17話 それぞれの。
草木も眠る丑三つ時。
「あや」
声をかけられて、あやは甲板から見ていた光景から目を放して周喩を見た。
「あら、珍しい。どうしたの?」
甲板に人気はない。
周喩の顔は月に照らされてそれなりに伺う事が出来た。
「孫策が―、」
そのひと言目にあやは気付かれないくらい小さく笑みを刻んだ。
いつも、孫策と友人としての絆を断ち切ってからも、彼は孫策のことばかり。
そしてあやの前でだけは孫策を昔のように呼び捨てにする。
「おかしくないか?」
「どこが?」
あやは周喩に返す。
別に否定したわけではない。
周瑜が孫策のどこにおかしさを感じているのかを聞いてみたかっただけ。
だって、孫策は周喩と主従の立場を分かつようになってからずっとおかしいではないか。
とても「らしく」なくて、あやからすればその時から違和感バリバリだ。
今更過ぎる感想。
そんなこと、周瑜にだってわかっているだろう。
つまり、周瑜にも看過できない変化が孫策にあるということだ。
「不安になるんだ…。最近の孫策を見ていると」
―今にもどこかに行ってしまいそうだ。
周喩が言わなかった言葉が聞こえた気がした。
いつもより力なく、困惑を乗せた声が周瑜の感情を余すことなく伝えてくる。
「ん~…」
―わからないでもない、かな。
あやは少し首を傾げた。
周瑜と同じように感じることがある。
あやは孫策の命を救うためにここにいる。
その後の彼の往く道はあやのかかわるところではない。
でも。
それでも。
言葉にすることでそれが真実になればいいと、あやは笑い返す。
「周喩、もう少し待ってて。きっと孫策は帰ってくるから」
迷う人。
選んだつもりで、立ち止まっている人。
望まれる人。
願われることの多い人。
あやがこう在ればいいと孫策に望むものがあって、周瑜にも、孫権にも、尚香にも、それはある。
求められることが多い、それはきっととても幸せで。
あやは少し哀れにも思う。
選択の自由を阻んでいるものがなにか。
気付ければ、きっと孫策は自由になれる。
あたしの望みとは違うあなたになって、自分のなりたい自分になれる。
だから大丈夫だと、周瑜に伝える。
きっとあたしに都合のいい孫策は未来にはいない。
孫策が帰ってくる場所はきっと、あなたたちの元。
―いつもの笑顔で、強い瞳で、熱い風と共に。
「君がそういうのなら、私は待とう」
この道を選んだのは孫策だ。
周喩は孫策の意志に反することは決してないから、従いながらずっと待っている。
かつての孫策が帰ってくるのを。
もう一度、二人で未来を共に走る日を。
その道を繋ぐ。
草木に呑まれない様に、細い道を守る。
あやが自分に課した役目だ。
―それが終わったら、行こう。
あの人に会いに、行ってみようとあやは思った。
自分勝手な願いを叶える為に。
夢だと、すぐに気付いた。
もう長く感じていない気配が傍にある。
そんな奇跡は夢以外にない。
『あ、見て』
言われて見てみれば飛ぶ鳥。
それがどうしたんだ。
言いかけて、やめた。
とても嬉しそうに彼女が笑っていたから。
『空がきれいねぇ…』
幸福に吐くため息のような密やかでのんびりとした口調が、軍人としての性から抜くことのなかった体の力を不用意に奪っていく。
―ああ、これはまずい。
かつて主君が彼女を手放さざるを得なかった理由を自らの身で体験する。
このまどろみの様な心地よさを自ら手放せるのだから、やはり自分の主は常人ではない。
草むらに座り込んで心地よさそうに風を感じて目を瞑るのを視界の端で捉える。
同じように、いつもと変わらない空を見上げて、それでも否定の言葉は出なかった。
少しだけ、見慣れた空が美しく見えた。
理由はわかっていた。
―そんな日常がどれだけ愛おしかったか、彼女は知っていただろうか。
夏侯惇は静かな夢から覚めて、胸を押さえた。
哀切と幸福感と、違うはずなのに同じように感じる想いが体を満たしている。
「夏侯惇将軍」
「何用か」
天幕の外から呼びかける声に答えて夏侯惇は寝起きとは思えないような声を返した。
「殿が至急お呼びです」
「分かった、直ぐに行く」
「はっ」
伝言を携えた兵が下がっていくのを音で聞いて、夏侯惇は臥牀から降りた。
先程の感傷などどこにも見せずに、仕度を整え、眼帯で左目を覆う。
残った右目が見つめるのはただ、曹操孟徳の天下。
たった一つの目で、多くを想えるほど自分は器用ではない。
戦場特有の空気の中、自陣を行きながら心を整えた。
「来たぞ、孟徳」
「待ちかねたぞ」
夏侯惇は偶然起きていたとはいえ、普段ならまだ寝静まった明け方に呼び出されたというのに、曹操は服に乱れもなく夏侯惇を待っていた。
―いつ寝ているのか。
少し不満げに眉間に皺を寄せた。
曹操は昔から人よりやれることが多い。
効率もいい。
睡眠も同じように必要な分だけしかとらない。
昔、倒れられては元も子もないと苦言したことがあったが、曹操に笑い飛ばされたことがある。
その言葉通り、曹操は今までまったく問題なくやってきた。
だが、最近は以前にも増して人間離れしてきたと思うのは夏侯惇の気のせいか。
本当に不思議になるほど曹操は超人的な精神力で物事をこなしている。
そんな諸々に気付いているだろうに、夏侯惇の感情を斟酌せずに曹操は切り出した。
「呉に放った刺客が失敗したようだ」
「…お前、そんな事をやっていたのか」
責めるよりは呆れた色の濃い夏侯惇の声に曹操は鼻を鳴らした。
「何だ、不満か?逐一報告したほうがいいか?」
にやりと上がる口の端がからかいの意図を示している。
夏侯惇は一介の武将だ。
筆頭扱いではあるが、その全てを共有するほどの器量も胆力も能力もない。
曹操以外ならば、誰にも劣らないと豪語してみせるほどの自信はあるが、事この従兄弟と並べるかと言われれば否。
まさしく、魏は曹操で成り立つ国なのだ。
「―いや、お前の思う通りにやればいい」
それでも曹操から知らなくてもよかったはずの出来事を聞かされることが多い夏侯惇は、自身の存在の大きさを自覚している。
何も聞かされていなかったということは、つまり言わなかった訳があるのだろうと簡単に察せられた。
全てを見通して、一番効率的で効果的な方法を選択するのが曹操。
「で、今更そんな失敗事を俺に報告してどうする」
気になるのはそちらの方。
何を考えている。
失敗談に端を発する「なにか」を自分に望んでいるのだろうが、さて、答えは。
「ふ~む、弱ったことになったと思ってな。おぬしの意見を聞きたいのだ」
欠片も困ったようには聞こえない口調で曹操が演技がかった台詞を口にする。
そんな茶番はいらないからさっさと用件を言ってもらいたい。
少々いらついたのが曹操にも伝わったのだろう。
短気な奴だと呟くのが聞こえた。
「当てが外れた。」
そうして言った曹操の言葉は今度は端的すぎてわからない。
―彼女ならば何と返したか。
曹操の極端な話題転換の早さに戸惑わずに付いていけたのは、思えば今も昔もただ一人だったのだ。
「何の、だ。」
「つまりは予定が狂ったということだ」
夏侯惇は付き合いの長さで曹操の扱いにも多少は慣れている。
曹操は夏侯惇の質問には答えず、自分のペースで話を続ける。
そのことも別段珍しいことではなかったから、夏侯惇は特に気にもしない。
「―予定が狂った?」
少しだけ眉を跳ね上げたのは、ただ曹操の話の内容に。
曹操は戦略・戦術から政治も謀略も、それこそ戦場で自ら剣を交えることもできる、武人として突出した夏侯惇からしても超人染みた男だ。
何よりもその先見性は誰にも負けない。
だから曹操は何に対しても先手先手を打つことが出来る。
そうして思い通りの展開を作っていくのだ。
何でもない顔をして言うが、その曹操の予定が狂ったとは、かなりの珍事だった。
「あの小童、殺せはしなくても少なくとも足止め程度にはなると踏んでいたのだが―」
「孫策か。」
「少し違うな。狙ったのは孫家だ。死ぬのは誰でもよかった。」
死人が出なくてもいい。
最低でも彼らを呉に足止めできたならそれで良し。
刺客たちには必ず孫家を謀殺しろと命じてはいたが、高い目的があれば最低の目標は果たしてくれるだろうという考えの元だった。
「思ったよりも役に立たなかった。」
夏侯惇はその曹操の独り言に似た小さな呟きを苦々しく聞いた。
多分、その任に当たったのは曹操の傍に長年仕えて、最近ぽつぽつと人数の減増を繰り返している近衛兵たちだろう。
盲目的なまでに曹操を仰ぐ彼らの目は親を見る子よりも深い。
曹操もまた彼らを信用している。
だがそれ故に彼らは夏侯惇のようにはなれない。
夏侯惇は自分が曹操に信頼されているという自負があった。
使い捨てにはされないという自信。
彼らは自分の命がどんなことに使われたのか知っていただろうか。
「呉が動き出した」
「…っ本当か!」
まさかと言いたかった。
曹操が以前からあの国を警戒していたのは知っていたが、戦いを挑んでくるような無謀なことをするようには思えなかったのだ。
辺境で勢力を持つ者など探せば幾らでもいる。
呉もそういう数多くいるものの一つだと思っていた。
「ふん、厄介なのを呼び込んでしまったな」
「孟徳」
苦々しいその顔は演技ではない。
袁紹とぶつかりあう時にも見たことがなかった表情だ。
夏侯惇にとってはあくまでも呉は袁紹の次。
袁紹を倒すことが天下へと繋がる道だと突き進んでいたというのに、曹操にとってはどうやら袁紹も通過点だったようだ。
反対に次に当たるだろうと予想していた呉の方を本命視している。
もしかしたら曹操が最も危険視していたのは刺客を差し向けた孫家だったのかもしれない。
「今、この時に奴らに動かれる事ほど厄介な事態はない。」
前方に袁紹、後方に呉。
全軍を持って袁紹と何とか渡り合っているという状況で呉に割く戦力はない。
だからこそ孟徳は呉を警戒していたのか。
そしてだからこそ呉はこの時を狙って打って出たのだろう。
動く勢力があるとしたらそれは呉だと考えていた曹操の正しさは証明された。
が、それを称賛しているどころではない。
事態を飲み込んだ夏侯惇がはっとして叫ぶ。
「孟徳!ここでのんびりしている暇はないぞ!!」
呉はここから遠い。
遠くの強敵を迎え撃つ準備ならいつでもできる。
だからこそ夏侯惇は遠方の敵よりも近くの雑魚に目を配っていた。
遠くの敵より近くの敵を気にすることは当然のことだ。
だが呉にはその常識を投げ打って気にしなければならない理由があった。
彼らには長江がある。
距離を縮める川の力は大きい。
袁紹と呉と、このままでは本当に挟撃されかねない。
「…まったく、足止めのつもりが本末転倒だ。」
夏侯惇の声を右から左に聞き流して曹操は呟いた。
呉の兵士たちは自分たちの主君が殺されかけたのだ。
当然怒るだろう。
自分の手で今までで一番高い士気を持った軍を作り上げてしまったのかもしれない。
だが、上層部にはきっと恐怖という毒を流し込めた。
表情には出さず、曹操はにやりと笑った。
それはいざという時に生きてくる。
「…この曹操の首をそう簡単にとれると思うなよ、南の田舎者が。」
負ける訳にはいかない。
負けるつもりもない。
ぎらりと曹操の目が強い光を放つ。
ぞわりと夏侯惇の背を駆け上がるもの。
仙術でも使えるのではと思うような気力が湧いてくる。
夏侯惇は聞こえていないのを承知で文句を言っていた口を噤んで、曹操の命令を待つ。
きっとまた難題が与えられるのだろう。
そして自分は命を賭けてそれを実行するに違いないのだ。
退出する夏侯惇の背を見て、曹操は何度か呼び止めようと口を開いたが、結局声は発しなかった。
曹操にしては珍しい。
曹操はらしくないと頭を振る。
夏侯惇の顔を見る度に間者からの報告が頭を掠めていた。
孫家襲撃を阻止した少年の話。
名を、あやと言う。
だが、それを夏侯惇に言ってどうするのか。
どうせ知っても知らなくても、往く道は変わらない。
あの男は、そういう男だ。
曹操は目を閉じた。
何をしても孫策の足は止まらないかもしれない。
だが、布石は打っておくに超したことはない。
その一つ。
大分前に特に意図もなく置いた駒がある。
殺さず生かした駒がある。
意識を自我に向ける。
その深い場所、潜るように手を伸ばす。
曹操は久方ぶりに彼女の気配を探った。
愛しさでなく、懐かしさでなく、ただ敵の居場所を探るために。
厄介だと思っていた絆は、今はもう時に利用すべき手段になった。
純粋に、ただ感覚の先にいるだけだった存在はすでに、曹操にとって無害ではない。
有益で、有害だ。
さて、今この時にあの駒はどんな動きを見せてくれるのか。
動くか。
動かないか。
どちらでも構わない。
曹操孟徳は負けないのだから。
決して。
負けるには失ったものが大きすぎる。
―天下くらいは手に入れないと割に合わない。
曹操は浮かんだ言葉を鼻で笑った。
随分と器の小さい責任転嫁だ。
曹操孟徳が天下を目指すのに理由などない。
いつかの月の下、そう決めた。
閑話=間幕、EX
小咄=元拍手用小咄
叢話=元企画・御礼用
です。
この17話、元は閑話。はてなぜだろう?当時の思考がわからない。




