小さな奇跡を、見た者がいる
「治療師さん。表に、見ない顔がいるよ」
バルグが、戸口から首だけ突っ込んできた。
「客? この二日、途切れないな」
ロウに来て、八日。名指しで訪ねる客が、丸二日、絶えなかった。クレイは薬研を回す手を、止めなかった。
「いや、それが客じゃねえ。女の人でさ。町をぐるぐる見て回ってんだ」
「道に迷ってるんじゃない」
「違うって。井戸の場所も家の数も、手帳に書きつけてんだ。薄気味悪くてさ」
クレイは匙を置いた。
「腕に、怪我は」
「は? 」
「その人。どこか、痛そうにしてた」
「いや。どこも。けろっとしたもんだよ」
「なら、俺の客じゃないよ」
バルグは、ぽかんとした。それからおかしそうに笑って、戸口から消えた。
見ない顔なら、この数日いくらでも来る。噂を頼りに、二日も三日もかけて訪ねてくる者がいる。その重さは、少しずつ、実になってきている。ただ、どう受け取ればいいかが、まだわからない。誰が増えても、することは変わらないからだ。傷を診て、薬を練る。それだけだった。
昼前、ゴーシュに頼まれた軟膏を届けに、クレイは表へ出た。
ゴーシュは、渡された壺を数だけ確かめて、棚に並べた。匂いも嗅がなかった。もう味を覚えた、という手つきだった。
「数が、足りん。客が増えてる」
「軟膏の客? 」
「あんたの客だ。よその女が、あんたのことを根掘り葉掘り訊いてった」
「……また、樽のことかな」
「樽の話でもない。あんたが何者か、そればかりだ」
クレイは、少し首をかしげた。
「役人かな」
「役人は、手帳にあんな熱心に書かん。フードを目深にかぶった、若い女だ」
「何を訊いてった」
「樽の下敷きが、なぜ立って歩いてる。そればっかりを、しつこくな」
「……そう」
ゴーシュは、それきり薬研に戻った。乾いた音が、薄暗い店に満ちる。
店を出ると、広場は市の立つ日で混んでいた。荷馬車が連なり、売り声が飛び交う。荷馬の汗と、干し肉や香草の匂いが、昼の照り返しの中で混ざり合っていた。その人混みの端に、フードを目深にかぶった女が一人、立っていた。腰に短剣。手元に、開いた手帳。
女の目だけが、人混みのあちこちを、ゆっくり舐めるように動いていた。
物見高い旅人だろう。クレイはそう思って、赤鹿亭のほうへ足を向けた。
ロウという宿場町は、噂よりずっと小さかった。
ティナは、広場の隅で手帳を開いた。井戸はひとつ。宿は二軒。薬屋が一軒、赤鹿亭という宿に治療師が一人。半日歩いただけで、町の骨格はもう頭に入っていた。
知りたいのは、町の造りではない。
——死にかけを、死なせない治療師。
三つ先の宿場で、その話を拾った。荷を運ぶ男たちが、酒の肴にしていた。脈の止まった親方が、ひと晩で生き返ったと。眉に唾をつけて聞き流すには、語る者の数が多すぎた。
嘘の話なら、宿場を越えるたびに尾ひれがつくものだ。人が面白がって、少しずつ肉をつけ足していく。なのに、この話は太りも痩せもしなかった。どこで聞いても、輪郭が同じだった。芯に、動かせない何かがある。ティナは、その芯を見に来た。
近くで荷を下ろしていた老婆に、声をかけた。
「ひとつ訊いてもいい。赤鹿亭の治療師って、評判なの」
「ああ、あの痩せた兄ちゃんかい。腕はいいよ。うちの孫の熱も、すぐ引かせてくれた」
「ただ熱を引かせるだけ」
「そんなこと、あたしが知るかい。だけど——」
老婆は、声を少し落とした。
「広場で樽の下敷きになった人足がね。かすり傷ひとつで立ったんだ。みんな、死んだと思ったのに」
老婆は、両手で大きな丸を宙に描いた。
「こおんなに大きな樽さ。大人が三人がかりで転がすやつ。あれが、まともに乗っかったんだよ」
「それで、かすり傷だけ」
「かすり傷だけさ。あたしゃ、この目で見た。見間違いじゃないよ」
「その人足は、今は」
「達者に荷を担いでるよ。本人も、何が起きたかわかってないって顔でね」
ティナは、それを書きつけた。本人もわかっていない。その一語が、妙に引っかかった。
念のため、もう一人に訊いた。荷の番をしていた中年の男だ。
「あの治療師。いつから、この町に」
「半月も経ってねえよ。ふらっと流れてきてな」
「それで、もう評判」
「ああ。広場の樽だの、荷運びの親方だの。死にかけが、あの兄ちゃんとこ行くと生きて帰る」
「死にかけが、生きて帰る」
「気味が悪いって言う奴もいる」
「気味が悪い」
「ああ。最初は拝んでた婆さんが、近頃は遠回りするのさ。助かったくせにな。けど結局、みんな助かる。文句のつけようがねえやな」
「ありがとう。助かった」
「斥候さんよ。あの兄ちゃん、何か悪いことでもしたのかい」
「いいえ。逆。何もしてないのに、人が助かる。それが知りたいだけ」
男は、よくわからんという顔で肩をすくめた。ティナは手帳に、二人目の証言も同じだ、と書き足した。
三つ書く。腕がいい。運がいい。話が大げさ。どれかなら、不思議はない。世の中の奇跡は、たいてい、そのどれかで説明がつく。
だが、説明のつかない奇跡を、ティナは一度だけ見たことがある。
——それきり、二度と会えなくなった顔が、ある。あの日の空が何色だったかは、もう思い出せない。ただ、頬を刺した風の冷たさだけが、指の記憶に残っている。
その記憶に、蓋をする。手帳を持つ指が、角を強く押さえた。喉の奥が、かすかに渇く。今は、目の前のことだ。仮説は、現場でしか潰せない。確かめるには、自分の目で見るしかなかった。
ティナは井戸のそばに陣取り、赤鹿亭の戸口を見張った。
昼を過ぎて、広場の人出が増した。
そのときだった。市の通りで、馬がいなないた。
荷を引いていた馬が、何かに驚いて棹立ちになる。御者の顔から、血の気が引いた。手綱が、宙を切る。馬体が、横へ大きく振れた。その脚の先に——小さな子供がいた。赤い手毬が、石畳を転がっていく。それを追って、しゃがみ込んだところだった。
逃げろ、と誰かが叫んだ。間に合わない。ティナの目が、そう告げた。距離も、速さも、もう計算ずみだった。あの位置からあの脚は、躱せない。
なのに。
痩せた男が、もう走っていた。
男が地を蹴ったのが、先だった。馬がいなないたのは、その後だ。ティナには、そうとしか見えなかった。——おかしい。きっかけより先に、反応がある。順番が、逆だ。
蹄が、振り下ろされた。
鈍い音がした。子供の体が、横ざまに弾かれる。こめかみのあたりに、黒い染みが散った。血だ。ティナは、確かにそれを見た。小さな頭が、石畳に打ちつけられる。
群衆が、悲鳴をあげた。
痩せた男が、子供のかたわらに膝をついた。その背中が、ティナの視線を遮る。一瞬。ほんの、一瞬だった。
その一瞬、ティナは息を止めていた。瞬きひとつ惜しんで見開いた目の、ちょうど真ん前を、痩せた背中が、いちばん見たいものごと覆い隠している。心臓が、一度だけ、大きく鳴った。見えない。今、見えない。
男が、子供を抱き起こした。
子供が、泣きだした。火のついたように、大声で泣いていた。
ティナは、動けなかった。
泣いている。ということは、息がある。意識もある。それは、いい。問題は、そこではない。
あの子のこめかみに、傷がない。
血が出ていた。確かに、散った。打ちつける音も聞いた。あれは、ただ転んだ音ではない。頭が割れる音だった。なのに今、子供の額は、汚れひとつなく、つるりとしている。
塞がった、のではない。
塞がった傷には、痕が残る。血を拭った跡も、腫れもある。だが、あの子には何もない。最初から、何も無かったように——
ティナは、そこで思考を止めた。
「……いや」
声が、ひとりでに漏れた。
断定するには、早い。見間違いかもしれない。血だと思ったのは、土埃の影かもしれない。打ちつけたと思った音も、別の音と重なっただけかもしれない。観察が、感情に引きずられている。落ち着け。
ティナは、手帳を握り直した。手のひらが、わずかに湿っていた。
それでも、ペンは止まったままだった。書くべき言葉が、見つからない。腕がいい、でもない。運がいい、でもない。話が大げさ、でもない。三つの仮説は、どれも、たった今、目の前で潰れた。
残ったのは、ひとつだけだった。
——わからない。
その五文字が、ティナの、世界でいちばん嫌いな言葉だった。
痩せた男は、子供を母親に返していた。何でもないことのように、立ち上がって、尻の埃を払っている。周りの者が口々に何か言うのを、困った顔で受け流していた。あの男は、起きたことの大きさに、本人だけが気づいていない。奇跡を起こした顔ではなかった。落とし物を拾って、持ち主に返した。せいぜい、それくらいの顔だった。
知りたい。
その衝動が、ほかのすべてを押しのけた。あの男に、近づく。話を聞く。何度でも、現場を見る。法則があるはずだ。奇跡に見えるものには、必ず。
ティナは、フードを少し上げた。男の顔を、もっとよく見ておきたかった。
——もう一回、見る。次は、瞬きもしない。
子供は、なかなか泣きやまなかった。
それでいい、とクレイは思った。泣ける子は、生きている。
「お母さん。どこか痛むとこ、あるか訊いてやって」
「痛いとこ……ないって。びっくりしただけだって、この子……」
母親の声が、震えていた。
「あんた、見てたかい。あの馬の脚、この子の頭に——」
「当たってないよ。すんでのところで、逸れたんだ」
クレイは、子供の頭を手のひらで包んで、確かめた。瘤もない。傷もない。打った様子は、どこにもなかった。
「運が良かった。蹄ってのは、見た目より懐が広い。掠めて、抜けたんだろう」
「でも、血が……」
「鼻でも擦ったんじゃないかな。ほら、もう止まってる」
「でも、すごい音がしたんです……」
「石でも蹴った音だよ。子供は軽いから、よく弾む」
「治療師さん。本当に、これだけで」
「これだけだよ。俺は、何もしてない。家で水を飲ませて、今日はもう寝かせて」
「夜、熱が出たら」
「たぶん出ないよ。心配なら、明日また連れておいで」
「はい……はい。ありがとうございます」
母親は、子供を抱く腕を、小刻みに震わせていた。声が、ところどころ裂ける。目の縁が、じわりと濡れていた。うまく言葉にならないらしい。頭を下げる声が、途中で裏返る。
「あたしが、目を離したせいで……せめて、お礼だけでも」
「拾ったのは、この子自身だよ。俺じゃない」
クレイは、子供の頭を、もう一度そっと撫でた。
「手毬を追って、自分で躱したんだ。礼を言うなら、この子に言ってやって」
母親は、子供を抱きしめて、何度も頭を下げた。クレイは、それを座り心地の悪い思いで受けた。礼を言われるほどのことは、していない。手を出す前に、もう子供は無事だった。そういうことだ、と思った。
ただ、子供が地に倒れる、その一拍。手を伸ばすより早く、あの小さな脈が、すうっと遠ざかった。まだ温い。なのに、遠い。指の先が、その二つを同時に覚えている。胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。間に合わないかもしれない、というあの冷たさだけは、何度味わっても慣れない。
死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。
誰に教わったでもなく、体に刻まれた一線だった。あの子の泣き声が、広場の喧騒に紛れていく。生きている者の、いい声だった。
バルグが、人混みをかき分けてきた。
「治療師さん! 今の、見てたよ。すげえな。間に合うのかよ、あんなの」
「間に合ってないよ。あの子が、勝手に避けたんだ」
「またそれかよ。あんた、いっつもそれだな」
「本当のことだから」
「いやいや。あの距離だぜ。避けられるわけねえって」
「避けたんだよ。俺は、間に合ってない」
「じゃあなんで、あの子は生きてんだ」
「さあ。運が、いいんじゃないかな」
「運って。あんた、いっつもそれで済ますよな」
「済むからね。ほら、あの子も泣いてる。元気な証拠だよ」
バルグは、何か言いかけて、やめた。
立ち上がりかけて、クレイは、ふと首の後ろがむずがゆくなった。傷を負った者の気配を探すときの、あの感じによく似ていた。だが、痛んでいる者は、どこにもいない。
なのに、誰かに、見られている。
顔を上げると、井戸のそばに、女が立っていた。フードを上げた、見ない顔。町を書きつけて回っていた、あの女だ。
女は、目を逸らさなかった。
観察する、というには、強すぎる目だった。細められた鳶色の目が、まっすぐにクレイを捉えている。値踏みでも、好奇でもない。もっと奥まで、覗き込もうとする目だった。
目が、合った。
女は、手帳を静かに閉じた。それから、ゆっくりと、クレイのほうへ歩きだした。
クレイは、なぜだか、その場を動けなかった。
風が、市の埃を巻き上げる。売り声が、遠くなる。近づいてくる女の足音だけが、やけにはっきりと、耳に届いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回から、ティナが物語に入ってきました。彼女は、読者のみなさんの隣に立つ人です。クレイ本人が自分のしていることに気づかないぶん、彼女の目が、代わりに「おかしい」と言ってくれる。そういう役どころで生まれた人なのです。
ティナには、ひとつだけ、まだ書いていない過去があります。理由もわからないまま、大切な人を失ったことが。だから彼女は「わからない」が、世界でいちばん嫌いなのだと思います。奇跡を見ても拝まない。法則を探す。手帳を開く。——あれは強さのようでいて、本当は、彼女なりの傷の塞ぎ方なのでしょう。
そしてクレイは、今日も気づきません。蹄の下から子供を抱き上げて、尻の埃を払って、「運が良かった」と言う。間に合う前に、もう間に合っている。その不思議に、町の誰よりも本人がいちばん無頓着で。書いていて、この子のことが、いじらしくなります。
二つの目が、ようやく交わりました。けれど、ティナにもまだ、答えは出ていません。塞がったのではない、何かが違う——その違和感に、彼女が言葉を与えるのは、もう少しだけ先のことです。
評価やブックマーク、感想が、次を書く手をうんと速くしてくれます。よろしければ、この出会いの行く先を、見届けてやってください。
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