閑話 呂布と右近
『戦しかない時代は終わるんだよ!』
手を広げて、笑う顔には未来があった。
呂布はそれを思い出しながら眼下に広がる兵の布陣を見る。
戦はまだ終わらない。
だが。
終わりを信じてもいいと、今は思う。
この玄鳥の地に来たばかりの頃、呂布にはやることがなかった。
戦ばかりに明け暮れていた呂布にとって、普通に暮らすということはとても難しく、また退屈だった。
呂布をここに連れて来たあやも右近も、右近が強いと評した祁央も、片目を失った左近も、共に連れ立ってきた貂蝉も、忙しそうに走り回っている。
やるべき事、できる事。
自ら考え、動くこと。
貧しくとも、知識がなくとも、体一つあれば出来る、たった一つのこと。
それが呂布には出来なかった。
この穏やかな地では呂布の圧倒的な力は役に立たない。
本当はいくら治安がいいと言っても、この時代に争いごとから無縁でいられるわけもなく、その頃にも度々小競り合いがあった。
だが、村の誰もが、示し合わせたように何事もない平穏を装っていた。
多分、呂布のために。
呂布は毎日をほとんど寝て暮らした。
娯楽もなく、それ以外にやることがない。
それでも誰も文句を言わなかった。
玄鳥を率いる者の一人となった今なら、それがどれだけの負担か分かる。
黄河と長江の下流に位置する肥沃な大地を持つ北の魏や東の呉と違って、この南西は厳しい山岳地帯だ。
玄鳥では餓死者こそ居なかったが、いまだ暮らしが楽なわけではなかった。
ほんの数年前の大飢饉の爪痕はどの地にも残っていたが、痩せたこの地域が立ち直るのは尚更簡単なことではない。
呂布はそのことにも気が付かず、ただ漫然と時を過ごしていた。
後にあやが言った。
あの飢饉は悪夢だったと。
人が人を喰う。
奪い、殺し、盗み、犯す。
法も秩序もない世界。
骨と皮だけの死体が街道沿いに溢れ、しゃぶり尽くされた骨がそこら中に転がっていた。
あやが落ちたのはこの地に生きてきた者にとっても、稀に見る程の飢饉のさなか。
そんな中、玄鳥は台頭した。
必死で生きようとする村を守り、奪うのではなく、殺すのではなく、小さな力を束ねて、一から始めようと呼びかける声は、あまりにも弱く、ほとんど届くことはない。
それでもあやは声を上げることをやめなかった。
そして今の玄鳥がある。
「よう!」
呂布は目を開けて、体を起こすことなく目線だけで、相手を確認した。
右近だ。
ここを訪ねてくるのはあやか右近か、彼らについてくる祁央や左近しか居なかったから最初から誰かなどわかっていた。
「何だ、また寝てたのか。お前ほんっとうに暇だな。やることないのか?」
むすっと黙り込んで答えない呂布を気にした様子もなく、右近は「じゃあオレに付き合え!」と呂布を引きずり出す。
右近は呂布がついてきているかを一々確認したりはしない。
断るのも面倒で、呂布は億劫そうにその後をついて歩く。
いつものことだ。
右近は自分の意見に呂布が反対することを想定していない。
それが呂布が右近にいつも渋々付き合ってしまう理由の一つだった。
「…で、どこに行くんだ?」
「いいから!お前にいい物を見せてやる」
あそこだと右近が指す先には小さな小屋が幾つか並び立っていた。
それは作業場のようにも見えた。
「邪魔するぜ!」
「右近様!?」
「陽明様!」
中には幾人かの男女が居て、驚いたように右近を迎える。
「気にしないで続けてくれ。納品時間が迫ってる奴だって居るだろう?」
右近の言葉にはっとしたように何人かが慌てて机に戻る。
彼らの手元には小さな木や金属が収まっていた。
それから戦場ではものの役に立たない程小さな刃物も。
彫刻刀だ。
周りを見渡せば様々な完成品や、作り途中だろうと思われる装飾品が置いてある。
「おい、奉先。奥に行くぞ」
どかどかとそこら中に散らばった木の破片等々を蹴散らして右近が呂布を呼ぶ。
「ここだ」
奥にある扉の一つを開いて右近は遠慮なく入る。
そこには張り巡らされた棚に、完成している装飾品がずらりと並んでいた。
どことなく作品に統一感があって、作者が同じなのだろうと思う。
「どうだ、すごいだろう。ま、もう貰い手が決まってるやつばっかりだけどな」
右近が得意げに手を広げてそれらを自慢する。
「…お前が作ったのか?」
まさかと思いながら呂布は問いかけた。
「オレ以外に誰が作るんだよ?」
心底不思議そうに右近が聞く。
その部屋は右近の作業部屋だ。
だが、呂布にはその美しく細かい造形を刻んだ装飾品の数々が右近の無骨な手から生み出されているとはとてもではないが思えない。
「何ならお前にも作ってやるぞ。好きなのがあれば言ってくれ」
櫛や腕輪、耳飾指輪や剣飾り、はたまた鞘に施された装飾まで目に入って呂布は感心した。
「お前にこんな特技があったとは」
「はは、初めから出来たわけじゃないぜ。言うなれば継続は力なりってとこか?」
その声からは確かに努力の証が滲んでいて、呂布は不思議に思った。
右近には玄鳥で居場所と役目がある。
何故時間と忍耐をかけてまでこんなことに精を出すのか。
「…あれは?」
呂布は右近らしく、片づけられていないの作品群の中に一つだけ、何の装飾もない木の箱があるのを見つけて右近に聞いた。
この部屋には酷く不似合いな、まるで隠すようにひっそりと置いてあるから逆に目についた。
「ああ、それはオレの処女作だからな。この世に一つしかない貴重品故、売るつもりはないのだよ、呂布君」
右近が慇懃にそう答えて、それからふと考えるように黙り、呂布を呼んだ。
「そうだな、奉先。もしオレが死んだらこれをやるよ。貂蝉にでも渡すといい」
「ああ?いらんぞ、そんなもの」
「貂蝉は好い女だ。たまには労ってやれよ」
「だからと言って何故お前の作った物なんぞを!」
「ちっちっち!これはな、想い合った者が持つべきモノなんだよ。お前たちなら最適じゃないか。」
命を懸けて男の人生に従った女と、女のために天下を捨てた男。
「きっとお前たちを強く結びつけるものになる」
むず痒くなるような言葉を黙って聞いていたのは、右近が穏やかに笑うから。
木の箱には紐がかけてあり、まるで封印のようだと呂布はちらりと思った。
「どうせお前のようなやつは殺しても死なない。随分な無駄話だ」
呂布はそう答えて、右近はオレも死ぬ気はないと笑いながら言った。
死ぬはずがないと、本当にそう思っていたのだ。
図太くて、生命力に溢れていて、彼には陰の一つも見えやしなかった。
「何故こんなことを始めたんだ?」
右近の作品を試す返す手に取り、感嘆を隠しながら見ていた呂布が、いつだったかふと尋ねたことがある。
「はあ?だって、お前これからどうすんの」
「あ?」
質問には理解できない問い返しが返って来た。
「ずっと武器を振り回していくのか?」
「それのどこが悪い」
「いや、悪くないけどよ。そんなの時代遅れの産物になるぜ?」
それってダサくねえ?
いまいち意味のつかめない言葉が右近からは時々飛び出すが、その時にはもう気にならないくらいには慣れていた。
「戦しかない時代は終わるんだよ!その時お前、武器に縋って生きるのか?」
縋って生きるも何も、呂布には右近が突飛なことを言っているようにしか聞こえない。
呂布はその人生の大半を武器と共に過ごして来た。
呂布だけではない。
両親も祖父も、その前ももう何百年も連綿と続いている。
呂布は彼らの人生を踏襲したに過ぎないのだ。
平和な時が来ると期待した事もあったらしいが、結局そんなものは幻想でしかなかった。
百年続いた、ならばこの先百年も同じように続くのだろう。
呂布には戦のない時代など想像すらできなかった。
だから疑いの欠片もなくぴしゃりと言い切る。
「そんなものは来ない」
「いいや」
右近は自信満々に答えた。
「来るさ。あやが居るんだから」
根拠のない答えは、論破する余地がない。
否定するのも面倒で、呂布がこれ以上何を言っても無駄だと肩をすくめたのはそう遠い過去の出来事ではなかった。
右近は本当に信じていた。
来たるべき未来で、人を傷つけるのではなく、穏やかに生きられる道を探して、その準備をしていた。
右近は未来を生きるつもりで『今』という時を生きていた。
呂布は今になってわかる。
自分は戦しかしてこなかったのではない。
それしか出来なかったのだ。
生きるのは、未来を見るのは、彼のような人間であるべきだ。
なのに彼はもう居ない。
生きるべきものが死んで、朽ちていくべきものが未だに大地に根を張っている。
間違っている。
こんな世界の在り方は間違っている。
今はそう思えるようになった。
呂布は胡頌の報告に鷹揚に頷いて、久しぶりに立つ戦場を眺めた。
ぎりぎりと引き絞られた、放たれる寸前の弓矢のような戦場前の空気に武者震いはしても、高揚はない。
それは不思議な感覚だった。
体の中で暴れる熱と共に駆け抜けた、ほんの少し前までの戦。
「どうした、緊張しているのか?」
「…いや」
隣で黙っていた左近がここに来て始めて呂布に声をかけた。
「綿密に作戦は練った。負けることはないだろう」
情報に裏付けられた左近の声には冷静な確信が見える。
左近の上には今も鳥の羽ばたきが聞こえていた。
この男が居なければこうも円滑に敵の情報を得ることは出来なかったに違いない。
「…お前、大分悩んでたな」
作戦に不安でも?
左近が潜めるように声色を変えて呂布を見た。
そんな素振りを見せた憶えはない。
しかし見抜かれていたらしい。
「難しいものだ」
戦とは。
「知らなかったのか?」
「ああ、今まで知らなかったな」
多くの戦いを駆け抜けた。
だが、斬り、殺し、攻めることしか考えなかったあの頃とは違うものが今の呂布には見える。
「陽明からの預かりものだ。」
眼下の兵たちを見て、呂布は言った。
それはただの兵という名の駒ではない。
一人たりとも失えない命だった。
「犠牲を出さないことばかりを考えていた。」
だから人は作戦を練って、戦をするのだとやっと気付いた。
勝利のためだけではなく、大切な者を失わないために。
きっとあやも最後まで最善の方法を考えるのだろう。
攻める時はあんな簡単に奪えた命。
守ることがこんなに大変だったなど、想像すらした事はなかった。
呂布は今更そんな当たり前のことを知ったのだ。
「…戦をしたくないと思ったのは初めてだ」
彼らを死なせないためにはそれが一番確実で有効な手段。
呂布は攻めても戦端を開かない敵を臆病者だと罵って切り捨ててきたが、今その立場になってみて思う。
彼らも生き延びるべき人間だったのかもしれない。
未来を背負うべき人々だったのかもしれない。
そんな人間の命をたくさん摘み取ってきた。
やっと、その愚かしさに気付いた。
「黒布長!」
時間です。
ずらりと揃った部隊長が呂布を呼んだ。
耳に慣れなかった呂布を指す言葉は、少しずつ馴染んで来た。
『黒布長の地位はお前に預ける』
呂布は赤兎の首を巡らし、兵の間を縫って先に進む。
『あと、あやを頼むよ』
いつも戦場では先頭を駆けた。
その時とはやはり違う気持ちで呂布は兵の先頭に立つ。
『頼んだ』
あの時、言えなかった言葉。
右近は戦のない未来を信じていた。
呂布は信じてなどいなかった。
だが、今は思う。
こんな、失われていくだけの時代は終わらせなければならない。
「…頼まれた」
この時代が終わるまで。
頼まれてやろう。
『呂布奉先。我が友』
「陽明右近。我が…友。」
初めて口にした。
それは呂布の中にすとんと落ち着いて、呂布は認めた。
彼は友だった。
しかし生涯で初めての友はもう居ない。
対等に、隣を歩いてくれた唯一の友は間違った時代に散った。
だが彼の残したものがここにある。
手を広げて、笑う彼の後ろには荒々しい荒野と土を耕す人々がいた。
今、呂布は彼らを愛おしいと思うのだ。
ただ一人の友が愛したものだから。
呂布はゆっくりと目を開き、その先にいる敵を睨むように見た。
この全てを、俺が殺したら誰も死なない。
右近が大切だと言って、自分に託した多くの命は何一つ失われない。
呂布は人の命を背負うという意味を知った。
その重さを感じて、方天画戟を握る。
駆け出す寸前。
頭を掠めたものがある。
そうだ、あの箱。
右近が死んだらくれると言っていた、あれ。
右近が見た未来が現実になった時に。
この愚かしい時代が終わったときに、彼女に渡そう。
あやに。
右近に未来を見せた娘に。
誰よりも平穏を望んでいる彼女に。
きっとそれが相応しい。
先頭を切って駆け出す呂布と赤布隊を眼下に見ながら、左近は右近が残した一番大きなものを想う。
それは多分あの男だろう。
人は変わるものだ。
あの男はきっとこの時代を駆け、切り裂くためになくてはならない者になる。
右近が本当に残してくれた財産はお前だ、呂布奉先。
左近は偃月刀をすらりと抜く。
出番はもう直ぐ。
後ろに控えた紫布隊に目を向けると力強い頷きが返って来る。
偃月刀『烟月』は光を弾き、美しく輝く。
――いい出来だ。
呂布は寝て過ごす日々をいつの間にかやめて、気がつけば鍛冶師の下に通って鉄を叩くようになった。
刃物砥ぎのために度々鍛冶場に通っていた右近に連れられ、その現場を目の当たりにした事がきっかけだろう。
無言で通い続ける呂布に折れて、いつの間にか自分の技術を教えるようになった玄鳥一番の鍛冶師は今や多くの仕事を彼に任せている。
烟月を研いだのはきっと呂布だ。
未来を、今は見ている。
誰の命も理不尽に奪われることのない世界を望んでいる。
右近が見て、やがて来ると信じて疑わなかった遠い夢。
「お前には右近の未来を背負う資格がある」
呂布奉先。
だからお前は生きなければならない。
左近は烟月を一振りして馬の腹を蹴った。
誰かの大切なもののために、あっさりと命を捨ててしまいそうな男の下に駆けつけるために。
さて、彼に命の重さを教えたのは右近だった。
では己の命の大切さを教えるのは誰だろうか。
きっとそれは命を自らの身を持って育む女の役目だろう。
何となくそう思った。
呂布も左近も、あやも祁央も大陸を駆ける。
大切な仲間を失わないために、武器をかざして。
丁度その頃、玄鳥の村を訪れる者があった。
「何用か」
留守を預かる白父が問う。
「玄鳥天女にお目通り願いたい」
劉備と名乗った男。
三国時代を彩る最後の龍。
だが、彼があやと出会うにはまだ、幾許かの刻を要することになる。




