わからない、を連れて行く
「治療師さん。あなたに、訊きたいことがある」
ティナは、距離を三歩に詰めて、そう切り出した。
痩せた男は逃げ道を探すように目を動かし、それから諦めたみたいに肩を落とした。
「……客なら、赤鹿亭に来て。表で立ち話は、しないんだ」
「客じゃない。あなたを、見に来た」
「見るって。俺、見て面白いもんじゃないよ」
男の声は、緩かった。語尾が、糸の端みたいにほどけている。町を騒がせている「妙な治療師」の芯には、およそ見えない。ティナは手帳をまだ開かず、まず顔を見た。眠そうな半眼。荒れた手。称賛も警戒も、どこにも溜めていない目だった。
「さっきの子供。馬の下から、拾ったでしょう」
「拾ったのは、あの子だよ。手毬を追って、自分で避けた」
「あなたが動いたのは、馬がいななく前だった」
男の眉が、わずかに動いた。ほんの少し。困った、というふうに。
「それは……気のせいじゃないかな。俺、そんな速くないよ」
「気のせいで、人は走らない」
「買いかぶりだよ。俺、初級回復くらいしか取り柄がないから。それも、大したことない」
初級回復。ティナは、その四文字を頭の隅に書きつけた。塞ぐだけの、いちばん軽い術。脈の止まった親方をひと晩で生き返らせた男が、自分をそう値踏みしている。嘘をついている顔ではない。本気で、そう思っている顔だった。それが、いちばん薄気味が悪かった。
「もう一つ、いい」
「まだあるの」
「あなた、自分が普通じゃないって、思ったことは」
男は、少し首をかしげた。それから、本当に不思議そうに答えた。
「ないよ。俺ほど、普通の治療師はいないと思うけど」
「普通の治療師は、脈の止まった人を、生き返らせない」
「……それ、樽の親方の話かな。あれは気を失ってただけだよ。息はあった」
「三人が、死んだと思った」
「みんな、大袈裟なんだ。この町の人は、優しいから」
「優しさで、死んだ人足は立ち上がらない」
「立ち上がったんだから、死んでないよ。それだけの話」
ティナは、口をつぐんだ。この男は、演じていない。奇跡を隠しているのではない。隠すも何も、起きたことに、気づいていない。その一点が、三つの宿場を越えて追ってきた謎の、いちばん硬い芯だった。
念を押そうと、口を開きかけた——そのときだった。
広場の隅で、女が悲鳴をあげた。
肉屋の台だった。
吊るした半身を下ろそうとした若い男が、足場の板を踏み外した。手にした大ぶりの捌き包丁が、宙で跳ねる。刃が、支えようと伸ばした男自身の腕を、内側から薙いだ。
血が、噴いた。
ティナの目は、それを正確に捉えた。手首の内側。深い。脈打つたびに、赤いものが線を描いて飛ぶ。ああ、あれは止まらないやつだ。斥候として、幾度も見た。あの場所をあの深さでやられたら、人はじきに冷たくなる。距離も、速さも、もう計算ずみだった。あの出血は、間に合わない。
なのに、誰かが動くより先に、痩せた男が走っていた。
さっきと、同じだ。きっかけより、反応が早い。
ティナも、走った。今度こそ、瞬きひとつ、惜しむものか。
男が、倒れた若者のかたわらに膝をつく。ティナは、その真横に滑り込むように膝をついた。背中に遮らせない。手元を、真上から覗き込める位置。決めていた。次は、絶対に、見る。
若者の腕を、男の両手が包んだ。
血に濡れた手首。裂けた肉の縁。骨の手前まで、確かに割れていた。ティナは、それを見た。見開いた目の、ど真ん中で。
男の唇が、声にならない何かを、形づくった。
——瞬きは、していない。していないのに。
手首から、赤が消えた。
噴いていた線が、途切れた。裂けた縁が、閉じた。いや、「閉じた」のではない。閉じるなら、痕が残る。縫い目が、腫れが、拭った跡が残る。だが、男の手が離れたそこには、何もなかった。血の一滴も。傷の一分も。濡れているのは、飛び散った、さっきまでの血だけだった。肌そのものは、乾いて、白い。
まるで、最初から、切れていなかったみたいに。
ティナは、息を忘れた。
書け、と頭の芯が命じた。今見たものを、正確に。腕がいい、ではない。運がいい、でもない。塞いだ、でもない。塞いだなら痕がある。ちがう。全部ちがう。
声が、ひとりでに出た。
「……今のは、治癒じゃない」
男の背中が、びくりと強張った。
「傷が塞がったんじゃない。傷が、無かったことになってる」
言ってから、ティナは唇を噛んだ。断定するな。まだ早い。見間違いかもしれない。深いと思ったのは、影かもしれない。噴いた血の量に、目が引きずられただけかも——
いや。
その言い訳を、たった今、自分の目が潰した。三歩ではない。真横だ。瞬きもせず、真上から覗き込んだ。逃げ場は、ない。
残ったのは、あの、世界でいちばん嫌いな五文字だけだった。
——わからない。
若者が、目を開けた。きょとんと、自分の腕を見ている。
「あれ……おれ、なんで倒れて」
「立ちくらみだよ。血を見て、のぼせたんだ」
男は、そう言って、若者の腕を軽く叩いた。
「刃は逸れてる。掠りもしてない。運が良かったな」
「でも、すげえ血が出て……」
「鼻でも打ったんだろ。ほら、もう止まってる。しっかり立って」
「……立てる。腕も、なんともない」
「だろ。どこも痛くないなら、それでいい」
「変なんだ。血だけ、こんなに出てて」
「若いと、鼻の血もよく飛ぶんだ。気にするな」
「……不思議だな。こんなに血が出たのに」
「出た血は、もう戻らない。生きてるほうを、大事にしろ」
肉屋の店主が、若者の腕をまじまじと覗き込んだ。傷の無い白い肌を。
「兄ちゃん。あんたの腕、さっき、ぱっくりいってたろ」
「見間違いだよ。ほら、どこも切れてない」
「けど、この血は。台まで、飛んでるぞ」
「若いのが、のぼせただけだ。台を、片してやってくれ」
店主は、腑に落ちない顔をした。それでも飛んだ血を布で拭いはじめた。見た目の証拠が消えれば、人はやがて見たものを疑う。
掠りもしてない。ティナは、その言葉を聞いた。ついさっき、この目で骨の手前まで見た傷を、この男は「無かった」ことにした。悪びれもせず。嘘をつく顔ですら、なかった。
男が、立ち上がる。ティナを見下ろした。眠そうな目が、少しだけ困っていた。
「あんまり、見ないでほしいな。減るから」
「減らない。増える。わからないことが、増えるだけ」
ティナは立ち上がって、まっすぐに男を見た。
クレイは、この女の目が、苦手だった。
傷を負った者の気配を探すときの、あの首筋のむずがゆさに、よく似ている。だが、この女はどこも痛んでいない。痛んでいないのに、こんな目で人を見る者を、クレイは知らなかった。剥がれかけた包帯を、無理やり剥がしにくるみたいな目だった。
包丁が跳ねたのは、見えた。刃が若者の腕へ入るのも、見えた。走りながら、いつものあれが来た。手のひらの先に、脈が、すうっと遠ざかるのが視える。手首の内側。深い。あの深さは、じきに冷たくなる側だ。若い血は、噴くのも速いぶん、引くのも速い。手のひらの下で、勢いのいい熱が、するりと先へ行った。
膝をついて、手を当てた。それだけだった。あとは、いつも通り。気づけば血は止まっていて、若者はきょとんと生きていた。
運が良かった。掠っただけだ。刃は、見た目より逸れるものだ。深く見えたのは、血のせいだ。血はいつだって、傷を大袈裟に見せる。クレイは、そう思った。思って、それで、片がついた。
——ただ。
あの一拍だけは、慣れない。
威勢のいい命ほど、届く手前で、ふっと軽くなる。その軽さが、いちばん怖い。若いから戻る、なんて道理はどこにもない。間に合わないかもしれない、というあの冷たさに、何千回拾っても、そこだけは体が勝手に固くなった。
死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。
誰に向けた誓いでもない。ただ、体のいちばん古いところに刻まれた線だ。線の内側に、人を、置いておく。それだけのことを、クレイはしてきた。したつもりも、ないままに。
顔を上げると、あの女が、手帳に何か書きつけていた。ものすごい速さで。指の節が白くなるほど、ペンを握って。
クレイには、わけがわからなかった。
倒れた若者は、もう起きて、腕をさすっている。血を見てのぼせただけの男に、この女は何を、そんなに。奇跡でも見たみたいな顔をしている。手を貸すほどのことすら、していないのに。
治癒じゃない、と女は言った。無かったことになってる、と。
妙なことを言う。傷を治すのが治療師だ。治した傷が無くなって、何がいけないのか。うまく飲み込めないまま、その言葉の尻尾だけが、首の後ろに、小さく引っかかった。
払っても、落ちなかった。
「クレイ」
男が、名乗った。問われて、しぶしぶ、というふうに。
「治療師の、クレイ。それだけだよ」
「ティナ。斥候をやってる。人を見て、書きつける仕事」
ティナは、手帳を閉じた。この町に来て、初めて閉じた。
「単刀直入に訊く。あなた、この町を出る気はない」
「出る気」
「連れがいる。前に出たがる剣士が、一人。あの子は避けるってことを知らない。何度も、死にかけてる」
ティナは言葉を選んだ。選んで、なお、事実だけを並べた。
「塞ぐ回復役なら、雇った。何人も。だけど塞いでも、あの子の芯が戻らないときがある。血は止まるのに、色が戻らない。あなたのは……違う。違うんだと思う。まだ言葉にできないけど」
「買いかぶりだよ。俺のは、初級で——」
「初級回復は、噴いた血を無かったことにしない」
ティナは、遮った。声は強くない。ただ、事実だった。
男は、困った顔で黙った。反論を探して、見つからなくて、それでも自分の見立てを譲る気もない、という顔だった。
「……俺には、あんたの言ってることがわからないよ」
「そう。私にも、わからない」
ティナは、細めた目を、逸らさなかった。
「だから、知りたい。あなたの奇跡には、法則がある。奇跡に見えるものには、必ず。私は、見つけるまであなたを見る」
「見られても、何も出ないと思うけど」
「出るまで見る。それが、私の仕事だから」
「その、剣士って。名前は」
「セルカ。剣を振る子だよ」
「強いのか」
「強い。ただ、避けない。前だけ見て、後ろを忘れる」
「……それは、危ないな」
「危ないよ。だから、あなたに来てほしい」
「その子、いくつだ」
「あなたと、そう変わらない。もう三度、死にかけを担いで運んだ」
「三度も」
「三度とも、前に出すぎた。止めても、聞かない子でね」
「なんで、そんな子を前に」
「他に、前へ出られる子がいないの。だから、後ろを厚くしておきたい」
男は、少し黙った。それから、ぽつりと訊いた。
「その子とは、気が合うかな」
「合わない。よく喋るから。あなたは、あんまり喋らないでしょう」
「……それは、合わないかもね」
初めて、男の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。困り笑いとも、照れともつかない、ごく淡いものだった。それでもティナは、見逃さなかった。この男が、他人の話に、初めて自分から一歩だけ踏み込んだ。
男は、荒れた手を、ローブの裾でゆっくり拭った。答えなかった。断りもしなかった。ただ、遠くから呼ぶ声のするほうへ、耳だけを向けている。誰かがまた、この男を呼んでいる。傷を、診てくれと。
それでいい、とティナは思った。今日、頷かせるつもりはない。種は、蒔いた。芽が出るまで、水をやりに来ればいい。この町に、宿は二軒しかない。逃げも隠れもできない。
「治療師さん! 」
人混みを割って、若い人足が駆けてきた。朝、町を書きつけて回るティナを薄気味悪がっていた、あの男だ。
「また誰か倒れたって! 石工の親方が、荷の下で——」
「どこ」
男の声が、急に締まった。緩んでいた語尾が、きれいに立ち上がる。人足が指したほうへ、もう体が向いていた。
「わかった。行く」
言い置いて、クレイは走りだした。振り返りもしなかった。傷のあるほうへ、迷いなく。
ティナは、その背中を見送った。奇跡を置き去りにして、人混みの中へ消えていく背中を。あの男は、たった今、自分が何をしたかも知らないまま、次の誰かの脈を、指で拾いに行く。忘れ物を、取りに戻るみたいに。
ティナは、フードを目深に戻した。
一度、説明のつかないものを、この目で見た。そのあとで、返事をくれなくなった声が、一つある。名を呼んだ。返ってはこなかった。低い声だったこと以外、もう思い出せない。思い出そうとすると、そこで指が止まる。あのとき自分は、何が起きたのか、とうとうわからなかった。わからないまま、失った。
——今度は、わからないままにしない。
手帳の角を、強く押さえる。喉の渇きは、もう感じなかった。渇きの代わりに、久しぶりに、燃えるものがあった。
わからない、を連れて歩くのは、これで最後にする。
ティナは、赤鹿亭のほうへ歩きだした。二軒しかない宿の、片方へ。この町に、しばらく居座るつもりで。
——第一部・追放編 了
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第一アーク「追放編」、これにて幕です。ここまで付き合ってくださって、本当にありがとうございます。
クレイは今日も、気づきません。骨の手前まで裂けた腕を無かったことにして、「掠っただけだ」と言い、次の呼び声のほうへ走っていく。彼にとってそれは、落とし物を拾うくらいの、当たり前のことなのです。当たり前すぎて、大きさが見えない。そのいじらしさを、追放編の最後にもう一度だけ、静かに置いておきたかった。
そしてティナ。彼女はとうとう、言葉を与えてしまいました。「治癒じゃない。無かったことになってる」——けれど、そこで踏みとどまる。断定しない。まだ、証拠が足りないから。彼女が「わからない」を嫌うのは、かつて一度、わからないまま大切な人を失ったから。その傷が、いま、逆向きの炎になって彼女を動かします。
塞ぐだけでは戻らない命と、塞がずに"無かったこと"にする手。二つの線が、ようやく一つの町で交わりました。ここから物語は、辺境ロウを出ます。前に出たがる剣士セルカが待つ、第二アークへ。三人が「全員生きて帰る」旅の始まりです。
クレイが自分の力の正体にたどり着くのは、まだ先。けれどティナの手帳は、もう開かれてしまいました。
評価やブックマーク、感想が、次のアークを書く手をうんと速くしてくれます。よろしければ、この三人の行く先を、見届けてやってください。




