12話 少年はいつか龍の夢を見るか。
「あ?」
「だから、姉だって!」
ここで冗談ですと言ったらなかったことにしてくれるだろうか。
それならオマケに踊ってあげてもいい。
もう祁央の説教は聞きたくなかった。
「……あ、ね?」
「そう姉!わかる!?あ・ね!!」
いまだに呆然と口の中でその意味を探るようにあやの言葉を繰り返す孫権に、いい加減自棄になってあやは叫ぶ。
気分はもうどうにでもして、と言ったところ。
もうついでだ。
否定もしておく。
「姉さんはあばずれなんかじゃないからな」
それから、他はなんだ、あとは何を言おう。
そうだ、褒めておこう。
「それに孫権なんて相手にされないくらい綺麗だし!性格いいし!」
あとで頭を抱えるのが目に見えているのに、なぜ勢いに任せて口走ってしまうのか。
多分これを性格、と呼ぶのだろう。
あやは絶叫している内心に急かされるように孫権に玄鳥天女の素晴らしさを説く。
その勢いに孫権が引き気味だ。
「わかった、お前が姉をどれだけ尊敬しているのかはよく分かったから。もういい!」
「まだ!姉の素晴らしさを語るには足りない!もうちょっと!」
「いや、十分だ!本当にわかったから、な?ああ、とてもよくわかったぞ!素晴らしい、玄鳥天女はいやはや素晴らしい!」
「…本当に、わかった?」
「そうだな、もう二度とこの話題をお前に振らないと決意するくらいには」
きりりとあやに頷いてみせた孫権に渋々言葉を収める。
あからさまにほっとした孫権を不満そうに見上げれば、彼は慌てて玄鳥天女を褒め始めた。
今度はあやが引きつる番だ。
なにせ自分の事。
羞恥心に殺されそう。
――でも。
ああ、平和だな。
とても、穏やかだな。
こんな他愛もない時間が好きだ。
空を見て、ため息を付いて、こんな馬鹿みたいな日常がずっと続けばいいのにと思う。
最近、孫策と周喩を見ない。
もう灰になってしまった歴史の教科書を思い出して、否応なく近づいてくる運命がついに目前に迫っていることを感じた。
――今日も、明日も太陽が見えるといい。
龍はいつか空に還るのだと言う。
一匹の龍が空を駆け昇ろうと、身を縮め地を蹴ろうとしているのが見える。
「あや」
呼び止められて、振り返れば孫策を先頭にずらりと呉の幹部が揃っている。
層々たるメンバーだ。
きっと会議が終わった直後なのだろう。
あやを呼び止めた孫策の目はとても強い意思に満ちていて、あやは目を細めた。
「…征くの?」
あやは疑問ではなく確認の響きを強くして孫策に聞く。
わからないわけがない。
この広い大陸の中で、それでも同じものを見られる者は少ない。
あやと孫策は数少ない、そういう者同士だった。
例えばそれは同族や仲間意識に近いものかもしれない。
「ああ、決めた」
「そっか」
「反対するか?」
「…そんな権限が?」
自分のどこにあるというのか。
無駄な質問は必要ない。
あやは頭を振って答えた。
他の者は黙って孫策の後ろに控えている。
君主の先を行くことなど許されていない。
孫策とあやの会話はあまりにも簡潔で、傍から聞いていると意味がわからない。
だが今、呉の未来を変える大きな決定が成されたばかりのこの状況で、彼らがしている話題を悟らずにいられなかった。
「…龍に、なるんだねぇ」
「……ああ」
感慨深そうにあやが孫策に向かって言う。
孫策は少しの間をあけて、しかし是を返した。
「天は龍の住処だと云う」
唐突に話題が転換したあやの言葉を孫策はじっと聞いていた。
「それでも龍に空は狭いらしい」
あんなに広く見えるのに。
空に住めるのはただ一匹。
そんな感傷は孫策のお気に召さなかったようだ。
「あや」
孫策が何かを促すように名を呼ぶ。
あやは黒い瞳でじっと孫策を見て、やがて回廊の外のどこか遠くを眺めて、最後に空を仰いだ。
孫策と周瑜以外、そんな様子のあやを見るのが初めてだった。
しんとした空間に佇む彼はまるで別人。
武将たちは目を疑う。
あやはいつも快活に笑って、感情は素直に表情に直結していて、よく動く口が止まることは少ない。
悪戯を仕掛け、成功に子供のようにはしゃぐ様な少年、それが彼への認識。
こんなあやは知らない。
静かに、孫策と目を合わせて、負けない強い瞳。
誰かに似ていると思って、幾人かは気がついた。
彼と相対している自分たちの君主だ。
普段は明朗に笑う声が、目が、一瞬にして変わるそれに似ている。
威厳に溢れ、跪きたくなる声を孫策は持っていた。
いつもは気のいい男が君主の顔になる瞬間、それに魅せられて人々は彼を中心に瓦解しかけた国を立て直した。
孫策は、呉の君主だ。
だから、この国に彼と並び立つものはない。
あるとするなら、同じものを背負う者だけ。
例えば魏を背負う曹操のような。
だが、あやは孫策の影響力から逃れようとするのではなく、ただ自然に答えた。
「うん、行くよ。僕も一緒に」
視線を交わして分かり合い、言葉少なに伝え合う。
そこには特別な絆があるように思えて皆が驚きに目を見張った。
「それでいいのか」
赤龍は飛翔する。
目指すは北の都、許昌。
そこに住むもう一匹の龍を食い殺そうというのだ。
「いいよ」
かつてあやがいた都。
曹操の城がある所。
確認する孫策にあやは微笑んだ。
大丈夫、あたしは今、あなたのためにここに居るんだから。
その微笑の色は透明。
込められた意味を知らずとも、誰もが息を飲むような色。
孫策は重く頷くだけで言葉を返さなかった。
止めていた歩を進め、あやの横を行き過ぎる。
周喩だけが少しだけ表情を動かしたが、あやと孫策に気を取られて誰も気付かなかった。
すれ違う時も孫策とあやは目を合わせない。
二人とも、ただ真っ直ぐに自分の歩む先だけを見ていた。
慌てて孫策の後を追う幹部たちの誰もが、ぴんと張り詰めた空気に何も言えずにいた中、孫権だけが声を上げた。
「兄上、お待ちください」
「なんだ」
「あやと今話していたのは、何ですか。何の話ですか」
「わからなかったのか?」
「…いえ、…北伐の事かと。」
今朝、決定したばかりの議案。
呉の天下への第一歩。
「で、では兄上が彼にその話を?軍議に掛けるより先に?我々よりも先に伝えていたのですか?」
自分たちですら知らなかったのに、あやがそのことをまるで随分前から知っていたように語ったのはそういうことだろうか。
もしそうだとしたら、弟として、臣下として、苦言を呈さなければならない。
あやは太史慈の隊に組み込まれているとはいえ、一介の兵であり、また疑いの残る新参者だ。
しかし同時に、今のこの兄に何かを言えるのだろうかと自分に問う。
今までも孫策は君主だった。
いつもは朗らかに、しかし時に見せる威厳に自分たちは王気を見ていた。
だが北伐が決定された瞬間に静かに目を瞑り、再び開いた孫策の目を見た瞬間、孫権は背筋が震えるのを感じた。
軍議に参加した武将たちが一様に肩に力を入れたから、きっと同じものを感じていたはずだ。
前を行く孫策の身は、遠く手の届かない場所にあるように見える。
実際の距離なんてほんの数歩なのに、それは一生追いつけない隔たりのようだ。
「いらぬ心配だ。あやにこの話をしたことはない」
苦々しい顔の孫権に孫策はあっさりと予想と反対の答えを返した。
「し、しかし、彼は」
実際に知っていたわけで。
「あいつにわからないわけがない」
「どういう意味です、兄上?」
「孫権殿、行きましょう」
孫策の言葉に孫権が更に言い募ろうとするのをなぜか周喩がとめた。
孫権を促して孫策の傍から離れようとする周喩を、孫策は振り向くことなく呼び止める。
「周喩」
「はい、…殿」
孫権はぎょっとして周喩の顔を振り仰いだ。
けれどいつもの位置に彼の顔はなく、その頭は低く下げられていた。
君主からの命を聞く姿勢としては正しい。
「殿?」
周瑜の口から漏れた聞きなれない言葉を、孫権は奇妙な気分で繰り返した。
誰もが、耳に聞こえたたった一言に息を詰める。
孫策と周喩は義兄弟であり、主従が決定しても互いの呼び方は変わらなかった。
周喩は孫策を「殿」と、そう呼んだことはない。
今までは。
「今後、軍議にはあやを出席させる。」
「「「な!?」」」
絶句した将や官を横目に、周喩は動揺することなく優雅に拱手をした。
「承知」
北伐決定と共に、呉の何かが形を変え始めていたことに、控えていた者はやっと気付いた。
「そこにいるんだろう?出ておいでよ」
静かな夜の庭園。
佇んでいたあやはふとどこへともなく話しかけた。
あやの言葉に答えるものはいなかったが、少しの時を置き、茂みががさりと揺れる。
「気付いていたのか」
「こんばんは、孫権。君も夜の散歩?」
あやは孫権の苦々しそうな声が聞こえていないかのように話し続ける。
「夜の散歩はいい、心が穏やかになる気がする」
「お前に聞きたいことがある」
「だからかな?夜はわりと好きなんだ」
「聞いているのか?」
「それに、夜は昼間には見えないものがよく見えるからね。」
「質問に答えろ!」
痺れを切らして鋭さを増した孫権の声に、さすがにあやの自分語りも止まった。
「なに?」
唐突にあやが孫権を見る。
「聞きたい。…この国を狂わせているのはお前か?」
兄が、周瑜が、この国の大きな柱が、色を変えていく。
「……そうだと言ったら?」
「孫呉に仇なす者は消えてもらう」
「そう。でも残念だったね、この国を変えているのは僕じゃない」
間髪入れずに剣に手をかけた孫権はあやが明確に否定しても剣から手を離さない。
「僕は孫策のためにここにいるけど、彼らの道を僕が左右することはないし、彼らが変わることを止められもしない」
「お前ではないのなら、では、何故」
こんなことになっているのか。
孫策の目は強く、孤高を背負うようになった。
周喩の膝は地に着き、公人に徹するようになった。
それは主従の正しいあり方。
だが、そうではなかった。
暖かく居心地のいい我が家のような孫呉の国。
支えあい、助け合っていくのが孫呉の姿だったはずだ。
「僕にも、本当はよくわからないけど。たぶん、天下とはそういうものなんだよ」
「…天下」
「決めたんでしょう?天下を目指すと」
まるで何もかもを見聞きし、全てを知っているかのように言う。
天下。
それは重く、厳しく、辛い道程。
背負うものだけが知る永い道のり。
「それとこれに何の関係があるというんだ!」
いい加減わかり辛いあやの言葉に孫権は声を荒げた。
あやは孫権を一度見て、ゆっくりと前を向く。
きっとわからない。
捨てる者以外に、その意味は。
捨てられた者だけがその一端を知るのみ。
「…かつて曹操は天下を目指すために大切なものを捨てた」
心を、弱さを、良心を。
それから彼を愛した娘を。
――あたしを。
孫策は最初から理解していた。
捨てなければならないものがあることを。
玄鳥天女を訪ねてきた時から。
覚悟の決め方を、探していた。
周喩も知っていた。
いつか天下を目指すその時に、自分がとるべき道を。
玄鳥の地であやを見て、悔しさに滲んだ目は、きっとそういう意味だった。
玄鳥までの旅は、友として歩んだ二人の最後の旅だった。
「曹操がそうしたからと言って、何故我々もそうしなければならない!」
「孫呉を天下に導くと決めたのは、孫策なの?それとも周喩?」
「っ!それは!」
天下への名乗りを上げる北伐を決定したのは、そう、彼らの独断ではなかった。
あやが孫権の苛立ち混じりの言葉から微妙に話題を逸らしていることには気が付かず、孫権は言葉を詰まらせる。
「違うでしょう?」
「私たちが兄上たちをあんな風にしたというのか!?」
「そうじゃない。彼らは初めから決めていた。でも、知っておいて。彼らの背を押したのは確かに君たちなのだと」
「くそっ!!」
孫権が苛立たしげに剣から手を離す。
どうにもならないと言うのか。
天下を夢見たけれども、こんなものを望んだわけではなかった。
孫権はもどかしげに拳を握る。
何もさせてくれない。
一人で考えて、一人で決めてしまった兄。
悔しい。
理解なんて出来ないけど。
本当はわからなくはない。
それでも孫権は思う。
「…ねえ、君はなりたい?龍に、いつかなりたい?」
「こんなものが天下への道だと言うなら私はそんなもの、なりたくはない!!」
怒りに任せて叫んだ。
彼らは間違っている。
たった一つの天下を相争うのに、曹操と同じ道を選んでどうするというのか。
呉は呉なりの天下への道を探ってもいいのではないか。
確かに曹操が作った道を歩むのは楽だろう。
新たな道を探しながら歩むのは大変だろう。
だが、孫呉は家族だ。
共に歩む者がこんなにも沢山いるのに。
「…なりたくないのか、そうか」
初当たりのように怒鳴った孫権の答えのなにが嬉しいのか、あやが笑った。
孫権は真正面からそれを見た。
あの、孫策に見せたような透明な笑みではない。
優しい、穏やかな顔。
でも、泣きたいのかと思う笑顔。
孫権は怒りを、敵意を忘れて、見惚れた。
不覚だと、冷静な部分が情けない孫権を叱咤する。
くすりとあやが笑う。
笑われたのかと一瞬思ったけど、あやは少しだけいつもの調子を取り戻し、やっと孫権を真っすぐに見て小さく悪戯な色を乗せて語った。
「実はね、僕も君の意見に賛成なんだ」
「え」
孫権の反応に気をよくして、あやは少し早口になる。
「道は一つではないと僕も思う。彼らは間違っていない。でも正しいとも思わない」
「あや…お前」
「あれ?もしかして初めて名前を呼んでくれた?」
「っ!」
言葉に詰まった孫権に苦笑が漏れた。
孫権の中に自分はちゃんといるらしい。
認めて欲しいと望んだのは自分だけど、その分だけ募る後ろめたさと罪悪感。
名を呼んでくれたから、あやは少しだけそれを告白してみる気になった。
「本当は君に謝らなければいけないことがある」
いつもあやは唐突だ。
言いたいことを言って、こちらが理解したか、しないかなど関係なく、伝えたことに満足して終わってしまう。
あやは訝しげな孫権に悪戯っ子のように笑って人差し指を唇に立てる。
「でも、言わないでおく。君が、龍になどなりたくないと言ったから」
言ってくれたから。
「いつか、君が…」
空を目指すことがあったなら、その時に。
孫権が歩むべき辛く厳しく、だが華やかで栄光に満ちた道。
あやはその道を閉ざそうとしている。
孫策を生かすことによって。
歴史を変えて、その先に何が起きるのかわからない。
だが、明確に、目に見えて最も影響を受けるのはきっと孫権だ。
孫策亡き後に呉を背負って起ち、いつか皇帝とまで呼ばれる男。
だからもし、やがて歴史通りに孫権が天下を望み、生きている孫策と争うことになったら、それは彼がしなくていい戦いだから。
その時に、あやは謝ろうと思った。
「孫権、この国が好き?」
あやが聞いた。
本当に、あやが言う通り、多分変わりゆく国の原因はあやではないのだろう。
だけどその解決法の知れぬ今、孫権に言える言葉は限られている。
「…お前が来る前の国ならばな」
兄たちがあんな風になる前は。
だからその言葉に変えて、孫権はあやにそう答えた。
ぼんやりとあやは思う。
国を愛し、家族を愛したこの男が、もしも天下に名乗りを上げるとしたら。
孫策と、孫権と、目指す国の形に生じた齟齬が原因になるのかもしれない。
孫権は多分、天下に起つのに相応しい。
物事を広く見渡せるこの碧い目は孫策にはない。
きっと今、一番よく呉が見えているのは孫権だ。
彼は天の重さを知らないけど、やがていつかそれにも気付くだろう。
思慮を知り、空の広さを知り、足りないもののない、そういう人になる。
だけど、あやは言う。
「僕は信じるよ。彼らはきっと気付くさ」
何も捨てることなく、何も諦めることなく、何も変わることなく、あやが暖かいと感じたそのままの国の姿で、目指す天下の道もある。
きっと彼らの選択は非難なんてされるようなものじゃないけど、兵士たちの中で笑う孫策が、民に囲まれて笑う周喩が好きだったから、どうか、と願う。
孫策と、孫権とそれから尚香がどれだけ互いを想っているかわかるから、どうか、と祈る。
手遅れにならない内に、その未来を選びなおしてはくれまいか、と。
みなが愛した呉が失われてしまう前に。
孫権が刃を心に持つ前に。
あやは孫策を信じると言った。
あやが運命を覆してでも生かしたいと思った彼は、強い人だった。
光に溢れ、自分の幸せすら諦めない人だったから、誰も苦しまない未来をきっと見つけてくれる。
選ぶのは彼らだけど。
自分にできる事もある。
花王の柄を撫でて、あやは正面を見据える。
あやはたった一つ、綱渡りのように危うく糸のように細く、だが確かにそこにある、孫家が寄り添ったまま生きられる未来への道筋が断たれない様に、それだけを守ろうと思った。
彼らには考える時間が必要だ。
それから待つ時間も。
その間、この頼りない道を守るのが役目。
タイムリミットが来る前に、選ぶその時に、この道が絶えていないように。
――そのために、あたしは剣を握ろう。




