表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/3

お前が抜けてから、なんでだか

 脈が、遠い。


 その気配を、クレイは街道の先に感じ取って足を止めた。まだ姿は何も見えない。ただ、誰かの体温が引いていく感じだけが、風下からゆっくりと手のひらに触れてくる。


 南へ下って、三日目だった。


 王都を出てから、人気のない街道ばかりを選んで歩いてきた。辺境の宿場町ロウまでは、あと半日。急がずとも、日が暮れる前には着くだろう。荷は軽い。薬研やげんと、乾いた薬草の束と、包帯の替え。七年ぶんの暮らしが、肩の上でかさりとも鳴らない。


 枯れ草の斜面の手前に、荷馬車が一台、傾いて止まっていた。車輪が溝に落ちている。その脇で、人が倒れていた。


 クレイは駆け寄った。倒れているのは若い男だった。崩れた積み荷の下敷きになったらしい。右の腿から血が出ている。布を当てた跡はあるが、押さえる場所が浅い。脈は速く、浅く、遠ざかっていく。


 もう一人、商人らしい中年の男が、その傍らでおろおろと膝をついていた。クレイを見るなり、すがるように身を乗り出してくる。


「あんた、治療師か?! 頼む、息子なんだ。さっきから血が止まらなくて」


「下がってて。いちばん清潔な布、ある?」


「あ、ああ。新しい晒しが荷の中に」


「それ、出して。あと水も」


 クレイはポーチから蒸留酒の小瓶を取り出し、手と布を湿らせた。傷口を確かめる。腿の内側、皮の下まで裂けている。だが太い血の道は、すれすれで逸れていた。間に合う。


 乾いた癒し草を指で揉んでほぐし、傷の縁に押し当てる。上から晒しで強く圧をかけた。男の子が呻く。


「眠り苔、噛んでて。痛いの、すぐ引くから」


「兄ちゃん、これ……」


「喋らない。息だけして」


「……あんた、痛くないようにしてくれるんだ」


「するよ。だから、力抜いて」


 血の勢いが、手のひらの下で和らいでいく。クレイはその変化を、皮膚ごしにずっと測っていた。止まった。確かめてから、ようやく息をつく。


 縫合の要らない深さまで落ち着いたのを見て、添え木を当て、その上から包帯を巻いた。最後に、解熱の白根しろねを煎じる手順を商人へ短く教える。


 商人は、信じられないという顔でクレイの手元を見ていた。


「あんた……すごいな。前に世話になった治療師は、これくらいの血で匙を投げたぞ」


「や、別に。止血して、薬を塗っただけだから」


「いや、息子は助からないと思った。本当だ」


「……血は派手に出てたけど、芯の道は無事だった。間に合ってよかった」


「これから、どうすれば」


「三日は、その脚に体重をかけないで。膿んだら、熱が出る」


「わかった。気をつける」


「白根は、根を刻んで水から弱火で。色が出たら布で漉す。苦くても残さず飲ませて」


「恩に着る。あんた、名前を聞いてもいいか」


「クレイ」


 傷の話になると、自分でも声が少し締まるのがわかる。だが言葉は、それ以上は続かなかった。商人は何度も頭を下げ、それから不思議そうに尋ねてきた。


「しかし、なんでだ。見ず知らずの俺たちに、どうしてここまで」


「……たまたま、通りかかったから」


 それきり、クレイは口をつぐんだ。


 うまく説明できる言葉を、持っていなかった。ただ、目の前で脈が遠のいていくのを、見過ごせなかった。それだけだ。


 死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。


 口の中で、いつもの言葉を転がす。誰かに聞かせるためではない。自分の立っている理由を確かめるためだけの、呟きだった。


 商人は礼にと、銅貨をまとめて握らせてきた。数えると、五十ギルあった。


「多いよ。手当てひとつで、宿二晩ぶんは取りすぎだ」


「いいんだ。受け取ってくれ。これでも足りないくらいなんだから」


 押し問答の末、半分だけ受け取った。残りは、子の傷が膿んだときの薬代にしろと言って返す。


 荷馬車が遠ざかっていくのを、クレイはしばらく見送った。荷台で、男の子がこちらに小さく手を振っている。


「兄ちゃん! おれ、脚が治ったら、絶対に治療師になるからな!」


 遠ざかる声が、風に乗って届いた。クレイは少し面食らってから、片手を上げて応えた。誰かに憧れられたのは、たぶん初めてだった。


 悪くない、と思った。流れの治療師の暮らしも、案外こんなふうに回っていくのかもしれない。




 西の魔獣の巣は、赤茶けた岩肌にぽっかりと口を開けた、巨きな洞だった。


 ガイは聖剣を横に薙いだ。飛びかかってきた岩喰い熊の首が、手応えもなく宙を舞う。軽い。いつも通り、面白いくらいに軽い。血の匂いと岩の熱気の中で、ガイは笑っていた。


「ぬるいぞ、こんなもん! 雑魚しかいねえじゃねえか」


 すぐ後ろで、レフが剣を担ぎ直した。


「美味しいとこ全部持ってくなよリーダー。一匹くらい残せ」


「なら奥のでかいのはお前にやる。ほら、来たぞ」


 後方で、新しい回復役の娘が杖を握りしめている。初めての大物討伐に、顔がこわばっていた。


「あの、わたし、何かあったらすぐ前に出ますから」


「そんなに固くなるなって。お前の出る幕なんか、今日もねえよ」


 ガイは軽く笑った。考えてみれば、回復役が本気で働いた戦いなど、数えるほどしかない。傷の手当てなら、いつだって戦いが終わってからで間に合った。


 洞の奥から、ひときわ大きな影が地を蹴って現れた。岩を背負ったような、熊の主だ。


 レフが嬉しそうに前へ出る。この男は、いつもそうだ。三年前、北の渓谷で崖から真っ逆さまに落ちたときも、傷ひとつなく立ち上がって笑っていた。死なない男。運の塊。ガイはそう思っている。


 レフは熊の主の懐へ滑り込み、下から斬り上げた。手応えはあった。だが浅い。岩のような毛皮が、刃を半ばで止めている。


 その一瞬、熊の主の前足が、横から薙いできた。


「レフ!」


 ガイが叫んだ時には、もう遅かった。


 爪が、レフの左の脇腹をえぐった。体が宙を飛び、岩壁に叩きつけられて、ずるりと落ちる。


 いつもなら——と、ガイの頭の隅で何かが言った。いつものレフなら、転がって、悪態をついて、すぐに立ち上がる。


 立ち上がらなかった。


 脇腹から、布を裂くような勢いで血が噴いている。レフは地面に手をついたまま、信じられないという顔で、自分の腹を見下ろしていた。


「……あれ。なんで止まんねえんだ、これ」


「喋るな! 傷が開く」


「リーダー……おれ、こんなの初めてだ。いつもなら、こんな引っかき傷……」


「いいから黙ってろ。すぐ塞いでもらう」


 ガイは咆哮を上げて熊の主に斬りかかった。怒りに任せた数撃で、その首を落とす。洞に静けさが落ちた。だがその静けさが、今はひどく嫌な感じがした。


 駆け寄ると、レフの顔から血の気が引いていた。


「おい、しっかりしろ! おい、レフ!」


「新しい子! 回復を、早く!」


 後方から、新しい回復役の娘が転がるように駆けてきた。蒼い顔で膝をつき、震える手をレフの脇腹にかざす。


「じょ、上級回復……っ」


 淡い光が傷口を覆った。裂けた皮膚が、見る間に塞がっていく。さすがに上級だ、とガイは一瞬、安堵しかけた。


 だが。


 傷は塞がった。塞がったのに、レフは目を閉じたまま白い顔をしている。呼吸が浅い。塞いだはずの体の中から、命の手応えだけが、するすると抜けていくようだった。


「な、なんで……塞いだのに。傷はちゃんと塞いだのに……っ」


 娘が泣きそうな声を上げた。ガイにも、わからなかった。


 おかしい、とガイは思った。今までだって、これくらいの傷は何度も見てきた。いや、もっとひどいのも。なのに、誰も死ななかった。傷さえ塞げば、皆けろりと立ち上がってきたのだ。


 なのに、今日は。


 血を失いすぎている。


「撤退だ。巣は捨てる。レフを担ぐぞ」


 ガイがそう言っても、誰も逆らわなかった。いつもなら軽口のひとつも返す連中が、今日はひとことも口をきかない。その沈黙が、事の重さを物語っていた。ガイはレフを背負い、洞を後にした。せっかくの巣は、半分も奥へ進めないままだった。




 日が傾く頃、クレイは小さな丘の上に出た。


 眼下に、宿場町ロウの灯りがぽつぽつと見えはじめている。街道沿いに宿と酒場が並び、旅人と人足の声が、風に乗って薄く届いてきた。久しぶりに見る、人の暮らしの光だった。


 丘を下りながら、クレイは何とはなしに、来た道を振り返った。


 北の、ずっと向こう。王都の方角だ。『暁のあかつきのつるぎ』は今ごろ、西の巣で狩りでもしている頃だろう。難なく片付けて、たき火を囲んで、誰かの武勇伝でも肴にしているに違いない。


 誰も死なない。いつも通りの夜。


 それでいい、とクレイは思った。自分がいなくなったところで、あの連中はびくともしない。ほら、やっぱり何も変わらないじゃないか。


 少しだけ笑って、クレイはまた丘を下りはじめた。町の灯りが、一歩ごとに近づいてくる。




 その夜、『暁の剣』の野営は静かだった。


 いつもなら勝利の酒で騒がしいはずの火のまわりに、誰も陽気な声を出さない。天幕の中では、レフが死んだように眠っている。新しい回復役の娘が、つきっきりで額の汗を拭っていた。傷は塞がった。だが熱が引かない。血を失いすぎたのだと、娘は何度も繰り返した。


「……朝までに、熱が下がればいいんですけど」


「下がるさ。レフは丈夫だ。今まで、どんな傷だってけろっと治してきた」


「だと、いいんですけど」


「丈夫なんだよ、あいつは。何度だって見てきた」


「はい。……でも、傷を塞ぐのと、血が戻るのは違うんです」


 その言葉に、ガイは何も返せなかった。


 ガイは火の番をしながら、聖剣の柄を意味もなく握っていた。向かいで、魔術師のミラが膝を抱えている。地図を広げる気にもならないらしい。ぽつりと、独り言のように言った。


「……ねえ。こんなこと、前はあった?」


「ないな。少なくとも、俺の覚えてる限りじゃ」


「七年よ。七年も無茶ばっかりして、それで誰ひとり死ななかった」


「ああ。だから今日のは、たまたまだ。運が悪かっただけ」


「そうよね。レフが血まみれで運ばれてくるなんて、初めて見た」


 ミラは火を見つめたまま、ふと、何でもないことのように付け足した。


「クレイがいた頃は、こんなこと無かったわよね」


 ガイは、火に枝を一本くべた。


「やめろよ。あいつの回復が、上級より効くわけないだろ。ただの偶然だ」


「そうね。……そうよね」


「最近、運が悪いだけだ。お前が抜けてから、なんでだか——」


 言いかけて、ガイは口をつぐんだ。


 今、自分が誰に向かって喋ったのか、わからなかった。クレイは、もういない。二日も前に南へ消えた、後方の下働き。武勇伝にも上らない、いてもいなくても同じ男。


 その名前が、なぜ今ここで口をついたのか。ガイ自身にも、説明できなかった。


 火が、ぱちりと爆ぜた。


 なぜ、四千三百回も誰一人死ななかったのか。なぜ、その男が抜けた途端に、こうなったのか。


 答えは、もう出ている。


 まだ気づいていないのは、彼らだけだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は、書いていていちばん「いじわるだなあ」と自分でも思った回でした。クレイは丘の上で北の空を見て、「あいつらは大丈夫だ」と笑うんですよね。同じ夜、その「大丈夫」が音を立てて崩れているとも知らずに。すれ違いって、こういう静かなやつがいちばん効くなと思いながら書いていました。


 最初の犠牲役にレフを選んだのには、ちょっとした裏の理由があります。彼は三年前、崖から落ちても無傷だった男です。誰よりも「死なないこと」に慣れきってしまっていた。だからこそ、初めて血が止まらない瞬間の戸惑いが、いちばん大きくなる。本人が「なんで止まんねえんだ」とこぼすあの一言を、どうしても書きたかったのです。


 そしてミラの「クレイがいた頃は」という何気ない一言。あれは本人たちにとっては、ただの世間話です。でも読んでいる方にとっては、たぶん背筋がひやりとする一言になっているはず。そうなっていたら、作者としては大成功です。


 次回、クレイはついに宿場町ロウへ。新しい出会いが、彼の「いてもいなくても同じ」を、少しずつ揺らしはじめます。


 評価やブックマーク、感想がほんとうに励みになります。よろしければ、クレイの旅にもう少しだけ付き合ってやってください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ