また、手を伸ばす
北が、静まっていく。
崩れた広間を出るころには、空がふたつぶん高くなっていた。丸一日以上、気を失っていたらしい。
足取りは、まだ重い。指先に、力が入りきらない。
地平にわだかまっていた冷たさが、端のほうから薄れていくのをクレイは歩きながら手のひらで追った。
生きているものの気配が、少しずつ戻ってくる。ひと晩で凍ったという遠い村の井戸に、また水の温みが差しはじめているのが遠く読めた。
「死んだものが」ガイが、地平へ目をやった。「もう、歩いていないな」
「歩かない」
クレイは、崩れかけた道の先を見た。
「起きて歩いていたものは道で崩れた。……もう一度死ねる。それだけのことが、北ではずっと叶わなかった」
埋めそこねた者が、埋められる。戻ってこないはずの者が、戻ってこないでいてくれる。
死は巻き戻せぬ一線だと、辺境の老婆が唱えていた。その教えが、北でようやく元の場所へ返っていた。
ティナさんが帯の手帳を開き、白いままの一頁を見て、また閉じた。
「書かないのか」セルカが訊いた。
「書くことが消えた。死は戻らない。……それが当たり前に戻っただけだ。当たり前になったものに、名前は要らない」
名前の無いものに名前を付けるのが自分の仕事だと、この人はずっと言ってきた。
付け終わったものは、手帳から手が離れる。クレイの左手の甲で、線はもう静かに沈んでいた。
呼ぶものを失い、帰る先も失い、ただの古い痣のようにそこにあった。
孤児院で気味悪がられ、十九年ものあいだ痛みもせず光りもしなかったあの痣に戻っていた。
「じゃあ、これからは」セルカが、剣を担ぎ直した。「暇になるってこと」
「暇なもんか」ティナさんが返した。「北は、まだ途中だ。当たり前を当たり前のままにしておくのにも手がいる」
「そうだな」クレイは、南の道へ目を向けた。「まだ途中だ。……だが今日は、ひとつ済んだ」
「ひとつな」セルカが八重歯を見せた。「上等じゃん」
どこから来た手か。もう、確かめる相手も消えた。それでも手は、まだ動く。
冷えていくものの前で、この手だけは勝手に伸びていく癖が抜けなかった。
南へ下る道の三日目、王都の使いが馬で追いついてきた。
息を切らした若い騎士だった。鞍から降りるのももどかしそうに、クレイの前に膝をつく。
「死人返しの手だと聞いた。北を鎮めた。……陛下が、じきじきにお会いになりたいと。勲功に報いたいと」
「や、別に」クレイは首を振った。「鎮めたのは、俺一人じゃない」
「勇者の称号を。王都に席を。国を挙げて迎える。あなたを、英雄として」
英雄という言葉が、道の上で不釣り合いに大きく聞こえた。クレイは、それを口の中で一度転がしてみた。舌に、なじまなかった。
「いらない。悪いけど」
使いが、顔を上げた。断られると思っていなかった目だ。
「なぜ」
「英雄っていうのは外側が決める席だ。追い出すのも拾うのもいつも外側だった。七年、俺の居場所は俺の外で決まってきた。……この間やっと自分で取り返した」
だから、と思う。手渡すわけにはいかない。称号でも、勲功でも。
座らされた席は、いつかまた外から取り上げられる。取り上げられて、初めて自分の外にあったと知る。それは、もうたくさんだった。
「それに」クレイは、一拍置いて続けた。「英雄ってのは、みんなを救う手のことだろう。俺の手は三つで止まる。四つ目は戻らない。拾えなかった子がいる。名前も覚えてる。その一つを無かったことにして座る席は俺には高すぎる」
「その席は」ガイが、口を挟んだ。「軽そうに見えて重い」
クレイは、ガイを見た。かつて、その席に座っていた男だ。
「俺は七年それに座った。みんなに讃えられていちばん強いつもりでいた。……そのあいだ、いちばん近くで俺を生かした手を一度も見なかった。英雄の椅子ってのはそういう高さだ。近くが見えなくなる」
使いは、ガイとクレイを見比べて、言葉を継げずにいた。
「聞いてた」セルカが八重歯を見せた。「この人、勇者サマにならないってさ。せっかくの称号がもったいないねえ」
「もったいなくない」
「わかってるよ」セルカが笑う。「あんたが王都の椅子に座ってるとこ、あたしも見たくないもん。似合わなすぎる」
ティナさんは、手帳を開かなかった。ただ、使いへ向かって静かに告げた。
「この人の手柄は、私が書いてある。……王都の帳面には要らない」
使いはしばらく食い下がったが、やがて諦めて馬首を返した。称号は宙に浮いたまま、誰にも受け取られずに北へ帰っていった。
クレイはそれを見送って、また南を向いた。背中が、軽かった。荷のことではない。座らずに済んだ、という軽さだった。
追放された朝に感じた軽さと、よく似ていた。だがあのときの軽さには、どこにも行き先がなかった。今日のには、行く先があった。
冬がひとつ明けて、クレイたちは辺境の宿場町ロウに戻っていた。
追放された朝に、南を目指したあの町だ。赤鹿亭の女将マーサは戸口にクレイの顔を見るなり湯気の立つ椀を持ったまましばらく黙って、それから「遅い」とだけ言った。
「二度と来ないかと思ったよ。北で、大層なことをしてきたって噂だけど」
「や、別に。噂は大きくなる」
「そうかい」マーサが笑って、椀を押しつけてくる。「なら大きくなる前に、飯を食いな。痩せすぎだ」
「女将」クレイは、椀を受け取った。「まだ、あの隅は空いてるか。薬研を置く場所」
「ずっと空けてあった」マーサは、そっぽを向いた。「誰も埋めやしないからね。……早く、埋めな」
常駐の治療師の口は、まだ空いていた。クレイは、また赤鹿亭の一階の隅に薬研を置いた。乾いた薬草を吊るし、蜜蝋を溶かして軟膏を練る。
名指しで訪ねてくる客を診て、銅貨を半分だけ受け取る。
七年前に後ろで湯を沸かしていた頃と、手のすることはそう変わらなかった。
ただ、隣に、二人いた。
セルカは、宿場の外れで駆け出しの剣士に稽古をつけていた。線の内側でいちばん前に立て、というのが口癖だった。
教わる子たちには意味が通じていなかったが、セルカは気にしなかった。
夕方になると赤鹿亭へ帰ってきて、クレイの向かいへ腰を落とす。
その日、誰にどこを教えたかを頼まれもしないのに数え上げた。数えるのが、この頃のセルカの癖になっていた。
「なあ」ある晩、干し肉を裂きながらセルカが訊いた。「あんた、王都の椅子はほんとに惜しくなかったの」
「なった気もする」クレイは薬研の手を止めた。「一瞬な」
「一瞬かよ」
「一瞬だ。……座ったら、あんたらと同じ飯を食えなくなる。そのほうが惜しい」
セルカが、干し肉を裂く手を止めた。それから耳のあたりを掻いて、怒ったように早口になる。
「……そういうの、面と向かって言うなよ。調子くるうから」
「訊いたのは、そっちだ」
「訊いてない。惜しくなかったのって、それだけ」
ティナさんが、手帳から目を上げずに口を挟んだ。
「惜しくなかった、と本人が言ってる。……書いておく」
「だから、そういうのは書かなくていいって」
ティナさんは、書いた。セルカが、椅子を鳴らしてそっぽを向いた。クレイは、薬研をまた挽きはじめた。
他愛のない、明日も繰り返されるだろうやりとりだった。七年、後ろの席では一度も交わされなかった種類の。
ティナさんは、相変わらず手帳を離さなかった。だが、書きつけるものが変わっていた。異常でも、取りこぼしでもない。
今日は誰が熱を出した、どの薬が切れそうだ、明日は誰の抜糸だ——そんな、明日も続いていくものばかりを細かい字で並べていた。
一度、クレイは訊いたことがある。
「あの、空いてた枠は」
紋の出どころを書くために、ずっと空けてあった枠のことだ。
「埋めた。あなたが自分の足でそこへ着いたから。……出どころは書いた。だがそれだけだ。出どころが手の値打ちを決めるわけじゃない。そこは、余白のままにしてある」
どこから来た手でも、誰のために使うかは別の話だ。ティナさんの余白は、そう言っていた。
ガイからは、時々、便りが届いた。
レフの熱は下がり、二人は王都の召集の列で北の始末に回っているらしかった。死んで歩くものの斬り方も少しは覚えた、と不器用な字で書いてある。
手紙のしまいには、北で交わした約束がいつも一行だけ添えてあった。横で会おう、と。
クレイはその一行を読むたびに返事を少し迷い、たいてい「こっちは、変わりない」とだけ書いて送った。変わりないのが、いちばんいい報せだと思ったからだ。
夜、赤鹿亭の隅で薬草を刻んでいると酒場のざわめきが背中を温めた。セルカが誰かと笑い、ティナさんがその横で手帳をつけている。
七年前、後ろで湯を沸かしていた夜と姿勢はよく似ていた。だがあの頃の居ても居なくても同じだという冷えは、もうどこにもなかった。
居ないと困ると、マーサに言われる。減るなら見ていると、セルカに言われる。書いておくと、ティナさんに言われる。手は、同じ手だ。ただ、その手を待つ顔がいくつも増えていた。
市の日の広場は、荷馬車と売り声でいっぱいだった。
クレイが軟膏の壺を抱えてゴーシュの店へ向かう途中、手のひらの奥がふいに冷えた。誰かの命が、引いていく。姿を見るより先に、足が止まっていた。
積み上げた材木が、崩れていた。下敷きになった若い荷運びの脈が、遠のいていく。人垣が悲鳴を上げ、誰かが「もう、だめだ」と洩らした。
クレイは、人をかき分けて膝をついた。
脈の遠のく先へ、手を伸ばす。……間に合う。手のひらで引いていったものの端を掴んで、こちらへ引き戻す。
掴んだ重みは、若い男のものだ。渡すぶんは自分のどこか浅いところから、静かに退いていった。前は、これに気づきもしなかった。今は、一匙ぶん退くのが目で見るように分かる。分かって、なお手を止めない。
若い男が、咳き込んで目を開けた。材木の下から引き出された脚には、手当てのいる傷が残っている。だが、脈は戻っていた。人垣が、どよめいた。
「あんた、いったい……神さまの手か」
男の連れが、震える手を握ってくる。
「や、別に」クレイは、脚のほうへ手を移した。「脚は折れてる。添え木がいる。……礼は、治ってからでいい」
添え木を当てながら、クレイは、ふと師匠の言葉を思い出していた。
——お前さんはな、誰かを死なせない手を持っとる。いつかお前が一番欲しいときに、ちゃんとわかる。
六つのあの日は、意味がわからなかった。この手がどこから来たのかも、長いあいだわからなかった。
魔王のかけらだと教えられ、そのかけらにいちばん大事な相手を奪われかけもした。だが、どこから来た手でも、もうどうでもよかった。
この手を、誰のために使うか。それだけを、自分で決めた。決めた手で、いま目の前の脈を引き戻している。
師匠の言った一番欲しいときは、たぶんこういう日のことだった。ひとつの名も無い脈を、まだこちら側に留めておけるこういう日のことだ。
添え木を縛り終えて、クレイは遠のきかけた脈がすっかり間を詰めたのを確かめた。
広場の向こうから、セルカが駆けてくるのが見えた。その後ろを、手帳を開いたティナさんがいつもの速さで歩いてくる。二人が、来る。待っている顔の、いちばん近い二つだった。
「クレイ」セルカの声が、人垣の外から飛んできた。「また、勝手に手ぇ伸ばしてさ」
「伸ばした」
「数えとくよ。何回ぶん、自分で決めたか」
「数えなくていい」
「数える。そういう約束だろ」
クレイは、膝をついたまま、次の傷のために、もう一度、手を伸ばした。
辺境の、名も無いような広場で。また、誰かの傷へ手を伸ばす。借りものだった言葉が、いつのまにか借りものではなくなっていた。
「死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる」
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。無能と追放された回復術士の物語、これにて完結です。四十六話、クレイの旅に付き合ってくださって、心から御礼を申し上げます。
最終話は、あえて静かに書きました。前の話で、この物語のいちばん高いところまで登りきってしまったので、あとは、ゆっくり降りていく話にしたかったのです。魔王を退けたクレイに、王都は英雄の称号を差し出します。でも彼は、座りません。英雄というのは、外側が決める席だから。追い出したのも拾おうとしたのも、いつも彼の外側でした。だから彼は、いちばん外に決められたくないものだけは、自分で決める。称号を断って、辺境の治療師に戻る——それが、この人にいちばん似合う場所だと思いました。
一話で、六つのクレイに師匠が言いました。お前は誰かを死なせない手を持っている、いつか一番欲しいときにちゃんとわかる、と。あの言葉が、最終話でようやく彼のものになります。死なせるつもりはない、という誓いは、ずっと師匠からの借りものでした。四十六話かけて、彼はそれを自分の言葉にしました。生まれがどこであれ、この手を誰のために使うかを、自分で決めたからです。
この物語は、いちばん最初に、主人公が最後まで自分の力を信じない、という一点から始まりました。怒りで燃えるのではなく、静かに納得して出ていってしまう寂しい子が、名前のつく場所と、隣に立つ二人と、横で会おうと言える相手を得て、最後に自分の手を自分のものにする。そこまで書けて、作者はとても幸せです。
ティナ、セルカ、ガイ、そして数えきれない傷を負って生き延びた人たち。この世界のどこかで、クレイは今日も誰かの脈へ手を伸ばしているはずです。長いあいだ、本当にありがとうございました。またどこかの物語で、お会いできますように。




