8話 お近づきになってみよう。
「こんにちは」
原陽の背からひらりと降りて、あやは目的の人物の顔を覗き込んで言った。
彼は頷いただけだ。
だけど逃げない。
殺気もない。
あやはにっこりと笑う。
進歩だ!
彼に出会ったのは偶然。
とても奇妙な人物で、端的に言えば野生の獣みたいな男だった。
原陽と早駆けを楽しんで、近くに見えた休憩に丁度よさそうな場所を目に留め、一息つこうとした時の事。
新野から大分離れてしまったが、帰り道なら原陽が憶えている。
「原陽、川があるわ」
水を飲ませるために原陽から降りた時、草むらが音を立てた。
ぎくりとなって構えたのがいけなかったのかもしれない。
何たって彼は獣のような人だった。
殺気なんて放ったら警戒心も高まらざるを得ない。
そこには低く構えた男の姿。
今にも唸りだしそうな雰囲気であやを睨んでいた。
多分あやより先にそこにいたのだろう。
あやは彼の姿を見て、自分の警戒心が歪むのがわかった。
―どうなのよ、これは…。
最近奇妙な人物に会ったばかりだ。
どこぞの虚無僧と忍者を間違って混ぜたような劉備の軍師の格好も中々のインパクトだったが、この男はもっとアレだ。
寒くないのかしら?
純粋な疑問だった。
故郷を離れて大分北までやってきた。
だが、この男の格好は南の同盟者であった孟獲らの元にいても違和感はないだろう。
南で見れば気温から言ってさもありなんと思うところだが、ここでそんな姿を見せられても思うことは一つ。
つまり、盗賊か、山賊のようだ、と。
とりあえずあやは意志相通を図ってみることにした。
なにせ、問答無用で跳びかかられてはいない。
今も警戒しながらこちらを窺がっているだけ。
先手必勝はあやの信念に反するのだ。
「こ、こんにちは?」
「お、お、お、お前、敵…か?」
あやが話しかけてきたことに一層警戒心を高めながら彼は疑問文を放ってきた。
おや?
あやは多少言葉を異にする外国の者かと思った。
あるいは連声型か無声型の吃音症か。
まあ、あやにとってはだからどうしたという話だ。
どちらだとしても、どちらでもなくても、それに関しては特に思う所はない。
ただ、相互理解の道は遥かに遠そうだと思ったのは、挨拶に返ってきた言葉のせい。
一つは挨拶に挨拶が返ってこなかった事。
もう一つは、「敵」かもしれない人間に「敵か?」と聞くその心情が大変気になった。
じっとあやが見つめるせいで野生児がそわそわと落ち着かない。
遠巻きにこちらを見たまま、茂みの中を低い姿勢のままかさかさと動き回っている。
あやとしては当初の予定通り、出来れば原陽の休憩時間が欲しい。
どうしても、というわけではないが。
どうしようかと、ふと目を向けると原陽はこの状況でのんびりと食事中だ。
―ん?
いつもは鋭すぎる原野が、この男にあまり警戒心を抱いていないことにあやは気付いた。
確かに、考えてみれば行動は怪しすぎるが、言葉は通じている。
だから、原野の勘と、あやが気付いていなかった時に背後を取らなかった彼を信じて、言葉で頼んでみることにした。
答えは茂み中。
言葉は返ってこなかった。
自分に話しかけてくるあやの様子をおっかなびっくりしながら出たり引っ込んだりと忙しい。
口をつぐんでいるというよりは、聞こえていないか、答える余裕がないかの二択だ。
ならばとあやは待つことにした。
否定はされてない。
諦めるのは性に合わない。
都合のいい解釈は得意だ。
―根気比べね?
あやのよくわからない対抗心が燃えた。
もう多分本末が転倒している事にも気付いていないだろう。
どころか、本末を忘れている。
そわそわする男と、泰然と座り込んだあや。
どっちもどっちだ。
あやは彼の警戒心を解くために、ひたすら待った。
近づくこともなく、好きな事をして時間をつぶす。
どれくらいの時間が経ったのか、毛を逆立てているような様子を見せていた彼もその内あやの存在を気にしなくなった。
聞いたことがある。
獣に近づくためにはまず自分の気配に慣れさせることだと。
そうして一日中何の行動も起こさず、いよいよ帰らなければならないという時間になって、あやはやっと男に話しかけた。
さすがにまだびくりとされたが、殺気は消えている。
「あなた、いつもここにいるの?」
「い、い、いつも…違う」
「時々?」
頷いた。
話しかけて、答えたということは多分敵ではないと認識されたのだろう。
「また来てもいい?」
「こ、こ、こ、ここ…おれの…場所、違う」
「でもあなたの方が先に見つけたのでしょう?ならあたしは招かれざる客だわ」
そうだ、だから初めは彼に滞在許可を取ろうとしたのだ。
すっかり忘れていたことにあやは気付いた。
滞在許可を得るために長居。
矛盾だらけの行動に今更少しばかりバツが悪い。
「…お、お、お、お前…へん」
「失礼ね!」
声を荒げると彼は驚いたように茂みから出ていた身体を引っ込めた。
失敗。
だが幸い警戒心が再燃したりはしていないようだ。
ただ単に驚かせてしまっただけらしい。
気をつけよう。
「…ま、いいわ。そろそろ帰らないと夜になっちゃうから」
彼は空を見上げた。
まだ日は高い。
随分と遠い所から来たのだなと思っているのだろう。
山賊か野生児のように見えても、やはりちゃんと考える頭はあるようだ。
「じゃあ、またね」
彼は不思議そうな顔をした。
やはり挨拶は返ってこない。
あやは苦笑を残して原陽に飛び乗り腹を蹴る。
そして、あやは言った事を守って、またそこを訪れた。
彼は驚いた顔をした。
本当に来た。
そう思ったのかもしれない。
その時は自分の名前を教えた。
呼んではくれなかったけど、認識はしてくれたはずだ。
自慢の名だ、いつか呼んでくれると嬉しい。
その次は彼の名を聞き出した。
魏延、というらしい。
その次に魏延はやっとあやの名を呼んだ。
あやは嬉しくて笑った。
その頃には、あやにとって遠乗りの目的地はもうここ一択になっていた。
魏延はあやによく『変』と言う言葉を使う。
「お、お、お前、へん」
魏延は口下手だ。
吃音であるか否か以前の問題であるような気がする。
とにかく自分の気持ちを伝えることがうまくない。
そのことは接していれば直ぐにわかった。
だから何となくその言葉も悪い意味ではないのだろうとあやは肩を竦める。
この頃には魏延は警戒心もなく接してくれるようになっていた。
あやと原陽の気配を覚えたのか、訪れると魏延が近くまで迎えに出てきてくれていることもあった。
魏延はそこにはたまに来ると言っていたけど、あやがここを訪れて魏延に会えなかったことはない。
やっと慣れてきた頃、会話の中であやは気になったことを指摘した。
「魏延、挨拶したらちゃんと返さないと」
「あ、あいさつ?」
「挨拶は大事よ~?挨拶はあなたに敵意は持ってませんって言ってる様なものなのよ。だから言われた人は、自分もあなたに敵意はないですよって答えなきゃ」
「わ、わ、わ、わかった。あ、あ、挨拶、大事」
驚いたことに彼のそれは意図的ではなかったらしい。
魏延はちゃんと話せば自分で考えて理解する。
素直だし、いい子だ。
という事は、こんなことすら教えなかった親か指摘しなかった周りの責任が大きい気がする。
あるいは口下手や吃音症を疑う症状もそれに起因するのかもしれない。
何だか魏延を見ていると肩の力が抜ける。
飾らない、飾れない態度と言葉のせいだろう。
その分、どう考えてもコミュニケーションがうまくない彼の私生活が心配になってきた。
最初は懐かない獣を手懐けた気分だったが、最近のこの心境は母性の芽生えではないだろうか。
せめて彼が不信感や敵意を抱かせないくらいの人間関係を作れるようになってくれれば少しは安心できる。
―いっそ、お母さんって呼ばせようかしら。
あやは真剣に考える。
阿呆な考えを止めてくれるストッパーはここにはいない。
今もひらひらと舞う蝶に気を取られて、追かけたそうにうずうずとしている魏延。
―ああ、心配だ。
あやは心配でたまらない。
「魏延、ちゃんと友達いる?」
「と、と、と、友達…」
「そう、注意してくれたり、怒ってくれたり、助けてくれたり、ちゃんと話を聞いてくれる人」
「…い、い、い、いる。黄忠」
「いるのね!よかった」
「な、な、な、何故…あやが、喜ぶ?」
「だって、心配だもの」
「し、し、心配…お、お、お、おれを…?」
「心配よ!家では苛められてないわよね。お友達がいるんなら大丈夫だと思うけど」
「こ、黄忠…すごい…。あや…同じ。…お、お、おれの言葉…わかる」
「うんうん、いい人なのね。会ってみたいな」
きっと人の話をちゃんと聞く人なんだろう。
「…こ、こ、こ、黄忠にか?な、な、何故…?」
「だって魏延の友達でしょ?」
「…た、た、多分…」
「魏延に友達がいて嬉しいから!あたし仲良くなれる自信あるの!」
「?」
魏延が首を傾げる。
仕草がかわいい。
大の男、見た目は賊。
それでもあやにはそう見える。
もう親馬鹿かもしれない。
「魏延の良さをわかってくれる人だもの」
今までの経験故か魏延は人を敬遠するところがある。
その魏延が懐く人だ。
きっとその人も自分と同じように魏延が好きなんだろう。
そう言ったら、聞きなれない言葉を聞いたかのような、驚いた顔をした。
「…すき?」
どうやら言葉の意味がわからなかったらしい。
「…う~ん、『好き』なんて、どう説明しよう?…ええと、その人が悲しかったら同じように悲しくなって、その人が幸せだと自分も幸せになれる、そういう相手のこと、かな?」
「……お、お、お、おれ、あや好き。…あ、あ、あや、笑う…おれ…うれしい…」
「魏延!なんてかわいいの!」
親馬鹿を隠しもせずにあやは魏延に抱きつく。
なんというか愛しい子だ。
魏延は突然抱きついてきたあやに戸惑ったようだが、突き放すことはしなかった。
触っても平気ということは本当に気を許されたのだろうと思った。
魏延は見知った姿を見つけてここぞとばかりに意気込んで話しかけた。
「…こ、こ、黄忠、…い、一緒に…来る」
「ん?どうした魏延、一緒に行って欲しい所があるのか?」
魏延が頷くのを見てから、黄忠は自慢の白い髭を撫でながら笑った。
少しばかり背が高い、男、というよりは老年に差し掛かった頃合いだろう。
曲がることを知らないかのように真っすぐな背は、年による衰えを感じさせない。
「おぬしが頼み事とは珍しい。よし、承知した」
内容も聞かずに答えた黄忠に魏延はあやに言われた言葉を思い出す。
そういうのは信頼と言うのだと。
魏延は何となく嬉しくなる。
「で、どこに行くのだ?」
「…う、う、う、馬で…」
「遠いのじゃな。もしかして最近よくいないのはそこに行っていたのか?」
「…そう、だ」
「ほう、そこにわしを連れて行ってくれるのか」
「……あ、あ、あ、あや、言った。…こ、黄忠に…会いたい…」
「…もしや、あやというのは女の名か?」
「お、お、女…違う。…あやは、あや」
「ほうほう、おぬしに春が来たのか。これは喜ばしい!是非とも会いに行かねば!!」
「…嬉しい、か?」
「嬉しいとも!」
「…そ、そ、そうか。…おれ、も…嬉しい…」
黄忠が喜んでいる理由はわからないが、喜んでいる黄忠を見ていると嬉しくなる。
それは「好き」だということだとあやが言っていた。
魏延はそれを素直に口にして笑った。
「…おぬし、変わったの」
「…?」
「いや、いいんじゃ。いいことだからのう」
頷いて黄忠は厩を目指し先を歩く。
すれ違う人々が頭を下げて通り過ぎていく中、黄忠は鷹揚に応えるが、魏延に気づくと人々は避けていく。
いつものことだが苦々しい思いは消えない。
言葉がすぐに出ない魏延は極力人前で喋りたがらない。
それを魏延の態度が悪いと人は疎み、人の感情に敏感な魏延はますます話さなくなった。
悪循環だ。
「あ、黄忠様、っと…魏延殿、こんにちは」
一人の若者がまた通り過ぎる時に黄忠に頭を下げた。
その後ろにいた魏延には気づかなかったのだろう。
途中で少し淀んでから言い足した。
黄忠は相変わらず応えて頷いたが、驚いたのは魏延の声がしたからだ。
「こん、にち…は」
言い慣れていないのか、思いきりギクシャクとしていたがそれは確かに挨拶だった。
魏延が黄忠以外と話をすることなどほとんどない。
事実、挨拶を返された方も驚いてその動きを止めてしまっている。
「魏延、一体どうした」
「…お、お、おれ、へん…?」
「いや、そうじゃない。だが何かあったのかと」
「…あ、あ、あや、言った。あ、挨拶…大事。返す、大事」
「いい女子の様じゃな。これは張り切って会いに行かねば。手土産は何がいいかな?」
理由は定かではないが、上機嫌になった黄忠が魏延にそう聞いた。
魏延が疑問符を頭の上に浮かべる。
「こりゃ、もしかして今まで手ぶらで会っておったのか!?」
魏延が頷くのを見て黄忠が顔に手を当て唸った。
「…そういう女子がいる事、何故もっと早く言わなんだか。そうすればこんな失敗はせずに済んだものを!」
「し、し、し、失敗…?」
「ああ、いや。おぬしが悪いのではない。だが、女子《おなご》は贈り物をすると喜ぶものじゃ。だから男は女に会いに行く時には何かもって行くことが多い。その「あや」とやらはどんなものが好きなんじゃ」
「…し、し、知らない、おれ、…な、なにも知らない」
「では何か菓子折りでも…」
「…お、お、お、おれも…贈り物…」
「ん、魏延もするのか?」
「あや…嬉しい……お、お、おれ…嬉しい」
「…こりゃあ、本当に気張らんといかんかのう。魏延の嫁に来てくれるように頼まねば」
「……あや、笑う。…お、おれ…それで……いい…」
「なんとまあ」
黄忠は言うべき言葉をなくして魏延の顔をまじまじと見る。
「会うのが楽しみじゃな」
彼女はきっととても心の美しい人なんだろう。
馬を駆けさせながら黄忠はやっと目的地を聞いた。
答えた魏延に黄忠は本日何度目かわからない驚きの目を向ける。
「…それは、わしらは大丈夫じゃが。おなごには危険ではないか?」
どの街からも離れた場所にある小さな森。
荊州は他のどこよりも安全な場所であったが、それもこの乱世にあっては高が知れている。
賊もいるし、獣は他州と変わらずに多い。
「あ、あ、あや、強い。お、狼、斬る。…心配ない」
黄忠は怪訝な顔をした。
「おなごが狼を斬ったのか?」
「お、おれ、負ける。よ、よ、よ、よくある。」
一緒にのんびりと過ごしていた時、飛び出してきた狼を魏延は軽く一刀両断した。
普通狼は群れで行動する獣だ。
はっとあやを振り返れば、やはり他にもいた狼に彼女も焦ることなく急所を一突き。
狼は動かなくなっていた。
彼女の剣は飾りではない。
魏延はあやの技量に驚いたがあやも魏延の強さに驚いていた。
それから、これなら何かあっても魏延は大丈夫ね、とほっとしたように言っていた。
魏延は人に疎まれる。
だから強くなるしかなかった。
実際にその力を見込んだ有力者に囲われ、排除されることなく生きている。
生きるために必死に手に入れた力を裏なく称賛されるのは奇妙な気分だった。
それからはあやの希望もあって、時々打ち合うようになった。
彼女にとっても、「強さ」はなんらかの手段なのだろう。
磨くことに余念はない。
武に関してならあやの疑問に答えることは出来たし、弱点を指摘することもできる。
黄忠が、とつとつと語る魏延の話に驚きの声を上げた。
「なんと!おぬしに勝つのか!?」
そのうちにあやは魏延の技術を瞬く間に吸収して魏延との打ち合いでもそうそう負けなくなった。
黄忠が考えていたあやの印象がどんどんと形を変えていく。
「…あ、あ、あ、あや…頭いい…」
「……一体何者だ?」
疑問がもたげてくる。
そんな怪しい女がいてたまるものか。
間者。
そんな言葉が頭をよぎった。
「魏延!久しぶり!」
「あや…」
黄忠は馬から降りることなく二人の再会を見ていた。
というより、出て行く間合いが取れなかったのだ。
あやは何の躊躇もなく魏延に飛びついた。
「どう、風邪引いてない?苛められてない?怪我もしてないわね?」
「…あ、あ、あ、あや…潰れる」
「え、何が?」
あやが飛びついたくらいで魏延が潰れるわけもない。
あやは身を引いて魏延を見た。
魏延は花を差し出した。
どこで取ったのか、それは野に咲く可憐な花だ。
黄忠はあちゃあと顔を歪めた。
贈り物として花は大変無難だが、それはずっと握りしめていたらしい魏延の手の中で、彼女が潰す以前に半分萎れて首を垂れていた。
「…あたしに?」
「…あ、あ、あや…喜ぶ……お、おれ…嬉しい」
「ありがとう魏延。すっごい嬉しいわ!」
魏延はそんな萎びた花を受け取って笑うあやに照れたように頭を掻いた。
「やだ、魏延!ちょーかわいい!!」
魏延の仕草に見悶えている目の前の女。
…何か、想像と違う。
あやの様子をまじまじと見て黄忠は間者という疑いを持った自分を恥じた。
どう考えてもただの変わり者だ、これは。
「…でもさ、今度は摘んでこないでいいよ?」
「……き、気に…い、い、い、いらなかった…か?」
しゅんとした魏延にきゅんとなりながらもあやは力いっぱい否定する。
「ちっが~う!そうじゃなくて、今度は一緒に見に行きましょう?花の命は短いわ。地を離れてはなおの事。ね、花は精一杯咲きたいと思うの」
生きる場所はそれぞれ違う。
あるべき場所にあるのが一番美しい。
「そうじゃない?」
「…そ、そうかも…し、し、しれない…」
「魏延がきれいだと思う風景でいい。今度一緒に見に行きましょう?」
魏延はこの花を摘んだ丘を思い描く。
一面が咲き乱れる花で覆いつくされていた。
いま思えば、こんな片鱗をあやに手渡すよりもあやを連れてあの風景を見せた方がずっといい。
それに彼女と見る光景はきっと一人で見るよりもずっと、美しいと思えるだろう。
頷く魏延をにこにこと見守っていたが、あやのレーダーに何かが掛かる。
はっとした。
もう反射で腰の忠助を払う。
手応えを感じてかしゃんと地面に落ちたのは二つに割れた矢。
「…さすがじゃ」
黄忠は目を細める。
「誰?」
白父くらいの、だけど白父よりがっちりとした体格の老人が少々離れた場所で弓を持っていた。
もう構えてはいなかったが、矢を射掛けられた身としては笑うわけにもいかない。
警戒心も顕わにあやは凄む。
黄忠は魏延と彼女のやりとりを見ていた。
人の心を思いやり、人の都合だけで物を考えない。
それは真っ当以上に真っ直ぐな心根を示している。
だから黄忠は屈託なく笑うあやを間者ではないと判断した。
それなりに経験を積んだ黄忠は自分の目の正しさを信頼している。
もし違ったなら、彼女は希代の名優だ。
だが、疑うことが最早義務である地位にある。
だから、心の中でため息をつきながら軽く弓を引き絞った。
軽く掠らせるくらいのつもりで。
それでも彼女は反応した。
ただの女であるはずがないこと、矢を放った時に気付いていた。
現在進行形で睨み合う両者。
黄忠は瞬間的に彼女が只者ではないと悟ったが、はらはらとどうにも身動きが取れていない魏延を見て、目を閉じる。
傍から見ればこの上なく怪しい人物。
だが、他に誰が見ているわけでもなかった。
黙っていれば良い事だ。
「…そこの魏延の知り合いで、名を黄忠。字を漢升と申す。いきなりのご無礼許されよ」
「……黄忠」
よくよく聞き覚えのある名にあやは少しだけ目を見張る。
「荊州の主、劉表様に仕える身ゆえ。大変申し訳ない」
つまり、何者であっても疑ってかからねばならない。
そう暗に言われてあやは眉を寄せる。
矢を射かけられた理由はわかった。
むしろこれは反応してはいけなかった場面らしいと気付く。
咄嗟に体が動いてしまうのも考え物だ。
現状、劉備は劉表の治める地に客将として間借りさせてもらっている。
その直属の配下である黄忠と揉める訳にはいかない。
だが、どうしたって自分は疑わしい。
「一つ聞く。おぬし、魏延を傷つけるつもりはおありか?」
「…そんなものあるわけないじゃない」
「ならよい」
黄忠はそう言って厳しく見つめていた表情を一変させて破顔した。
あやは突然の状況転換にきょとんとする。
今、この人は何と言った?
見逃すといったのだ。
何も聞かず、何も見なかったことにして、疑いも捨てると。
「…何で?」
「おぬし、魏延の友人であろう?」
あやは黙って頷く。
「害をなすとは思えん」
「それだけ?」
それだけの理由らしい。
あやは構えたままだった忠助を仕舞ってため息をついた。
「変わってる」
「おぬしもな」
素直な感想は即座に返された。
お互い様だと苦笑する。
「はじめまして、あやと呼んで下さい。…ホントはずっと、会えるのを楽しみにしていました」
まさかこんなに年の離れた友人だなんて思っていなかったけど、それでも魏延は彼を大事に思っているようだから、あやも彼の名前以外は聞かなかったことにして、魏延の友人として接した。
話してみれば黄忠はとても気の良い男で、物静かな白父と比べるとなかなかに豪快、あるいは短絡的脳筋的な老人だった。
物事を難しく考えない彼は少し右近を思い出させて、あやは自分にとっても友が一人増えたらしいとその邂逅を喜んだ。
それからは魏延と、黄忠も交えて時々会うようになった。
ある日、黄忠の弓の腕に感心したあやが教えを請い願ったことがある。
黄忠は快く了承したが、弓を持ったあやは早々に気付いた。
弓の才能がないらしい。
「…重くて持てない」
「非力じゃなぁ」
「うっさい!」
事実他の女と比べてもあやは力があるとは言えなかった。
力を必要とするような生活環境ではなかったのだから仕方がないとは言え、今更現代の軟弱生活が悔やまれる。
魏延の剣はもとより、黄忠の弓すら持ち上がらない。
たとえ持ち上がっても引けやしないだろう。
「魏延はともかく、黄忠なんておじいちゃんなのに…」
老人にも劣る筋力にあやが肩を落としていると黄忠が高らかに言い放つ。
「わしをただの老人と思ってはならん!」
「わかってるわよ。こんな元気なおじいちゃん、うじゃうじゃいたら困るわ!」
そもそも皆が皆黄忠のようだったら、現代で高齢化社会などという問題は起こっていなかっただろう。
むしろ若者の活躍の場を奪う老害と言われていたかもしれない。
その黄忠は剣も扱うが、何といっても弓の名手。
黄忠の弓の腕はもしかしたら白父を超えるかもしれない。
世界は広いとつくづく思う。
あやは思い出したことがある。
劉備の王国、蜀の将軍。
そこに刻まれる名。
黄忠漢升。
魏延文長。
魏延なんて思っていたのとはかなり印象が違った。
でもこういったものが縁と呼ばれるのだろう。
いつか、彼らと戦場を駆ける日がきっと来る。
戦場の自分はあまり見せたくはないなと、あやは少し悪あがきで思った。
戦の気配が新野に色濃く落ち始めていた。
持ち上げようと粘っていた黄忠の弓を下ろして、あやは切り出す。
「…少し、長く会えなくなるかもしれない」
「どこかに行くのか?」
「うん」
どこに、とは黄忠は聞かなかった。
はっきりとではないが、彼も気付いている。
あやの中の血の色。
戦場を知るものにしかわからない感覚。
戦う事を知る者。
「無事に帰ってくるのじゃぞ」
「うん」
黄忠のあやを見る目は娘か孫を見るようだ。
懐かしい。
そういう愛情は遠く、時空を隔てた場所に置いて来た。
「行ってきます」
「あ、あ、あ、あや、き、気を…付けろ…」
あやと原陽の姿が見えなくなるまで、魏延と黄忠は見送った。
あやが原陽と呼ぶ、青毛の馬。
あんな立派な馬は世界中を探しても他にいない。
匹敵するのは馬中の赤兎馬と言われた、今は亡き呂布将軍の馬くらいなものだろう。
「あれは、留めておけぬ娘じゃ」
黄忠が小さくなる後姿から目を離さずに呟いた。
彼女を、わが子のように思うときがある。
街で美しい布を見るとあやを思い出した。
きっと着飾れば美しいだろうと。
だが、ついつい買い込んでしまう反物を彼女に渡したことはない。
彼女は自分の足で立つことを知っている、世話のし甲斐がない娘でもあったからだ。
風のように駆ける見事な馬。
跨るのは花のように笑い、鳥のように自由で、月のように形を定めることがない娘。
名をあや。
あるいは玄鳥天女。
「響彩…」
その名声を知っている。
「あ、あやは…あやだ……」
「ああ、その通りだ。魏延。」
帰ってきたら聞いてみようと思った。
彼女の夢を。
穏やかな生活を捨てて、戦場を選ぶその心を。
だが、あやが再びそこを訪れることはなく。
彼らがあやの帰りをそこで待つこともなく。
乱世は深く、静かに、終わる気配もない。
ついに荊州にもその手が伸びる。
五斗米道の南下。
呉軍の荊州侵攻。
荊州に激震が走った。
あやにはあやの、彼らには彼らの道があり、戦いがある。
正史では龐統はまだ劉備軍にいない、はず。
魏延、吃音というよりただのコミュ障。友達は黄忠一人。+1(あや)




