔をくすぐる。

 悪くない香りだった。分隊長達は随分と奮発したらしい。

 今日は前線に出なかった。手柄も立てなかった。ただ地図を見て、指示を出して、待ち続けた。

 それだけのことが——こんなに消耗するものだとは、知らなかった。

 火が静かに燃えていた。

 ディルアンの言葉が頭に浮かぶ。

 ——騎士団の長というのはな、そういう奴を制御できるかどうかも見られてんだ。

 ユーグを制御する話だと思っていた。しかし今日分かったことがある。

 制御しなければならない「そういう奴」の中に、ロズヴェータ自身も入っている。

 椅子に背を預けて、天井を見た。

 まだ、遠い。まだまだ覚えることは、無数にある。心も強くあらねばならなかった。

 しかし今日より少しだけ、近くなった。確かな一歩を踏みしめ、ロズヴェータは手元の酒を飲み干した。やはり悪くない。

 机の上では、欠けた月の銀貨が、火明かりを受けて静かに光っている。

 嵐はまだ、遠い。だが確かに、匂いはし始めていた。

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