叢話 燕 前編
彼女のいない魏での一幕。あるいはありふれた出来事。
その部屋には名前があった。
女官が一人殺された。
その部屋は「開かずの間」と呼ばれるようになった。
「開かずの間と呼ばれる部屋をご存知でいらっしゃいますか、劉姫様」
女官に聞かれて蓉は眉根を寄せた。
最近塞ぎがちな自分を気遣ってくれたのだろう。
周りにいるのは昔から仕えてくれた気の知れた者たちだ。
でなければ蓉は女官ごときに直接話しかけられることなど許しはしない。
無礼者と言って首を刎ねているところだ。
「開かずの間?そんなものがここに?」
「いえ、ここでは御座いませんのよ」
「ではわたくしには関係のないことだわ」
蓉の世界はこの豪奢な建物の中だけで、それについては特に不満に思ったことはない。
幼い頃から決められていて、自分でも望んでいたことだから。
だが、昔想像したのと同じ生活で、一つだけ違うことがある。
それだけが蓉は許せなかった。
「それが、その部屋に張氏の女官が入ったそうなのです」
声を潜めて重大事を打ち明けるように蓉付きの女官が言う。
蓉は初めて興味を持ったように女官を見た。
張氏の名は知らない。
多分向こうも自分の名を知らないだろう。
女しかいないこの園では名などどうでもいいことだ。
あるのは血に拠って立つ誇りと、主の寵愛。
「…ここを抜け出したというの?」
後宮の女がここから出ることは禁じられている。
すぐに、心の中で、これを公にできればあの煩い女を追い落とせると思った。
「はい、ですがあまり隠す様子もなく、自慢げに吹聴しているようです」
曰く、素晴らしい部屋を見つけた。
その部屋はいつかこの後宮の主によって一番の寵愛を得た女に下賜されるに違いない。
そのために用意された後宮外の部屋だと。
「後宮の女と区別するために作られた部屋なのかもしれないわね」
言いながら蓉は不快そうに目を細めた。
漢王朝の血筋。
人は自分を劉姫と呼んで、その美しさを称えた。
蝶よ花よと育てられ、いつか皇后になることも夢ではなかった。
愛されて、望むもの全てが手に入る幸せを甘受できるはずだった。
なのに。
今の自分の状況はどうか。
贅沢は申し分なく不自由などなかったが、その他大勢の一人。
夜ごとあの成り上がりの王、曹操の愛を乞う日々。
あんな宦官の血筋の男になぜ自分のような高貴な人間が。
ずっと蟠っている不満。
だが、曹操の前では軽蔑の目など見せたことがない。
抱き寄せられながら心の中で毒を吐く。
そんな風に蔑んでいた男が密かに後宮の外に女の部屋を作っているという。
それはその女をその他大勢と区別するためだろう。
「見てみたいわ」
ではその部屋は自分のものであるべきだ。
曹操に愛などない。
だが、特別でない自分など冗談でも笑えない。
女官も興味があったのか、心得たとばかりに是の返事をした。
その部屋はやはり後宮の外にあった。
だが、人通りの少ない場所にひっそりと建ち、誰にも見られず行き着くことが出来る。
多分曹操が通うためにこんな配慮がされているのだろう。
「ここです」
「ええ」
見れば直ぐにわかった。
頑丈な扉がそこを塞いでいたが、それには繊細な彫り物がなされている。
派手すぎず、落ち着きを加え、だが地味にもならない。
柔らかな線がこの部屋の主を女に限定している。
わざわざあの無骨で実用性しか利点のない扉と変えたのだろう。
張氏の言っていたことは本当なのかもしれない。
扉を見ただけで目が肥えた者にはこの部屋がどれほどの技術を集めて作られたのかがわかってしまう。
後宮にもこんな格の部屋はない。
蓉は臍を噛む。
こんな情報は聞いていない。
長くこの城にいる者は知っているのか。
知ると知らぬとでは大きな違いがある。
蓉は女官に触らせるには美しすぎる扉を自ら開いた。
それは軋みの一つも上げず滑らかに、けれど宝を守る盾のように重々しく。
途端、ふわりと仄かに香る空気。
蓉は目を見張った。
後ろからついてきた女官たちが息を飲んでいるのがわかる。
この城の様相には堅実な美があった。
蓉はそれを好いてはいなかったが、なるほど城は中距離から見ると統一感があり、堂々とした雰囲気を持っている。
蓉が知る限り全ての広間、回廊、部屋は同じ意匠を施してあった。
それは奥まった後宮にも言える事。
基調は青。
模様は幾何。
そして優雅なる鳳凰、あるいは力の象徴龍、もしくは瑞兆の麒麟。
その中でこの部屋だけが例外だった。
無骨な石組みより木の調度が多く。
所々にひっそりと使われた彩色が目に優しい。
色は淡い紅。
それは花を思わせる。
模様は曲線。
それは蔦を思わせる。
度々意匠される龍も鳳凰も麒麟も、紋様のどこにもなかった。
代わりに小さな鳥の姿が曲線の間に潜んでいる。
「燕?」
燕。
またの名を、玄鳥。
「すごい…」
後ろの女官たちが身を乗り出して中を覗く。
物はそう多くない。
だが全てが一級品。
置いてある調度品はその存在を主張しない程度にひっそりと華美を隠して、全体的にすっきりとした印象を与えた。
しかし部屋を包む空気は柔らかい。
蓉が好むのはもっと華やかで豪奢な部屋だったが、それでもこの部屋には目が眩んだ。
さり気なく、自分の着物何十着分、あるいは強請って譲ってもらった母自慢の装飾品に匹敵するものがそこら中に散りばめられていた。
「見てください、劉姫様!」
女官が興奮気味に蓉を呼ぶ。
見れば広げられた内扉にはそれとわかる着物がずらりと並んでいた。
衣装棚だ。
「すごいわ!」
別の女官の声が別の場所で感嘆を漏らす。
化粧台には望める限りの種類が。
小物箱を開けば曇り一つない装飾品の数々。
女官たちのはしゃぐ声を聞きながら蓉は部屋の真ん中でぐるりと辺りを見回した。
部屋は開かずの間と呼ばれているにしては塵一つなく整っている。
扉を開けたときに流れ込んできた香りはきっと香だ。
それは主が不在でもずっと誰かが管理している証拠に他ならない。
「わあ、綺麗」
一人の女官が引っ張り出した着物に他の者が集まっている。
曹魏の色。
上から下に蒼の濃淡が美しい、変わった作りの着物。
この色を出すために一体どれほど試作が重ねられたのだろう。
蓉ですらそう慮れるほどの見事な出来栄えのそれは、誰かが袖を通した様子はない。
つまり、この部屋にはやはり想定された主がいるのだ。
そして「彼女」はいま不在。
今は、まだ。
むやみにはしゃぐ女官らを一喝してやりたかった。
お前たちのような下賤の者が触っていいものではないと。
それは価値を知り、尚且つ飾り立てるに相応しい者の手にあるべきだ。
「劉姫様、きっとこの部屋はいつか劉姫様のものになりますわ!」
女官の言葉は心に響かなかった。
当然だろうという思いと、誰にも渡すものかという欲が渦巻いていて、蓉は曹操の顔を思い浮かべる。
この部屋がどうしても欲しい。
この部屋の主になるのはこのわたくし。
そのためにはあの男の心を手に入れ、寵愛をこの身に受けなければならない。
「ええ、そうね…」
気が乗らなかったあの争いに積極的に参加しなければならないけど、この部屋が手に入るものならば大したことではない。
ここには蓉の望んだすべてがある。
そう、全てだ。
嫌々という態度も今日からは改めなければ。
蓉は自分の誇りに傷を付けずに曹操に身を任せる理由を手に入れた。
後宮は広い。
女も多い。
曹操が毎日蓉の元に通ってくるわけもない。
だが曹操の好色ぶりはかなり有名で、その通り、曹操はほぼ毎日後宮に通ってくる。
そのために控えている女もまた数多かった。
きっと一度も曹操の目に留まらないまま終わる娘もいるだろう。
その中で曹操が自分のもとに来る頻度はかなり高いと言えるかもしれない。
気に入られている自信はあった。
本気になればその寵愛を手に入れることもそう難しくはない。
機会はそれから一月後に訪れた。
曹操が蓉のもとに顔を出したのだ。
蓉は曹操を拒否したことはない。
これでも権力闘争の中で生きてきた。
許されることと許されない事の一線は弁えていた。
今の曹操なら簡単に自分の命など奪えるということも自覚している。
だから曹操が許すぎりぎり。
好きで身を任せているのではないという態度だけは今まで崩したことがない。
「蓉よ、今日は随分と愛想がいいではないか」
曹操がそう言った時にはどきりとしたが、曹操はからかう様な、面白がるような目で蓉を見ていて訝しむような色はなかった。
ほっとしたが顔には出さない。
「こういうわたくしはお嫌?」
「いや、たまにはいい」
曹操は蓉の手を引き寄せた。
蓉は艶然と微笑んだ。
その夜から曹操はそう間を置かずに蓉の元を訪れるようになった。
曹操が訪れる頻度が増せば後宮での立場も強くなる。
昔のように注目を浴びて、傅かれるのは気分がいい。
探りを入れたのは二人だけの寝所で。
気だるげに色香を残して蓉は聞いた。
「開かずの間といわれている部屋をご存知でいらっしゃいますか?」
「…いや、知らぬな」
「あら、残念。殿の物では御座いませんでしたの?」
「ふむ、どの様な部屋なのだ?」
「城の南の角にある玄鳥の部屋ですわ」
部屋には値の張るもの、豪奢なもの、様々あったが蓉は何故か淡い薄紅の花に寄り添う燕の欄間を思い出す。
だから玄鳥の部屋と、そう呼んだ。
「ほう、確かにそれはわしの物だな。欲しいのか?」
曹操は顔色一つ変えなかった。
蓉は曹操にとってあの部屋は大した意味はないのかもしれないと考えを改める。
この男の関心が薄いのならば、思っていたより簡単に手に入るかもしれない。
嬉しい誤算だ。
「いいえ。わたくしはそんなものより、出来るだけ長く殿の心がわたくしにあるようにと願うだけです」
「そうか」
その台詞は思ったより曹操の心を傾けなかったように聞こえた。
蓉は心の中で舌打ちをする。
「ところで、お前は部屋の様子を克明に知っているようだが?」
「ええ、張氏から聞きましたの。」
「張姫から?」
「彼女は最近その事でとても得意になっておりますわ。殿が張氏にあの部屋を見せたのではなかったのですか?」
何となく。
何となくだった。
曹操なら少々の冒険心は笑って許しそうだったが、邪魔な彼女を排除できたら一石二鳥。
最近、張氏は曹操の訪れの多い蓉に突っかかってくることが尚更多くなった。
血筋で勝る自分に向けてくる、あの敵意と不服従の目は気に入らない。
だから本来は禁止されている後宮からの外出をそれとなく告げ口してみる。
これで曹操が動いてくれるなら儲けものだ。
「いや、わしではないな」
だが曹操は特に気にした様子もない。
ちょっとした罠は失敗したようだった。
蓉もうまくいけば、程度の思い付きだったから落胆もしない。
「蓉よ、お前は張姫が嫌いか。」
「そういう訳では御座いませんのよ。ただ…」
「ただ?」
「最近何かと言いがかりをつけられるものですから」
曹操が蓉に優しく聞く。
髪を遊ぶ曹操の手が蓉は嫌いではなかった。
「そうか。直接的に言えば目障りだということだな」
「殿!そのようなことは言っておりません。冗談でもおよしになって!」
曹操は笑った。
蓉も曹操につられて笑う。
演技か真実かは自分でもよくわからなかった。
曹操がその目に剣呑な光を宿したことに、蓉はまったく気付かない。
翌日、曹操は夜半を過ぎても来なかった。
蓉は不機嫌に鏡の中の自分の眉間に寄った皺を見つめる。
夜毎、曹操のために着飾って、来るとも来ないともわからない男を待っている自分がとても不愉快だ。
仕方がない。
これも自分の望みを叶える為。
蓉は当初の目的を自分に言い聞かせて納得させる。
蓉の機嫌を一転させるその知らせは日が昇ってから届いた。
張氏が死んだ。
曹操の怒りに触れたらしい。
様々な噂が後宮を駆け巡り、蓉もその噂話に参加した。
しかしある程度のあらましがわかると集団を抜け出し、自室に戻る。
自室の扉を閉めた途端笑いが漏れた。
止まらなかった。
愉快で仕方がない。
曹操の心は自分にある。
閨でほんの少し愚痴を零した相手を殺してくれるほどに。
自分を愛してくれる曹操を、初めて愛しく感じた。




