初級しかできないけど
「ここから北は、あんたら三人だけかい」
ヨナスは手綱を握ったまま、何度もうしろを振り返った。
荷馬車が一台。積んだ塩と干し魚の匂いが、もやに湿って重かった。
クレイは荷台のへりに手を置いた。木が、朝露で冷たい。
「三人で、充分」
ティナが短く言った。ヨナスは笑わなかった。
「前の連中も同じさ。腕利きが四人。ひとりも欠けずに帰ってきた」
「無事だったのか」
クレイが訊いた。
「無事さ。かすり傷ひとつない。ただ——荷だけが、消えた」
「消えたって、どういうこと」
セルカが首を突っ込んだ。
「そのまんまだよ。積み荷が、途中でごっそり無くなる。人は指一本やられてない。三度ともだ」
「盗賊なら、人も斬るでしょ。ふつう」
「ふつうならな。だから誰も、この道を使いたがらない」
「じゃあ、なんで運ぶの。危ないのに」
「北で塩が要る。運ぶのがおれの仕事だ」
「ふうん。度胸あるじゃん、おじさん」
「度胸じゃない。暮らしだよ」
クレイはもやの奥へ目を向けた。
何も見えない。灰色が、道を塗り潰している。
だが手のひらの奥で、小さな錘がひとつ沈みかけていた。
誰かが弱っていくときの、あの重さ。まだ姿もない北の先から、それは薄く伝わってきた。
「クレイ、だっけ。なんか分かる? 」
セルカが覗き込んだ。
「……弱ってる人が、いる。まだ遠い」
「これから襲う先の話? それとも、もういる? 」
「わからない。ただ、北のほうで誰かが弱ってる」
ティナが手帳を開いた。ペンの尻でこつと表紙を叩いた。
「その"弱ってる"は、生き物? 人? 」
「たぶん人だ。獣とは感じが違う」
「感じ、ね」
ティナが書きつけた。
「その感じを私は測りたい。あなたの"遠い"がどれくらいか」
「測るって。俺の、勘だよ」
「勘にも目盛りはある。ないなら作る」
ヨナスが、クレイの腰を見た。剣も杖もない。
「あんた、丸腰かい。治療師が」
「うん。俺は、後ろにいる係だから」
「守れんのか、それで」
「守るのはあたし」
セルカが胸を叩いた。
「こいつはあたしが守る。あんたの荷もまとめてね」
「……頼むよ、嬢ちゃん」
ヨナスが手綱を鳴らした。車輪が、ぬかるみを噛んで回りだす。
クレイは荷台の後ろについて歩いた。手のひらの錘はさっきより少しだけ重かった。
近づいている。荷のほうへか。こちらへか。まだ、分けられなかった。
もやは、昼になっても晴れなかった。
ティナは荷馬車の左を、半歩遅れて歩いた。手帳はもう、しまってある。ぬかるみで濡らしたくない。
三度、荷が消えた。三度とも、人は無傷。
ティナは、その二つを並べて眺めた。盗賊は人を斬る。斬らないなら、理由がある。荷だけが要るなら、荷だけを狙う理屈だ。だが荷を運ぶのは人だ。人を無傷で残して荷だけ抜くのは、手間がかかる。手間をかけてでも、殺さない。そこに、意味がある。
わからない。ティナは、その言葉を胃の底に押し込んだ。嫌いな言葉だ。押し込んだ場所が、いつも熱を持つ。
「ねえ、ティナ」
セルカが、剣の柄に手を乗せたまま横に来た。
「あんた、さっきから難しい顔してる」
「考えてる」
「なにを」
「殺さない盗賊の、気持ち」
「気持ちなんて、斬ってみりゃ分かるよ」
「斬る前に、分かりたいの」
「そこが、あんたとあたしの違いだね」
「その違いで命を落とすこともある」
「へえ。斬ってから聞くよ」
セルカが笑った。八重歯が、もやの中で白い。
ティナは、その横顔を見た。よく喋る。今のうちだ、とティナは思った。剣を抜けば、この子の口は縫ったみたいに閉じる。だから、喋れるうちに喋らせておく。それも、記録のうちだった。
「止まって」
クレイの声だった。低く、短い。
荷馬車が、きしんで止まった。ヨナスが手綱を引く。
「来た。近い。右の、もやの中」
ティナは目を凝らした。灰色しか、見えない。
だが、もやが動いた。人の背丈の影が、三つ。音もなく、こちらへ寄ってくる。輪郭が、ぼやけている。布をかぶっているのか、もやが濃いだけか。判じられなかった。
歩き方が、妙だった。上体が揺れない。足音も、立たない。人でも獣でもない運び方に見えた。
影のひとつが、腕を上げた。手に、何かを提げている。鎌のような、曲がった刃。
「セルカ。まだ」
「分かってる」
セルカの声が、もう半分沈んでいた。
影が、ふいに荷台へ跳んだ。塩袋を、鉤のような手が掴む。
「今。行って」
行っていい。その一言で、セルカの中の音が消えた。
地を蹴る。もやが頬を裂く。前だけを見る。
いちばん近い影へ、両手剣を振り下ろした。手応えは、綿を斬るように軽い。影が横へ流れ、また立った。
喋る言葉は、もう出てこない。出す気もない。前に出て、剣を振る。それだけで、頭がいっぱいになる。この静けさが、セルカは嫌いじゃなかった。
二つ目の影が、荷を抱えて退がる。逃がすか。セルカは追った。踏み込みが、深くなる。
背中で、空気が鳴った。
振り向く間はなかった。三つ目の影が、真横にいた。曲がった刃が、セルカの首筋へ流れ込む。
あ、と思った。首の横が、熱い。冷たい。境が、分からない。血の気が下へ引いた。視界の端が細くなる。時間が、間延びした。膝から力が抜けていく。
やられた。三度めまで運が良かった。四度めは——
だが、体は倒れなかった。
剣が、勝手に返っていた。首は、まだ胴の上にある。熱かったところが、もう何ともない。おかしい、と一瞬よぎった。だが影が、まだ目の前にいる。考えるのは、あとだ。
セルカは、剣を振り抜いた。
影が、後ろへ跳んだ。荷を抱えたまま、もやへ溶ける。追う足が、届かない。もやが、壁みたいに濃くなった。
三つの影は来たときと同じ足取りで消えた。
もやが、少しだけ薄くなった。
セルカが剣を提げて、荷馬車のそばへ戻ってきた。肩で息をしている。
クレイは、動けずにいた。
さっき——影がセルカの真横に立った、あの一瞬。手のひらの奥で錘が落ちた。沈むのではない。落ちた。底が抜けたみたいに、まっすぐ下へ。
あの感じを、クレイは知っている。何千回も拾ってきた。だが今日のは違った。いつもは端のほうから薄れていく。今日は、芯からまっすぐ抜けた。前触れが、なかった。
それが次の瞬間には無かった。
錘は、手のひらから消えていた。セルカは、立っている。息を切らして、生きて立っていた。
手綱のヨナスが、ふとクレイを見た。治療師が、身じろぎもせず固まっている。息を、止めていた。
「セルカ。首。見せて」
ティナが、セルカの顎を掴んで横を向かせた。
「痛っ。なに」
「刃が入った。今、確かに。ここに」
「入ってないでしょ。ほら、なんともない」
ティナは、セルカの首筋を指でなぞった。白い肌。傷はない。血の一筋も、ない。
だが、ティナは見た。曲がった刃が、この子の首へ流れ込むのを。角度も、深さも。あれは、掠りではない。あの位置をあの刃でやられたら、人は——
ティナは口をつぐんだ。断定するな。まだ早い。もやで、見間違えたのかもしれない。刃は、逸れていたのかもしれない。
だがその言い訳を、自分の目が許さなかった。
「クレイ。あなた、何かした」
「何も」
クレイは、首を振った。
「触ってもいない。届く距離じゃなかった」
「じゃあ、なぜ傷がない」
「……刃が逸れたんだと思う。もやで、よく見えなかっただけだ」
「あなたも、それを言うのね」
「俺は、初級回復しかできないよ」
「知ってる。耳にタコ」
「ほんとだよ。俺のはその程度だ」
クレイは、そう言った。いつもの言葉だった。塞げもしない、大した力じゃない。そう思っている。
だが今日は、塞ぐ傷がひとつもなかった。危ない戦いだった。刃も、影も、本物だった。なのに、誰も傷ついていない。初級回復すら、使う場面がなかった。それなのに、全員が無事だった。
「ねえ」
セルカが、自分の首を触った。
「あたし今の、やられたと思ったんだよね。首。はっきり」
「けど、なんともない。変なの」
「変よ」
ティナが、短く言った。
「あなたが"やられた"と思った。私もそれを見た。なのに傷がない。三人とも、見たのよ」
「運が、良かったんじゃない? 」
「三度めまで運が良くて四度めも良かった。運はそんなに続かない」
「じゃあ、あたしが強いってことでいい? 」
「よくない。強い人にも、刃は刺さる」
ティナは手帳を取り出した。濡れないように、袖で覆う。今日から、一行目を書くつもりの手つきだった。ペン先が、紙に触れた。
——初日。荷、ひと袋を奪われる。負傷者、なし。刃を受けた者、一名。傷、なし。
クレイはセルカの首筋を遠くから見た。
何ともない。分かっている。だが手のひらの奥に、さっき落ちた錘の感触が残っていた。落ちて、消えた。拾った覚えも、ないのに。
妙な心地だった。落としたものを、誰かが黙って戻してくれたような。誰が、とは考えない。考えたことも、なかった。
死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。
いつもは傷に手を当てて、そのあと胸で唱える言葉だ。今日は、当てる傷がなかった。当てる前に、もう終わっていた。唱える場所をなくした誓いが、行き場もなく胸に残った。
「ひと袋、やられた」
ヨナスが、荷を数え直していた。
「たったのひと袋。あとはそっくり残ってる」
「ひと袋だけ? 」
セルカが覗き込んだ。
「なんで、ひと袋。あんなに命がけで来て」
「分からない」
ティナが、荷台を見上げた。
「三度ともぜんぶ持っていったはずでしょう。今日はひと袋。何かが違う」
ティナは、その"違い"を手帳に書いた。それから、声に出した。
「三人がいたから、ひと袋で済んだのか」
「それとも、はじめから、ひと袋で良かったのか」
ペンが、止まった。答えは、まだない。
クレイは、北へ目を向けた。
もやの先でまだ、誰かが弱っていた。影は消えた。荷は、ひと袋。なのに弱っていく気配だけが、消えずに残っていた。さっきの影の、誰でもない。もっと奥。もっと、ずっと先。
手のひらの奥で新しい錘がひとつ、静かに沈みはじめた。
「行こう」
クレイが、街道の先を向いた。
「まだ終わってない。この先にいる」
三人はもやの奥へ、また足を踏み入れた。荷は、ひと袋足りないまま。謎は、ひとつも解けないまま。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
三人の、最初の戦いです。とはいえ派手な討伐でも、劇的な勝利でもありません。霧の中から現れて、荷をひと袋だけ奪って、静かに消えていく影。人は誰も斬らない。この依頼のいちばん薄気味の悪いところを、勝ち負けよりも先に立たせたかった。
セルカは、剣を抜いた途端に口を閉じます。前に出たがるあの子が、戦闘の中だけ別人みたいに静かになる。今回はそれを、彼女自身の内側から書きました。喋らない静けさが、あの子はきらいじゃない。前だけを見ていられる、あの一瞬だけは。
そして、首に刃を受けたはずのセルカに、傷がひとつも残らない。ティナは見ました。角度も、深さも。けれど断定はしない。まだ証拠が足りないから。クレイは今日も「初級回復しかできない」と言います。塞ぐ傷が一つもない戦いだったのに——いえ、一つもなかったからこそ、その言葉と現実が静かにずれていく。
クレイの手のひらには、この話だけの感触を置きました。錘が、沈むのではなく、まっすぐ落ちて、消える。彼はそれを、落とし物を黙って戻された心地だと感じます。誰が戻したのか、まだ考えもしません。
ティナの手帳に、とうとう一行目が書かれました。ここから記録が始まります。この先の霧の奥を、どうか一緒に覗いてやってください。




