7話 君といばらと遠い道
数多の英雄を生んだ三国時代。
魏、呉、そして蜀。
曹操、孫権、劉備。
1800年の未来でも知らぬ者はない希代の英傑たち。
それも多分変わる。
呉の主は孫策のまま。
孫権はその補佐に努めている。
蜀はいまだ建つ兆しもなく。
あやの知る歴史では、蜀の建国にはあと20年の時を要する。
だがそれではダメなのだ。
乱世は続けば続くほど民を苦しめる。
歴史は変わりつつある。
一つ変わってしまったのなら、もうその大小は同じだろう。
歴史という本来変わるはずのない大河は外部の力を加えられ、本来の流れを見失い、ゆらゆらと不安定に行き先を惑っている。
ならば、と思い切る。
最早、先の見えないものならば。
誰が最良の未来を創るのかなどわからない。
だからあやは自分の望む方向に流れを変えることに決めた。
少しでもいい方向に。
大切なものを失わないように。
誰かが、大切な人を亡くして嘆かずにすむ様に。
もう、失うのは嫌だ。
あやだって、そう思った。
だから終わらせたい。
その道程がたとえ茨の道でも。
あやはゆっくりと拱手をした。
「謹んで拝命致します。」
劉表の客将として新野を拠点とする劉備軍はそう裕福ではなかった。
劉備ですら街に城という名の館が与えられているだけなのだから、一般の兵は知れたもの。
だが、彼らは精鋭だった。
長い流浪を続けた劉備に、それでも付いて来た忠誠心と多くの戦が、彼らを鍛え上げたのだろう。
玄鳥の武部隊とでは数の問題で劉備軍が遥かに勝っているから比べようもないが、聞く所によると呂布軍なき今、この辺りでは劉備軍の騎馬隊は最強の名を欲しいままにしているらしい。
あやは劉備の城の上から彼らの訓練風景を眺めていた。
新参者のあやはまだ配属が決まっていないため、やることがない。
眼下では歩兵が型の反復訓練。
遠く荒野では騎馬が砂を巻き上げる様が見て取れた。
あやは眉を顰める。
歩兵はいい。
よく鍛えていると言わざるを得ない。
だが、劉備軍の馬はこの遠目から見てもそう良馬が揃っているとは言い難かった。
それでも最強と呼ばれているなら、それは兵や、それを率いている武将、あるいは指揮官が優れているのだろう。
「あや、そんなところにいるとまた中玄が怒鳴りにくるぞ」
「呂布、よくここがわかったわね」
呂布は鼻を鳴らした。
「馬鹿と煙は高いところが好きと言うからな」
「…あんた、いつも思うけどあたしを怒らせたいわけ?」
あやは城の最上階で欄干に背を預けて見上げてくる呂布を睨んだ。
呂布がいる場所から先ほどひょいと屋根によじ登ったのだ。
ここならば遠くまでよく見える。
高さでいうなら怖いとは思わない。
なにせコンクリートもないこの時代。
建物に高さを出すには限界がある。
ビルの森で育ってきたのだからこの程度は高いとも思わない。
呂布は何も答えず、あやと同じく欄干に足をかけ、その巨体をものともせずに簡単にあやの隣に立った。
呂布の言う通り、祁央なら怒っている所だが、呂布は特に何も言わない。
それを知っているからあやもそこを動かない。
「他のみんなは?」
「…色々やっていたな」
「ちょっと!返事を面倒臭がらないでくれる?」
あやはため息をついて、また遠くを眺めた。
騎馬の地響きはここまで聞こえてくる。
多分呂布からすればまだ未熟な隊だろうが、彼は何も言わない。
「あんたは?何してたの?」
「別に…。鍛冶場と厩を見てきただけだ」
その言葉にあやは小さく笑みを刻んだ。
呂布も、皆も、ちゃんと居場所を見つけている。
これから自分がやるべき事を、認識している。
「あたしだけか~」
あやは愚痴っぽく漏らした。
「嘯くな」
ぴしゃりと呂布が被せるように言ったから、あやは少しだけ驚いて、また笑う。
少し困ったような、苦笑のようになってしまった。
他の者と同様に、彼女も劉備軍で自分が担う場所を知っている。
そして、すでに行動を起こしている。
あやがこんな所で、人々の様子を黙って見ているのはそういうことだろう。
自分だけ「のけ者」だなどと、よくも堂々と口に出来たものだ。
大人しく、文官か、せめて孔明の補佐として軍師でもやっていればいいものを。
呂布はそう苦々しく思う。
だが、それなりに共に過ごした呂布だから、あやの性質を理解してもいる。
あやは、誰かに辛さを強要する時は必ず先頭に立つ。
他の誰よりも厳しい場所に身を置こうとする。
そう育てられたのだろう。
彼女のいた世界はきっと、優しい世界だったのだ。
「まったく、厄介な女だ」
茨の道を、選ぶ。
自分のように、本能のままに走るのでなく。
曹操のように、好き好んで往くのではなく。
本当は往きたくない道を、意志の力で選び取る。
「下知は明日だそうだ」
「りょーかい」
あやは呂布には目を向けず、呂布の気配が消えるのをただ黙って荒野を眺めながら感じていた。
ここからの光景は、生まれ育ったあの町の外れで、長い階段を上った先にある神社からの景色に似ていた。
共通点など何一つ見つけられないのに、あやの中の何かがそう思わせる。
長い階段を息を切らして上りきり、振り返った先に見る風景はたくさんの家と整備された道の人工物ばかり。
でもあやはその風景が好きだった。
夕陽に照らされた町はとてもきれいで、何故か泣きたくなったものだ。
―遠くに、本当に遠くに来てしまった。
友は元気で、幸せにやっているだろうか。
突然、馬の嘶きが聞こえて、あやは遠くを眺める事をやめ、眼下を見た。
原陽。
あやを呼んでいる。
呂布が赤兎と荒野へ駆け出していくのが見えた。
その上には左近の鳥が旋回している。
続く馬の足音。
趙雲が赤兎と呂布を追って出て行く。
多分、対抗心が湧いたのだろう。
あの赤兎に追いつけるとは到底思えないけど、趙雲らしさにあやは微笑む。
原陽が急かす様にもう一度嘶く。
友は故郷にいる。
けれど、ここには朋がいた。
「今、行く」
あやは原陽に呟いた。
こんな遠くでも、原陽には届いたようで、彼は嘶きを止めた。
あやは城の屋根を滑り降りて、駆け出す。
何度でも、郷愁は襲うだろう。
何度でも、感慨は浮かぶだろう。
こうして岐路に立たされたとき。
こうして少しの余裕があるとき。
こうして、責を負おうとする時。
それは自分の弱さであり、あやはそれを否定しない。
だけど、彼らが呼ぶ。
だから顔を上げて、走り出す。
荒野へと向かいながら、あやは笑った。
今度は苦笑でも、自嘲でもない。
解けるような笑み。
誰も見ることのなかったそれは大輪の花のようだった。
朋よ。
あなた達のおかげで、あたしは十分に浸ることも出来やしない。
花が、咲き誇ろうと、太陽に葉を広げる。
時が、満ち始めていた。
「祁央」
左近が呼んで、指差した先にあやが城から原陽と共に駆け出していくのが見えた。
いつもなら『まったく…』と言って呆れ半分、怒り半分の声は今日は聞こえない。
「祁央?」
「あやは、荒野に咲く花だった」
多分、左近以外の誰にも言ったりしない。
口にするにはあまりにも詩的で恥を覚える表現だからだ。
だが今日は、そういう気分だった。
久しぶりに空いた時間が、振り返る時間を与えたのだろう。
左近は唐突な祁央の言葉にも黙って続きを待つ。
「白い、小さな花をつける、荒野の風に揺れる花だった」
初めて出会ったときの彼女は頼りなげで、いまにも折れそうな弱々しさがあった。
今でも、時々独りでどこか遠くを見ている彼女を、そう思うときもある。
でも、それは決して折れはせず。
いまだ、強い風にも負けはせず。
「あれは多分、この大陸に咲き誇る、誰も見たことのない花になる。弱さを美しさに、強さを鮮やかさに変えて、誰をも惹きつけてやまない、天まで背を伸ばす花になる」
今、静かに綻んでいくつぼみ。
祁央が守ってきたあの白い小さな花は、いまだ咲かない花だったのだ。
「不安か?」
「そうじゃない。いや、そうなのかな。…左近、俺はついて行けるかだろうか。走り出したあやに」
多分、天までも望める彼女。
祁央は、天に手を伸ばしたいと思ったこともない。
そんな自分が、どこまで。
「俺は、あいつの隣に居るのに相応しいか?」
「それを決めるのはおれなのか?」
「……いや」
左近の問いかけに、祁央は埒の明かない事を口にしていたことに気付いてため息をついた。
「悪かった。下らない事を言った」
「別にいいさ。おれはお前にとって下らないことを言える相手でありたい」
祁央も自分らしくない事を言ったが、左近も今日はいつもは言わない事を口にする。
少し驚いて、だが祁央は気付かない振りをした。
どこかで、何かが変わる予感が、小さな緊張感を生んでいる。
それはまるで嵐の前の静けさのような。
「左近。お前は強いな」
祁央よりも揺らがない瞳は昔からだった。
左近は祁央から目を逸らして、もう豆粒ほどになってしまったあやの姿を視界に戻した。
昔、あやが言った。
努力は報われると。
そうして、左近の努力は報われ続けてきた。
だから思っているだけだ。
あやが尚速く駆けるなら、共に駆ける努力を。
誰よりも努力を。
更なる努力を、するだけなのだ。
「どうやら俺たちに諦めるという道はないらしいな」
「当然だろう」
祁央と左近はにやりと笑った。
「正気ですか、殿?」
「孔明、私にそれを聞くのか?」
「…龐統殿はどう思われますか?」
「お前さん、あっしにそれを聞くのかい?」
劉備と龐統に同じ答えを返されて孔明は眉間に皺を寄せた。
「あっしなんて昨日会ったばかりだ。なにか言える事があるとでも?お前さんらしくないねえ。あっしらの中で一番長く一緒にいたのは劉備殿さ、ここは従うのが良策だと思うが」
「…御二方がそうおっしゃるのなら」
「不満か、孔明」
「いいえ、ただ不安なだけです」
「…そうだな。私もあの光景を見なければそう思っただろう」
玄鳥族から旅立った日。
あの壮観な光景。
あやは、ただで玄鳥天女などと呼ばれて、奉られていたわけではない。
「殿?」
「いや、何でもない。…とにかく、試しでもいい。お前たちが無理だと判断したらそれで構わん、この案は撤回しよう。だが今は私の言に従ってくれ」
「わかりました」
「あいよ、承知した」
だがそういうことには多分ならない。
劉備は確信を持って思った。
城の広間。
あやからすれば馬鹿みたいに広い空間だ。
そんな大陸的な広さを持っていても、劉備軍の幹部がずらりと顔を並べればさすがに狭く感じる。
その真ん中で、上座にいる劉備に向かって平伏したまま待った。
並ぶ顔ぶれは新しく劉備軍に参入したあや、祁央、左近。
それから呂布と貂蝉、孔明に月英。
「顔を上げよ」
許しを貰い、体を起こす。
劉備の隣の龐統が口上を述べ、初めに孔明の名を呼んだ。
「は!」
「軍師としてその叡智を示せ」
「是」
孔明が拱手を掲げる。
龐統が劉備の隣を譲って、孔明は堂々とそこに立った。
初めからそうあったように、しっくりと馴染んでいるようにあやには思えた。
何の躊躇いも気負いもなく、孔明は龐統から役目を継いで口を開く。
「月英、後方を任せます」
「承りました」
次に呼ばれたのは呂布。
「呂布、奉先」
呂布は返事をせずに、目線だけを孔明に合わせて答える。
劉備軍の人々が身じろぎをしたのは、彼らも関羽と同じく、呂布に対する複雑な思いがあったからだろう。
しかし味方になるならこれ程心強い者も他にはいない。
「騎馬隊一軍を与える。精鋭として育てよ」
どよめきが起こった。
かつての敵に、これは破格の扱いだった。
特に呂布ほどの者に、多くの力を与えるのは危険だと思っているものも多くいる。
裏切った時には手痛い打撃を与えられることになるからだ。
呂布は周りの反応にはまったく耳を貸さず、劉備を見て、彼に異論がないと知ると拱手をする。
「承知」
呂布は特に動揺も見せずに受けた。
本当はあやの傍で馬を並べるのも面白そうだと思っていたが、多分彼女は大丈夫。
この間、共に荒野を駆けて、自分は自分の力を揮った方がいいだろうと思った。
「貂蝉、そなた望みはあるか?」
「一兵卒で構いません。奉先様と同じ隊に配属して頂きたく存じます」
貂蝉の居場所は今も呂布の傍。
戦場でも隣を駆ける。
孔明がちらりと劉備に目線で問う。
「良いだろう」
劉備が頷いて、貂蝉は礼を述べた。
「響彩」
「はい」
孔明の顔が少しだけ苦いように思うのは気のせいでもないだろう。
多分、劉備はあやの望み通りの命をくれたのだ。
力を揮える場所。
血を浴びる所。
命が消える、戦場。
「一隊を与える。武将として励め」
今度こそ、場が揺れるほどの動揺が走った。
あまりにも無謀な命令。
小娘に務まるような任ではなかった。
あやは目を閉じる。
茨の道だ。
遠い道のり。
それでも、これが前に進む一歩だと信じて。
あやはゆっくりと拱手を掲げた。
最後に、目蓋の裏。
映る険しい道の先、見知った後姿が見えた気がした。
違う道を歩いているはずの、見えるはずのない人物にあやは瞠目した。
どうして彼の背が見えるのだろう。
往く道はもう交わらないのに。
幻だと、思った。
あやは幻覚を消すように目を開いて、劉備を見る。
強く、現実を焼き付ける。
「謹んで拝命致します」




