巻き戻すべきではない
ガイの膝が、石の床についた。
闇の腕は、その肩から離れない。触れた一点を起点に、ガイの色が抜けていく。日に灼けた頬が、内側から蝋に変わっていくようだった。喉の奥で、細い音が一度だけ鳴った。それきり、声はなかった。
クレイの左手は、まだ宙で止まっていた。
汲め、と自分へ命じる。七年、この手はその一語で動いてきた。だが今日は、命じたさきで、手が半分だけ他人のものになっている。俺が伸ばしているのか。それとも線のほうが、闇へ帰る道すがら、ついでに動いているのか。境目が、掌の中で溶けていた。
それでも、クレイは手を伸ばした。ガイの死の縁へ、指を沈める。
届いた。掴めた。いつもの底冷えが、指の腹に触れる。
汲み上げた。
その汲み上げたものが、掌の底で霧になった。
指のあいだから、汲んだぶんがそっくり向こうへ抜けていく。堰き止めようと握り込んでも、握った内側から冷たさが染み出して、闇のほうへ流れた。汲めば汲むほど、掌が薄くなる。戻したはずのガイの色は、戻らなかった。
「無駄だ」
声がした。澄んで、急がない声だ。広間の冷たさが、そのまま言葉になったような。
「お前が戻すぶんを、私が引く。同じだけ、寸分たがわず」魔王は言った。「戻す手と奪う手は、根が一つだ。触れ合えば、消し合う」
「じゃあ」クレイは、掴んだ手を離せぬまま返した。「このまま掴んでたら、どうなる」
「止まる。生きも死にもせぬまま、縁で止まる」魔王が言った。「お前の手が離れれば、沈む。……そう長くは、保つまい」
「なら、離さない」
「好きにしろ」闇が、わずかに前へ傾いだ。「一人ぶんを、その手で抱えていればいい。……あとの二人は、どうする」
クレイは、答えられなかった。ガイの縁を掴んだこの手を離せば、ガイが沈む。掴んだままでは、あとの二人へ、もう一方の手しか残らない。
「下がってろ」クレイは、後ろへ声を投げた。「際の内側だ。前へ、出るな」
返事は、なかった。
クレイは、ガイの縁から手を離せなかった。
離せば、ガイはそのまま沈む。だが掴んでいても、汲んだそばから抜けていく。留めることも、退くこともできない。掌のなかで、二つの手が同じ一点を引き合って、そこだけが凪いでいた。ガイの脈は、生きも死にもせず、その凪ぎの底に浮いている。
「これが」クレイは、歯の裏で訊いた。「あんたの言う、本来か」
「本来だ」魔王が返した。「死は、あるべき場所にある。お前が引き剥がすまではな」
闇が、ゆっくりと膨れた。天井のほうへ、背丈ぶんの冷たさが伸び上がる。広間の温みが、そのひとところへ吸われていくのを、クレイは肌で読んだ。
迷宮で魔族に汲んだ死を押し戻されたときは、まだ底の深さ比べだった。深く手を突けば、届いた。だが、これは比べですらない。汲んだ端から無になる。相手の底がどうこうではない。同じものどうしが触れて、たがいを打ち消している。
「同じもの、なのか」クレイは訊いた。「俺の手と、あんたのが」
「写しと、本物だ」魔王が続けた。「写しは、本物を破れぬ。ただ、消え合う。……お前がいくら戻しても、私が引けば無に帰る。四千三百回のあいだ、私はここにいなかった。それだけのことだ」
その言葉が、静かに芯を食った。七年、誰にも打ち消されなかったのは、腕がよかったからではない。ただ、打ち消す相手が、この城の底で眠っていた。それだけのことだった。
クレイの左手の甲で、線が、これまでにない動きをした。
迷宮の底では、線は下の奥を指した。北の村では、北を指した。城の道では、いちばん下を指した。どれも、向きだった。だが、いまは違う。線が皮膚から起き上がって、剥がれようとしている。掌の肉から自分を引き抜いて、闇のほうへ、帰ろうとしていた。
右手で、左の手首を強く握った。握らなければ、手ごと持っていかれる。骨の中で、線が引く。帰りたがっている。もとの主の、すぐそばで。
「離してやれ」魔王が言った。「その手は、私のものだ。長く、他人の懐で冷えていた。もう、帰してやっていい頃だ」
「他人じゃない」クレイの声が掠れた。「七年、俺が動かしてきた手だ」
「動かしてきたと思っていただけだ」魔王は言い添えた。「お前は、運んでいた。線の乗った手を、死にかけのそばまで。荷を運ぶ馬に、積荷は選べぬ」
その一言が、いちばん深く刺さった。
運んでいただけだ——それは、クレイが自分でも、迷宮の窪みで思ったことだった。とうに底に沈んでいた疑いを、この闇は正しく掬い上げてくる。
だとしたら、四千三百回は、なんだった。
この手が拾ってきた息の、その一つずつが。誰かの脈を、指の腹で引き戻したあの手ごたえが。ぜんぶ、俺のものではなかったのか。ただ、こいつが帰る道の途中で、こぼれた実を拾わされていただけなのか。
「なら、なぜだ」クレイは、闇へ吐いた。「あんたのかけらなら、なぜ人を生かすほうへ動いた」
「幼いからだ」魔王が返した。「奪うことを、まだ知らぬ。……だが、いつまでも幼くはいられぬ。ここへ来た。もう、じき憶える」
「七年、間違い続けてきたと」クレイは訊いた。「あんたは、そう言いたいのか」
「間違いとは、言わぬ」闇が、ゆらりと答えた。「幼かった。それだけだ。……育てば、正しくなる」
「死は」魔王は続けた。「巻き戻すべきではない。……お前も、いずれそう思う。かけらが、育てばな」
「俺は、育たない」
「もう、始まっている」魔王の声が、ひたひたと寄った。「その線を、見ろ。私のほうへ、帰りたがっているだろう。……お前が、押さえているだけだ」
「押さえてる、うちは」クレイは言った。「まだ、俺のだ」
「いつまで、押さえていられる」魔王が返した。「その手は、いずれ緩む。眠っても、緩む。……そのとき、帰る」
押さえている右手が、じっとり湿っていた。線は、たしかに帰りたがっている。押さえていなければ、いま闇へ届いている。魔王の言うことは、一つも、外れていなかった。それが、なによりこたえた。
「疲れたろう」
その声が、ふいに和らいだ。クレイは、思わず顔を上げた。
「七年だ」魔王は続けた。「誰にも気づかれず、独りで押し返してきた。礼も、ない。名も、ない。ただ、減ってきた。もう、押し返さなくていい。手を、下ろせ。楽になる」
楽になる、という言葉が、胸の奥で、思いのほか静かに響いた。
それが、こわかった。撥ねつけられなかった。七年、押し返してきた。減ると知って、なお使うと決めた。その決めごとの根が、闇の一言で、するりとゆるむ。ゆるんだ場所から、疲れが滲んでくる。ずっと、認めずにきた疲れだった。
「手を、下ろせば」クレイは、自分の掌へ落とすように訊いた。「ガイも、楽になるのか」
「なる」魔王が答えた。「みな、静かになる。痛みも、迷いもなくな」
その返事に、うなずきかけた自分がいた。クレイは、ぞっとして、右手の押さえをさらに強めた。誘いへ、半歩、踏み出しかけていた。
「クレイ」
セルカの声だった。
振り向くと、セルカが両手剣を下段に構えて、闇と自分のあいだに立っていた。ガイが崩れたのを見て、前へ出たのだ。下がれと言った、その声は、届いていなかったらしい。
「聞くな」セルカは、闇を睨んだまま切っ先を動かさない。「そいつの言うこと、いちいち聞くな。あんたの手が減ってきたのは、あたしが無茶したからだろ。あんたのせいでも、その線のせいでもない」
「そいつには、剣が立たない」
「知ってる」セルカは切っ先を上げた。「立たなくても、前は立つ。それが、あたしの役だ。あんたが独りで沈むとこ、見張ってる。前も、そう言った」
「頼むから」クレイは言った。「下がってくれ」
「聞かないよ」セルカは、こちらを見もしない。「あんたのその頼み方、昔から嫌いなんだ」
闇が、伸びた。
セルカは、剣で受けようとした。だが、闇に刃は立たない。前にも、そうだった。切っ先が、霧を貫くように空を切る。その空いた懐へ、闇の端が滑り込んだ。
セルカの背が、内側から一度だけ、大きく波打った。両手剣が、指を離れて石の床を打つ。甲高い音が、広間の隅まで転がって、痩せて消えた。
「セルカ」
クレイは、そちらへ手を伸ばした。掴める。目が合っている。声も届く。際の内側だ。いつもなら、届く。
汲んだ。
汲んだものが、また霧になった。
闇が、下から引く。クレイが引き上げた脈を、汲んだそばから、闇が同じ深さへ連れ戻す。二つの力がセルカの内側で凪いで、そこだけが、時を止めたように動かなくなった。セルカは、生きても死にもせず、その凪ぎの底に浮いていた。
「クレイ……」
セルカの唇が、動いた。声は、もう掠れきっている。
「あんたが」声が、途切れた。「あんたじゃなく、なりそうに……なったら。呼ぶって、言った」
「クレイ」セルカは、その名を呼んだ。「クレイ。……あんただよ。線じゃ、ない」
言い終えて、セルカの目が、半分閉じた。凪ぎの底で、脈が、細く鳴っている。止まってはいない。だが、戻りもしない。
「クレイ」
ティナさんの声は、低く、短かった。感情が動くと、この人の言葉は短くなる。
ティナさんは、灯を石の上に置いて、両手を空けていた。手帳は、帯に差したままだ。書く手は、動いていない。
「魔王」ティナさんは、闇のほうへ言った。「あんたは、出どころしか言ってない。この男が、その手で何をしてきたかは一言も」
闇は、答えなかった。ティナさんの言葉を、意にも介さぬようだった。
「クレイ」ティナさんは、こちらへ向き直った。「一つだけ、渡しておく」
闇が、ティナさんのほうへ、いつのまにか腕を回していた。ティナさんは、逃げなかった。逃げれば、言葉が途切れると思ったのかもしれない。
「その線が、あんたを運んできたんだとしても」ティナさんは言った。「運ばれた先で手を止めたのは、あんただ。迷宮で、届く相手に伸ばさなかった。あれは、線じゃない。あんたが、決めた」
闇が、ティナさんの肩を捉えた。
ティナさんの膝が、傾いだ。それでも、帯の手帳へは手を伸ばさなかった。書かない、と決めた手だった。
「あとは」崩れながら、ティナさんは声を落とした。「あんたが……書く番だ」
ティナさんが、石の上へ膝をついた。灯の火が、その横で、細く揺れた。
三人が、倒れていた。
ガイは、色を失くしたまま動かない。セルカは、凪ぎの底で脈だけを鳴らしている。ティナさんは、膝をついた姿勢のまま、こちらを見ていた。目だけが、まだ言葉の続きを預けるように、クレイへ向いている。
クレイの左手は、まだ闇と自分のあいだで、宙に止まっていた。
どこへ伸ばしても、汲んだそばから霧になる。戻せば戻すほど、二つの手が消し合って、倒れた三人は、生きも死にもせぬ凪ぎの底へ沈んでいく。伸ばせば、無駄になる。伸ばさなければ、そのまま冷えていく。
「戻せば、消える」クレイは、闇へ言った。「戻さなければ、沈む。……あんたは、俺に何を選ばせたい」
「選ばぬことを」魔王が返した。「手を、下ろせ。それだけでいい」
「下ろさない」クレイは言った。「まだ」
「まだ、か」闇が、笑うように揺れた。「その一拍を、待とう。三百年、待った。……いまさら、惜しくもない」
「わかったろう」魔王は続けた。「戻すことは、こういうことだ。引き剥がすたびに、深くする。お前の手は初めから、こちら側の手だ。戻すべきでは、なかったのだ」
戻すべきでは、なかった。
その一言が、七年ぶんの手ごたえを、根こそぎ攫っていこうとする。
クレイは、いつもの一言を、胸の内に探した。
死なせるつもりはない。それだけは、昔から決めてる。困難のたび、この手へ言い聞かせてきた言葉だ。今日も、それを並べようとした。
だが、途中で、言葉の形が変わった。
昔から決めてきた——本当に、俺が決めたのか。決める手が俺のものでないのなら。ならば、いま、この手を動かすか下ろすかを決めるのは、いったい、誰だ。
答えは、出なかった。
「あんたの、言うとおりかもな」クレイは、掠れた声で漏らした。「戻すのが、間違いなら。……七年ぶん、俺は」
言いかけて、やめた。その先を口にすれば、ほんとうに床が抜ける気がした。
左手は、闇へ帰りたがって、骨の中で引いている。右手は、それを押さえている。三人は、凪ぎの底で冷えていく。魔王は、待っていた。急ぐ理由の、何もない顔で。
「おいで」闇が、もう一度クレイを呼んだ。「戻すのは、やめにしよう。そうすれば、この者たちも正しい場所へ帰れる」
クレイは、動けなかった。
闇の言うとおり、この手が初めからこちら側のものなら、伸ばすこと自体が、間違いなのかもしれない。七年ぶん、ずっと。
それでも。
凪ぎの底で、セルカの脈が、細く鳴っている。ティナさんの目が、まだこちらを見ている。ガイの喉が、一度、浅く動いた。三人とも、まだ、消えてはいない。
クレイの左手は、宙にあった。闇へも、三人へも、まだ、どちらへも落ちていない。
その手を、どこへ置くか。
七年で初めて、その一拍が、永遠のように長かった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第五アーク、魔王城編の二話目、巻き戻すべきではない、です。
前の話で、クレイは左手の出どころを教えられました。今回はその続きで、その出どころが、いちばん残酷なかたちで牙を剥きます。戻す手と、奪う手が、根が一つだから、触れ合うと消し合ってしまう。クレイが仲間を助けようと手を伸ばすほど、汲んだものは霧になって、二つの力のあいだで凪いでいく。助けることが、そのまま長引かせることになる。四千三百回、一度も外さなかった手が、いちばん助けたい相手に届かない。この地獄を書きたくて、前話で出どころを開けたようなものでした。
気をつけたのは、クレイに簡単に誘いを撥ねつけさせないことです。もう押し返さなくていい、楽になる——七年ぶんの疲れを見抜いてくる声を、彼はこの回で撥ねつけきれません。ずっと認めずにきた疲れが、闇の一言で滲んでくる。揺れて、揺れて、それでも手を下ろせないまま、この話は閉じます。
倒れていく仲間が、最後の息で置いていくものがあります。名前を呼ぶと言ったセルカ。手を止めたのはあんただと言い残すティナさん。二人が渡したものは、次の話で、彼が自分の口で答えを出すための種です。その手を、どこへ置くか。次回、俺が決める、で、七年ぶんのタメが、ようやくほどけます。どうか、続けて見届けてやってください。
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