旗頭への再就任
偵察を終えて戦果を報告したロズヴェータは、三頭獣の宿営地において見知らぬ中年男が兵士の間に混じっているのを発見した。高い身長に、細身の身体。槍を担いで補給物資の上に腰を落ち着けている様子は、まるで一仕事終えた中年の休憩中という絵の題材のようだった。
だが、よくよく見れば白髪の混じり始めた髪と薄汚れた外套の中に隠れた引き締まった筋肉が見て取れる。疲れ果てたというよりは、猛禽が羽を休めているような雰囲気で、不敵な笑みを浮かべている中年の男。それにデジャヴを感じる。
兵士達も違和感を感じつつも、悪さをするわけでもない中年の男の視線を気にしながら新たな天幕を張っていた。
ロズヴェータと彼と目が合った瞬間、宿営地の空気が一変した。すくなくともロズヴェータにはそう感じられた。
背後でユーグが固唾を飲む気配がした。
「よぉ、邪魔してるぜぇ」
遠征軍総指揮官ディルアンは、そう言いながらひらりと手を上げた。
ロズヴェータは、宿営地に広がった緊張の意味を数秒かけて飲み下してから、口を開いた。
「……何か御用で?」
「おいおい、そう身構えるなよ。ちょっと散歩のついでだ」
「散歩の範囲に含めていただく身分ではないかと」
「そうか? 俺はただの中年の騎士だがね」
その言葉に、以前この男に挑んで散々にやられた記憶がよぎる。
「以前そのただの中年の騎士に散々にやられた経緯がありますので、額面通りには受け取れません」
「負けた奴が悪い」
一片の悪びれもなく言ってのけるディルアンに、ロズヴェータは半ば呆れ、半ば納得した。確かに挑んだのは己自身だ。
「……それで、ご用は?」
「遠慮がないな」
苦笑しながら、ディルアンは「よいしょっ」と声を漏らして積み上げてあった木箱に腰を下ろした。そして無造作に外套の懐を漁る。
ほれ、と放り投げてきたものを、ロズヴェータは反射で受け取った。
掌に、勲章が載っていた。
「それで今日からもう一度旗頭だ。指揮下に加える騎士隊は自分で選んでいい。申請が必要だから、それだけ忘れるなよ……あぁ、今度は穏便にな」
ロズヴェータは、しばらく掌の上の勲章を見下ろしていた。
「……なんだ、鳩が豆鉄砲でも喰らった顔して」
「突然のことで……驚いております」
「信賞必罰は武門の拠って立つところだろ。使える奴は使う。使えない奴は早々に退場願うだけさ」
ディルアンは木箱から立ち上がって、ひらひらと手を振った。言葉の意味を考えるロズヴェータに、更にディルアンは、にやりと笑う。
「お前の所を騎士団に、って話もある。いいか? 騎士団になるなら、余計な摩擦は出来るだけ避ける方が推薦しやすいんだぞ」
ディルアンの視線の向く先は、ロズヴェータの後方に控える美貌の副官ユーグ。ディルアンは無表情を貫くユーグから再び視線をロズヴェータに向ける。
「もっと感激して泣いて喜んでも良いんだぞ? 旗頭なんてそう簡単になれるもんじゃないんだからな」
「——謹んで、お受けいたします」
「おう、じゃこの先もよろしく頼む」
それだけ言うと、ディルアンは腰の革袋に入った液体を飲みながら、千鳥足で歩き出す。
残されたロズヴェータは、掌の勲章──旗頭に再び就任するという現実を噛み締めていた。
野営地の砂利を踏む。進む足取りは確かなものであったが、ロズヴェータは浮つきそうになる感情を必死に宥めていた。こんなうまい話があるはずがない。どこかに落とし穴はないのか。
その隣にユーグがついてくるまで、十歩もかからなかった。
「……ロズ。大丈夫ですか」
「ああ」
「何か、疑問でも?」
「再びの旗頭を命ぜられた。しかもこの短期間で……何の意図かと思ってな」
一拍の間があった。ユーグが珍しく、目を丸くして驚いている気配がした。すぐに表情を引き締しめて、低く抑えた祝いの言葉が続く。
「——おめでとうございます。偵察の功績が認められたということですね」
「だと良いのだが……」
「旗下に加える騎士隊は自分で選んでいいそうだ。この先に功績を立てれば騎士団への昇格も推薦しやすいから、穏便にやれということだった」
今度の沈黙は、長かった。
ロズヴェータが横を向くと、ユーグは整った顔に、にやりと——どこか背筋が冷えるような笑みを浮かべていた。
「……穏便にですか」
と副官は静かに言った。
「穏便にやれば自由に旗下を編成してよい、ということですね」
「……まぁ、そうなるか。以前に旗下に集まってくれた騎士隊に声をかけてみてくれるか」
「お任せを。——今日にでも声をかけ、三日後には出撃できるよう整えましょう」
「早いな」
「ロズも休むのを忘れずに」
「ああ、やることをやったら休む」
そう言って二人は別れた。その夕暮れの光の中、美貌の副官の横顔に浮かんでいた笑みが、ロズヴェータの記憶にどこか引っかかっていた。
旗頭、そして騎士団。
また一つ、階段を進んだ。
だが、まだ足りない。ロズヴェータは、知らぬ内に奥歯を噛み締めていた。
◇◆◇
「旗頭ぁ? そんな簡単に?」
ヴィヴィの声が天幕の布を震わせた。
ガッチェが天を仰ぐ。バリュードが薄く笑う。ルルが無表情のまま腕を組んだ。ネリネが口に手を当てたのが、視界の端に見えた。
「偵察の成果が認められてってこと?」
前回の偵察行で、危険な任務を任せたヴィヴィが疑問に首を傾げた。どちらかと言えば、前回よりも城塞都市ゲイルノアの前哨戦の方がきつかったと、感想を漏らす。
げんなりとした彼女の表情に、他の分隊長達も同意を示していた。
「あれはきつかった……」
ガッチェが珍しく弱音を吐く。
「……二度とやりたくないね」
バリュードはげんなりした様子で頷いた。
ため息交じりに古参の分隊長達が同意を示すが、ロズヴェータは苦笑交じりに横道にずれそうな話を戻す。
「遠征軍の旗頭だ。その後は騎士団への昇格も視野に入れておけとのことだ」
ロズヴェータは全員の顔を一通り見回してから、短く言った。
「何か変わると思うか」
「え、変わらないんですか!?」
「動く金が増える。動ける範囲が広がる。敵の顔ぶれも変わる——それだけだ」
「それだけかよ」
バリュードが笑ったような笑っていないような顔で呟いた。
「旗頭に、騎士団ということは」
とガッチェが口を開いた。
「補給線の権限も我々に?」
「今申請を出している。通れば、そうなる」
「……それは、ありがたい」
ガッチェが目を細める。後方からの物資が滞り続けることを知っている男だ。反応が正直でいい。
「隊長」
ルルが静かに割り込んだ。
「こっちは?」
人差し指と親指で円を作る彼女は、無表情を決め込んでいるが元傭兵だ。当然気になる者は気になる。視線がロズヴェータに集中した。
「前回と同じ、で分かるか?」
旗下の所と折衝もあるため、旗頭に払われる報酬が騎士隊よりも低いとは聞いたことが無いとロズヴェータは思った。
ルルが頷くのをロズヴェータが確認して周囲に目を向ける。分隊長達のざわめきが広がっていた。
良かった、という空気だった。おめでとう、という空気でもあった。しかしそれを誰も口には出さない。この騎士隊の人間はそういう顔をする。ロズヴェータはそれを、悪くないと思っていた。
ただ——一つだけ、気になることがある。
ユーグがいない。
申請に動いているのだから当然だ。そう自分に言い聞かせながらも、夕刻に見たあの笑みが、ロズヴェータの胸の奥を時々ざわつかせた。
「……穏便に申請が通ればな」
翌日から、上層部の幕舎が騒がしくなった。
前衛軍の軍幹部が来た。後衛軍の軍幹部も来た。顔は揃いも揃って青筋を浮かべており、話の内容を要約すると「三頭獣が引き抜こうとしている騎士隊を引き抜くな」という一点に集約された。
対応したユーグは、表面上だけは美貌に笑みを浮かべた。
「各々騎士隊は引継ぎを終わっていると思いますが? しかも希望をしているのに、それを受理されていないと聞いております」
「……それは」
「しかし、これはあまりに——」
「文句がおありでしたら」
ユーグはにっこりと笑い、来た道を指し示した。
「総指揮官に直々に、どうぞ」
その一言で、軍幹部は全員帰るしかなかった。
話を聞かされたロズヴェータは、額に手を当てながら天を仰いだ。
「ユーグ、穏便に、って言葉の意味を知っているか?」
「ええ、勿論。今回は穏便にやりました」
「穏便にやったら各軍から幹部級が飛んでこないのでは?」
「あれは面子を守るための、演技ですよ。兵站担当の騎士隊も、陣地構築の騎士隊も、うちの旗下に入れないと、この過酷な遠征は続けられないでしょう?」
「演技?」
いくつかの聞き逃せない単語に、ロズヴェータが反応する。
「今は遠征軍全体で再編の最終段階らしいですからね。簡単に各軍の主力級を引き抜かれたら困る各軍が、必死になって留めているんでしょう」
言っていることは正しい。ただ正しいことが穏便とは限らない。
「申請の内容は」
「旗下十二隊。総勢七百と少し」
ロズヴェータはしばらく黙っていた。
「……それは、やりすぎではないか」
「必要な戦力です」
「胃が痛い」
「休んでください、隊長」
ロズヴェータが胃の辺りを押さえて唸っているところに、天幕の入り口の幕が揺れた。
◇◆◇
ロズヴェータのために用意された天幕の入り口が揺れた。
「よぉ、また来たぞ」
その声と共に入って来るのはディルアンだった。
にへら、と笑った顔には、相変わらず一分の緊張もない。ロズヴェータとユーグは同時に立ち上がった。ユーグの表情からは先ほどまでの笑みが消えていた——消えていたが、動揺はない。それが逆に、ロズヴェータには少し怖かった。
「騒がしくなったなぁ」
ディルアンは当然のように木箱に腰を下ろして、腰の革袋を傾けた。ロズヴェータとユーグの鼻腔をくすぐる芳醇な葡萄酒の香が広がる。
「各軍の幹部が来たそうだな」
「ええ……。穏便に対応させていただきました」
ユーグが涼しい顔で答えた。ディルアンはそれを聞いて、一拍間を置いてから、苦笑を深める。糾弾するような声ではなく、事実を確認するための淡々とした世間話のような口調。
「……騎士隊を引き抜かれるのが不満で来た幹部連中に、総指揮官に言えと返したのが穏便か」
「使えるからと言って、騎士隊の希望を無視して自身の手元に置き続けるのは、いかがでしょう。戦力は効率的に使いませんと」
「否定はしねぇ」
ディルアンは革袋の口を閉じながら、ロズヴェータを見る。値踏みする目ではなく——何かを確かめるような目だった。
「ロズヴェータ」
「はっ」
「俺が穏便にと言ったのは、お前に向けて言ったんだぞ」
その一言で、ユーグが口を閉じた。
ロズヴェータは、数秒かけてその意味を飲み込んだ。副官が動く前に、自分が動け。旗下をまとめるのは旗頭の仕事。部下を使うなとは言わない——ただ、ユーグが前に出るたびにロズヴェータの器量が問われる、という話だ。
「……申し訳ありません」
「謝る話じゃない」
ディルアンは立ち上がって、ひらひらと手を振った。
「お前の副官はよく動く。使えるし、結果も出る。ただ——騎士団の長というのはな、そういう奴を制御できるかどうかも見られてんだ。分かるか?」
「……はい」
「まぁ、今はそれだけだ。あとは」
ディルアンは幕口に向かいながら、肩越しにロズヴェータを見た。
「旗下に入った騎士隊の隊長連中に、自分で挨拶して回れ。書状じゃなく、顔を見せろ。そういうのが、一番効く」
そう言って、またふらりと出ていく。
天幕に残された二人のうち、先に口を開いたのはユーグだった。
「……ロズ、申し訳ありません」
「お前が謝る話でもない」
「いいえ。今回の件は、私の判断が早すぎました。ロズに事前に相談すべきでした」
珍しく、ユーグが素直に頭を下げた。ロズヴェータはそれを見て、しばらく黙った。
怒る気にはなれない。ユーグが動いた理由は分かっている。
焦りだ。
ただ——ディルアンの言葉は正しかった。旗頭が副官の後ろに隠れているようでは、旗下はまとまらない。
「次から一言、言え」
「……承知しました」
今度こそユーグが、やや力の抜けた笑みを浮かべた。ロズヴェータはため息を一つ吐いてから、立ち上がった。
「旗下の隊長達に挨拶に行く。お前は申請の後処理を頼む」
「お供いたします」
「いいや、一人で行く」
ユーグが少し目を細めた。
「……ロズ、一人というのは」
危険が多い。少なくとも、ユーグから見ればロズヴェータに危害を加えそうな輩はごまんといる。
「お前がいると、相手がお前ばかり見る。顔を見せに行くのは俺だ」
ユーグは一拍置いてから、深く頷いた。
「——かしこまりました」
◇◆◇
遠征軍の宿営地は広い。
ロズヴェータは、新たに旗下に加わった十二の騎士隊を一つ一つ回った。案内や護衛をつけず、必要によっては人に聞きながら。三頭獣の紋章旗を背に一人で歩いていると、すれ違う兵士が怪訝な顔をした。
最初に訪ねた騎士は、四十がらみの男だった。西方出身の吹けば飛ぶような貴族の末端に名を連ねるような出自の男。
「あんたがドライアルドベスティエの隊長か。……思ったより若いな」
「よく言われます」
「前に旗頭だったとき、あの城塞都市を落としたんだろう? 今回も大きな手柄を狙うのかい?」
「今回は、穏便にやるつもりです」
男は少し考えてから、低く笑った。
「ユーグって副官に言い聞かせるのが先じゃないか」
「それも含めて、自分の仕事だと思っています」
男の目が、わずかに変わった。
「……まぁ、よろしく頼む」
砂漠人のミスキンドの天幕は、他のそれと少し違った。
地面に敷かれた布地は砂漠の民の様式を踏んでいる。幕の内側に短刀が二本吊るされ、消えかけた香の残り香が漂っていた。王国の騎士隊とは明らかに違う空気の中で、精悍な顔つきの砂漠人が一人、腕を組んで待っていた。
「来るとは思っていた」
「待遇が良くなったな」
ミスキンドは立ち上がりもせず、ロズヴェータを見た。ロズヴェータもそれを気にせず、天幕を見渡した。以前は沼地に追いやられ病気の発生すら懸念された彼らの天幕地域は、今は比較的硬い地面と水はけの良い場所に移っている。
「お前のおかげだ」
「自分達の力が勝ち取った成果だろう?」
ロズヴェータの返しにミスキンドはにやりと笑う。相応の自負がある笑みだった。
「一人で来るとは思わなかったが、顔の良い副官は?」
「あいさつ回りだからと言って置いてきた」
砂漠人は短く笑った。その笑いは柔らかかったが、目だけは笑っていない。
「座れ」
促されてロズヴェータは腰を下ろした。ミスキンドが香の残る椀を差し出す。受け取って一口飲むと、苦みのある薬草の味がした。
「薬草か?」
「故郷のな。遠方より来た友に出すしきたりだ」
「しきたりなら、仕方ない。一気に飲むのが作法か?」
頷くミスキンドに、ロズヴェータは、苦みのあるそれを一気に飲み干した。
「ぅぅ……癖になりそうだ」
ロズヴェータの言葉に低く笑うミスキンドは、上機嫌に口を開いた。
「旗頭殿に直接聞きたいことがある」
「俺はリオングラウスの神を持たない。三日月帝国とも縁はない。金で動く傭兵だ」
「ああ、知っている」
「この戦が終わったとき、うちの者は正当な報酬をもらえるか。戦勝の恩賞が王国の騎士に厚く、俺たちに薄い——そういう話にはならないか」
ロズヴェータは一拍置いた。
「保証はできない」
「……正直だな」
「旗下にいる間は旗頭が責任を持つ。それ以上は約束できない。もし約束しても、今の俺には守る手段がない。しかし、友の頼みは聞くつもりだ」
ミスキンドはしばらく黙っていた。
「ならば」
ミスキンドは、自身の器にも先ほどの苦い茶を注ぐ。額に当てる様に器を持ってきて、自身も一気に飲み干した。
「……なぜ、ここまで苦いのか。祖先に文句を言いたくなるな」
ロズヴェータは笑い、ミスキンドも笑う。
「共に苦杯を嘗めようか」
ミスキンドの男くさい笑みに、ロズヴェータもまた笑った。
陣地のいちばん外れ、補給物資の積み上げに近い場所に目当ての天幕はあった。
中は整然としていた。書類が几帳面に積まれ、地図は折り目正しく畳まれている。天幕を管理する人間の性格が、そのまま出ていた。
隊長と呼ばれた男は五十がらみで、白髪の混じった頭と、長年の計算で刻まれたような細い目を持っていた。名をガーデルという。
「ドライアルドベスティエの隊長殿が直接来られるとは」
ガーデルはロズヴェータを見て、驚きを隠す素振りもなく言った。
「副官殿から旗下につく件は聞いています。率直に伺いますが」
ガーデルは静かに言った。腹を立てているわけではない。ただ、聞かなければならない、という顔だった。
「うちの者は前線向きの訓練を受けていません。もし前線に出すつもりがあるなら、正直に申し上げて不安が残る」
「功績は不要だと?」
ガーデルが目を細めた。
「前線で戦うだけが功績だとお考えで?」
細い目を更に細くさせたガーデルがロズヴェータに問う。
「兵站が動かなければ、前線は三日で崩れる。しかし、前線での活躍は分かりやすい」
沈黙があった。
「うちの者に、功績をくださると?」
「功績は自ら掴み取るもの、だが少なくとも公平にはするつもりだ」
ガーデルは少し考えて頷いた。
「御配慮頂けるなら、幸いです」
「騎士ガーデルの懸念は、分かった。最大限考慮させてもらう」
「うちの者達には私から話します。何かご要望があれば、副官殿ではなく直接私に言っていただけますか」
「そうする」
頷くロズヴェータが答えると、ガーデルはわずかに口元をほぐした。隊長ではなく、人間の顔がそこに見えた気がした。
他の隊長達も、最初は様子を見る目だった。ロズヴェータが一人で来たことへの軽い驚き。前回の旗頭時代の話を持ち出す者、副官の名を出す者。それぞれに事情と警戒があった。しかしどこも、短い言葉のやり取りの後には、悪くはないという空気になった。
声高に歓迎されるわけではない。それで十分だった。
最後の天幕を出たとき、空が赤く染まっていた。ロズヴェータは少し足を止めて、西の空を見た。
十二隊。七百。三頭獣を加えれば約一千。
それだけの人間の命が、今日から自分の判断に乗る。旗頭というのはそういうことだ、と改めて思った。重いとは思わない。軽いとも思わない。ただ——それだけの重さがあることは、意識しておくべきだ。
脳裏に、ディルアンの言葉がよぎる。
──騎士団の長というのは、そういう奴を制御できるかどうかも見られてんだ。
ユーグのことだけではない。七百の人間をどう動かすか。それを問われている。
◇◆◇
夜になってから、ラスタッツァが来た。
天幕の外から声もかけずに入ってくるのはこの女の癖だ。今日は、いつもより少し早い。
「邪魔するよ。隊長、また旗頭の就任だそうじゃないか。しかも今度は穏便にやったって?」
道化師の化粧をしたまま、翡翠色の目がこちらをじっと見る。
「騒がしかったのは聞こえていたけれど」
「穏便の定義が副官と俺で少し違ったらしくてね」
「ハハ」
ラスタッツァが短く笑った。
「騎士団の話が出ているって本当かい?」
ロズヴェータは少し目を細めた。情報が早い。
「どこで聞いた?」
ロズヴェータの視線が鋭くなる。
「あたしは商人だよ。情報が命だ」
ロズヴェータを見つめる視線に探る色がある。その情報が金になるか、真実なのかを探る視線だ。
「騎士団になるなら、あたしにとっても悪くない話だと思ってね」
「そうだろうな。だから——」
「先に動いておいた?」
ラスタッツァが先を取った。
「今回は、まだそこまでは言えない」
「……珍しい」
ロズヴェータが素直に認めると、ラスタッツァは少し目を開けた。
「旗頭と騎士団の間には、まだ距離がある。今言えるのは——動く方向は同じだということだけだ」
しばらく沈黙があった。
それからラスタッツァが、ゆっくりと笑った。計算の笑いではなく、何か別のものが混じった笑いだった。
「……なんだ。あんたも不確かなことは言わないんだ」
「当然だろう」
「良いじゃないか。そっちの方が、信用できる。いひひ」
ラスタッツァは道化のように笑い、踵を返しながら、肩越しに付け足した。
「——旗頭様。まだまだよろしく」
幕の外に消えた背中を見送って、ロズヴェータは一人になった。
採光の為の火が小さくなっている。
手元の書類はあらかた片付け、後は後日に回しても良い物ばかり。ロズヴェータは椅子に座ったままぼんやりと天幕の天井を見上げた。
旗頭に戻った。
一度失ったものに、もう一度手が届いた。それだけではなく、この先に騎士団という道が見えてきた。ディルアンがそれを見せたのか、それともロズヴェータが見えるようになったのか、自分では判断がつかない。
ただ——以前と一つ変わったことがある。
以前の旗頭は、与えられた場所で戦い続けるだけだったが今度は違う。死に物狂いで城塞都市ゲイルノアを落とした。偶然の要素が強い博打だったと今思い返しても、そう思う。
だが、今度は違う。そう決めた。
──旗頭。
三頭獣を含めて、総勢一千の長だ。その命が、自らの肩に乗る。
ヒルデガルドの顔が浮かんだ。
婚約破棄を告げたときの顔ではなく、最初に顔を合わせたときの顔だ。
──まだ、足りない。
しかし、距離は縮まっている。
火が一段小さくなって、幕の中が少し暗くなった。ロズヴェータはそれを眺めながら、静かに次の一手を考え始めた。




