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助からないはずだった

赤鹿亭あかしかていに、腕のいい治療師がいるって聞いた」


 戸口に立った見知らぬ男が、そう言った。


 ロウに来て、五日が過ぎていた。


 男は右手を差し出してくる。親指の付け根が、赤く腫れていた。荷運びの最中に木の棘を深く刺し、抜いたあとから膿みはじめたのだという。


「誰に聞いた、ここのこと」


「広場の連中だ。痩せた兄ちゃんが、よく効く薬を練ってるって」


「……大した薬じゃないよ」


 クレイは男を椅子に座らせ、腫れた手を取った。指の腹で、熱の持ち方を確かめる。膿は、まだ浅い。今なら、切らずに散らせる。


 癒し草(ひいるぐさ)の汁を煮詰めて、蜂蜜をひとさじ。煮出した布を腫れに当て、上から軽く縛った。


「明日、また来て。膿が引いてなけりゃ、切る」


「切らずに済むのか」


「たぶんね。無理に使わなけりゃ」


「助かる。実はゴーシュの爺さんとこにも寄ったんだ。そしたら、赤鹿亭に回れって」


「ゴーシュさんが?」


「あそこの兄ちゃんのほうが手が早いってさ。あの偏屈が、人を褒めるなんてな」


「……買いかぶりだよ」


 男は半信半疑の顔で銅貨を置き、礼を言って出ていった。


 ——こんな日が、五日続いている。


 ロウの暮らしは、思っていたより早く回りはじめていた。指を潰した人足、夜に熱を出した子供、古い火傷の引き攣れ。赤鹿亭の二階の隅に薬研やげんを据えてから、客は途切れない。マーサが下から客を上げ、クレイが診て、ゴーシュの薬で間に合わせる。それだけのことだった。


 夕方、汚れた布を片づけていると、マーサが二階に上がってきた。クレイの手元を、しばらく見ている。


「あんた、評判だよ」


「や、別に。膿を散らしただけだから」


「その別に、ってのをやめな。客が増えてんだ。胸を張りゃいい」


「……そういうの、よくわからなくて」


「わからなくていい。客が来て、治って帰る。それで十分だろ」


「……うん」


 マーサはふん、と鼻を鳴らした。それでも、悪い顔ではなかった。階段を下りていく足音を聞きながら、クレイは布を畳む手を止めた。


 名指しで訪ねてくる客が、いる。それが、まだ慣れない。


 今までは、誰かの後ろにいた。前衛が戦い、自分は終わってから手を動かす。名前なんて、呼ばれることもなかった。なのにこの町では、痩せた治療師、と顔を覚えられはじめている。


 いてもいなくても同じ。そのはずだった。


 なのに戸口で自分の名を出す客が、日に日に増えていく。妙な感じだ、とクレイは思う。慣れない服を、誰かに無理やり着せられているような。




 ゴーシュの薬屋に軟膏を納めに行ったのは、その日の昼だった。


 練り上げた壺をひとつ、台に置く。試しに、と頼まれたひと壺だ。ゴーシュは蓋を開け、匂いを嗅ぎ、指先で硬さを確かめた。


「……悪くない。蜜蝋の量も、ちょうどいい」


「気に入った?」


「合格だと言ってる。次からは、もっと数を増やして頼む」


 ゴーシュは壺を棚に置きながら、背を向けたまま言った。


「あんたのこと、客がよく聞いてくる」


「薬のこと?」


「いや、あんた自身のことだ。広場の樽の話を、まだしてる連中がいる」


 クレイの手が一瞬だけ止まった。


「あれは、運が良かっただけだよ」


「そうかい。だが、見てた者は別のことを言う」


 ゴーシュは振り返り、皺の中の目でクレイを見た。


「樽の真下にいた男が、かすり傷で立った。あんたが、何かしたんじゃないかと」


「手当てしかしてない。樽が落ちる前に、あいつは飛びのいたんだ」


「……ふん」


 ゴーシュは、それ以上は言わなかった。また薬研を回しはじめる。


 クレイも別段、気にしなかった。飛びのいた。そうとしか、思えなかったのだから。


 草の匂いの濃い店を出ると、表の通りはもう夕暮れだった。仕入れた薬草の束を抱えて、クレイは赤鹿亭へ戻った。何ということもない、一日の終わりのはずだった。




 脈が、ひどく遠かった。


 夜半、戸を叩く音で目が覚めたとき、クレイはもうその冷たさを感じていた。布越しでも、壁越しでもない。階段の下から、命がひとつ、底のほうへ沈んでいく。


 寝間着のまま、クレイは階段を駆け下りた。


 戸を開けると、バルグがいた。広場で樽の下から立ち上がった、あの若い人足だ。蒼い顔で、年かさの男を一人、背負っている。男は髭が濃く、腹の右側を血の滲んだ布で押さえていた。布は、もう真っ赤だった。


「治療師さん! 頼む、親方が……っ」


「下ろして。そこに、寝かせて」


 バルグが背の男を板の間に下ろす。男は呻きもしない。それが、いちばん悪い兆候だった。


「何があった。いつだ」


「夕方、荷車が横転して。親方、鉄の枠に脇腹をやられたんだ」


「大したことねえって、ずっと我慢してた。なのに、さっき急に倒れて……っ」


「布、外すよ。バルグ、灯りを近くに」


 布をそっと剥がす。脇腹の右、深く抉れた傷から、黒ずんだ血が滲んでいた。縁が、もう熱を持って腫れている。半日のあいだに、傷の奥で悪いものが回りはじめていた。


 クレイは男の額に手を当てた。焼けるように熱い。なのに、芯のほうは——冷たい。脈が、指の下で遠ざかっていく。


 傷より先に、命のほうが、出ていこうとしている。


「治療師さん、親方は……助かるのか」


「わからない。傷が深い。でも、まだ脈はある」


「頼む。親方は、おれを拾ってくれた人なんだ」


「知ってる。だから、邪魔だけはしないで」


「……ああ。ああ、わかった」


「喋らないで、そこにいて。手は止めないから」


 騒ぎを聞きつけて、マーサが下りてきた。寝巻きの上に前掛けを巻いただけの格好で、クレイの顔を一目見るなり、何も聞かずに動きだす。


「湯。それと、清潔な布をありったけ。蒸留酒も」


「わかった」


 クレイは傷口を洗い、溜まった黒い血を押し出した。煮出した癒し草に蜂蜜を落とし、その汁を傷の奥まで含ませる。白根しろねを濃く煎じて、わずかずつ口へ流し込んだ。


「眠り苔、噛ませて。痛みで暴れると、傷が開く」


 手は、止めなかった。やれることを、順に、ひとつずつ。止血、洗浄、薬、それから熱を冷ます布。何度も、何度も繰り返した。


 バルグは、壁際で膝を抱えていた。


「治療師さん……親方、死なねえよな。なあ」


「今は、手を離さないことだけ考えてる」


 親方の妻が、いつのまにか夫の枕元にいた。骨張った手を握って、放さない。


「あんた……起きとくれよ。まだ何も、返してもらってないんだから」


「声をかけてやって。たぶん、奥まで届いてる」


 誰も、それきり口をきかない。窓の外が、少しずつ白みはじめていた。


「……まだ、保つかい」


「わからない。朝まで保てば、たぶん」


 夜明け前が、いちばん危なかった。


 男の息が、ふっと浅くなった。胸の上下が、止まりそうなほど小さくなる。クレイの手のひらの下で、脈が、すうっと遠ざかっていった。指の先から、温度が抜けていく。男の体が、底のない場所へ、ひとり沈もうとしていた。


 ——だめだ。


 考えるより先に、手が傷を押さえていた。命をつなぎとめる術なんて、自分は持っていない。ただ、ここで止まってくれと、それだけを願った。


 死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。


 その一言は、祈りの言葉ですらなかった。拾ってくれた師匠の手を、ふと思い出す。節くれだって、いつも薬の匂いがした手だ。あの手つきを、知らぬまに自分がなぞっている。


 冷たさが、指の先で——止まった。


 止まって、それからゆっくりと退いていく。


 男の胸が、大きく上下した。喉から、掠れた息が漏れる。脈が、手のひらの下に戻ってきた。遠かったものが、少しずつ、近くなっていく。


 夜が明けるころには、男の熱は引きはじめていた。傷の縁の腫れも、ひいている。さっきまで黒ずんでいた血の色が、嘘のように退いていた。


 妻が、夫の手を握ったまま、声を殺して泣いていた。バルグは、信じられないという顔で、親方の寝顔を見ている。


「……おれ、もう駄目だと思った。息、止まってたよな。さっき」


「気のせいだろ。浅くなっただけだ」


「いや、止まってた。おれ、見てたもん」


 クレイは汚れた布を桶に放った。


「山を越えただけだよ。傷は深かったけど、芯の道は逸れてた。運が良かった」


「運って……あんた、ひと晩じゅう手を動かしてたじゃねえか」


「薬が効いただけ。大した処置はしてない」


「あんた、すげえよ。ほんとに、すげえ」


「……買いかぶりだって」


 親方の妻が、夫の枕元で震える声を絞り出した。


「ありがとう……ありがとう、治療師さん」


「礼は、目を覚ましてからでいい。三日は動かさないで」


「はい……はい」


 立ち上がって、伸びをする。腰が痛い。ひと晩、同じ姿勢でいたせいだ。


 助かってよかった。それ以上のことは、考えなかった。傷の深い男が、ひとり、夜を越えた。あとは三日も寝ていれば、起き上がるだろう。


 マーサは、戸口にもたれて腕を組んでいた。何も言わない。ただ、クレイの荒れた手を、じっと見ていた。




 同じ夜明けを、『暁の剣(あかつきのつるぎ)』は別の場所で迎えていた。


 西の巣を捨ててから、五日目になっていた。レフの傷は塞がったが、血の気は戻りきらない。それでも隊は、止まっているわけにいかなかった。名を売る一団には、名を保つ義務がある。


 ギルドの討伐依頼を受け、南の渓で岩蜥蜴いわとかげの群れと当たった。数が多い。レフは「もう動ける」と言い張って前に出たが、剣の振りが、明らかに鈍かった。


 ミラの放った炎が、群れを薙ぐ。その隙にガイが斬り込む。いつもの段取りだった。だが、レフの足が、もつれた。


 岩蜥蜴の尾が、横からレフの脚を払う。体が崩れる。すかさず別の一匹が、その喉元へ——


「レフ!」


 ガイが飛び込んで、蜥蜴の首を落とした。間に合った。間に合ったが、背筋が、ぞっと冷えた。


 いつものレフなら、避けていた。あんな尾の一振り、目をつぶってでも躱していた男だ。


 後ろで、新しい回復役の娘が、震えながら杖をかざしている。レフの脚の傷を塞ぐ。塞ぐが、レフは膝をついたまま立ち上がれない。


「血が……また、追いつかないんです」


 ガイは、答えなかった。


 その日、隊は討伐を半ばで切り上げた。これで二度目だった。西の巣に続いて、また、奥まで進めずに引いた。


 夜、火のそばで、ガイは聖剣の柄を握っていた。砥石を当てる気にも、ならなかった。


 最近、運が悪い。何度も、そう自分に言い聞かせてきた。だが、運という言葉が、もう自分の中で軋みはじめている。


 五日前まで、隊は無敵だった。無茶をしても、囲まれても、誰も死ななかった。それが当たり前で、誰も疑わなかった。その当たり前が、ある日を境に、音を立てて崩れた。


 ある日。


 ——クレイが、抜けた日。


 ガイはその考えを奥歯で噛み潰した。馬鹿げている。後方の下働きひとりで、隊の強さが決まるわけがない。あいつの回復は、初級だった。塞ぐことしか、できなかった。


 なのに。


 熾が、音もなく崩れて沈んだ。ガイはそれ以上は考えなかった。その先へ踏み込むのが、ただ怖かったのだ。




 ロウの噂は、その日のうちに広がった。


 荷運びの親方ドルフが、ひと晩で死にかけて、ひと晩で持ち直した。ゴーシュの薬でも無理だと言われた傷が、塞がりはじめている。赤鹿亭の、痩せた治療師の手で。


 夜の酒場は、その話で持ちきりだった。


「おれは見たんだ。あの親方、もう息してなかったぞ」


「脈も止まってたって。担ぎ込んだバルグがそう言ってた」


「樽のときもそうだ。あの兄ちゃんがいると、死ぬはずのやつが死なねえ」


「ゴーシュの爺さんの薬でも無理だって傷だぞ」


「ただの治療師じゃねえな、ありゃ」


「縁起でもねえ。腕がいいだけだろ」


「腕だけで、止まった脈が戻るかよ」


「だといいけどな」


 声は低く、けれど確かに卓から卓へと渡っていく。


 当のクレイは、二階の隅で軟膏を練っていた。階下のざわめきは、いつもの夜と同じに聞こえる。あの噂の主が自分だとは、結びつきもしない。卓から卓へ渡る声は、青い軟膏の匂いの向こうで、ただの夜の音に溶けていく。


 マーサが、椀を持って上がってきた。湯気の立つそれを、クレイの手元へ押しやる。


「ほら、温かいうちに口に入れときな。練り物の匂いばっかり嗅いでると、腹のほうが鈍っちまうよ」


「ありがとう」


「……あんた、自分が何をしたかわかってないだろ」


「親方のこと? 薬が効いただけだよ」


「そうかい。……ま、いいさ。食べて、寝な」


 マーサは何か言いかけて、やめた。クレイの手元を一度だけ見て、階段を下りていく。


 その背中を見送ってから、クレイはまた軟膏を練りはじめた。匙が同じ円をなぞる。指はその繰り返しを覚えているのに、耳の奥には、まだマーサの声が残っていた。


 わかってない、か。


 マーサの言葉が、なぜか胸に残った。自分は、何をしたというのだろう。傷を洗って、薬を含ませて、熱を冷ました。いつもの手順を、いつもより長く繰り返しただけだ。それで助かったなら、運が良かったとしか言いようがない。


 なのに、町の誰もが、別のものを見ている気がする。


 階下のざわめきが、少しずつ間遠になっていく。卓を叩く音も、酔った笑いも、ひとつずつ数を減らし、やがて、軟膏を練る自分の手の音だけが残った。


 噂は、もう町の中だけのものではなくなっていた。宿場を発つ旅人の口に乗り、行商の荷に紛れて、街道を北へ南へと運ばれていく。辺境に、妙な治療師がいる。死ぬはずの者を、死なせない男が——と。


 その噂が、いつか、誰の耳に届くのか。


 痩せた治療師は、まだ知らない。自分の手のひらが、この数日でこの町に何を起こしたのかも。そして、その手のひらの秘密を、わざわざ確かめにくる者がいることも。


 ただ、夜は静かに更けていく。練り上げたばかりの軟膏の、青い匂いの中で。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は、クレイがロウに「効いてくる」回でした。誰かに名前で呼ばれること、慣れない服を着せられているような居心地の悪さ——あの子にとっては、称賛より、この戸惑いのほうがずっと手強い相手なんだと思います。褒められたら「や、別に」で逃げられますが、名前で訪ねてこられると、逃げ場がないんですよね。


 親方ドルフの夜、書きながら少しだけ泣きそうになりました。バルグが「息、止まってたよな」と言い、まわりは言葉をなくし、それでもクレイだけが平然と「運が良かった」と桶に布を放る。あの温度差を書くために、この子の声はわざと淡々のままにしてあります。本人がいちばん、自分の手のひらで起きたことを見ていない。これは、この物語の真ん中にある悲しさであり、優しさでもあります。


 マーサの「自分が何をしたか、わかってないだろ」。言いかけて、やめる。あの一拍を、どうか覚えておいてください。彼女はもう、半分くらい気づいているのかもしれません。


 そして噂は、町を出ていきました。荷に紛れて、街道を北へ南へ。その噂を拾う誰かが、もうすぐ現れます。


 評価やブックマーク、感想が、次を書く手をうんと速くしてくれます。よろしければ、クレイの夜にもう少しだけ付き合ってやってください。

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