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「お前の回復、いらねえよな」

「お前の回復、別にいらねえよな」


 ガイは笑っていた。悪意のない、いっそ眩しいくらいの笑顔で。たき火の向こうで聖剣を膝に立てかけ、串に刺した肉を頬張りながら、ついでのように言ったのだ。


 クレイは手にした包帯を、巻きかけのまま止めた。


 炎が爆ぜる。誰も、何も言わない。


「だってさ、俺たち、誰も死んでねえだろ。七年だぞ? お前の回復、一度も本気で要ったことねえじゃん」


 そうだな、とクレイは思った。否定する言葉が、ひとつも浮かばなかったからだ。


 たしかに、誰も死んでいない。四千三百回――数えていたのは自分だけだろうが、間違いなく四千三百回の戦闘を、この『暁のあかつきのつるぎ』は一人も欠けずに越えてきた。前衛のガイが無茶をしても。後衛が囲まれても。そのたびにクレイは薬草を煎じ、傷を塞ぎ、包帯を巻いてきた。


 巻いてきた、はずだ。


 ただ――と、クレイは半端に止まった包帯を見下ろす。正直に言えば、自分でもよくわからない。俺の回復が、本当に役に立っていたのか。初級回復だ。教会の見習いでも使える、軽い切り傷を塞ぐ程度の術。大した傷など治せやしない。


 それでも、誰も死ななかった。


 だからきっと、ガイの言う通りなのだ。


「あー、勘違いすんなよ。お前が悪いって話じゃねえ」


 ガイは肉を飲み込み、無邪気に続けた。


「むしろ感謝してる。飯炊いてくれて、傷の手当てしてくれて。けどさ、戦力って意味では……いてもいなくても同じだろ? なあ」


 いてもいなくても、同じ。


 その言葉は、不思議とすとんと胸に落ちた。痛くなかった。怒りも湧かなかった。ただ、ずっと前から知っていた答えを、ようやく誰かが口に出してくれた――そんな感覚だけが残った。


「次の遠征、人数増やすことになってさ。後方は新しいやつに任せる。だから、まあ……」


「わかった」


 クレイは言った。


 ガイが少し、目を見開いた。揉めると思っていたのかもしれない。


「……おう。理解が早くて助かる」


 他のメンバーは誰も顔を上げなかった。前衛のレフは焚き火に枝をくべ、魔術師のミラは地図を畳んでいる。皆、こうなると知っていたのだろう。決まっていたことを、今、伝えられただけだ。


 その地図を畳む手を止めずに、ミラが言った。


「クレイ。出ていく前に、薬の作り置きだけ置いてって。新しい子、まだ調合できないから」


「わかった。棚の二段目に、傷用と熱用で分けてある。傷用は三日でなくなる量だから、早めに次を仕込んでもらって」


「ふうん。覚えとく」


 覚える気がないのは、声でわかった。それでも構わなかった。誰が使うにせよ、薬がないより、あったほうがいい。


「あと、レフの右肩。古い傷が雨の日に痛むはずだから、温湿布の作り方も書いて――」


「そこまではいいって」


 ガイが軽く笑って遮った。


「お前、最後まで世話焼きだな。もう俺たちの怪我の心配は、しなくていいんだよ」


 しなくていい。


 その一言が、今夜聞いた中で、いちばん芯に届いた気がした。


 レフが焚き火に枝を放りながら、こちらも見ずに口を挟む。


「新しい回復役、上級まで使えるらしいぜ。よかったじゃねえか、肩の荷が下りて」


「……ああ。よかった」


 よかった、と自分でも声に出してみた。不思議と、それは嘘には聞こえなかった。本当に、よかったのだと思う。これでもう、誰かが死ぬかもしれないと怯えながら、後ろで湯を沸かす夜は終わるのだ。


 クレイは巻きかけの包帯を、丁寧に巻き直してから片付けた。中途半端なまま放るのは、どうにも性に合わない。




 天幕に戻り、荷物をまとめながら、クレイはぼんやりと昔のことを思い出していた。


 ちょうど一年前。霧の深い谷で、魔狼の群れに囲まれたときのことだ。


 あのとき、ガイは囲みを破ろうと一人で突っ込んだ。そして、横合いから飛びかかった一匹に、喉を食い破られた。


 クレイは見ていた。すぐ後ろにいたから、はっきりと見えた。ガイの首から血が噴いて、聖剣が手から落ちて、膝が崩れて――脈が、遠のいた。


 あの感覚を、クレイは今でも肌で覚えている。誰かの命が、指先のすぐ届くところで、すうっと冷たくなっていく。体温が引いて、世界からその人の輪郭が薄れていく。何度味わっても慣れない、あの冷たさ。


 ああ、死んだ、と思った。


 思った、次の瞬間。


 ガイは何事もなかったように立っていた。首には傷ひとつなく、血の跡すらない。


「っぶねえ! 今の、本気で死んだかと思ったぜ!」


 そう言って笑いながら、聖剣を拾い上げていた。本気で死んだかと思った、と。冗談のつもりだったのだろう。けれどクレイには、それが冗談には聞こえなかった。


 クレイは、震える手で自分の手のひらを見た。何かしたか? 初級回復を唱えた覚えはある。いつもの癖で。だが、初級回復で食い破られた喉が塞がるはずもない。


 きっと、見間違いだ。


 そう結論づけた。喉を食われたように見えたのは、霧と血のせいだ。ガイは規格外に頑丈で、かすり傷だったのを、自分が大げさに受け取っただけ。そうに決まっている。だって、初級回復しか使えない自分が、あんな傷を治せるわけがないのだから。


 ――そういうことが、七年で、何度もあった。


 数えきれないほど。


 そのたびにクレイは「見間違いだ」「運が良かった」「皆が強いからだ」と、自分を納得させてきた。納得するほうが、楽だったから。自分のような者に大それた力があるなんて、考えるだけ恥ずかしい。


 まあいい。終わったことだ。


 クレイは荷を結わえる手に、少し力を込めた。




 持ち物は、すぐにまとまった。


 七年いて、これだけか、と自分でも少し笑えた。擦り切れたローブ。薬研やげん。乾いた薬草の束。包帯の替え。それと、誰のものとも知れない古い治療師の手記。拾われたとき、師匠がくれたものだ。


 持ち物の半分が、他人の傷のための道具だった。


 考えてみれば、この七年、自分のために何かを持ったことがあっただろうか。戦利品の分け前は、いつも「お前は戦ってないから」で回ってこなかった。それで構わないと思っていた。実際、戦ってはいない。後ろで湯を沸かし、薬を煎じ、皆が戻ってくるのを待つだけ。下働きと呼ばれても、文句のつけようがなかった。


 ただ、傷の手当てだけは、誰よりも丁寧にやってきたつもりだ。


 それくらいしか、取り柄がないから。


 天幕を出ると、夜気が肌を刺した。野営地の端まで歩く。誰も見送りには来ない。それでよかった。湿っぽいのは、得意じゃない。


 暗がりの中、見張りに立つレフの背中が見えた。三年前、北の渓谷で、あの男も崖から落ちて、一度「冷たく」なった。クレイはそれも覚えている。覚えているが、もう、考えないことにした。


 運がいい連中だ。きっと、これからも死なないだろう。


 自分がいても、いなくても。


 ほら、やっぱりそうじゃないか。


 クレイは小さく笑って、また歩き出した。振り返らなかった。振り返る理由が、なかった。




 街道に出る頃には、東の空がうっすらと白んでいた。


 行く当てはない。とりあえず南へ。辺境の宿場町まで下りれば、流れの治療師くらいは雇ってもらえるだろう。初級回復でも、薬の調合ならそれなりにできる。食い扶持には困らないはずだ。


 歩きながら、クレイは左手の甲をなんとなく見た。


 薄い痣のような、古い紋様がそこにある。生まれつきのものだ。孤児院でも「呪いの印じゃないか」と気味悪がられたが、痛むわけでも光るわけでもない。ただの痣だと思って、もう十九年付き合っている。


 冷えてきたな、と手をローブの袖に引っ込めた。


「死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる」


 誰にともなく、口の中で呟いた。


 拾われたときに、師匠に言われた言葉だ。雨の路地で震えていた六つの自分に、あの皺だらけの手が薬研を握らせて、こう言った。


「お前さんはな、誰かを死なせない手を持っとる。大事にしろよ」


「……死なせない手って、なに?」


「さあてな。爺にもわからん。だが、いつかお前が一番欲しいときに、ちゃんとわかる」


 お人好しの爺さんの、気休めだったのだろう。実際には初級回復しか身につかなかったし、誰かを劇的に救った覚えもない。


 それでも、その言葉だけは、ずっと自分の真ん中にあった。たぶん、自分にはそれくらいしか、立っている理由がなかったから。


 さて、と空を見上げる。


 白みはじめた朝の下を、ひとり南へ。背中はもう、随分と軽かった。荷物のことではない。七年ぶんの何かが、ようやく肩から下りた気がした。


 ――その頃。


 クレイが去ったことなど露ほども気に留めず、『暁の剣』は次の遠征へと天幕を畳んでいた。向かう先は西の魔獣の巣。これまで通り、難なく片付くはずの、いつもの狩りだ。


 いつも通り。誰も死なない、いつも通りの。


 ただ一つ、いつもと違うことがあるとすれば。


 四千三百回の戦いで、ただの一度も欠けたことのなかった後方の男が、今日はもう、彼らの背中の側にいないということだけだった。


 それが何を意味するのか。


 ガイたちは、まだ誰も――そしてクレイ自身でさえ、気づいていない。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 実はこのお話、いちばん最初に決めたのは「主人公が自分の力を最後まで信じていない」という一点でした。普通の追放ものなら、ここで主人公が「今に見てろ」と燃えるところですよね。でもクレイは怒らない。むしろ「やっぱりそうだよな」と納得して出ていってしまう。書いていて、この子はずいぶん寂しい育ち方をしたんだろうな、と勝手に切なくなりました。


 霧の谷でガイの喉が一瞬で塞がる場面――ここがいちばん書きたかったところです。クレイの目から見ると「見間違い」「運がいい」。でも読者の皆さんは、もう気づいてしまったかもしれません。なぜ、七年で誰も死ななかったのか。その答えは、クレイが抜けた次の戦いで、いやというほど突きつけられます。


 左手の古い痣のことも、どうか頭の隅に置いておいてください。十九年、ただの痣だと思って付き合ってきたあれが、いったい何なのか。物語が進むと、笑えないところまで繋がっていきます。


 次回、クレイのいない『暁の剣』に、初めての夜が訪れます。


 評価やブックマーク、感想をいただけると、次を書く手がとても速くなります。よろしければ、クレイの旅に付き合ってやってください。

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