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3/3

流れの治療師、宿を取る

「治療師? あんたみたいな優男が?」


 赤鹿亭あかしかていの女将マーサは、敷居に立ったクレイを頭から爪先まで眺めて、鼻で笑った。


 ロウに着いて、最初の朝だった。


 太い腕を前で組んだまま、マーサは続けた。


「うちは安宿だけど、銭にはうるさいよ。一晩三十ギル、先払い。飯は別だ」


「三晩、頼みます」


 クレイはポーチから銅貨を数えて、台の上に並べた。手持ちは、これでもう半分も残らない。


「それと、台所の隅を少し貸してほしい。薬を煎じたいんだ」


「薬だって?」


 マーサの眉が、片方だけ持ち上がった。


「あんた、本当に治療師なのかい。そんなに痩せて、自分のほうが手当てされる側に見えるよ」


「一応。流れだけど」


 マーサは銅貨を前掛けに払い落とすと、少し考える顔をした。それから、顎で二階を示す。


「なら、ちょうどいい。上の客が、ゆうべから熱を出してる。旅の薬売りでね、自分とこの薬を飲んでも下がらないんだと」


「診てもいい?」


「金は取るのかい」


「熱が下がってから決めて」


 マーサはふん、と短く鼻を鳴らした。値踏みは続いているらしい。それでも、先に立って階段を上りはじめた。




 二階の客は、毛布にくるまって浅い息をしていた。


 脈は速く、皮膚は乾いている。クレイは枕元に膝をついて、まず手の甲を額に当てた。熱はある。だが、命が抜けていくような冷たさはない。芯は、まだ温い。


「ただの熱風邪だ。腹は?」


「……ゆうべから、何も入ってない」


「水は飲めてるなら、いい」


 クレイはポーチから乾いた白根しろねを取り出した。残りが心許ない。指で量を測って、半分だけ刻む。


「女将さん、湯を少し。それと、汗を拭く布」


「注文の多い客だね」


 そう言いながらも、マーサの動きは速かった。湯が運ばれてくる。クレイは刻んだ白根を椀に入れ、湯を注いで色が出るのを待った。布で漉して、薬売りの口元へ運ぶ。


「苦いけど、残さず。汗が出たら、すぐ拭いて。濡れたままにすると、また冷える」


「あんた……薬の出どころ、わかるのか。これ、白根だろう。煎じ方が、玄人のそれだ」


「手当てしかできないから。それくらいは」


 薬売りは、薄目を開けてクレイの手元を見ていた。商売柄、薬には目が利くのだろう。


「俺の店の解熱薬より、ずっと効きそうだ。畜生、商売あがったりだな」


「や、別に。煎じただけだから」


 クレイは布を畳んで、枕元に置いた。それから、戸口で腕を組んだままのマーサを振り返る。


「夕方にもう一度、煎じて飲ませて。朝には起きられると思う」


「思う、ってのは頼りないね」


「下がらなかったら、銭はいらない」


 マーサは今度ははっきりと、クレイの顔を見た。何か言いかけて、やめた。代わりに、階段の下から漂ってくる匂いのほうを顎で示す。


「……朝飯、食べていきな。痩せすぎだ。見てて腹が冷える」




 昼前、クレイは薬草を仕入れに町の薬屋を訪ねた。


 ポーチの中身は、もう底をついていた。癒し草(ひいるぐさ)も白根も眠り苔も、道中で使い切っている。これからここで暮らすなら、まず薬の手当てが要る。


 薬屋は表通りから一本入った、薄暗い店だった。乾いた草の匂いが、戸を開ける前から濃く漂っている。棚という棚に、束ねた薬草と素焼きの壺が詰まっていた。


 奥の帳場で、白髪を後ろで縛った偏屈そうな老人が薬研を回していた。顔も上げずに言う。


「冷やかしなら、戸を閉めて出てけ」


「癒し草を一束。白根と、眠り苔も。乾いてるやつを」


 老人——ゴーシュは、ようやく手を止めた。じろりとクレイを見る。


「眠り苔まで揃えて、どうする気だ。素人が遊びで持つ草じゃないぞ」


「処置に使うから。鎮痛に」


「処置」


 ゴーシュは薬研を置いて、立ち上がった。クレイの差し出した銅貨には目もくれず、その荒れた手の甲をじっと見た。薬研と包帯で荒れた手だ。


「……あんた、その手は飾りじゃないな。配合は、どこで覚えた」


「拾われた師匠に。流れの治療師だった」


「ふん。なら聞くが、癒し草を化膿止めに使うとき何と合わせる」


「傷の深さによる。浅けりゃ単味でいい。膿みかけてるなら、煮出した汁に少し蜂蜜を」


「……量は」


「壺の蓋ひとさじ。入れすぎると、かえって傷が治りを渋る」


 ゴーシュは、しばらく黙っていた。それから棚から癒し草の束を選り、いちばん上等な乾き具合のものをぽんと台に置いた。


「これを持ってけ。さっきの棚のは、湿気てる」


「値段、変わる?」


「同じだ。気に入らんなら買うな」


 クレイは束を受け取った。確かに、葉の張りが違う。良いものだとわかる。


「あんたの軟膏、作れるか」


「軟膏?」


「傷用の。あんたの言う配合で、ひと壺。買い取る。うちの客は荒くれが多くてな、傷の薬がいくらあっても足りん」


「……作れるけど。そんなに腕、信用していいの」


「手で、もうわかった」


 ゴーシュは、それきり帳場に戻ってしまった。話は終わり、ということらしい。


 クレイは、薬草の束を抱えて店を出た。日銭の当てが、ひとつ増えた。悪くない、と思う。流れの治療師の暮らしは、案外、こんなふうに回っていくのかもしれない。




 脈が、遠のいた。


 広場を横切ろうとしたとき、クレイの足が勝手に止まった。


 誰かの体温が、すうっと引いていく。その冷たさが、風よりも先に手のひらに触れてくる。すぐ近くだ。半歩も動かないうちに、クレイの目はもうその場所を捉えていた。


 広場の隅で、酒場の二階へ酒樽を吊り上げている男たちがいた。荒縄を滑車にかけ、太い樽を三つ、宙へ持ち上げている。その真下で、若い人足が一人、次の縄を結び直していた。


 縄が、鳴った。


 擦れた荒縄の一本が、束ねた繊維をぷつぷつと弾けさせて、伸びていく。樽が、傾いだ。


「上、危ねえ!」


 誰かが叫んだ。だが、人足は気づかない。背を向けて、足元の縄に屈み込んでいる。


 クレイの体が、先に動いていた。何を考える間もなかった。ただ、脈が遠のいていくのを、止めたかった。


 縄が、切れた。


 樽が落ちる。三つまとめて、人足の頭上へ——


 体温が、消えた。指先の届くところで、ひとつの命が、ふっと冷たくなる。あの感覚だ。何度味わっても慣れない、巻き戻る前の、あの冷たさ。


 ああ、と思った。


 思った、次の瞬間。


 人足は、尻餅をついて、地面に座り込んでいた。


 すぐ脇で、酒樽が三つ、砕けて転がっている。割れた樽板が四方に散り、安酒の匂いがもうもうと立ちのぼっていた。人足は自分の手と足を、信じられないという顔で見下ろしている。


「……あれ。おれ、今……」


 広場が、しんと静まった。それから、堰を切ったように人が駆け寄ってくる。


「バルグ! おい、無事か! 下敷きになったろ、今!」


「いや……わかんねえ。気づいたら、座ってた」


「飛びのいたんだよ、お前。とっさにな。運がいいにもほどがある」


 誰かがそう言って、笑った。ぎこちない笑いだった。皆、自分が今見たものをうまく言葉にできずにいる。樽の真下にいた男が無傷で座っている。それだけが、確かなことだった。


 クレイは、人足のそばに膝をついた。


「どこか、打った?」


「あ、ああ……いや、肘をちょっと擦った気がする」


 差し出された肘に、浅い擦り傷があった。血が、にじむ程度。クレイは布で土を払い、癒し草を揉んで押し当てた。


「これくらいなら、すぐ塞がる。明日には忘れてるよ」


「あんた、治療師か」


「流れの。たまたま通りかかった」


「……助かった。樽が落ちてきたとき、もう駄目だと思った。腹の底まで冷えた」


「派手に倒れただけだろ。間一髪だったな」


 クレイは、肘に布を巻いてやりながら、そう言った。実際、そうとしか思えなかった。樽の下敷きなら、こんな擦り傷では済まない。男はとっさに転がって、難を逃れたのだ。運が良かった。それだけのことだ。


 死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。


 胸の奥で、その一言だけを確かめる。声に出すわけでもない。誰かの脈が遠のくのを、ただ放っておけない。理由なんて、それで足りている。


 立ち上がろうとして、ふと、視線を感じた。


 人垣の中に、荷を担いだ年寄りが一人、こちらを見ていた。皺の寄った目を細めている。バルグでも樽でもなく、クレイの手元をじっと見ていた。


 何か言いたげに口を開きかけて、その人は結局何も言わなかった。首を振り、荷を担ぎ直して去っていく。腑に落ちないという顔だけを、後に残して。


 クレイは別段、気にも留めなかった。擦り傷の手当てを終え、土を払ってまた歩き出す。




 同じ頃、北の街道沿いの野営地で、『暁の剣(あかつきのつるぎ)』は足止めを食っていた。


 西の巣から血まみれで逃げ帰った、その翌朝だった。本当ならもう、王都への道を下りはじめている頃だ。だが、レフが動けない。


 天幕の中で、レフは半身を起こして椀の粥をのろのろと口に運んでいた。脇腹の傷は、新しい回復役の娘がゆうべから塞ぎ直している。傷口は、もう塞がっている。塞がっているのに、レフの顔からは、血の気が戻らなかった。


「リーダー……おれ、なんか変なんだ」


「変って、何がだよ」


 ガイは天幕の入口で剣の手入れをしながら、振り向かずに答えた。


「傷は塞がってんだろ。あとは飯食って寝てりゃ、じき元通りだ」


「それが、戻らねえんだよ。力が、すかすか抜けてく感じでさ。立つと、目の前が白くなる」


「血を失いすぎたんだ。そういうこともある」


「七年、一度もなかったぜ。こんなの」


 ガイの手が、一瞬、止まった。砥石を当てる音が、途切れる。


 それきり、ガイは何も言わなかった。また砥石を動かしはじめる。レフは、それ以上は言わずに、粥に目を落とした。


 天幕の外では、ミラが火の番をしていた。その隣で、新しい回復役の娘が膝を抱えて座っている。火を見つめたまま、娘がぽつりと言った。


「……上級回復は、何度もかけ直してるんです。傷はちゃんと塞がります。なのに、レフさんの体だけ追いつかなくて」


「あなたのせいじゃないわ」


「わかってます。でも」


 娘は、唇を噛んだ。


「傷を塞ぐのと、命が戻るのは別なんです。塞いだ傷の奥で、何かがまだ抜け続けてる。わたしの術じゃ、そこに届かない」


 ミラは、何も返さなかった。火に枝を一本くべて、しばらく炎を見ていた。


 あの夜から、考えていることがある。けれど口にすれば、何かが決定的に変わる気がして言えずにいた。


 七年間、誰も死ななかった。無茶をしても、囲まれても、崖から落ちても。傷さえ塞げば、皆けろりと立ち上がった。あのときと、今と、何が違うのか。


 違うものなど、ひとつしかない。


 ミラは、その名前を、火の中に飲み込んだ。今ここで言っても、誰も信じはしない。自分でさえ、信じたくないのだから。


 天幕の中から、レフの掠れた声が漏れてきた。


「なあ、リーダー。クレイのやつ、今ごろどこで何してんのかな」


 砥石の音が、また止まった。


「さあな」


 ガイは、それだけ答えた。剣を鞘に納める音が、やけに大きく響いた。




 夜の赤鹿亭は、思いのほか賑やかだった。


 一階の酒場には、人足や行商人が集まって安酒を呷っている。その隅の卓で、クレイは借りた台所道具を広げ、ゴーシュに頼まれた軟膏を練っていた。癒し草の汁を煮詰め、蜜蝋と練り合わせる。慣れた手つきだった。


 二階から、薬売りが下りてきた。顔色は、すっかり戻っている。


「あんた、本当に下げてくれたな。朝には嘘みたいに楽になってた」


「よかった。無理は、まだしないで」


「礼だ。受け取ってくれ」


 差し出された銅貨を、クレイは半分だけ受け取った。残りは押し返す。


「煎じただけだから。それに、宿賃と相部屋分は女将さんに払ってあるんだろ」


「律儀だねえ、あんたも」


 薬売りは笑って、卓の向こうに腰を下ろした。それから、声を少し落とす。


「……昼間、広場で樽が落ちたって聞いたぜ。下にいた若いのが、無傷だったって」


「ああ。間一髪だった」


「みんな、妙だって言ってる。あの位置から、生身で逃げられるわけがないってな」


「運が良かったんだよ。あれは」


 クレイは、軟膏を練る手を止めずに答えた。本当に、そうとしか思えなかった。


 薬売りは何か言いたげにクレイを見て、それから肩をすくめ、酒を頼みに立っていった。


 入れ替わりに、マーサがやってきた。湯気の立つ椀を、ことりとクレイの前に置く。


「食べな。練り物なんかしてると、また飯を抜くだろ」


「悪いね」


「……あんた、明日から二階の隅を使っていいよ。客の手当てが要るとき、声をかける。銭は、出来高でいい」


「いいの? 流れの治療師なんて、いつ消えるか知れないのに」


 マーサは太い腕を組んで、クレイを見下ろした。


「うちは安宿だ。怪我人も病人も、しょっちゅう転がり込んでくる。今までは、ゴーシュの店まで担いでいくしかなかった。あんたがいてくれりゃ、ずいぶん助かる」


 いてくれりゃ、助かる。


 その言葉が、なぜか、すぐには胸に落ちてこなかった。


 いてもいなくても同じ。ずっと、そう言われて生きてきた。実際、そうだと思っていた。自分がいてもいなくても、世界は同じように回る。だから、追放されたときも、痛くなかった。


 なのに今、目の前の女将はまるで逆のことを言っている。あんたがいてくれると助かる、と。世間話のような口ぶりで。


「……どうした。鳩が豆鉄砲食らったような顔して」


「や、別に」


 クレイは、椀を引き寄せた。湯気が、顔に触れる。温かかった。


「ありがとう。世話になる」


 マーサはふん、と鼻を鳴らして酒場のほうへ戻っていった。


 卓に残ったクレイは、もう一度軟膏を練りはじめた。手は動いていたが、考えは別のところにあった。


 いてくれりゃ助かる、か。


 そんなことを言われたのは、たぶん、初めてだった。


 酒場の喧騒の中で、誰かの噂話が切れ切れに耳に届いてくる。広場の樽のこと。死んだと思った若い人足が、かすり傷ひとつで立ち上がったこと。そして、たまたま居合わせた、痩せた流れの治療師のこと。


「——あの兄ちゃん、なんかしたんじゃねえか」


「まさか。手当てしただけだろ」


「いや、おれは見たんだ。樽が落ちた、その下に確かにあいつはいた——」


 声は、すぐに別の話題に紛れて消えた。


 クレイの手は、止まらなかった。自分のことだとは、気づきもしない。樽の下にいたのはバルグで、自分はただ、後から手当てをしただけ。そう、思っている。


 窓の外で、ロウの夜が更けていく。


 痩せた治療師がひとり、流れ着いた。ただ、それだけのことだ。けれど、その手のひらが今日この町で何をしたのか——気づいている者は、まだ誰もいなかった。


 本人さえも、含めて。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回からしばらく、舞台はロウの町です。クレイにとっては、生まれて初めての「自分の居場所」を手に入れていく回でもあります。女将のマーサと薬屋のゴーシュ、この二人は実は、書く前から「クレイを叱ってくれる大人」として置こうと決めていました。称賛されると流してしまうこの子には、褒め言葉より「飯を食え」「手を見ればわかる」と無愛想に認めてくれる人のほうが、たぶん効くんですよね。


 広場の樽の場面、お気づきになった方も多いと思います。バルグ本人は「腹の底まで冷えた」と言い、まわりは「下敷きになったはずだ」とざわつく。なのにクレイだけが、平然と「運が良かった」で片付けてしまう。この温度差を書きたくて、この回を組み立てたようなものです。荷を担いだ年寄りが何か言いかけてやめる——あの一拍も、どうか覚えておいてください。


 そしてラスト、マーサの「いてくれりゃ助かる」。クレイの「いてもいなくても同じ」が、ほんの少しだけ、ぐらりと揺れる。その小さな揺れが、これから先のクレイを動かしていきます。


 次回、ロウの暮らしがもう少し進みます。クレイの地味な評判が、じわじわと町に広がりはじめて——。評価やブックマーク、感想が、次を書く手をうんと速くしてくれます。よろしければ、もう少しだけ付き合ってやってください。

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