叢話 燕 後編
その日から曹操はほぼ毎日蓉を訪ねるようになった。
得意だった。
曹操が英傑だということはわかる。
その男が自分を愛している。
誰もが、自分に逆らわなくなった。
張氏が死んだのは蓉のせいだという噂がまことしやかに流れたからだ。
蓉は否定しなかった。
それは事実。
薄く笑うことで上位を相手に悟らせる。
これこそ望んだ生活だ。
そして飾れるだけ着飾って曹操の訪れを待つ。
昔ほど嫌悪感を抱かないのは彼によってもたらされるものの大きさゆえか。
それとも自分の手の中で踊ってくれる男を哀れむからだろうか。
「蓉」
そう呼ぶ曹操の声は心地がよかった。
曹操は決して劉姫とは呼ばない。
初めはそれが勘に触って仕方なかったのだけど。
眠り込んで、ふと夜中に目を覚ます。
窓から月を眺める曹操の背が見えて、蓉は満足だと思った。
金も権力も美も愛も、全て満たされたと。
当初の目的を思い出す。
けれど、あんな部屋、手に入れることに何の意味があるのか。
そうとすら思うときがある。
あの部屋には蓉の望む全てがあった。
今、蓉にはあの部屋以外の全てがある。
「劉姫様、前からお美しかったですが最近は眩しいくらいです。」
女官の言葉に蓉は微笑むことで答えた。
今は身分の低い者であろうとも、誰に声をかけられようと屈辱など感じない。
誰もに優しくしてやりたい気分だ。
こんなに心が凪いだことはない。
目の端に長い裾が映った。
誰かが角を曲がってきたのだ。
蓉は道を譲ることなど考え付かなかった昔の自分に苦笑して一歩下がって頭を下げる。
彼女は蓉より以前からこの後宮にいた幾らか薹の立った女。
若さもなく、拠ってたつ血筋もない、可哀相な女だった。
道くらいは譲ってやるべきだ。
「劉家の御嬢さん、最近は栄華を極めているご様子で。」
彼女が突然話しかけてきた。
その呼び名にはさすがに眉根を顰めたけれど、蓉は笑みを崩さず顔を上げた。
合わせた彼女の目には小さく険が見える。
何を言われようとも痛くも痒くもないが、血筋の卑しさから闘争とは距離を置いたその女が、今更何を語るのかは興味があった。
「張に聞いたわ。開かずの間に興味がお有りだとか?」
「突然何を仰るのかと思えば…」
蓉の答えを聞かず、彼女は続ける。
「知っていて?張はあなたをつけていたのよ。だからあなたがあの部屋に忍び込んだことも全て…」
途中で思わず噴き出すように笑いが漏れてしまった。
彼女の言葉を遮って止める意志のない蓉の高い笑い声が回廊に響く。
「脅していらっしゃるの?」
可笑しさに滲む涙を拭いながらそう聞く。
そうならばまた曹操に殺してもらおう。
思いながら少しだけ意外に思った。
彼女があの部屋の存在を知っていたことに。
そして予想外にも、彼女は蓉の質問に躊躇うことなく頭を振った。
「いいえ、張はあなたを排除するつもりだった。ただあなたの方が実行に移すのが早かっただけ。その闘争にわたくしが口を挟むのは筋違いというもの。」
「では何故わたくしに声をかけたのです。」
「一つ、忠告をしたくなっただけ。年配者の戯言と思ってくれても構わないわ。開かずの間に関わるのはお止めなさい。」
一息で言い切ったその内容。
何を、と思った。
彼女はそれ以上何も言わずに止めていた足を優雅に動かし始めた。
「お待ちになってください」
彼女は振り返らずに速度を緩める。
傾ける耳はまだあるらしい。
聞きたいことは色々とあった。
だがそのどれも言葉にならなくて蓉は結局沈黙する。
思えばずっとおかしかったのだ。
彼女たち年配の女が、ずっと黙っている。
あらゆる手段を使って曹操の関心を引き続けていた彼女たちが。
まるで息を殺して嵐が去るのを待つかのように。
いつからだろう。
蓉は気付く。
張氏が開かずの間について騒ぎ出した時からだ。
女が足を止めて、ぽつりと言った。
「わたくしたちは関わり合いになりたくないの。開かずの間には。」
――いいえ、あの女には。
「何故。あんな部屋に住めたらとは思いませんの?」
「わたくしは真っ平だわ。」
即座に帰ってきた否定は発された言葉より強く、蓉を思わず黙らせるような鋭さを持っていた。
言わなかった言葉は蓉には伝わらない。
彼女は最後まで蓉を振り返ることなく、再び歩く速度を戻した。
彼女の姿が消え去るまで後姿を見送って、蓉は開かずの間についての疑問がやっと湧きあがるのを感じる。
正直開かずの間のことなど忘れかけていた。
だが、あの意味深な言葉はどういうことだろう。
何故、あれほどの女たちがあの部屋の存在を知っていながら放っていたのか。
むしろ関わり合いを避けているのか。
初めてあの部屋を不気味に思う。
女官たちに調べさせた。
一年程前、女官がひとり殺されたらしい。
分かったのはそれだけ。
原因があの部屋という以外に何もわからなかった。
知っている様子はあるのに、怯えたように誰も口を割らなかったそうだ。
それからあの部屋は開かずの間と呼ばれるようになったらしい。
やはり事の真相は後宮の女狐たちに聞かなければならないようだった。
あの女の元を訪ねた。
彼女は初めから予想していたようで、蓉の訪れを優越感を滲ませて迎えた。
気に入らない。
全て聞き出したら、殺してしまおうか。
そっと曹操に頼むのだ。
きっと叶えてくれるはず。
「教えていただきたいの」
「あら?わたくしなどが教えられることがあるかしら。殿の寵愛を受ける貴女に。」
とぼけた台詞を言いながら、彼女は最後に耐え切れないかのように吹き出した。
先日の蓉を見るかのような光景。
自分で言った言葉がおかしかったようだ。
だが、その意味は蓉にはわからない。
「何かおかしくて?」
「いいえ、何でもないのよ」
ちらりと向けられる目線に込められた色には見覚えがある。
曹操の後宮に入れられると決まったときに、親族が蓉を見た、あの目。
あの、憐れみの目に似ていた。
かっとして怒鳴ろうと口を開いたが、彼女が話し出す方が早かった。
「あや、という女をご存知?」
「…いいえ、それが何か?」
「では殿が貴女の部屋で眠ったことがあって?」
「………」
唐突な質問と前後の繋がりが見えない話題変換。
それに戸惑っただけではなく、蓉は黙り込んだ。
曹操は眠らない。
明け方、蓉が目を覚ましてそこに曹操の姿があったことはただの一度もなかった。
いや、むしろ、彼が休んでいる姿を目にしたことがない。
彼女の質問で、その事に初めて気付かされた。
だが、それを言うのはまるで負けを認めるようで嫌だった。
結果、黙り込むという肯定しているとしか思えない反応しか返せない。
しかし彼女はそこだけは優しい顔でふっと笑って、意外なことを言う。
「別に恥ではないわ。貴女だけではないのよ。この後宮の女の誰一人として、殿と朝を迎えた者など居やしないのだから。」
特別なのは、あの女だけ。
「え?」
驚いた蓉の顔に満足したように彼女は蓉から目を離し、目の前にあった菓子を白い指で摘む。
自分の手を目に入れて彼女はやっぱり笑った。
皮肉げに。
あの女の、あやの手はこんな風に傷一つないきれいな手ではないのだろう。
そう思ったから。
ふっと小さく息を吐き出して、感傷を捨てる。
「これが全てよ。貴女の欲しがっていた答え。どう、満足?」
「意味が、わからないわ。」
彼女は顔を上げて、蓉の大嫌いなあの目で蓉を見た。
「愛されてなどいないのよ、誰も。わたくしも、貴女も。ここにいる女の、誰一人として。」
憐れみ。
だが曹操の自分を呼ぶ声が、髪を梳く手が、夜中に見るあの背中が、蓉を奮い立たせる。
愛されていない?
そんなものは愛されなかった愚かな女の僻みだ。
だから蓉は表情を変えずに聞いた。
「それで?」
「まだわからないのかしら?」
「『あや』とは誰?」
「あら、ちゃんとわかっているじゃない」
「誰!?」
「…あの部屋の、唯一の主よ」
がたりと椅子を鳴らして。
蓉は無言で裾を翻し彼女の部屋を後にした。
彼女は何も言わず、追いかけても来なかった。
少しだけ空虚に響いた女の言葉はきっと嘘ではない。
さみしさや、諦観や慕情、色々なものが混じった言葉だった。
嘘には付加できない感情。
蓉はぎりっと指を握り込む。
言い知れぬ感情が渦を巻く。
愛されていない?
そんな馬鹿なことはない。
絶対に、ない。
「どうした、蓉?」
「いいえ、殿。何でも御座いませんわ」
では何故。
彼は自分の元でさえ目を閉じないのか。
『あや』は彼にとって何なのか。
気にもならなかったはずのことが胸の中で蟠って、それを言葉にすることもどうしてだかできない。
胸につかえて吐き出したいのに、喉が声にすることを拒むかのよう。
曹操の事などどうでもいい。
大切なのは彼が自分に何を与えてくれるかだけだったはず。
なのに、何故こんなにも不安なのだろう。
そして何故、自分は曹操に何も問わないのか。
問えないのか。
聞けばいい。
少し前の蓉なら簡単に聞けた。
曹操がつまらなそうに蓉から目を逸らした。
蓉は、気付かない。
水に落とした一滴の墨のように広がるものがある。
昔のようにため息を吐くことが多くなって、女官たちの心配顔が増えた。
「本当に殿を愛していらっしゃるのですね」
女官が言った言葉に驚いた。
蓉の着物を畳みながら、ふと漏らしただけの言葉のようだった。
蓉は愛という言葉を思い浮かべてみる。
それは違う。
わたくしは曹操を愛してなどいない。
根拠がないことになど気が付かなかったけれど、蓉は愛を否定した。
「殿も劉姫様を殊更大事になさっていますし…」
その先は聞いていなかった。
その通りだと、思ったから。
そう、大事にされている。
だから、勢いに任せて、聞いてみよう。
きっと聞けるはずだ。
『あや』とは誰か、と。
自分を『愛しているか』と聞くのはあまりにも愚かな女の台詞のような気がして、どうしても口にはできない。
その夜、いつも通りに訪れた曹操に何度も口を開いた。
だが、言葉は一向に飛び出すことなく心の中に溜まっていく。
一体、自分はどうしたというのか。
戸惑いが広がる。
「さて、わしはもう帰るぞ」
「え、もう?」
「明日は早い。」
「…はい」
蓉は少し下がって、曹操を寝室から見送った。
曹操の支度は女官たちが整えてくれるだろう。
らしくない、と臥牀に座り込む。
けれど塞ぎ込む時間はなかった。
「きゃあぁぁぁぁぁ―――――――!!」
部屋の向こうから蓉の身を竦めるような女官たちの悲鳴が聞こえた。
尋常な声ではない。
はっとして寝室を飛び出したのはそのすぐ後だった。
扉を開けてみれば、そこには凄惨な情景。
あかい。
飛び散り広がりゆく赤の中に倒れていたのは可愛がっていた女官の一人。
とうに事切れているとわかるその斬り口。
「殿…」
へなへなと腰が床に付く。
曹操の手には血に濡れた剣が。
何が起こったのかなど、あまりにもわかりきったことで。
「つまらん。何か企んでいる様子があった故、楽しみにしていたがこんな事か。」
ぼそりと呟いて、曹操はそれ以上何の反応も見せず、剣を一振りして血を払いさっさと部屋を出て行く。
行ってしまうと思った。
そしてもう二度と自分の元には戻ってこないと思った。
「劉姫様!あの子『あや』とは誰かと聞いたのです。無礼を承知でした。しかし劉姫様がこの頃お元気がないと…」
最後まで聞かずに飛び出した。
行ってしまう。
足がもつれてうまく走れない。
その背中を追いかけて、駆けた。
何故、わたくしはあんな男に追い縋ろうとしているの。
浮かぶ疑問に答えはない。
だが、足は止まらなかった。
曹操の背中が見えた。
「…殿!」
自慢の声は掠れてうまく言葉にならなかった。
だから手を伸ばす。
だが、その手は空を切って、重い音に阻まれた。
扉が隔てた。
曹操の姿はその向こうに消えてしまった。
荒い息のままぼんやりと扉を見上げる。
見知った絵だ。
知っている。
この扉の向こうには美しい燕が潜んで、魏には相応しくない柔らかな空気が支配している。
手に痛みを感じて目を向けてみれば、扉に爪を立てて指が傷ついている。
あら?
外そうと思った。
だがそれは自分の意識とは裏腹に尚も木目の扉に食い込んでいこうとする。
ぎりっと音がして爪が折れた。
それでも扉には目立つ傷はない。
『本当に殿を愛していらっしゃるのですね。』
そう言ったのは曹操に殺された女官。
「愛してなど、いないわ」
声は低く、空気を震わせて、それは自分の声ではないように響いた。
『殿も劉姫様を大事になさっていますし』
「大事になど、されていなかったわ」
手の平で、踊っていたのは自分。
あの女が何故、自分を見て嘲笑ったのか、今ならよくわかる。
『つまらん。何か企んでいる様子があった故、楽しみにしていたがこんな事か。』
「愛されてなど、いない。」
笑いが漏れた。
いつだったか張が殺された時、同じように高く笑った。
だが、今、張が殺された理由が自分などではなかったと知れる。
この部屋に、踏み入ったから殺された。
自分の可愛がっていた女官は『あや』という一言で。
笑い声は静かな廊下に響いて、あっと言う間に衛兵たちが駆けつけてきた。
衛兵の詰問にも答えず、拘束されても気にもとめず蓉はただ笑い続けた。
まるで狂気。
愛してなどいなかった。
初めから。
曹操の心に住み着いて消えない女がいた。
想うのは、一人。
彼女がかつて住んでいたというだけの部屋。
踏み込むだけで殺す。
名を口にすることすら許さない。
そういう、愛。
彼女と、それ以外。
だから、等しく、みな、『それ以外』。
わたくしも、『それ以外』。
心の奥で、何かが壊れるような、あるいは凍り付くような音がする。
わたくしは始めからあの男を愛してなどいなかったわ。
衛兵たちに引き摺られながら、蓉は何度も呟いた。
最後の砦のように、守るものはそれだけ。
その誇りまで奪われたら生きてなどいけない。
それでも、最後に視界から消えゆく扉を見て思った。
蓉の欲したすべてがある部屋。
手にしたと舞い上がり、砂上の城のように消えた宝玉の、本当の在処。
主は一人。
わたくしであったなら。
「ふ、ふふ、あはははは、馬鹿なことを。なんと愚かな!うふふ、あはははははは!あはは、は…は、はは……ふふ」
高笑いは嘲笑に変わり。
やがて呟く言葉を変えた。
あや。
あや、あや、あや、あや、あや、あや、あや…。
人を、憎むということが本当はどういうことか。
曹操。
愛してなどいなかったけど。
『あや』
誰かなど知らない。
それでも。
一生をかけて、恨むわ。
外伝のようなもの。




