16話 別たれる路
「うわぁ!なにコレー、すごい!マジ感動する」
「うむ、そうかそうか、そんなにすごいか」
あやのはしゃぎぶりはいっそ見事なほど無邪気で、呉の人々にとっては当たり前の光景が妙に自慢に思えてきた。
「だって、これ川でしょ!?日本じゃあり得ない!でか過ぎ!パない!!」
「ぱ?ぱな…?」
大陸は日本と違い何もかもスケールが大きい。
常々思っていた事だったが、この目の前に広がる大河のような光景を目にすると改めて思う。
こんな風景と共に生きる人々が作るものならば自然、大きなものになるのは仕方がないことだと納得すらする。
中国における世界有数の二つの大河は歴史上でも大きな意味を持つ。
黄河と長江。
その一つ、長江を走る船の上であやは風を切る音を聞きながら目を輝かせていた。
先頭を走るその船の後ろには大船団。
見事なまでに足並みの揃った行進だ。
河を遡っているというのに、その足は速く、まるで水面を滑るように走る。
「うっひょ~、泳ぎたーい、水キレイ!」
「お前、泳げるのか?」
「当たり前じゃん、夏は海水浴、冬はコタツにみかん。これが伝統ってモンでしょ!」
「こたつ?」
「はい、そこは聞き流す!…でも本当に、すごい」
あやが振り返れば、そこには興奮を抑えるようにきびきびと動き、力の漲る兵士たち。
はためく帆、リズムを刻む無数の櫂。
風は船を後押しするように海から吹いてくる。
ついに呉は、北上を開始した。
士気の高まった兵とは違い、どこかぴりっとした緊張を走らせる武将たちは、あやの無邪気さに少しだけ笑った。
強張っていた肩がほんの少し、角度を下げる。
その様子を見ていた尚香があやに声をかけた。
「あや、あなたがいてくれてよかったわ」
あやは苦笑で答え。
「本当に、男共は馬鹿ね。」
尚香は肩を竦めた。
宴での一件は伝え聞いた兵たちを奮起させると同時に、武将たちの心に影を落とした。
きっと誰も認めないだろうけど、それは恐怖と称するに相応しい。
彼らは曹操の恐ろしさを知った。
理解できない人間は怪物と同じ。
そして、何故孫策と周喩が互いに友人の座を捨てるなどという形で覚悟を示さなければいけなかったのかを理解した。
あの化け物と対峙するためだ。
あの男と遣り合って勝つ。
出来るのか?
ふともたげた疑問に天下を制する道の困難さを実感した。
だが、そう。
呉には道は一つしかない。
並べられた選択肢は元から少なく、手に取れるカードは実質一つ。
北の大戦で、もし最初の予想通り袁紹が勝つのならそれはそれで構わない。
袁紹ならばまだ付け入る隙がある。
だが、曹操ならばそうはいかない。
今は誰もが確信を持って信じている。
戦勝の声を上げるのは圧倒的不利と言われている曹操の方だろう。
袁紹に曹操のような冷酷な強さはない。
河北の二台巨頭と言われる二人でもその実態は正反対だ。
大陸最大の勢力を誇る袁紹。
急激に勢力を伸ばしてきた曹操。
名家の誇りを掲げる袁紹と、勝利を手にする為には手段を選ばない曹操。
呉にとって悪い予想は当たるだろう。
中原を制するのは多分曹操。
曹操が、いや万が一袁紹が勝っても、北を制圧した彼らが目を向けるのは長江の下流、黄河に類する豊かな土地を持つ江南。
即ち、呉だ。
北を制するということはつまり天下に大手をかけるということ。
勝利によって袁紹の勢力を吸収した曹操を止められるものはもはやどこにもいない。
今しかないのだ。
曹操が袁紹に手を煩わされている今しか。
曹操のいない許昌を制圧して後方から曹操を突く。
勝機はそこにしか見い出せない。
突然、呉の存亡をかけた戦いだと知る。
そして覚悟を強いられた。
妙に力の入る体を無理に動かして、兵たちに不安を抱かせないようにいつも通りに振舞ってみてもその事実が消えるわけではない。
視線の先にあやが映る。
彼は何も知らないままに当たり前の光景に歓声を上げていた。
それは『本当に』いつも通りの光景。
あの宴にいなかったあやだから出来る行動。
武将たちはほっと肩の力を抜いた。
大丈夫。
自分たちは、大丈夫だ。
そして目に意志を込める。
あやが感嘆するこの風景。
とても美しいものだということを忘れていた。
自分たちの国。
守らなければならないものがある。
それを思い出した。
武将たちは今一度あやの顔を見て、日常を思い出し、その尊さを噛みしめ、持ち場に戻る。
彼がいてくれてよかった。
「ありがとう。あの馬鹿共に代わってお礼を言うわ」
尚香は穏やかにあやに微笑んだ。
あやはすごい。
尚香は知っているから、心からそう思う。
あやは彼らと同じくあの場にいて、あの出来事を体験した。
何もかもを知っていて、何も思わないわけがないのに、そんなもの気付かせずに笑う。
あやだって同じように怖かったに違いない。
だって、震えていた。
あの宴での出来事を、祁央に支えられていなければ倒れるんじゃないかと思うくらいに顔を真っ青にして、見ていた。
だけど揺らぐ呉のためにこうしてくれているのだ。
無邪気に日常を装うその強さに、尚香は心を掴まれる思いをする。
彼の細く弱い見た目は、本当に何の評価の助けにもならなかった。
「何のこと?僕はお礼を言われることは何もしてないよ」
「…あなた前に言ってくれたわね。私と友達になりたかったって。」
「う、うん」
尚香がなぜ今更そんな話題を引っ張り出してきたのかあやにはわからない。
だが自分が言ったこととはいえ、その言葉を改めて口にされるとかなり恥ずかしいものがある。
若干照れながら答えると尚香が笑った。
「今、あなたは自慢の友人よ。あなたみたいな友達がずっと欲しかったわ」
晴れた日の、長江を渡る風のような笑顔だ。
こんなにも淀みないものをあやは他に知らない。
尚香は今まで見た中で一番綺麗で、心は強くて真っすぐで、我儘に隠された優しさがあやの胸を何度も打つ。
自分が男だったら絶対に尚香を選ぶだろうと思うくらいに、彼女が好きだった。
「…ああ、好きだなー、尚香。」
尚香の突然の告白に驚きと喜びを感じながらあやはしみじみと真実を口にした。
「っな!何を言うのよ、突然!」
尚香はあやの衒いのない言葉に赤くなって叫ぶ。
本気で言っているとわかるから性質が悪い。
あやは照れた尚香を見て尚更笑みを深めた。
それは透き通っていて。
それはきれいすぎて。
「…あ、あや!」
「なに?」
尚香はとっさにあやの袖を掴む。
あやは突然の尚香の行動に驚いて戸惑いに声を返した。
「あ、な、何でもない。うん、気のせい」
尚香も、言われて自分のとった行動にはっと手を引く。
なぜそう思ったのかわからないけど。
風の中であやが笑う。
そのまま溶けて消えてしまうんじゃないかと思った。
「兄上、あやが尚香を誑かしています!」
びしっと船の先で語らうあやと尚香を指して孫権が眉間に皺を寄せて叫ぶ。
「ああ、仲が良くて結構なことじゃないか」
孫策は気のない返事で孫権に応える。
「兄上!あやですよ、あや!あんな奴が妹に近づくのを許していいのですか!?」
「…あやだからな。いいんじゃないか?」
「兄上!!」
孫権の怒声にいい加減耳を塞ぎたくなってきた頃、尚香がこちらに帰って来るのが見えた。
「権。お前の心配は杞憂だ、ほら、戻ってきたぞ」
「何やってるのよ兄様、向こうまで騒いでる声が聞こえてきたわ。」
「尚香、お前何もされてないか!?無事だな!奴にはあまり近づくなよ!」
「あやは友達よ。それを悪く言うのは兄様でも許さないわ」
静かな怒りの目線を感じて孫権がぐっと黙る。
だが。
おや?
「…何でお前顔が赤いんだ?」
「えっ!」
尚香は両手で頬を押さえる。
指摘されたことで更に、見てわかるくらいに尚香の頬が赤く染まる。
その行動は自分でも自覚があるということを示していて、孫権はこの世の果てでも見たかのような顔で尚香の肩を掴む。
「何をされたんだ、一体!おのれ!あいつ、この俺が成敗してくれる!!」
「何にもされてないってば!落ち着いてよ、ここからちゃんと見てたんでしょうが!!」
ただ、あやから好きだと言われただけで。
それがとても、とても嬉しかっただけ。
それだけだと尚香は心の中で言い聞かせる。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が船内に移動していくのを眺めながら、孫策は傍でずっと口を開かなかった周喩に独り言に似た声をかけた。
「予想しなかった展開だ」
「…同感です」
どうも頭にあるのはあやが女だという事実が強くて、尚香にとってはそうではないということを忘れていた。
「尚香を泣かせる事になるのか」
「…そうならざるを得ないでしょうね。」
「あいつが泣くのを見るのは辛い。」
孫策はそう言ったきり口を閉じた。
空を見上げて、それから目を閉じる。
風を切って、この長江を渡った。
何度も、何度も。
海賊退治に、内密な出奔。
いつもそこには誰かが一緒だった。
父や弟、尚香や二喬。
太史慈や黄蓋、呂蒙たちと共だったこともある。
だけど一番多かったのは誰でもない、周喩だ。
今も彼は隣にいる。
あの頃、小さな船の上で風を感じて。
周瑜とならどこまでも行けると思った。
どこまででもついて来てくれると疑わなかった。
彼が傍に居るのなら、この世界全てを飲み込んで尚、自分は自分らしく在れると信じた。
何もかもが輝いて、何もかもが好奇に満ちた世界。
爽快感、疾走感、生きることは楽しく、力は溢れて止まらなかった頃。
孫策は目を開いて空に手をかざした。
その手を透かして見える血潮。
「尚香に謝らなければ…」
だが大切な妹の涙は、もしかしたら見なくて済むかもしれない。
泣いても、それを見るこの目が、失われている可能性がなくはない。
身体に留まらず、流れ出していく力を感じながら孫策は何となくそう思った。
終わりは案外直ぐそばに近づいているのかもしれない。
あや。
何故かな、お前の名を呼びたくなる。
支えのように。
祈りのように。
孫策は留めることも出来ず、零れ落ちていくものを感じる度にあやの名を心の中で呼ぶ。
何を失っているのか、答えを得るまで。
何度も、何度でも。
あの日、あの時。
一番傍にいた祁央だけが気付いた。
その音はとても微かで、とても静かで、とても美しく響いた。
それが響くたびにあやの震えは治まっていく。
それはあやの心の奥、深い場所で、何かが凍る音。
そしていつの間にかあやは祁央の腕を必要とせずに一人で立っていた。
劇的な変化ではない。
もっと。
そう、深々とした、拒絶。
彼女が何を思ったのかわからない。
魏にいたあやを知らないから、彼女が曹操とどんな関係を築いていたかは想像することしか出来ない。
だが、魏から帰って来たあやはそれから北を見ることが癖になった。
北を見て、何かを探すように目を眇めて、痛みをこらえる様に顔を歪める。
頬を伝う涙がそれを彩ることもあった。
曹操が剣を取るのは自分のせいだと、傲慢にも彼女はそう思っている。
それが正しいのかはわからない。
わかるのは、目に見えずだからこそ切れない何かが二人を繋いでいる事。
あやにとっての曹操はきっと自分たちと同じように大切なものなのだろう。
祁央は少しだけ胸が痛む。
もし、あの時彼女と共に魏へ行くことが出来ていたら何かが変わっていただろうか。
曹操とあやの絆は、少しは頼りないものになっていただろうか。
あやが北を眺める度に、考えても埒の明かないことが何度も頭を掠めた。
「どうでもいいことだ…」
祁央は自分の思考を払った。
自分の望みなどどうでもいい。
あやが決めて、あやが歩く道。
自分はあやが望む道を切り開くためにいるのだから。
あやと曹操にどんなに強い絆があっても、今あやの傍に居るのは祁央に他ならない。
彼女を傷つけるいばらの棘をはらえるのは確かにこの自分なのだと、見たこともない男に挑むように主張する。
祁央は舳先に立つあやに目を向けた。
ごうごうと風があやの髪を攫い、その風に逆らって凛と立つあやはまるで孤高の人。
「あや」
祁央の声は風に消されて届かない。
真っ直ぐに、前だけを見て、河を裂く船のその先端から動かないあやとの間を分かつ様に。
祁央は足を踏み出した。
風は強い。
声は届かない。
だが構わなかった。
自分が傍に行けばいい。
ただそれだけのこと。
祁央はあやの隣に立った。
声をかけず、ただ傍に。
曹操、夏侯惇、孫策、周喩、孫権、尚香。
たくさんの想いを抱えたあやの中で、この場所だけが譲れぬもの。
それが祁央の存在意義だった。
何かが鳴動する。
それは見知らぬ未来の産声だった。
あやはもう二度と交じり合うことのない道を迷うことなく踏み出した。
かつて曹操が迷わなかったように。
「ほんとうに、さよなら、ね」




