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魔王城、死の断片

 北嶺の魔王城は、門を持たなかった。


 斜面を登りきった先に、黒い岩の壁がただ立っていた。跳ね橋も、見張りの灯もない。壁の途中に、人ひとりぶんの裂け目が縦に一つ、開いているだけだった。ずっと昔から開いていたようにも、たったいま裂けたようにも見えた。


 クレイは、その裂け目へ手のひらを向けた。


 何も、返ってこない。


 これまで、この手は必ず何かを読んだ。目の前の弱りか、遠くの張りか。だが、この壁の内側には、そのどちらもなかった。弱ってもいない。張ってもいない。迷宮の底で触れた、初めから熱を持たない冷たさとも違う。ここにあるのは、もう終わったあとの静けさだ。死の瞬間の、ずっと先。汲もうにも、入口が一つもない。


 「どう」ティナが訊いた。


 「読めない」クレイは手を下ろした。「壁の中は、もう終わったあとだ。俺の手が入る隙がない」


 「終わったあと」ティナが繰り返した。低く、確かめる声だった。「死んでる、とも違うんだね」


 「死んでるやつには、死んだ息がある」クレイは言った。「ここには、それもない。息の跡が、拭き取ってある」


 セルカが、両手剣の柄へ手を回した。だが、抜きはしなかった。抜いても意味がないことを、この娘はもう知っている。




 斜面の下から、鎧の音が追ってきた。


 ひとりではない。王都の召集で北へ送られた者たちが、ここまでは辿り着いていた。だが、みな斜面の途中で足を止めている。壁の前まで来られたのは、数えるほどだった。


 その先頭に、白い装束があった。


 「クレイ」ガイが、息を整えながら呼んだ。聖剣を、今日は佩いている。


 「早かったな」クレイは言った。


 「レフの熱が、下りた」ガイが言った。「あいつに、背を押された。行け、とな」


 ガイは、壁の裂け目へ目をやった。それから、クレイの横に立った。後ろではなかった。


 「横だと、言ったろ」ガイが言った。「約束は、守る」


 「勇者サマ」セルカが横目で見た。「剣は、あてにしないよ。中のあれは、斬れないやつだ」


 「わかってる」ガイが応じた。「斬れなくても、盾にはなる。それくらいは、できる。得手だ」


 セルカが、ふっと八重歯を見せた。この状況で笑えるのは、たぶんこの娘だけだった。


 「盾なら、あんたのぶんの前に立たせてもらうよ」


 「頼む」ガイが言った。命じるのではなく、頼むと言った。七年で、いちばん変わったのは、そこかもしれなかった。




 裂け目の内は、道が下っていた。


 迷宮のときと同じだ。だが、岩の湿りも、白いものの気配もない。壁は乾いて、音を吸った。四人の足音が、一歩ごとに痩せていく。声も、遠くまで届かない。


 下るほどに、クレイの左手の甲が、熱を持ち始めた。


 北の村で、甲の下の線は北を指した。押さえても、ゆるまなかった。いまは、指す先が変わっている。北ではない。この道の、いちばん下だ。


 妙だった。近づくほどに、線は静かになっていく。遠ざかるのではない。近づくほど、鳴りをひそめる。呼ばれたものが、呼んだもとの匂いを嗅ぎ当てて、逸る足を止めるときの静けさに似ていた。


 クレイは、それがいちばんこわかった。


 「線が」ティナが、クレイの手もとを見た。「北を指してたときより、おとなしい」


 「近いからだ」クレイは応じた。「下に、この線の行き先がある」


 「行き先」ティナが言った。


 「わからない」クレイは、右手で左の手首を軽く握った。「だが、この手のほうが俺より先に知ってるみたいだ」


 「あんたが、知らなくていい」セルカが、剣を肩へ担ぎ直した。「手が先へ行こうとしたら、あたしが引き戻す。前も、そうした」


 ガイは、何も言わなかった。ただ、クレイの左手のあたりへ、視線を落としている。七年、一度も向けたことのなかった場所だった。




 道が、終わった。


 開けた場所へ出た。天井は、灯を上げても届かない。広間の奥に、何かが座っている。人の形をしていた。だが、そこだけ冷たさが濃く凝って、背丈ぶんの闇を立たせているようにも見えた。輪郭は、灯のふちで滲んで掴めない。


 クレイの左手が、その闇のほうへ、ひとりでに持ち上がった。


 汲むためではない。呼ばれて、応えようとしている。クレイは、右手でその手首を押さえた。押さえていなければ、手はもう闇へ届いていた。


 闇が、動いた。


 「来たか」


 声は、低くなかった。むしろ澄んでいた。広間の冷たさが、そのまま言葉になったような声だった。


 「戻す手が」魔王は言った。「歩いて、ここまで来た」


 「あんたが」クレイは言った。手首の押さえを、ゆるめなかった。「北を、冷やしてるのか」


 「冷やしてはいない」魔王が返した。「広げているだけだ。死を、本来の広さまで。……盗んできたのは、お前のほうだ。死の手が掴んだものを、幾度も掴み返した」


 「死んだ者が、起きて歩くのが」クレイは言った。「あんたの言う、本来か」


 「歩くのではない」魔王は言った。「死が、そこまで届いただけだ。生きた者が減れば、死が満ちる。それが、正しい。……お前だけが、その正しさをずっと押し返してきた」


 セルカが、剣を下段へ落とした。ガイの前へ、半歩踏み出す。ティナは、灯を絞って、闇との間合いを目で測っていた。




 「俺の手の、してきたことを」クレイは言った。「知ってるみたいだな」


 「知っている」魔王は言った。「それは、私のものだったからだ」


 クレイは、押さえた手首に力を込めた。手が、まだ闇のほうへ行きたがっている。


 「三百年、前になる」魔王は続けた。急ぐ理由の何もない、ゆるやかな声だった。「私は一度、断たれた。剣で、この身を割られた。人はそれを、討伐と呼ぶ。……だが、死そのものを断つことはできない」


 「割られたとき」魔王が続けた。「ひと欠片が、こぼれた。いちばん端の、幼いかけらだ。奪うことを知らず、ただ戻すことしか知らぬ青いかけらだった。……それは消えずに、世へ落ちた」


 クレイは、動かなかった。動けなかった。


 「かけらは、行き場を探した」魔王は言った。「そうして、ちょうど十九年前。生まれたばかりの、名もない子の左の手へ落ちた。……その甲の、しるしだ。お前が、ずっと連れて歩いてきたものだ」


 広間の冷たさが、その言葉のあいだだけ、ひときわ濃くなった気がした。


 クレイは、その話を、すぐには受け取れなかった。


 左手の甲の線は、七年、ただそこにあった。子供のころは、痣だと思っていた。掻けば痒い、それだけのものだと。ティナさんが禁忌の側に符合すると書いても、迷宮の刺客が欠けの在りかだと告げても、どこか遠くの、他人の話だった。


 だが、いま。その線が、静かに応えている。呼んだもとの、すぐそばで。長く外にいた子が、戸の匂いを嗅ぎ当てたときのように。


 この手で、人を死なせなかった。霧の谷でガイの喉を。祠でセルカの腹を。名も知らない誰かの、最後の息を。数え終えた夜のあの静けさを、クレイはまだ覚えている。ぜんぶ、この左手が拾ってきた。


 その手が、魔王の、こぼれたかけらだという。


 死なせない手の、いちばん奥に、死そのものが座っていた。俺が誰かを生かすたび、掌の底で動いていたのは、この闇の、幼い端くれだった——そう、言われている。


 嘘だと言い切れれば、楽だった。だが、言い切れない。この手が魔族に押し返されたことも、汲む対象もないのに勝手に体温を吸い上げたことも、迷宮の底から北の地平まで、いつも下と奥のほうを指し続けたことも、みんな一本の線で、この闇のそばへ繋がってしまう。ずっと据わりの悪かったことが、ここへ来て、一つの座りかたを見つけてしまった。その座りかたが、よりによって、これだった。


 膝の裏が、うっすら冷えた。祠でセルカが味わった置き去りの感覚を、あのとき遠い他人の話として聞いた。いまは違う。置き去りにされかけているのは、たぶん、自分のほうだった。自分の内側に、自分でないものが、初めから座っていたのだとしたら。




 「だとして」クレイは言った。声が、思ったより掠れた。「それが、どうした」


 「どうした、とは」


 「俺は、その手で人を死なせなかった」クレイは言った。生死の話になると、語尾が締まる。それだけは、いつもと変わらなかった。「出どころが、あんたでも。拾ったものが、消えるわけじゃない」


 「消えはしない」魔王は言った。「だが、まがいものだ。戻すというのは、死をあるべき場所から引き剥がすことだ。お前は、それを良いことだと信じてきた。……本当に、そうか」


 闇が、わずかに前へ傾いだように見えた。


 「かけらは、幼い」魔王が言い添えた。「だから、戻すことしか知らぬ。だが、育てばわかる。死は、戻すものではない。広げ、収めるものだ。……お前は、そちら側に生まれた。いずれ、帰る」


 クレイは、左の手首を握る右手に、目を落とした。


 押さえていなければ、この手は、いま闇のほうへ行っている。呼ばれれば、応える。俺の指図より、先に。七年、この手を動かしてきたのは、本当に俺だったのか。それとも、こいつが動くのを、俺は運んでいただけなのか。


 死なせるつもりはない。昔から、それだけは決めてきた。


 その一言を、いつものように胸の内へ並べようとして、クレイは、初めてつかえた。


 決めてきたのは、俺だ。だが、決める手が俺のものでないのなら——その誓いは、いったい、誰の誓いだ。この手が拾ってきたのは、俺の意思か。それとも、こぼれたかけらが、もとの主のもとへ帰りたがっていた、その道すがら、ついでに拾ってきたものだったのか。


 考えるほど、足もとが薄くなる。四千三百回積み上げた床が、下から溶けていくようだった。




 「クレイ」


 ティナの声だった。低く、短い。感情が動くと、この人の言葉はいつも短くなる。


 クレイは、顔を上げた。ティナさんは、手帳を開いていなかった。帯に差したままだ。書く手が、動いていない。


 「書かないのか」クレイは言った。


 「書かない」ティナが返した。「これは、あんたが自分で持つものだ。私が書けば、私の見立てになる。あんたの出どころは、あんたのものだ」


 ティナは、それから闇のほうへ、まっすぐ目を向けた。


 「一つ、言っておく」ティナは言った。「その話には、裏づけがない。迷宮で、同じことを言ったやつがいた。欠けの在りかだと。あのときも、私は書かなかった。裏づけのない証言だからだ」


 「今日、それは揃った」ティナは続けた。「本人が来て、同じことを言った。揃った。……だが、揃ったのは出どころだけだ。この男が、その手で何をしてきたか。それは、出どころとは別の頁に書いてある。私が七年ぶん近く、この目で数えた頁だ」


 闇は、答えなかった。ティナの言葉を、意にも介さないようだった。


 「難しい話は、わかんないよ」セルカが言った。剣の切っ先を、闇へ向けたままだ。「魔王のかけらだの、三百年だの。……でも、一つだけ知ってる」


 セルカは、クレイの右手の上へ、自分の手を重ねた。左の手首を押さえる、その手ごと、下から握り上げる。


 「この手が」セルカは言った。「あたしを、三度拾った。腹も首も、胸も。かけらだろうが、なんだろうが。拾われたあたしは、いまここに立ってる。それは、消えないよ」


 「あんたが、あんたじゃなくなりそうになったら」セルカは言った。「あたしが、名前を呼ぶ。何度でも。忘れそうになるたび呼んでやる。クレイ、クレイってな」


 クレイは、その手の熱を、掌の甲に感じた。左手の線の冷たさとは、違う熱だった。




 魔王が、立ち上がった。


 背丈ぶんの闇が、天井のほうへ伸びる。広間の冷たさが、いっせいにそちらへ寄っていった。クレイの左手が、右手の下で、強く跳ねた。行きたがっている。呼ばれている。


 「見せてやろう」魔王は言った。「戻すことと、奪うこと。……どちらが、深いかを」


 闇の端が、ほどけて、ガイのほうへゆっくりと伸びた。


 「ガイ」クレイは叫んだ。「下がれ。あんたの手には、まだ届く距離だ」


 だが、ガイは動かなかった。動けなかったのかもしれない。闇に触れられた肩から、色が引いていくのが、クレイの目にも見えた。祠でセルカが見た父の背中と、同じものを、この男もいま見ているのだろう。


 クレイの左手が、汲もうとした。いつもの拍だ。七年、考える前に動いてきた手だ。


 その手が、初めて、途中で止まった。


 これは、俺の手か。それとも、闇の、端くれか。俺が汲もうとしているのか。それとも、こいつが、もとへ帰る道すがら、また一つ、拾おうとしているだけなのか。止まる先を、俺は、知らない。


 迷った。四千三百回、一度も迷わなかった手が、出どころを教えられたその日に、迷った。


 その一拍のあいだに、ガイの膝が、折れた。


 「クレイ」ティナが鋭く言った。「手が、止まってる」


 「わかってる」クレイは、歯の裏で言った。もう一度、汲もうとする。だが、掌が、闇と自分のどちらのものか、わからなくなっている。


 闇が、笑ったように見えた。声はなかった。ただ、広間の冷たさが、ひとまわり濃くなった。


 「それだ」魔王は言った。「その迷いが、こちら側のはじまりだ。……おいで。戻すのは、もうやめにしよう」


 崩れかけたガイの体から、色がさらに退いていく。クレイの左手は、まだ、闇と自分のあいだで宙に止まったままだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。第五アーク、魔王城編の一話目、魔王城、死の断片です。いよいよ、この物語の最後の坂を登りはじめます。


 一話から四十二話まで、ずっと伏せてきたものを、この回でとうとう開けました。クレイの左手の紋が、何なのか。なぜ死にかけを巻き戻せるのか。その出どころが、討たれた魔王のこぼれた死のかけらだった——三百年前の討伐で消えきれなかった端くれが、十九年前、名もない孤児の手へ落ちた。死なせない手のいちばん奥に、死そのものが座っていた、という一点を書きたくて、ここまで積んできたようなものです。


 気をつけたのは、クレイに、あっさり呑み込ませないことでした。出どころを教えられたくらいで達観できるほど、この力は軽くありません。決めてきたのは俺だ、でも決める手が俺のものでないなら、その誓いは誰のものだ——四千三百回積み上げた床が、下から溶けていく。だから、いつもの誓いを、彼はこの回で初めて言い切れずに、つかえます。迷わなかった手が、初めて途中で止まる。そこで、この話は閉じました。


 ですが、ひとりで溶けきってはいません。書かないと決めたティナ。出どころと、してきたことは別の頁だと言い切る観察者。かけらだろうが拾われたあたしは立っている、と手を重ねるセルカ。この二人がいるかぎり、彼はまだ、彼のままでいられます。


 次回、巻き戻すべきではない。魔王の誘いが、もっと深くクレイへ届きます。どうか、続けて見届けてやってください。

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