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10/11

観察者の記録

 手帳の一行目を、ティナは三度読み返した。


 初日。荷、ひと袋。負傷者なし。刃を受けた者、一名。傷なし。


 字は乾いている。書いた中身だけが、まだ乾ききらなかった。


 火は小さく組んだ。もやの夜は湿って、薪がなかなか燃えつかない。ヨナスは荷馬車の下で、荷を抱くように眠っていた。塩の樽は、ひと袋を欠いたまま残っている。


 セルカが火の向こうで胡座をかいた。剣を膝に寝かせ、鞘の口を布で拭いている。


「ティナ。あんた、また書いてる」


「書いてる」


「なに、そんなに書くことある? 昼間は大して喋ってないのに」


「喋ってないことを、書くの」


「喋ってないことって、なによ」


「あなたが刃を受けた。その角度。深さ。私が見た時刻。あなたの首に傷がなかったこと」


「傷ないなら、いいじゃん」


「よくない。ないのが、おかしいから」


 セルカが布を止めた。それから、けらけら笑った。


「あんた、変なとこで頑固だね」


「頑固じゃない。几帳面と言って」


 ティナはペンの尻で、帳面の背をこつと叩いた。


 夕方から、書き方を変えた。一行の走り書きでは足りない。


「線を引いて欄を分けるの。左に時刻。真ん中に、起きたこと。右に傷の有無」


「几帳面すぎ」


「もうひとつ細い欄を足した。クレイの申告、って欄」


「なにそれ」


「起きた事実と、クレイの言い分を並べて置く。ずれた分だけ、答えの形が浮かぶ」


「クレイ」


 ティナは火の端へ声を向けた。クレイは膝の上で包帯を巻き直している。ほどけた端を、指でそろえていた。


「もう一度正確に言って。あなたの回復はどこまで届くの」


「初級だよ。浅い切り傷を、塞ぐくらい」


「深いのは」


「無理だ。骨が見えるようなのは、手が出ない」


「血が出て、止まらないときは」


「押さえて、癒し草を煮る。あとはその人の体力次第だ」


 ティナは、それを右の細い欄へ書いた。字を小さくそろえる。浅い傷まで。深いのは不可。血は押さえて薬草。体力次第。


「本当に、それだけ?」


「それだけだよ。俺は、それしかできない」


「なら訊く。昨日セルカの首に刃が入った。あれは浅い傷?」


「……刃は逸れてた。もやで、よく見えなかっただけだ」


「逸れた刃で、人は死んだと思うものかしら」


 クレイは答えなかった。包帯の端を、また指でそろえ直していた。


 ティナは、その手つきを見た。傷を語るときのこの男は、語尾が締まって具体になる。だが自分のことになると、途端に言葉が薄くなる。逸れた。見えなかった。運が良かった。同じ言い訳を、いつも三種類だけ持っている。


 そこに嘘の匂いはなかった。それが厄介だった。この男は、本気でそう思っている。


「ねえ、クレイ」


 セルカが、剣を抱え直して口を挟んだ。


「あんた、ほんとに初級しかできないの」


「うん」


「昨日、あたしの首はなんともなかったよ」


「刃が、逸れたんだ」


「ふうん。あんたがそう言うなら、そういうことにしとく」


「……頼むよ」


「でもさ。逸れてくれて、助かった。ありがと」


「や、別に。何もしてない」


「その"何もしてない"、もう聞き飽きた」


 セルカが笑って、肩をすくめた。




 セルカが、大あくびをした。


「もう寝ようよ。書いても、影は帰ってこないでしょ」


「帰ってくるかもしれない。だから見張る」


「見張るのはあたしの仕事。書くのがあんたの仕事。役割、分けたじゃん」


「分けた。でも、書くことにも見張りは要る」


「意味わかんない」


 セルカは笑って、剣を抱いて横になった。焚き火の熱の届く縁で、すぐに寝息を立てはじめる。前に出たがるくせに、寝つきだけは子どものように早い子だった。


 ティナは、その寝顔を火明かりで見た。首筋に、傷はない。白い肌が、火をなめらかに返している。昨日、この場所へ刃が流れ込んだ。角度も深さも、目の裏に残っている。なのに肌は、何ごともなかった顔をしていた。


 ペンを、いったん置いた。


 わからない、という言葉が嫌いだった。ずっと前から嫌いだった。理由は、帳面には書かない。書けば、また指が止まる。


 昔、一度だけ、測らなかったことがある。目の前で起きていたのに、後回しにした。確かめれば間に合ったかもしれないものを、明日でいいと思った。明日は来なかった。正確には、その人のいる明日が、来なかった。


 だから今は、その場で書く。時刻を刻む。歩数を数える。傷の深さを目に焼きつける。測っておけば、次はきっと間に合う。間に合わなくても、せめて、なぜ、が残る。なぜが残れば、人はまだ立っていられる。


 ティナは、ペンをもう一度握った。


「クレイ。ひとつだけ」


「うん」


「あなたのそばだと、なぜか誰も死なない。この帳面にそう書いてもいい?」


「……書かないでくれ。俺は、そんな大した者じゃないから」


「事実を書くだけよ。大した者かどうかは、書かない」


 クレイは、少し黙った。それから、火に薪を一本足した。


「や、別に。書いても変わらないと思う」


 ティナは、その一言を欄の外へ書いた。本人談——変わらない、と。そして、その横に小さく付け足した。だが、変わっている。




 もやは、朝になっても晴れなかった。


 二日目。ヨナスの荷馬車は、また北へ向かって進んだ。クレイが先に立って歩く。


「昨夜から、錘が消えないんだ」


 クレイが、手のひらを開いて言った。


「北の先ね。まだ誰かが弱ってる」


「ああ。だいぶ、深いところで」


「近い」


 クレイが足を止めた。街道を外れた斜面の下。灌木の茂みの奥だった。


「人だ。弱ってる。もう、だいぶ」


 セルカが真っ先に斜面を降りた。ティナも続く。茂みをかき分けた先に、若い男が倒れていた。


 脚が、妙な向きに折れている。頬が土気色で、唇が乾いていた。荷運びの前掛けを着けたまま、片手で草を握りしめている。生きてはいた。だが、細い糸の上にいた。


「クレイ!」


 セルカが呼ぶより先に、クレイはもう膝をついていた。男の折れた脚に手を添え、次に喉元へ指を当てる。


「脈が、遠い。冷えてる。……間に合う」


「間に合うの、ほんとに」


 セルカが、横で膝をついた。


「間に合わせる」


 クレイの手が、動きはじめた。淀みがなかった。折れた骨を添え木で挟み、布で締める。ポーチから癒し草を出し、水と一緒に噛みくだいて傷口へ当てる。唇を湿らせ、白根を削る。煎じる暇はない。生のまま、舌の下へ入れた。


 ティナは、その一部始終を帳面に書いた。時刻。処置の順。止血、洗浄、添え木、投薬。ひとつずつ、時間がかかった。男の脚には、これから何日も残る痕ができるはずだった。


「これが治癒よ」


 ティナは、ペンを止めずに言った。


「手が要る。時が要る。痕が残る」


「なにそれ、当たり前じゃん」


「そう。当たり前なの。昨日のあなたの首には、それが全部なかった」


 男が、うっすらと目を開けた。


「……水」


「ある。ゆっくり」


 クレイが革袋を傾けた。男は喉を鳴らして飲み、それから怯えた目で周りを見た。


「影は。影は、いたか」


「いない。もう、いない」


「荷を。俺の荷を全部……。でも、あいつらは俺に」


 男の声が震えた。


「俺には指一本触れなかった。荷だけ根こそぎ持っていった。なんで殺さないんだ。殺した方が楽だろうに」


 ティナのペンが、止まった。


 殺さない。また、それだった。昨日、胃の底へ押し込んだ言葉が、外からもう一度差し出された。


「あなたは、なぜ怪我を」


「逃げた。荷が諦めきれなくてあいつらを追ったが、斜面で足を踏み外した。……情けねえ話だ。影にやられたんじゃない、自分で落ちた」


 ティナは、それを書いた。影は人を傷つけない。傷は、逃げた本人が自分で負ったもの。二つを、線で分けて記した。


「あいつら、荷を運んでどこへ」


「北だ。ずっと北。担いで列んで、まっすぐ北へ。振り向きもしねえ」


「列んで」


「ああ。荷を担いだらもう戦わねえ、運ぶだけの荷役みたいにな。……気味が悪い」


「担ぐと戦わないって、変なの」


 セルカが、しゃがみ込んで覗いた。


「じゃあ担がせちゃえば、こっちのもんじゃん」


「試したさ。取り返そうとした。そしたらあいつらは荷を置いて刃を構えた。荷か命か、選ばせるみたいにな」


「で、あんたは荷を選んで落っこちた」


「……言うなよ。分かってんだ、自分でも」


 ティナは、その一行に下線を引いた。


 荷を運ぶ。列を作る。北へ。まるで、誰かに納めるように。奪うことより、運ぶことが目的なら——盗賊ではない。荷を必要とする、誰かがいる。まだ姿を見ぬ、北の奥に。


 わからない。だが、わからなさの形が、少し変わった。輪郭が、ひとつ増えた。それだけでも、書く値打ちがあった。




 男はトビと名乗った。動けるまで荷馬車で運ぶことにして、日は西へ傾いた。


「あんた、荷運びなんだ」


 セルカが、荷台の縁から覗き込んだ。


「見りゃ分かるだろ」


「その脚で、北まで歩くつもりだったの」


「荷を運ぶ。それが、俺の仕事だ」


「その荷、盗られちゃったけどね」


「……言うなよ」


 街道が、細く曲がる場所だった。もやが、また濃くなる。


 クレイの首が、後ろへ振れた。


「来る。三つ。今度は、前」


「セルカ」


「わかってる」


 セルカの声が、もう半分沈んでいた。剣を抜く。言葉が、消える。


 影は、昨日と同じ足取りで来た。上体が揺れない。音がない。曲がった刃を提げ、まっすぐ荷台へ寄ってくる。


 ティナは、荷馬車の陰から前へ出なかった。今日は、前へ出る役ではない。今日の役は、見ることだった。帳面を胸の前で開き、ペンを構える。時刻を、頭で刻んだ。


 セルカが跳んだ。手前の影へ剣を振り下ろす。影が横へ流れる。二つ目が荷へ手を伸ばした。三つ目が——トビへ向かった。


 荷台の隅で、トビが半身を起こしていた。逃げようとして、脚がもつれる。曲がった刃が、上から振り下ろされた。


 ティナは、その全部を見た。


 刃の角度。トビの首の位置。二つが交わる線。あれは、逸れない。あの位置をあの刃が通れば、人の首は繋がっていない。時間が、間延びした。ティナは、叫ぶ間もペンを止める間もなかった。ただ、目を開けていた。


 刃が、届いた。


 届いた、はずだった。


 トビは、荷台の隅に座っていた。首は、胴の上にある。血の一滴も、飛んでいない。刃は空を裂き、影は前のめりに流れて、そのまま体勢を崩した。まるで、斬るべきものが、そこに無かったかのように。


 ティナは、クレイを見た。


 クレイは、荷馬車の反対側にいた。トビまで、十歩は離れている。手を伸ばしてもいない。杖もない。呪文も、唱えていない。ただ、荷台の隅を見て、身じろぎもせず立っていた。息を、止めていた。


 その顔を、ティナは初めて正面から見た。道の真ん中の石を脇へ寄せて、そのまま歩き出す。それくらいの顔だった。


「セルカ! 退がって!」


 ティナの声で、セルカが跳び退いた。剣を薙ぐ。影は荷袋をひとつ抱えて、三つとも、来たときの足取りでもやへ溶けた。追う足は、届かなかった。


 街道に、静けさが戻った。




 ティナは、荷台へ駆け寄った。


 トビの首へ、ティナは顔を寄せた。皮膚の色を見る。首の角度を見る。裂け目は、どこにもなかった。


「なんだよ。顔、近ぇって」


「今のは、あそこまで届いてた。見えてた」


「届いてねえよ。どこも切れてねえ」


 首の皮膚は、乾いた土の色をしたまま、ただ胴の上に乗っていた。血の跡も、切れ目も、探して見つからなかった。


 ティナは、帳面を開いた。


 手が、少しだけ震えた。震えを、指の腹で押さえてから、書いた。


 二日目、夕。影三たび。刃を受けた者、一名。位置——首。角度、深さ、致命。傷、なし。血、なし。治療師、接触なし。距離、約十歩。呪文、なし。


 ペンが、そこで止まった。


 次に書くべき欄が、右にあった。クレイの申告、の欄。この男は今日も、こう言うだろう。刃が逸れた。もやで見えなかった。運が良かった。三種類のうちの、どれかを。


 だが、ティナの目は、逸れた刃を見ていない。まっすぐ入る刃を見た。届く刃を見た。届いて、それでも人が死ななかったのを、見た。


 ティナは、申告の欄を、空けたままにした。そして、その下の余白へ、別の一行を書いた。


 この現象は、治癒では説明がつかない。


 書いてから、しばらく、その一行を見つめた。


 断定するな、と自分に言い聞かせた。治癒でないなら何だ、とは、まだ書けない。手元にあるのは、二日分の記録と、三度の"死ななかった"だけだ。ひとつの言葉で名づけるには、証拠が足りない。名づけるのは、いちばん最後でいい。


 だが、消しもしなかった。この一行は、事実だった。事実は、嫌でも積み上がる。積み上がった先に、いつか、名前がある。


「ティナ」


 クレイが、荷台のそばへ来た。トビの首を、遠くから見ている。


「そいつ、大丈夫か。……傷は」


「ない。あなたが、いちばんよく知ってるでしょう」


「俺は、何もしてない」


「知ってる。今日はそれも書いた。あなたが何もしなかったことを」


 クレイは、うまく飲み込めない顔をした。ティナは、それ以上、問い詰めなかった。


 問い詰めれば、この男はまた三種類の言い訳へ逃げる。逃げ道を塞ぐより先に、こちらが証拠を積む。逃げられなくなるまで、静かに積む。それが、観察者の仕事だった。


「ねえ」


 セルカが、剣を提げて戻ってきた。肩で息をしている。


「あたし、今日は無事だったよね」


「無事」


「じゃあ記録に書いといてよ。セルカは無傷、大活躍って」


「無傷は書いた。大活躍は、書かない」


「なんでだよ!」


「あなたが振った剣は一度も、影に当たってないから」


 セルカが、口をあんぐり開けた。それから、自分の剣を、まじまじと見た。


「……じゃあ、あたしは何のためにいたわけ」


「前に立つため。あなたが前に立つから、影は荷か命かを迷う。あなたがいなければ迷わない」


「それ、褒めてる?」


「事実を言ってる。褒めるのは、名前を付けるときにする」


 セルカが、ふてくされた顔で、それでも少しだけ笑った。


 ティナは、その顔を横目で見て、帳面をそっと閉じた。閉じる前に、いちばん下へ、ひと言だけ足しておいた。


 問い——守っているのは、剣か。それとも、剣ではない何か。




 トビが荷台で眠りに落ちたころ、クレイは街道の縁に立っていた。


 もやの向こうへ、目を向けている。影はもういない。北の先の錘は、まだ消えていなかった。トビではない、もっと奥の深いところ。


 昼間、トビの折れた脚に、手を当てた。骨をそろえて、布で締めて、薬を噛んで当てた。ああいう傷は、わかる。触れる。手が、やることを知っている。


 だが夕方、トビの首に刃が届いた刹那。手を当てる暇はなかった。当てる場所も、なかった。刃はもう首に届いていて——次の瞬間には、何も起きていなかった。


 掌の底が、こつ、と鳴った気がした。石を握らされて、握った覚えもないのに手のなかにある。そんな心地だった。


 手当てのできる傷と、手当てのいらない無事。その二つの間に、細い線が引かれている気がした。だが、線の正体は見えなかった。見ようとすると、いつもの言葉が先に立つ。逸れた。運が良かった。それで、線は霧に紛れる。


 死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。


 いつもは傷に手を当てて、そのあと胸で唱える言葉だ。今日は、当てた傷が一つ、当てなかった傷が一つ、あった。誓いは、どちらの上にも同じ重さで立っていた。塞いだ傷にも、塞ぐ必要のなかった無事にも。区別を、誓いの方は知らないらしかった。


「まだ、弱ってる」


 クレイは、北の先へ、誰にともなく言った。手のひらの錘は、昨日より、ほんの少し重い。


「クレイ」


 うしろで、ティナが呼んだ。


「今日はもう歩かない。休んで」


「……ああ」


 それだけ答えて、彼は北から目を離した。帳面の閉じる音がした。ページとページの合わさる、乾いた音だった。


 その音を、クレイは、なぜか長く覚えていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話は、ティナの帳面が「一行」から「帳面」になる回です。彼女は欄を引きます。時刻、起きたこと、傷の有無。そこへもうひとつ、細い欄を足す。「クレイの申告」の欄です。起きた事実と本人の言い分を並べて置けば、ずれた分だけ答えの形が浮かぶ。几帳面さの裏に、彼女の古い傷を、名前を出さずに置きました。一度だけ「明日でいい」と後回しにして、その人のいる明日が来なかった。だから今は、その場で測る。測っておけば、次は間に合うかもしれないから。


 昼の行き倒れは、わざと「手当てのいる傷」にしました。折れた脚は時が要る。痕が残る。順番がある。それが治癒です。そのすぐあとで、夕方の刃は、そのどれも残さない。二つを同じ話に並べることで、ティナの帳面は「治癒では説明がつかない」の一行にたどり着きます。けれど、断定はしない。治癒でないなら何だ、はまだ書けない。名づけるのは、いちばん最後でいい。彼女はそう決めています。


 クレイは今日、当てる傷と、当てなくていい無事の、両方に出会いました。その間に線がある気がして、でも線は見えない。誓いの方は、区別を知らない。掌の底が、こつ、と鳴る。彼の力の輪郭が、また一歩、読者にだけ近づきます。


 北へ運ばれていく荷。列を作る影。その先に、姿の見えない誰かがいる。次話へ続きます。感想やブックマークが、次を書く手を速くしてくれます。どうか、この帳面の続きを、見届けてやってください。

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