運が悪いだけ、のはずが
「ミラ、退け! 後ろに回られてる! 」
ガイの声が、岩壁に跳ね返った。
間に合わない。そう思ったときには、もう影が動いていた。
依頼は、本当は受けるはずのないものだった。岩窟の主——ひと隊で受ける相手じゃない。だがガイが、受けると言った。連戦で二度引いた『暁の剣』に、名を取り戻させたかった。運が悪いだけだと、戦果で黙らせたかった。
主は図体のわりに速く、岩を蹴ってミラの背へ回り込んだ。ミラの炎は前を向いていて、後ろはがら空きだった。
鉤爪が、ミラの脇腹を裂いた。
悲鳴は、なかった。息を呑む音だけが、洞の天井に吸われていく。ミラの体が、横向きに地を打った。
「ミラ! 」
ガイは主の首へ剣を叩き込んだ。聖剣が肉を断つ。主が膝を折り、岩を揺らして沈んだ。仕留めたはずだった。それなのに、剣を握る手の震えが、止まらなかった。
ミラが、動かない。
回復役の娘が、転がるように駆け寄った。杖をかざすと、光がミラの脇腹に降りる。裂けた肉が、見る間に閉じていく。塞がった。傷は、確かに塞がった。
なのに、ミラの顔から色が抜けていく。
「塞ぎました。塞いだのに……っ」
娘の声が、裏返った。
「ミラさん、息が浅くなってます! 止まりそうで……っ」
ガイは膝をついて、ミラの頬に触れた。冷たい。さっきまで炎を操っていた手が、氷みたいに冷えていた。胸の上下は、紙のように薄かった。
「もう一回かけろ。上級だろ、お前! 」
「かけてます! さっきから、何度も! 」
「なら、なんでだ」
「傷は塞がるんです。塞がるのに、ミラさんが……戻ってこないんです! 」
レフが、肩で息をしながらこちらへ来た。脚を引きずっている。ろくに動けない体で、それでも来た。
「リーダー、外へ運ぶぞ。ここは空気が悪い」
「動かして、いいのか」
「ここにいたら、どのみち駄目だ」
二人でミラを抱え上げた。軽い。こんなに軽い女だったか。運び出す間も、ミラの息は細っていく。洞を出て、岩棚に下ろしたとき——ミラの胸が、止まった。
一度。
二度目が、来ない。
「ミラ! おい、ミラ! 」
娘が泣きながら杖を振る。光だけが、虚しく降った。
誰も、動けなかった。ガイは、ミラの胸に手を当てた。何をすればいいのか、わからなかった。剣なら振れる。だが、止まった胸を動かす術なんて、勇者は習わない。
「戻ってこい。なあ、戻ってこいよ」
祈りでも、命令でもない言葉が、口から零れた。
どれだけ、そうしていたか。
ミラの喉が、ひゅっと鳴った。胸が小さく持ち上がり、掠れた息が戻ってきた。色のない顔に、わずかに血の気が差す。生きている。かろうじて、生きていた。
娘が、その場に崩れて泣きだした。
「わたし、何もできてない。傷を塞いだだけ」
「いや、お前は——」
「ミラさんが戻ってきたのは、わたしのせいじゃないんです。わたしの術は、命には届かない。塞ぐことしか、できないんです」
西の巣を捨てて、六日目の夜だった。
火は、小さかった。誰も、大きくする気にならなかった。
ミラは毛布にくるまって眠っている。眠っているというより、気を失ったままだった。レフはその隣で膝を抱えて、塞がった脇腹を無意識に押さえていた。
火の向こうで、回復役の娘が、荷物をまとめていた。
「どこ行くんだよ」
「……帰ります。王都に」
「途中で抜けるってのか。契約だぞ」
「違約金は払います。家の蓄えを、全部使ってでも」
娘は手を止めない。
「向いてないんです、わたし。上級まで使えるって言われて、舞い上がってました。勇者様の隊だなんて。でも、違ったんです」
「何が違う」
「塞ぐことしか、できない。塞いでも、皆さん死にかけるんです。今日だって、ミラさんは——」
声が、詰まった。
「わたしの術は、どこにも届かないんです」
「お前のせいじゃない」
ガイは言った。自分でも、薄い言葉だと思った。
「わかってます。でも……前の人は、できてたんでしょう」
ガイの返事が、半拍遅れた。
「前の、人」
「クレイさん。前の回復役の。みんな言ってます。あの人がいた頃は、誰も死ななかったって」
「……」
「塞ぐだけの人だったって聞きました。それなのに、なんでその人のときは皆無事だったんですか。教えてください」
火が、ぱちりと小さく鳴った。
ガイは、答えなかった。答えられなかった。
レフが、低い声で言った。
「おれも、それ考えてた」
「レフ」
「西の巣からだ。あいつが抜けて、最初の戦いからずっとだ。おれは、血が戻らねえ。今日はミラだ。なあ、次は誰だよ」
「やめろ」
「リーダー。おれたち、取り返しのつかねえもんを捨ててきたんじゃねえか」
「やめろって言ってる」
ガイは、火を見たまま言った。
「あいつの回復は初級だった。塞ぐことしかできなかった。今のこいつと同じだ。後方がひとり替わったくらいで、隊の生き死にが変わってたまるか」
言いながら、自分の声が、遠く聞こえた。
誰も、何も返さなかった。レフは膝に顔を埋めた。娘は、まとめかけた荷物を抱えたまま、動かない。
ガイは立ち上がって、火から離れた。これ以上、あの火のそばにいたくなかった。
岩陰に背を預けて、ガイは夜空を見上げた。
星が、よく見えた。皮肉なものだ。胸の中は、こんなに暗いのに。
クレイ。
その名前を、もう何日も、見ないようにしてきた。視界の隅に置いて、そっちを向かないようにしてきた。だが今日、それが、正面に立ってしまった。娘が、レフが、その名を口にした。もう、隅へ追いやれない。
数えてみる。西の巣で死にかけ、南の渓でまた死にかけ、そして今日だ。三度。三度とも、隊は死の淵に立たされた。
その三度の前に、ひとつだけ、変わったことがある。
クレイが、いなくなった。
ガイは、自分の手のひらを見た。剣を握りすぎて、皮の厚くなった手だ。この手で四千三百回、魔を斬ってきて、誰も死なせなかった。それを、自分の強さだと思っていた。ミラの炎が、レフの剣が、自分の聖剣が、だから誰も死なないのだと。
本当に、そうだったか。
ガイは、いつものようにその問いへ蓋をしようとした。だが、言葉の代わりに、長い息が口から漏れただけだった。膝の上で、両のこぶしが、ひとりでに固くなっていく。
なのに。
蓋が、閉まらない。
三度。その符合が、頭の隅で、冷たく光り続けている。
もし——もし、本当にそうなら。
その先を、ガイは考えかけて、息を止めた。
もしそうなら、自分は、隊が立っていた床を、自分の手で抜いたことになる。いらない、と言って。いてもいなくても同じだろ、と笑って。
あの日の自分の声が、今になって、喉のあたりを絞めにくる。
ガイは、目を閉じた。星を見ていたくなかった。
ロウに来て、六日。
その朝、赤鹿亭の戸を叩いたのは、見たことのない女だった。
子を背負っていて、その細い腕に、古い火傷の引き攣れがあった。
「あんたかい。死にかけを死なせないって治療師は」
「……それ、誰から聞いたの」
「二つ先の宿場でだよ。みんな噂してる。ロウの赤鹿亭に、妙な兄ちゃんがいるって」
クレイは、子の腕を取った。引き攣れは古く、痛みはもう無い。ただ、肘が伸びきらないだけだ。
「これは、死にかけとは違うよ。古い火傷だ。すぐにどうこうって傷じゃない」
「それでも、診ておくれよ。二日も歩いてきたんだ」
クレイは、薬を子の腕に擦り込んだ。引き攣れを、少しずつ揉んでほぐす。すぐには治らないが、毎日続ければ肘は伸びるようになる。そのやり方を、母親に教えた。
「銭は」
「火傷を診ただけだ。要らないよ」
「そんなわけにいくか。二日歩いてきたんだ。ただってのは、こっちが困る」
女は銅貨を置いて、子を背負い直して出ていった。
クレイは、戸口にしばらく立っていた。
二日、歩いてくる。自分なんかのために。妙な感じだった。
昼過ぎ、バルグが顔を出した。
「治療師さん。親方、起き上がったよ。粥なら食えるって」
「無理させないで。あと二日は寝かせて」
「言っても聞かねえんだ、あの人。治療師さんに礼が言いてえって、うるさくてさ」
「礼なら、治ってからでいい」
バルグは笑って、また駆けていった。
クレイは、薬研の前に座り直した。
いてもいなくても、同じ。長いこと、それが自分の値打ちだと思っていた。なのにこの町では、誰かが二日歩いてきて、誰かが起き上がりたがる。自分が、いる。そのことが、少しずつ、重さを持ちはじめていた。
悪い重さでは、なかった。
二日かけて、隊は近くの宿場まで下りた。
ミラもレフも、馬には乗れない。荷車を借りて、交代で曳いた。勇者が荷車を曳く姿に、すれ違う旅人が目を丸くする。ガイは構わなかった。今は、仲間を生きたまま運ぶことだけが仕事だった。
宿の一階で、ガイは安酒を舐めていた。飲みたくもないのに、手を動かしていないと考えてしまう。
隣の卓で、行商人が二人、声高に喋っていた。
「——辺境のほうに、妙な治療師がいるんだとよ」
ガイの手が、杯の縁で止まった。
「死にかけを、死なせねえんだとさ。脈が止まったのが、息を吹き返したって話だ」
「眉唾だろ」
「おれもそう思った。だが宿場をいくつも越えて、同じ話を聞くんだ。火のないとこに、煙は立たねえだろ」
「どこの町だ、そりゃ」
「ロウとか言ってたな。南の、辺境の宿場町だ」
死にかけを、死なせない。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。馬鹿げた話だ。死人が生き返るわけがない。生命神の教えでも、死は巻き戻せぬ一線だと決まっている。誰だって、そう習う。
なのに、杯を置く手が、止まったままだった。
ガイは、自分が何を考えているのか、しばらくわからなかった。
わかったとき、喉の奥が、からりと渇いた。
——クレイは、今、どこにいる。
追放したあの日から、一度も、考えないようにしてきた問いだった。あいつが南へ向かったことだけは、知っている。辺境の、宿場町を目指すと言っていた。
南の辺境にある、宿場町だ。
行商の声と、自分の記憶が、頭の中で、危うく重なりかけた。
ガイは、首を振った。
だが、一度立った煙は、もう消えなかった。
確かめたい。
その衝動だけが、夜の底で、静かに膨らんでいった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、置いていかれた側——『暁の剣』の回でした。クレイの淡々とした優しさを書いてきたぶん、彼がいなくなった場所がどれだけ寒いか、そろそろきちんと書いておきたかったのです。
新しい回復役の娘のこと。彼女は、何も悪くありません。上級回復まで修めて、推薦されて、舞い上がって——それのどこに罪があるでしょう。ただ、彼女の術は「正しい治療」で、だからこそ、クレイの「ありえない何か」には届かない。塞いでも、戻らない。その無力に泣く彼女を、僕はどうしても責められませんでした。
そしてガイ。彼は悪人ではありません。ただ、見えていなかっただけ。見えていなかったものが、三度の符合になって、正面に立ってしまった。蓋をしようとして、蓋が閉まらない。あの星空の下で、彼が初めて「確かめたい」と思ってしまったこと——それが、遠く離れた二つの線を、いつか交わらせていきます。
まだ、再会はずっと先です。けれど、煙はもう立ってしまいました。
評価やブックマーク、感想が、次を書く手をうんと速くしてくれます。よろしければ、もう少しだけ、この物語に付き合ってやってください。




