9話 厄介な新人
「どうだ、俺の国は」
「うん、素敵だね。家族みたいで」
誇らしげに手を広げる孫策の背には、城があり、民がいる。
魏では絶対にあり得ないことが当たり前に繰り広げられている所。
あやは色々な国の形があるものだと、感心してしまった。
本当に、全然違う。
「ねえ、孫策…さま」
いつもの癖で呼び捨てにしそうになって、慌てて敬称をつけるが何だが違和感が拭えない。
曹操の時も思っていたが、どうも「様」付けは慣れない。
先輩後輩、先人後人の差はあれど、身分の違いがなった現代日本人としてはお客さま以外に様と呼ぶ習慣が付いていないのだ。
ましてあやは社会人経験はない。
ここに来る以前は一塊の学生でしかなかった。
多分ものすごく変な顔をしていたのだろうあやに、孫策が笑って言う。
「今更あやに『様』付けなんてされても気持ちが悪いだけだ。普通に呼んでくれよ」
「ええと、…ん。じゃあ、遠慮なく。孫策」
少しだけ戸惑ってから、ほっとしてあやは孫策を呼び捨てにした。
玄鳥でも、魏でも、あの曹操にすらそれを許されてきたあやだ、欠片の配慮は押し流されて、いいと言われたからにはいいのだろうと結論する。
が、文句をあからさまに言いそうな周喩ではなく、別の人物がくわっとあやに噛み付いた。
「兄上!何を!?お前も我が国の君主に対して無礼だぞ!」
「俺がいいって言ったんだぜ、権」
「そうだよ、本人が言ってるんだから。いいんでしょう?」
あやは孫策の言葉に乗っかって孫権に言い返し、最後の一言は孫策に。
建前と本音を取り間違えてはいないかと少し不安になって聞いてみる。
孫策が大丈夫だと頷いたからあやはあからさまに安堵した。
体面を気にする弟を一刀両断の二人。
「……何とか言ってやってください、周喩殿」
「あ~…構わないんじゃないか?」
呉を支える頼り甲斐のある軍師に水を向けてみたが、彼すら煮え切らない態度で肯定を返す。
どうしたと言うのですか!?周喩殿まで!
孫権はそう叫びたくなったが、大人しく口を閉じた。
例の小奇麗な少年が頭の後ろで手を組みながら、孫権の様子を面白そうに見ていたから。
落ち着けと自分に言い聞かせ、みっともない態度は見せられないと強く思う。
気に食わない。
突然現れて、孫権の敬愛する兄と、尊敬する周瑜の身の内にするりと滑り込んでいる。
まるで自分たち家族と同じ距離のように見えた。
時間と思い出と、共に手を取り生きて築いてきた全てを、あっという間に乗り越えて。
兄と周喩の信頼を勝ち取っている彼が。
当たり前のようにその隣に立っている彼が。
何よりも、全てを見透かしたようなあの目が。
大嫌いだと思った。
「で、播瑠の代わりってことはやっぱりあやも兄様付きの文武官なの?」
「そ、」
そうだ、とか、多分肯定の言葉を口にしようとしたのだろう孫策を遮ってあやは声を上げた。
「違うよ、僕は政には関わらない」
孫策の傍にいられればそれでいい。
孫策付きという立場はとても魅力的だったけど、あやはとっさにその立場を捨てた。
その方がいいと思っていた。
これは初めから決めていた事。
だから、周喩が隣で微かに顔を顰めたせいではない。
疑われているとわかる態度をとられて、傷ついた訳でもない。
「…じゃあ、武官?その細腕で?」
「あ、あ~そう、うん。そういうことになるのかな」
曖昧な返事に尚香が首を傾げる。
祁央があやの後頭部をじっとりと睨む。
否定したはいいけど、その先を考えてなかったとわかる態度だ。
「本当に大丈夫なの?」
あやは祁央の呆れと冷たい目線を後ろに感じて背中に冷汗をかく。
今日は説教が長いかもしれない。
「あ~、うん、まあ祁央がいるから」
多分大丈夫だと、あやは武官にはあるまじき他力本願な言い訳を口にした。
途端に視線があやに集まる。
自分の実力がないと公言したような発言はどうやら反感を買ったようだ。
特に武官と見られる男たちの軽蔑したような目線があやに突き刺さる。
しまった。言う言葉、間違えた……。
あやはがっくりと膝をつきたくなった。
今日は正座で祁央の長々とした説教を聞かなければならないようだ。
心の中でさめざめと泣いていたから、あやは気付かなかった。
周喩がさっきよりずっと渋い顔をして、孫策が思いきり顔を顰めていたのを。
武官なんて危険すぎる。
周喩と孫策は互いの顔を見て、浮かぶ感情に苦笑した。
その心は同じらしい。
周喩はため息をつく。
呉の軍師として、玄鳥の長に当たるあやを呉の中央に置くことは出来ない。
だが、それでもあやには安全な職を与えようと思っていたのに。
こんな大勢の前で宣言されては撤回も出来ない。
しかもどうやらあやの一言は多くの武官の気に触ったようで、彼らの目には自分たちの隊に配されたら叩きのめしてやろうという意志が見て取れる。
本当に厄介な。
内心でため息を吐きつつ、周喩は信頼に足る武将を一通り見回してみる。
黄蓋。
駄目だ、思いきり睨んでる。
呂蒙。
…一見冷静そうだが、眉間に皺が寄っているな。
凌統。
面白そうな顔?…何だか近づけるのは危険な気がする。
太史慈…。
周喩は友人の意見を求めようと孫策を見た。
孫策は周喩の視線に気付き、一つ頷く。
だな。
ああ。
「太史慈、あやと祁央はお前の隊に」
「承知しました」
顔色を変えずに引き受けた太史慈の周りで残念そうなため息が漏れた。
太史慈は義理堅い男で、私情に流されることはない。
かつては敵として戦ったこともあるが、今では呉になくてはならない人物になった。
彼なら大丈夫だろう。
「孫策、太史慈?だれ?」
「ああ、すまん、紹介がまだだったな。こいつが太史慈だ。あや、お前これから祁央と太史慈の傍を絶対に離れるなよ」
「え、うん」
孫策の迫力に圧されて頷く。
あやはたじたじと後ろに下がりながらも孫策から紹介された太史慈を視界に入れて、目が合ったので目礼しておいた。
見た目恐い。
でも目線だけだけど、ちゃんと答えを返してくれた。
多分いい人だ。
彼には何だか既視感を覚える。
会った事などないのに。
何となく徐晃を思い出して、あやは目を細めた。
「孫策殿、彼らの部屋は兵卒と同じ兵舎でよろしいか?」
「あ、いや!それは不味い!」
「孫策!部屋はこちらで用意しよう」
「そうだな周瑜!そうしよう!」
太史慈からの意外でもなんでもない質問に焦ったのはもちろん孫策と周瑜。
むさ苦しい男どもの巣にあやを放り込めるわけがない。
「…僕、兵舎でも別に構わないよ?」
「「「あり得ん!!」」」
あやの意見は祁央と孫策周喩に怒鳴られるものだったらしい。
玄鳥でだって皆で雑魚寝なんてよくあったから、気になんてしないのに。
しかも今は男装の身。
なおさら危険もない。
なのに一体何がいけないのか。
あやは頭の上にクエスチョンマークを浮かべて三人を見た。
しかし三人は既にあやを放って、部屋の場所をどこにするかで真剣に話し合っている。
「ねぇ…あなた、何者?」
「はい?」
「兄様たちがおかしい」
特別扱いされているとしか思えない。
尚香の眉間には深い皺が刻まれていた。
先程までの花の笑顔はない。
とてもあやを大切にしているとわかるから、ずっと彼らと共に過ごしてきた呉の人々には不快感が募る。
それは孫権が真っ先に感じた不満と同種。
自分たちの君主と軍師が、一人の少年のために必死になっている。
「気に食わない」
孫権と尚香の違いは、それを素直に言葉にするかどうか。
強い目線でそう呟かれたあやは反射的に疑問符を付けて彼女の名を呼んだ。
「尚香?」
「ちょっと、勝手に呼び捨てにしないでよ!」
激昂は劇的。
釣り上がった眉が端的に怒りを表していた。
尚香にもこれが八つ当たりとわかっていたが、言わずにはいれなくて彼にきつい言葉を放ってしまう。
少しだけ自己嫌悪に陥るが、そんなものはすぐに吹き飛んだ。
「あ、ごめん。ええと、尚香…さん?ちゃん?」
「はあ!?」
『ちゃん』!?
あやの言い直した言葉に眩暈がした。
呉の姫である私を、よりにも寄ってちゃん付けしたわ、この子!
いくら姫らしくないと自覚はあっても、これは呉の姫として許せない。
「今度そう呼んで御覧なさい!剣の錆にしてやるからね!!」
「ええ!?じゃあ、何て呼べばいいのよ…じゃなくて、いいんだよ!」
「姫とお呼び、姫と!!」
「…なんだろう、…どっちかって言うと女王様って呼びたくなるこの感じ」
「は?」
意味は通じなかったようだ。
九死に一生だ、よかった。
「とにかく!私、あんたみたいに人に助けられて、それを当然みたいな顔をして努力をしない男って大っ嫌い!」
嫌いって言葉は結構痛い。
こんな美人から出た言葉なら尚。
あやは嫌われる原因を作った、自分の迂闊すぎる口を呪った。
できるなら仲良くしたい。
女友達が欲しかったのに、これでは望み薄だ。
「あんたが女だったら追い出してやるのに!」
兄様たちに取り入る悪女として。
きっと睨まれて、あやは少しだけ飛び上がる。
妹とはいえ女だから、同性を断罪する権利は国で一番強い。
孫策は尚香の判断を疑ったりしない。
あやが異性なのが残念だった。
あやはちょっとだけ男装した自分の英断に感動した。
―尚香って超美人だけど性格キツイ…というかはっきりし過ぎ。
慎ましやかな女性が大半のこの時代には珍しいと言える。
異相を持つ孫権と同じくらい、もしかしたら尚香も異端なのかもしれない。
だけどあやは彼女が嫌いではなかった。
何となく日本に残してきた友人に似ている。
この激昂具合がそっくりだ。
だからか、ここまで言われてもあやの尚香を見る目は変わらない。
それにイラついて尚香は先にあやから目を逸らした。
結局、部屋は兵舎ではなく城の一室を与えられた。
魏でも同じように城に住んでいたからあやは当たり前のようにそれを受け入れたけど、呉の人々はそうはいかない。
噂は走り、呉の頂点にいる二人が目をかける物凄い英傑だと囁かれ、それから実は実力もなく従者に頼るだけの小物と伝わり、最後には小奇麗な顔で呉に取り入ろうとする間者だと断じるものまで出る始末。
鳴り物入りで呉の一員になったあやはその騒ぎを城の一室、与えられた部屋で眺めていた。
どうにも自分はどこかの国に行くと、静かに過ごせるということはないらしい。
―今回は自業自得なんだけどさ。
部屋の窓からは兵たちの訓練場がよく見える。
兵たちはどこか訓練には集中しておらず、しきりに仲間で集まっては話をしているようだ。
話は聞こえないが、何となく自分の事を言っているのだろうと思う。
懐かしい感覚だ。
現代日本の学生だったあやには慣れた空気。
今思ってみれば学校という空間はとても特殊だった。
狭い箱庭。
だけどほとんどの学生にとってそこが世界の全て。
その中で、子供たちは大人にはわからないルールに縛られて生きていた。
逸脱すれば弾かれる。
きっとその経験がない人間の方が少数だった。
あやにも憶えがある。
スクールカーストの底辺など、巡り巡って誰もが体験するものだ。
そんなに動揺がないのはその経験故かもしれないし、世界の広さを知ったからかもしれない。
「あや」
もしくは絶対に自分を傷つけないとわかっている味方がいるからか。
「あら祁央」
「どうした」
何を見ているのかと彼が尋ねるから、あやは再び窓の外に目を向ける。
「ん?呉をね、見てたの」
「そうか」
「…いい国ね」
しみじみと言うあやに祁央は少し面食らった。
あやは不用意な一言と孫策周喩の過保護な特別扱いのせいで大きな誤解といらない嫉妬まで買っている。
そんな状況で出てくる言葉とは思えなかったから。
「祁央、何考えてるのよ。いい国よ、ここは」
見透かしたようにあやが祁央を見てもう一度言った。
あやが目指してきたものとは違う。
でも兵士たちは真剣に自分の国の心配をしている。
民に想われる国はいい国だ。
それでもって、祁央が何を心配しているかもわかっているつもりだから言葉にしておく。
「あなたがいるからね。あたしは問題ないわ」
「…そうか」
祁央が背にいるとわかっているから、物事を冷静に見ることが出来る。
全力で寄りかかってもいい人がいるのだ、精神的には魏にいた頃より随分楽だった。
「さて、明日からはあたしも一兵士ねぇ」
「俺が居る」
「うん、だから心配はしてない」
最初は四人で。
いつの間にか仲間が増えて。
でもあやは誰かの下に立ったことはない。
だから、一兵士、それもいいかもしれない。
経験は力だ。
「最初は失敗したけど、要はシミュレーションゲームだと思えばいいのよ」
「しみれ?」
「そう、攻略はひとりずつ。慎重に!」
これでも得意だったのよ?
そう言うあやの言葉は理解できなかったけど、とにかくあやは強がりではなく元気だ。
鼻歌交じりに三剣を取り出し手入れをしている姿に祁央は苦笑した。
いらない心配をした。
これなら説教をしても問題はないだろう。
祁央と孫策周喩の心配を余所にあやは呉での日々を一人平気な顔をして過ごしていた。
時々ちょっかいをかけられても、祁央と太史慈のおかげで問題になる前に事なきを得ていたし、その他の時間は孫策と周喩がいる。
この二人の前であやに突っかかってくるものはいない。
周囲の騒動を置いて、あやは何故か飄々としていた。
「あや殿、是非貴殿と手合わせ願いたい」
「え、僕ですか?」
久しぶりの申し出にあやは少し嬉しくなって口を開いたが、答えを口にせずに直ぐに閉じた。
最初の頃は訓練中によく同じ申し込みがあったのだけれど、最近はめっきり減ってしまった。
その理由。
あやには申し出を受ける理由はあっても断る理由はない。
辺りを見回せば、あやの代わりに返事をする人物がいた。
「やめておけ、怪我をする」
案の定。
祁央がいつの間にか後ろに立っていて、先に断ってしまう。
実はこんなことが何度もあって、あやは了承の返事をすることを三日目くらいに諦めた。
「そんなに手合わせをしたいのなら俺がお相手しよう」
あからさまに強そうな祁央を相手にするのは得策ではないと踏んだのか、兵士は焦って断りの言葉を口にしながら後ずさりして踵を返してしまった。
最後に舌打ちをしたのを祁央は見逃さない。
この遣り取りを眺めていた周りの者も鼻を鳴らして馬鹿にしたように笑う。
よくない雰囲気だ。
周りが完全にあやを侮っている。
だがあやが問題ないと言っているし、危害を加えられたわけでもない。
…問題はないはずだが、何かムカつくな。
あやはお前たち程度の雑魚に侮られるような人間ではないぞ。
祁央は気に食わない連中を感情のまま睨んで、震え上がらせる。
祁央はあやと違ってよく兵たちと訓練をしているから、その実力はよく知られていた。
そのあやは祁央の過保護のせいで祁央としか刃を交えていない。
これでは玄鳥に居た時と何ら変わらず、遥々呉まで来たというのに得られるものがない。
そして一にも二にもあやが楽しくなかった。
そこに割り込んでくる声がある。
「しかし、そう言って何も学ばなければいつまで経っても成長は望めないぞ」
誰かがあやの心情をまるっと言葉にしてくれた。
自分の思考に沈んでいた祁央の耳にも、あやを訓練に参加させないことに対する嫌味は届く。
かちんと来たのは反射。
こういう時は最初が肝心だと、鋭い目線で顔を上げた祁央の視界に大男が映る。
「よろしければわしが稽古をつけてやろう」
提案の形を取ってはいるが、どうだ?とばかりに威圧的。
歩いてくる姿に効果音をつけるならどすんどすんという重低音。
呉に入った初日に、孫策を迎えた武将の中にあった顔の一つだ。
祁央はちらりと彼の登場に目を丸くしているあやを見て、まあいいかと思う。
「……あや、やるか?」
「ねえ、何でよりによってこういうときだけオーケーなの?」
ここらでこの気に食わない連中にも態度を改めてもらわなければ。
そして強い者ほど怪我の心配はしなくていい。
武将の一人ならば、その実力は保証付きだ。
なんてことは言葉にしない。
「いや、お前年上好きだから」
デカい。
その男に対するあやの感想はそれだった。
縦にも横にも大きいが、引き締まった体を見るに、多分全て筋肉なのだろう。
あやなんて片手で潰せそうだ。
「年上にも程度ってものがあるでしょうが!」
「はは、まあな」
祁央だって本気で思っていったわけではなかったので、一応引くところは引いておく。
こんなのを恋人として紹介されたら俺は泣くぞ。
何となく嫌な想像をして祁央は身から出た苦笑いを零した。
「でも、お前は負けないだろう?」
祁央の不遜な言い様にあやは巨体から目を離して祁央を見上げる。
「うん?…そうね、あたしは負けない」
あやの口の端が挑戦的に上がるのを見て祁央もにやりと笑う。
やっぱりあや、お前は最高だ。
割と迂闊、そして割と自信家。