去る背中
北から、人が降りてきた。
朝のまだ早いうちだ。木戸の外の道を、荷を負った者が二人、三人と続けて南へ抜けていく。行く先を選んでいる足ではなかった。ただ、北にいたくない足だった。
クレイは、木戸の内側から、その列を見ていた。
「三日で、増えたね」セルカが柱にもたれて言った。「昨日より、多い」
村へレフを運び込んで、三日が過ぎていた。熱は、ようやく一段だけ下りた。レフは、今朝は自分の腕で椀を持てた。それを潮に、灯は村を発つ。ずっと、そう決めてあった。
南へ抜ける列のなかから、年老いた女が一人、木戸の前で足を止めた。
「あんたら、東から来たのかい」女が言った。「なら、東へ戻りな。北は、もう人の行くとこじゃない」
「北で、何があった」ティナが訊いた。
「村が、冷えた」女が言った。声が乾いていた。「ひと晩でだよ。井戸も炉もいっぺんに凍った。そのあとで、死んだ者が起きて歩いた。埋めたばかりの息子が、戸を叩いたんだ。……あたしは、戸を開けなかった」
女は、それだけ言うと、また南へ歩き出した。背の荷が、片方へ傾いでいた。
「王都は、腕のある癒し手を片端から北へ呼んでる」列のうしろの男が、通りすがりに言い足した。「だが、追いつかない。婆さまの言う一線が、北じゃ毎晩やぶられてるとよ」
クレイは、道の北の果てへ、目を向けた。
目より先に、手のひらが北を読んでいた。
これまで、生命感知に触れるのは、目の前の弱りか、遠くの張りだった。だが今朝は、北の地平のほうに、そのどちらでもないものが横たわっている。弱っていない。張ってもいない。ただ、途方もなく冷たい。迷宮の底で触れた、初めから熱を持ったことのない冷たさに似ていた。似ていたが、嵩が違う。あれは、広間ひとつぶんだった。これは、地平の端から端までだ。
左の手の甲が、その北へ向かって、ひとりでに張った。
迷宮の底では、甲の一本が下の奥へかすかに疼いた。今朝は、下ではない。まっすぐ北を指している。指の先から細い糸が伸びて、地平のあの冷たさのほうへ、引かれていくようだった。押さえても、糸はゆるまなかった。
こわいのは、その糸が向く先ではなかった。糸を向けているのが、自分の意思なのかどうか、そこがわからないことだった。
小屋のなかは、煤と乾いた薬草の匂いがしていた。
レフは、藁の上で半身を起こしていた。三日前より、頬に血の色が薄く戻っている。だが、それは熱が下りたぶんの色で、傷が塞がったからではない。脇腹の傷は、いまも戻らないままだ。
クレイは、最後の手当てをした。白根を削り、温めた布を替え、湿布を巻き直す。戻せない傷に、できるのはそれだけだった。速さを、少し鈍らせる。それきりだ。
「もう、いいぞ」レフが言った。「発つんだろ。日のあるうちに、行け」
「三日ぶんの白根を、置いていく」クレイは言った。「煎じ方は、ガイに教えた。飲ませるのは、あいつがやる」
「不味い湯を、勇者サマに煎じさせるのか」レフの口の端が歪んだ。「いい気味だ」
「小僧」レフが呼んだ。「北で、また誰か拾うんだろ」
「拾えるだけは」クレイは言った。
「俺のぶんは、置いていけ」レフが言った。「四千三百も、拾ってもらった。あとの一つは、俺の勘定だ。北まで、持っていくな」
「持っていかない」クレイは言った。「それは、あんたのものだ」
「わかってるじゃないか」レフが、目を閉じた。「行け。日は、待たない」
ガイは、炉のそばに膝をついていた。この三日、火の番とレフの世話をした。七年、後ろの男に任せきりだった仕事だ。手つきは、いまも不器用なままだった。
「クレイ」ガイが言った。「訊いても、いいか」
「なんだ」
「北の、あれを」ガイが道の外へ目をやった。「お前は、どう見てる。手のひらで」
クレイは、少し間を置いた。
「でかい」クレイは言った。「村の一つや二つじゃない。あの婆さんの言ったことは、本当だ。北のぜんぶが、冷えかけてる」
ガイの喉が、動いた。
「俺の剣で、届くものかな」ガイが、独り言のように言った。「魔物なら、斬れる。だが、死んで歩くものの斬り方は知らん」
「知らないのは、あんただけじゃない」クレイは言った。「誰も、知らない」
「なあ、クレイ」ガイが言った。「怖くは、ないのか。そんなものの、真ん中へ行くのは」
「怖い」クレイは言った。「怖いから行かないのは、もうやめた」
ガイは、それには何も返さなかった。ただ、火の番の手を止めて、しばらくクレイの横顔を見ていた。
木戸の前で、灯の三人は北へ向き直った。
ガイが、見送りに出てきた。聖剣は、腰に佩いていない。小屋の壁に立てかけたまま、出てこなかった。柄に手をかける癖が、この三日で、少しずつ抜けかけている。
「北へ、行くのか」ガイが言った。
「行く」クレイは言った。
「暁の剣も」ガイが言った。「レフの熱が下りたら、北へ回される。王都の召集だ。……道の先で、また会うかもしれん」
「かもな」クレイは応じた。
ガイは、しばらく黙っていた。言いかけて飲んだ言葉が、喉のあたりで一度、動いた。
「なあ、クレイ」ガイが、低く言った。「ほんとうに、戻らないんだな。暁の剣へ」
クレイは、ガイの顔を見た。碧眼のまっすぐさは、七年前のままだ。ただ、そこから無邪気さだけが抜けている。この男は、もう乞うてはいなかった。ただ、確かめている。
「戻る理由はないよ。恨んでもない。ただ、もう自分で決めるだけだ」
クレイの声は、低いまま、揺れなかった。
言ってから、クレイは、それが半分だけ本当だと思った。
恨みは、たしかにない。四千三百回、この手で拾ってきた男を、いまさら憎みきることはできない。だが、恨みのあった場所が、そっくり空になったわけでもなかった。七年、すぐ後ろにいて、一度も振り向かれなかった。その遠さだけが、名前もつかないまま、まだ胸の隅に残っている。恨みではない。赦しでもない。ただ、遠かった、という事実だ。それは、たぶんこの先も消えない。消えないまま、連れて歩く。
「そうか」ガイは言った。それ以上は、訊かなかった。訊く資格がないことを、この男は、もう知っている。
「勇者サマ」セルカが言った。ふだんの棘は、抜けていた。「レフのおっちゃん、死なせんなよ。あんたの手で」
「やってみる」ガイが言った。「うまくは、ないがな」
「うまくなくていいよ」セルカが八重歯を見せた。「そばにいりゃいい。それだけで、違うんだって。あたしは、知ってる」
ティナが、帯の手帳を開いた。
「クレイ」ティナが言った。「北のあれを、もう一度だけ手で読んで」
クレイは、北へ手のひらを向けた。冷たさの嵩は、朝よりわずかにこちらへ寄っている気がした。左手の甲の糸は、まだ北を指したままだ。
「死を、巻き戻す手だ」ティナが、クレイの左手を見て言った。「北でやぶられてるのは、死は戻らないっていう一線だろ。……戻す手と、戻らない決まりを壊すもの。世界に二つきりなら、噛み合う相手はお互いしかいない」
「決めつけるのか」クレイは言った。
「決めつけない」ティナは首を振った。「まだ、線は一本も引けてない。でも、印は打っておく。あんたの手が北のあれと、無縁とは思えない」
クレイは、北の地平を見た。
どこへ、この手を置くか。昨日まで、答えのなかった問いだ。だが手のほうは、もう答えを出しかけていた。甲の糸が、北を指している。冷たさのいちばん濃いところへ、この手が自分から向きたがっている。
それがこわくなかったと言えば、嘘になる。北のあれと自分の手が噛み合うのなら、噛み合った先で何が起きるのか、クレイにはわからない。止まる先を知らない手が、いちばん止めにくい相手のほうへ歩いていく。救いになるのか、その逆なのか、まだ何ひとつ見えなかった。
それでも、行く先はもう決まっていた。
これまで、この手は目の前の傷にしか動かなかった。北のことは、遠すぎて届かなかった。かつて辻でセルカに、そう言ったこともある。だが今朝は、その遠い北へ、初めて自分から手を向ける。
「死なせるつもりはない」クレイは、北へ、誰にともなく言った。「それだけは、昔から決めてる」
昔から決めてきたのは、そこだけだ。だが、その手をどこへ向けるかは、今日、初めて自分で決めた。昔からの誓いと、今日からの選び。二つが、同じ北の一点で、ようやく重なっていた。
「あたしは」セルカが言った。「置いてかれる側を、ずっと怖がってた。でも今日は、あたしが行く側だ。自分で選んで、いちばん前を歩く。……こんなの、初めてだよ」
「怖くないのか」クレイは訊いた。
「怖いよ」セルカが笑った。「けど、行かないほうがもっと怖い。あんたひとりであれに手を伸ばすとこ、あたしは見たくない」
「行こう」クレイは言った。
セルカが、剣を担ぎ直した。ティナが、手帳を帯へ挿す。三人は、北へ足を踏み出した。
クレイは、一度だけ、木戸のガイを振り返った。
「ガイ」クレイは言った。「レフを、頼む。……北で会ったら、後ろじゃない。横だ」
ガイの目が、わずかに見開かれた。対等、という言葉は使わなかった。だが、それと同じものが、いま二人のあいだに置かれた。
「ああ」ガイが言った。「横で、会おう」
「そんじゃ、勇者サマ」セルカが片手を上げた。「達者でな。次は、ちゃんと名前で呼べよ」
「……セルカ」ガイが、その名を口にした。
「よし」セルカが八重歯を見せた。「覚えたじゃん」
クレイは、北へ向き直った。もう、振り返らなかった。
三つの背中が、北の道を遠ざかっていく。
ガイは、木戸の前に立って、それを見送っていた。
真ん中の、いちばん痩せた背中に目がいく。剣も鎧も負っていない、包帯と薬草の入ったポーチひとつの背中だ。七年、焚き火のいちばん端にあった背中。いてもいなくても同じだと、疑いもしなかった背中だった。
その背中が、いま、大陸じゅうの手が足りないと言われる場所へ、自分の足で向かっていく。死んだ者が起き上がり、死は戻らないという一線が毎晩やぶられる、その北へ。死を戻す手が、死の戻らない場所へ。
追いつける、とは思わなかった。七年ぶんの遅れは、三日で埋まるものではない。
だが、とガイは思う。レフの熱が下りたら、俺も北へ発つ。王都の召集の列に加わって、あの背中を、遠くからでも追う。後ろから手を預ける側ではなく、横に並べる日まで。そのための資格が、まだ自分にあるかはわからない。わからないが、稼ぐしかなかった。
北の道の先で、三つの背中が、朝の光にひとつへ溶けた。真ん中の背中は、もう見分けがつかない。だが、そこにいることは、わかる。
いる。たしかに、いる。
七年、それを一度も数えなかった。ガイは、木戸の柱に手をついて、見えなくなった背中のあとを、長いあいだ見ていた。北の空の下から、細い冷えが、村の際までそっと届いていた。ガイの肌には、それが読めない。だが、あの痩せた背中には、とうに読めているはずだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アーク、旧パーティー再会編の八話目、去る背中です。これで、再会編はひとまず幕になります。
前の話で、クレイは復帰の誘いを恨みでなく断りました。今回はその続きで、実際に村を発つ朝の話です。書きたかったのは、勝ち去りではありませんでした。四千三百回この手で拾ってきた相手を、いまさら憎みきることはできない。かといって、すっかり水に流せるほど軽くもない。恨みでも赦しでもない、ただ遠かったという事実だけが、名前もつかないまま胸の隅に残る。それを消さずに連れて歩く——去る背中に、そのくらいの重さは載せておきたかったのです。戻る理由はないよ、恨んでもない、ただ自分で決めるだけだ。静かな一言ですが、七年ぶんの主導権を、彼は初めて自分の側へ引き寄せています。
同時に、この話から物語の正面が変わります。北の異変が、村ひとつの噂ではなく、死んだ者が戸を叩き、王都が総召集をかけるほどの規模になって表に出てきました。そしてクレイの左手が、その北へ向かってひとりでに糸を張る。死を戻す手と、死を操るもの。この二つがどう噛み合うのかは、まだ誰にも線が引けていません。ティナも、印を打つだけにとどめています。ただ、無縁ではなさそうだ——その予感だけを残して、彼は自分から北へ歩いていきます。
最後の背中を、あえてガイの目から書きました。いてもいなくても同じだと思っていた背中が、いま、いちばん手の要る場所へ自分の足で向かっていく。いる、たしかにいる、と七年ぶりに数えるガイの視線で、このアークを閉じたいと思いました。
次回から、第五アーク、魔王城編に入ります。死を巻き戻すクレイの手と、死を操る魔王が、いよいよ正面から向き合います。どうか、最後まで見届けてやってください。




