俺が決める
クレイの左手は、宙にあった。
闇へも、倒れた三人へも、落ちていない。落とせば、どちらかが終わる。それだけが、はっきりしていた。
セルカは剣を手放した形のまま、胸で脈を細く鳴らしている。ティナさんは膝をついたまま、目だけをこちらへ預けていた。ガイは色を失って沈んだきりだ。三人とも、生きても死にもせず、縁の上に浮いている。伸ばせば汲んだものは抜け、伸ばさなければ冷えていく。どちらの手も、三人を戻さない。
「まだ、下ろさぬか」
魔王の声は、急がなかった。三百年待った、と言ったそのままの声だ。
「下ろさない」クレイは言った。
「強情な手だ」闇が、ゆらりと揺れた。「だが、いずれ緩む。腕が保たぬ。指が保たぬ。……お前の中が、もう保たぬ」
言われるまでもなかった。押さえている右手は、とうに湿っている。左の骨の中で、線が奥へ引いていた。押さえていなければ、いま闇へ届いている。
「手を、下ろせ」魔王が言った。「三人とも、静かにしてやれる。痛みも、迷いもなくな。それが、いちばん優しい」
「あんたのは」クレイは言った。「いつも優しいな」
「憎まれる筋合いはない」魔王が返した。「あるべき場所へ、戻すだけだ」
優しい、という言葉が、耳の奥で妙に据わりよく響いた。それが、こわかった。撥ねつける足場が、こちらには一つもない。
「効かなかったのも本当だ」クレイは言った。生死の話になると、語尾が締まる。それだけは、いつもと変わらなかった。「押し返されたのも。手が勝手に体温を吸ったのも。ぜんぶ、あんたの話に嵌まる」
「嵌まるのではない」魔王が言った。「もとの形へ、戻るのだ」
「お前も、気づいていたろう」魔王は続けた。「その手は、初めからお前のものではない」
「……ああ」クレイは、宙の左手へ目を落とした。「気づいてた。ずっと、据わりが悪かった」
甲の線が、皮膚の下で青白く点いている。自分の内側に、初めから自分でないものが座っていたのだとしたら。この誓いは、誰のものだったのか。答えは、まだ出ない。出ないまま、三人は冷えていく。
「クレイ……」
声が、床のほうから上ってきた。
セルカだった。凪ぎの縁で、唇だけが動いている。声には、もうなっていない。だが、その口の形を、クレイは読めた。あんただよ、と最後に言い残した口だ。呼ぼうとして声が届かず、それでも動いている。
ティナさんの目が、まだこちらを見ていた。書かないと決めた手を帯に差したまま、崩れる間際に、あとはあんたが書く番だと言い残した。書く番だと。
二人が、倒れる息で置いていったものが、胸の底に一つずつ落ちてきた。
「あんたは」クレイは、闇へ目を戻した。「この手がどこから来たかを、教えてくれた」
「教えた」魔王が返した。
「どこから来たかで」クレイは続けた。「この手が誰のものか、決まると。……そう言いたいんだろ」
「決まっている」闇が言った。「お前が生まれる前から、決まっていた。血より古い」
クレイは、床に浮いた三人を、順に見た。セルカの厚い手。ティナさんの、他人の生き死にを写してきた指。ガイの、七年こちらを向かなかった顔。この闇のかけらに触れられなかったものが、そこには、たしかにあった。
「違う」クレイは言った。
「違わぬ」
「違う」クレイは、もう一度言った。声が、低く据わっていく。「どこから来たかは、あんたの言うとおりだよ。俺が選んだんじゃない。生まれたとき、勝手に落ちてた。それは、認める」
「ならば」
「けど」クレイは遮った。「どこへ使うかは、別の話だ」
闇が、答えなかった。初めて、答えが遅れた。
「その手は、選ばぬ」やがて、魔王が言った。「選ぶのは、いつも外の誰かだ。追い出したのも、拾ったのも。……お前ではない」
「知ってる」クレイは言った。「ずっと、そうだった。俺の居場所は、外側が決めてきた」
だが、と思う。この一拍だけは、外の誰にも渡さない。
「誰のために使うかは」クレイは言った。「生まれじゃない」
左の手首を押さえていた右手を、そっと放した。
「俺が決める」
押さえの外れた手が、闇のほうへ跳ねた。帰り道が、開く。魔王のかけらが、もとの主のもとへ、まっすぐ引かれていく。
だが、クレイは、その手を闇へは向けなかった。
線が奥へ引く。逆らえば、腕一本では勝てない。前にも、そう知った。だから、逆らうのをやめた。線が開いた帰り道を、逆に使うと決めた。
線は、道だ。かけらを闇へ帰すための、細い一本の道。その道を通れるものが、闇のほうへだけとは限らない。
クレイは、内側の栓を、自分の手で抜いた。七回で打った底の、そのさらに下へ指を突き込む。満ちかけていた残りを掻き出して、闇へ帰る線へ、逆から流し込んだ。水位が、一息に落ちる。落ちたぶんが、道を闇とは逆へ駆けていく。奥へ帰るはずの道が、生きているほうへ傾いた。
「よせ」魔王の声が、初めて尖った。「その道は、こちらへ向くものだ。逆へは、流れぬ」
「流す」クレイは言った。「これは、俺の道だ。使い先は、俺が決めた」
道の先を、クレイは選んだ。奥ではない。縁に浮いた、三つの脈だ。線が、逆流に軋んで鳴いた。だが、道は開いている。クレイの残りが、三人のほうへ渡っていった。
まず、セルカだった。止まりかけた胸へ、道の先が届く。闇が下から蓋をしにきたが、その蓋は戻す力を待って構えていた。逆へ流れる残りは、待ち構えの外を通る。奪う手は、戻す手にしか触れられない。掌が、蓋の縁をすり抜けた。
セルカの胸が、跳ねた。琥珀の目が、光を取り戻して喘ぐ。
次に、ティナさんだった。肩に落ちていた闇が、逆流に押されて剥がれ、息が戻る。最後に、ガイだ。いちばん深く沈んでいた色が、頬のほうへ戻ってくる。喉の奥で、細い音が続けて鳴った。
三つの脈が、縁の上から、生きているほうへ落ちてきた。
「戻したな」魔王が言った。「だが、その身と引き換えにな。……三つ戻して、一つ落ちる。割に合わぬ」
「合ってる」クレイは言った。「三つ生きて、一つ落ちる。……こんな上等な勘定は、七年でなかった」
クレイの内側は、そのぶん、空になった。今日は、越えていい底ではなかった。それを、越えた。この手は、他人にしか効かない。空になった自分を戻す手だけは、どこにもなかった。
膝が、抜けた。床が、下から近づいてくる。腹の底が抜けて、置いていかれると思う——祠でセルカが味わい、迷宮で自分もなぞった、あの落ち方だ。今日は、いちばん深い。戻ってくる当てが、一つもない。
「こわいか」魔王が言った。
「こわい」クレイは言った。「死ぬのは、こわいよ。……だが、間違えてない」
淡々と手当てを続けてきた七年で、初めてそう思った。それでも、三人は生きている。縁の上ではなく、こちら側で、三つの脈が鳴っていた。
線は、まだ甲で光っていた。渡し終えたのに退かず、今度はクレイの残りの残りまでを奥へ引き始める。呼んでいたものが、いよいよ帰る番だと逸っていた。
一人でよかった、と思った。三人が戻ったなら、あとは自分が奥へ落ちるだけだ。それで、勘定は合う。七年ぶんの独りが、静かに閉じる——
手首を、掴まれた。
「行かせないってば」
セルカの声だった。喘ぎながら、それでも言い切っている。喘ぎの残る手が、クレイの左の手首を、下から握り上げていた。奥へ引く線と、逆の向きだ。
「あんた、また奥に行こうとしてる」セルカが言った。「今日はやらせない」
「引かれてる」クレイは、かろうじて声にした。「線が。……いつもより、深い」
「知ってる」セルカが言った。「引き戻すって、言ったろ」
「今日は、無理だ」クレイは言った。「深すぎる。あんた一人じゃ、留まらない」
「一人じゃないよ」
別の手が、右の手首に添えられた。ティナさんだった。帯の手帳へは手を伸ばさず、書く手を、いまクレイの手首へ回している。感情が動くと、この人の言葉は短くなる。その短い声で、ティナさんは言った。
「分けるって、言った」
「分けるって」クレイは言った。「なにを」
「その引きを、だ」ティナさんが言った。線を睨むように、目を細めている。「一本で、あんた一人を持っていく気だろう。……一本なら、三筋に割ればいい」
三つ目の手が、来た。ガイだ。まだ色の戻りきらない顔で、クレイの手の甲へ、大きな手のひらを重ねた。命じる手ではなかった。乞う手でもなかった。ただ、横に並ぶ手だった。
「横だと、言ったろ」ガイが言った。「約束は、守る。……こういうときのために、来た」
三つの手が、クレイの手首の上で、重なった。
奥へ引いていた一本の線が、そこで、たわんだ。割れていく。奥へ渡ろうとする力が、三筋に分かれた。一筋はセルカへ、一筋はティナさんへ、一筋はガイへ。三人が、それぞれの掌で、そのひと筋ずつを引き受ける。
「よせ」クレイは言った。「あんたたち、戻ったばかりだ。……分ければ、こんどはあんたたちが減る」
「減るよ」セルカが言った。「三人でな。あんた一人で全部背負うよりは、ずっといい」
「七年ぶんの借りだ」ガイが言った。「返させろ。……ひと筋くらい、軽い」
根こそぎ抜けるはずだったものが、三つに分かれて、めいめいの手のひらへ散った。一人ぶんなら、留められない。三人ぶんなら、めいめいが持つのは、そのわずかだ。誰も、それで死にはしない。
「これが」ティナさんが言った。「代償を分ける、ってことだ」
「言ったろ」セルカが言った。「あんた一人のものには、させないって」
線が、宙で震えていた。奥へ帰ろうとして、帰れない。三つの手が、めいめいのひと筋を握って、放さないからだ。道は、まだ生きているほうへ傾いたままだ。かけらは、もとの主のもとへ帰る道を、自分自身の逆流に塞がれていた。
「もどせ」魔王が言った。声が、乱れていた。「その道は、こちらのものだ。かけらは、帰る。……三百年、そう定まっていた」
「定まってない」クレイは言った。抜けかけた声を、それでも据えた。「いま、変えた」
闇が、道を手繰ろうとした。奪う手が、かけらを引き寄せにかかる。だが、引き寄せる先には、もう戻す力がない。クレイは、突き合わせるのをやめている。突き合わせなければ、消し合えない。奪う手は、空を掴んだ。掴み損ねたその手が、たわんだ道の逆流に飲まれていく。
闇が、初めて、後ろへ退いた。
「写しは」魔王の声が、細くなった。「本物を、破れぬ。……ただ、消え合う」
「消し合うのは」ティナさんが言った。手首を握ったまま、闇のほうへ目を上げる。「戻す手と奪う手が、向き合ったときだ。……こいつは、向き合うのをやめた。あんたの道を、逆に使った。あんたが引くほど、逆流はあんたの側へ届く」
「本物を破ったんじゃない」ティナさんが続けた。「あんたが、自分で開けた道に飲まれてる」
闇が、ほどけ始めた。天井へ立てていた背丈が、逆流の道に沿って崩れていく。隅へ吸われていた温みが、その跡へ戻ってくる。北を端から端まで冷やしていた冷たさの中心が、自分の帰り道を逆にたどって痩せていくのが、クレイの手に読めた。
「かけらを」魔王が言った。もう、澄んでいなかった。「戻せ。……お前も、こちら側だ。帰れば、楽に——」
「楽になんか、ならないよ」クレイは言った。「七年、独りで押し返してきた。礼もない、名もない。……あんたは、そう言った。たしかに、独りだった。だが、いまは違う」
「押し返すのは、やめた」クレイは続けた。「やめて、こっちへ流した。……次に押し返すのは、あんたの番だ」
闇が、答えなかった。答える形が、もう残っていなかった。
クレイは、宙の左手を、ゆっくり引き寄せた。三つの手が、それを支える。線の、奥を向く力は、もうない。呼んでいたものが、呼ぶのをやめた。かけらは、帰る先を失って、クレイの手の甲で、静かに沈んでいった。
「死なせるつもりはない」
クレイは言った。抜けきった内側から、その言葉を、探して拾い上げた。
魔王城で、初めて言い切れずにつかえた言葉だ。決めてきたのは俺だ、だが決める手が俺のものでないなら、その誓いは誰の誓いだ——そう問うたきり、答えの出なかった言葉だ。
いま、答えが出ていた。
誓いが誰のものかは、手がどこから来たかで決まるのではない。誰のために使うかを決めた、その決めごとが、誓いの主を決める。決めたのは、俺だ。だから、この誓いは、俺のものだ。
「それだけは」クレイは言った。声が、掠れていく。「昔から、決めてる」
言い終えて、膝が抜けた。だが、床は近づいてこない。三つの手が、支えている。セルカが肩を入れ、ティナさんが背へ腕を回し、ガイが腕を取っていた。落ちる先が、地面ではなく三人の腕であるのは——二度目だ。一度目は、セルカの背だった。今日は、三人がかりだった。
「あんたが決めたんだろ」セルカが言った。声が、湿っている。「誰のために使うか。……あたしらのために、使ったんだよ。だったら、払うぶんくらい黙って払わせろよ」
クレイは、答えられなかった。あたしらのために、という言葉が、空いた内側へ、ゆっくり落ちてくる。
「北が」ガイが、闇の跡を見上げた。「静かに、なった気がするな」
「なってきてる」クレイは、抜けた声で言った。「端のほうから、冷えてたのが退いてる。……まだ、途中だ。戻すのは、これからだ」
ティナさんが、帯の手帳へ手を伸ばした。だが、開きかけて、やめた。
「書かないの」セルカが言った。
「あとでいい」ティナさんが言った。「いまは、こっちを持ってたい」
クレイの手首を握った手を、ティナさんは放さなかった。三筋に分けた引きは、まだ細く、めいめいの掌に残っている。分けたものは、すぐには消えない。だから、放せなかった。
クレイは、三人に支えられたまま、空の内側で、三つの脈を数えた。右にセルカ、左にティナさん、背にガイ。自分のを入れれば、四つとも鳴っている。踏み込んだとき、この手は入る隙が一つもないと読んだ。いまは、生きている音で、隙という隙が埋まっていた。
「行こう」クレイは言った。声が、薄い。「まだ、北が残ってる」
「担ぐよ」セルカが言った。「今日も、あたしが」
「重いぞ」
「軽いよ」セルカが言った。それから、少し黙って、言い直した。「……いや、今日は重くていい。減ったぶん、あたしらで背負ってるからな。軽かったら、承知しないよ」
クレイは、目を閉じた。生まれがどこであれ、この手を誰のために使うかを、今日、自分で決めた。決めた手を、三人が、めいめいのぶんだけ持っている。それで、もう、独りではなかった。
闇の跡が、広間の底で、ふつりと途切れた。あとには、四つの息と、消えかけの灯だけが残った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第五アーク、魔王城編の三話目、俺が決める、です。この物語のいちばん高いところに、ようやく登りきりました。
前の二話で、クレイは左手の出どころを教えられ、その出どころにいちばん残酷なかたちで牙を剥かれました。戻す手と奪う手は根が一つ、触れ合えば消し合う。助けようと手を伸ばすほど、仲間は縁の底へ沈んでいく。四千三百回外さなかった手が、いちばん助けたい相手に届かない。あの地獄を、この回で、ようやく反対から書けました。
答えは、力比べではありませんでした。魔王のかけらは、もとの主のもとへ帰りたがっている。その帰り道を、クレイは逆に使います。奪う手は、戻す手にしか触れられない。だったら、向き合うのをやめて、道を逆へ流せばいい。誰のために使うかは、生まれじゃない、俺が決める——一話からずっと、居場所も行き先も自分の外側で決められてきた人が、いちばん決められないはずのものを、自分で決めます。出どころで手の意味が決まるなら、彼は魔王のものです。でも、使い先を決めるのは彼だ。だから、彼は彼のものになる。四十二話ぶん積んできた「自分で決める」を、ここに置きました。
もう一つ、どうしても書きたかったのが、代償を分ける、でした。クレイは、三人を戻して自分が独りで奥へ落ちるつもりでした。七年ぶんの独りを、静かに閉じるつもりで。それを、三人が許しません。一本で持っていく気だろう、三筋に割ればいい——三十二話でセルカが手首を掴んで返した言葉、三十三話で交わした「あんた一人のものには、させない」という約束が、いちばん深いところで回収されます。独りで死ぬ覚悟は、独りにさせない約束に、返り討ちにあうんです。
次回、最終話。魔王討伐のあとの、静かな余韻を書きます。英雄になんか、なりたくない人の、いちばん似合う場所へ。どうか、最後まで見届けてやってください。




