小咄 疵
実は本当に偶然だったのだ。
彼女を見つけたのは。
のんびりと、小さな湖に張り出した木の上での昼寝。
笠で日差しを遮り快適な居眠り空間を作る。
最高だ。
趙雲たちは久々に帰ってくる主君のために何やら忙しく動き回っていたようだが、龐統はふらりと新野を出て、誰も来ない静かな秘境で居眠り。
人材がいないなら龐統だって働くが、手があるのに動く気はない。
仕事はそこそこが一番いい。
万事がそういう姿勢だった。
昔の心理的な何かが今もこの生き方に影響しているのかもしれない。
そんなことを考えたからだろうか、龐統はここ最近思い出しもしなかったかつての同門を思い出す。
よくできる男だった。
天才と言ってもよかった。
大して努力もせずに人より出来た龐統が初めて突きつけられた壁。
それが彼。
龐統にとって彼はどう足掻いても手の届かない人間だった。
なのに、龐統にはわかることも多かったのだ。
それが何よりも不幸なことだったのかもしれない。
凡人よりは彼に近く、だからこそ必要以上には傍に寄らない。
その態度が正しかったのか、間違っていたのか、それから彼に会っていない龐統にはわからない。
独り、周りを見ずにいた彼は一体今、どうしているだろうか。
その名を聞かない。
天下に鳴り響くはずの彼の名は今も尚、知られていない。
考えに耽る龐統の耳にがさりと草を踏み分ける音と、枝を掻き分ける音がした。
人特有の音だった。
龐統は珍しいこともあるものだと薄っすらと目を開ける。
近くの村人たちがここを訪れることはほとんどない。
まあ、どうでもいいことだ。
昼寝の邪魔をした闖入者のその姿を確認したらまた眠りに入ろうと思っていた。
どうせこんなところに人がいるなんて思わないだろうから、相手は自分に気付かない。
―おや?本当に珍しい。
だが、その姿を目にした龐統は閉じる予定だった半眼を、予定とは違い大きく開いた。
女だ。
こんな所に一人で。
きょろきょろと周りを見た女は誰もいないと確認するとざぶんと目の前の湖に飛び込んだ。
思い切りのいい女だった。
頭から水に浸かってしまった彼女から薄く色が流れ出している。
赤い、血の色。
彼女自身が怪我をしているわけではなさそうだった。
一体何をしてきたのか、血を洗い流しているのだと気付く。
怪訝に思って見ている内に、龐統にはまったく予想外の事態が起きた。
彼女は濡れた服をばっさと脱いでしまった。
これはいかん。
さすがに商売女でもない若い娘の肌を、相手が気付かないのをいいことに盗み見る気にはなれない。
紳士的に目を逸らそうとしたが、龐統は意志に反してその目を彼女に戻した。
驚いて、目を見張ってしまった。
疵だ。
肩口に。
腕に。
背に。
死ぬほどではない。
だが、その痕を残す疵。
中でも一番深い傷。
気持ちよさそうに水に揺蕩う彼女が、時々腕をさする。
それはもしかしたら無意識の癖なのかもしれない。
愛しそうに。
疵を撫でる。
興味が湧いた。
何事にも執着心の薄い龐統にとってそれはとても珍しい事だった。
多分劉備を主としたとき以来の好奇心。
疵は龐統にとって厭うものだ。
他の大多数の人々にとっても多分同じだろう。
傷をつけられると血が流れる。
痛みと苦しみが押し寄せる。
だから人はどうにかしてそれを避けようと懸命になるのだろう。
何となく、孔明を思い出した。
嫌いではなかったけど、彼が悪いわけではないことなど十分に承知していたけど。
それでも彼は他の人間が感じるのと同じく、龐統にとっても抜き身の刃物だった。
触れれば切れる。
そして悪いことに、龐統にはその鋭さゆえの彼の孤独も理解できてしまう。
凡愚共が孔明を見る目と、かつて神童と持て囃されていた頃の龐統を見る目はとてもよく似ていたから。
凡人にもなりきれず、天才にもなりきれず、龐統の生き方はそう気付いた時に決まった気がする。
だから、不思議に思った。
疵は疵だ。
そんな風にして、痛みが愛おしさに変わることがあるのか。
聞いてみたいと思った。
疵ごと愛せたなら。
傷つく自分を許せていたなら。
あるいは自分の生き方はもっと違ったものになっていのだろうか。




