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命綱を切ったのは

 日が落ちても、ガイは同じ場所から動かなかった。


 昼のあいだは、震えだけだった。それが夜になって、震えの底から、声にならない何かが、ゆっくりと這い上がってくる。押し込めてきたものが、重さを増して、喉まで戻ってきていた。


 クレイは、レフの枕もとから、その気配を見ていた。眠るレフの息は、辻で診たときより、また間が空いている。白根の効きは、もう端に来ていた。


 小屋の外は、とうに暗い。戸の隙間から、夜気が糸のように忍び込んでくる。昼に退いた冷えは、まだ遠くない。だが今夜のところは、木戸の内までは届いてこなかった。


 「ガイ」レフが、薄目を開けた。「まだ、そこにいるのか」


 「いる」ガイの声は掠れていた。


 「座って壊れてても」レフが言った。「俺の傷は、縮まらんぞ」


 「わかってる」


 「わかってないさ」レフが天井へ目を戻した。「昔からそうだ。お前は、抱え込んで動かなくなる」


 ガイは答えなかった。組んだ手が、いちど解けて、また握り直された。


 「なあ、ガイ」レフが、また声を出した。「一つ、訊く」


 「なんだ」


 「お前、いま何を悔やんでる」レフが言った。「言ってみろ。抱えたまま黙ってると、腐るぞ」


 ガイは、すぐには答えなかった。組んだ手のなかを、じっと見ている。


 「言えよ」レフが、かすれた声で促した。「俺は、そう長く聞いてやれん」




 ガイは、自分の両手を見た。


 剣を握るための手だ。七年、これで前を斬り開いてきた。その手が、いま、何ひとつ握っていない。


 「崖を登るとき」ガイが、低く切り出した。「下で、綱を握る者がいる」


 クレイが、顔を上げた。


 「登る側は」ガイが続けた。「綱があることも忘れて、上ばかり見て手を伸ばす。落ちても、途中で綱が止める。だから、思いきり伸ばせるんだ」


 「なんの話だ」レフが訊いた。


 「俺の話だ」ガイが言った。「七年、思いきり手を伸ばしてきた。落ちても、いつのまにか岩の上に戻ってた。運がいいと笑った。強いからだと信じた」


 ガイの声が、途中で掠れた。


 「下で綱を握ってた手のことは」ガイが言った。「ただの一度も、考えなかった」


 「その綱を」ガイの声が裂けた。「俺は、重りだと思った。足を鈍らせる、いらないものだと」


 膝の上で、拳が固く握られた。


 「回復は、いらない」ガイが絞り出した。「そう言って、自分の手で切った」


 「切ったのは」ガイが言った。「魔物でも、運でもない。俺だ」


 「命綱を」ガイの声が、震えた。「俺たちは……自分の手で、切ったのか」


 言い終えて、上体が前へ折れた。額が膝につくほど、大きな体が内側から畳まれていく。肩の奥から、低い音が漏れた。泣くのとは、少し違った。七年ぶんの重さが、いちどきに床へ着く音だった。


 しばらく、誰も口をきかなかった。


 「命綱、か」レフが、天井へ薄く言った。「うまいことを言う。お前は、昔から口だけは達者だ」


 「レフ」ガイが、伏せたまま呼んだ。


 「怒っちゃいない」レフが言った。「ただ、七年遅い。その綱、俺はもう落ちたあとだ」


 「お前が落ちたのは」ガイが、絞り出した。「俺が、綱を切ったからだ」


 「そうかもな」レフが言った。「だが、切る前の四千三百回はお前が俺を落とさなかった。それも、お前だ」


 「落とさなかったのは」ガイが言った。「こいつだ。俺じゃない」


 「そこに、こいつを連れてたのは」レフが言った。「お前だろ」


 ガイは、答えられなかった。背が、いっそう深く沈んだ。




 クレイは、その姿を、黙って見ていた。


 溜飲は、下がらなかった。下がるはずのものが、胸のどこにも見つからない。喉を裂かれた夜も、崖から落ちた朝も、この手が黙って戻してきた。その手のうえで大きくなった男が、いま目の前で畳まれている。崩れる姿を見ても、勝った、という感じはどこにもなかった。勝ち負けの勘定に、初めからなっていない。


 「クレイ」ティナが、低く言った。


 クレイは、目だけを向けた。


 「これは」ティナが、ペンを帯へ戻した。「書かないでおく」


 「珍しいな」クレイは言った。「あんたが、書かないのは」


 「数字にならない」ティナは言った。「これは、あの男が自分で持つものだ。私が書いたら、私のものになる」


 わからないものは消さずに書き留める女だ。その手が、今夜は自分から筆を伏せた。書けば、この男の壊れ方まで、頁に貼りついてしまう。ティナさんは、たぶん、それをしたくなかったのだ。


 セルカは、壁際で剣を提げたまま、ガイのほうを見ていなかった。


 「ねえ」セルカが、クレイにだけ聞こえる低さで言った。「あたし、こういうときどうしてればいい」


 「立ってなくて、いい」クレイは言った。「座れよ。長い夜になる」


 「笑ってやるつもりだったのに」セルカが言った。「あんなふうに潰れられたら、笑えないよ」


 「笑わなくて、いい」クレイは言った。「もう、じゅうぶんだ」


 セルカは、座らなかった。だが、剣の柄から手を離して、壁にもたれた。それが、この娘なりの座り方だった。


 クレイは、椀の湯に布を浸して絞った。レフの額へ、そっと載せる。熱は、まだ引かない。だが、下げることくらいはできる。


 「まだ、手当てするのか」レフが薄く言った。「無駄だと、言ったろ」


 「無駄でも、手は動く」クレイは言った。「昔からだ」


 「因果な性分だな」レフが、目を閉じた。「追い出した連中の看病を、黙ってやる」


 「追い出したのは、あんたじゃない」クレイは、布の端を直した。「看病に、貸し借りは持ち込まない」




 「ガイ」レフが、藁の上から言った。「もう、いい」


 ガイは、折れたまま、顔を上げない。


 「お前が壊れても」レフが続けた。「俺の脇腹は、塞がらん。だがな、壊れたついでに一つ覚えとけ」


 ガイの肩が、わずかに動いた。


 「拾えなかった一回を」レフが言った。「悔やむのは、勝手だ。だがな、拾われた四千三百までなかったことにするな」


 「レフ」


 「お前がそれを捨てたら」レフの声が、細く笑った。「俺が四千三百回ただで生きた甲斐が、なくなる」


 「甲斐なんて」ガイが、掠れた声で言った。「よく言えるな。お前は、その一回で」


 「死ぬ、かもな」レフが言った。「だが、四千三百は生きた。悪い勘定じゃない」


 ガイは、答えられなかった。


 ガイが、ゆっくりと顔を上げた。目のふちが赤い。だが、涙は落ちていない。落とす前の、いちばん重いところで止まっている。


 「ミラも、発った」ガイが言った。「引き止めなかった。沈む舟だと、あいつが先に見抜いてた」


 「賢い人だ」クレイは言った。「沈む前に、降りたんだろ」


 「連れは、二人になった」ガイが言った。「そのレフも、いま……」


 言葉が、続かなかった。しばらく、ガイは自分の膝を見ていた。


 「クレイ」ガイが言った。「頼みが、ある」


 クレイは、動かなかった。


 この先を、この男が何と言うのか、見当はついた。戻ってきてくれ、と言うのだ。もう一度、後ろに立ってくれと。七年、当たり前に後ろにあった手を、いまになって、正面から欲しがっている。


 「今夜は」クレイは、静かに遮った。「言うな」


 「戻ってくれとは」ガイが言った。「言える立場じゃない。わかってる。……それでも、言いたくなる。それが、いちばん虫がいい」


 「だから」クレイは言った。「今夜は、言うな。虫のいい頼みほど、揺れてるうちに口をつく」


 「明日でいい」クレイは続けた。「そのとき出た言葉なら、まっすぐ受け取れる」


 ガイは、口を閉じた。


 言ってから、クレイは、自分の言葉に少し驚いた。突き放したのでも、庇ったのでもない。ただ、いま返事をしたくなかった。したくない、という気持ちが、どこから来るのか、自分でもうまく掴めなかった。




 「勇者サマ」セルカが、壁際から言った。ふだんの皮肉は、抜けていた。「一つ、教えてよ」


 「……なんだ」ガイが言った。


 「あんた、いま初めてこいつの名前をちゃんと呼んだね」セルカが言った。「クレイって。七年、後ろにいた男の名前」


 ガイの喉が、鳴った。


 「呼んでた」ガイが、掠れた声で言った。「名前だけは。……中身を、一度も見なかっただけだ」


 その一言が、この小屋のいちばん重い荷になった。名前は知っていた。顔も、背格好も。ただ、その背中が七年で何を積んでいたかを、この男は一度も勘定に入れなかった。それだけのことが、いま、逆から一気に返ってきている。


 「クレイ」ガイが、もう一度呼んだ。「一つだけ、答えてくれ。……俺を、恨んでるか」


 クレイは、少し考えた。


 「わからない」クレイは言った。「七年ぶんの置きどころのない何かは、ある。それが恨みかどうかは、まだ量れない」


 「そうか」ガイが言った。


 「量れたら」クレイは言った。「そのときは、言う」


 ガイは、うなずいた。それ以上は、訊かなかった。


 ティナが、火のそばでクレイを見た。


 「あんたが決めるまで」ティナが言った。「私は書かない。戻るとも、戻らないとも」


 「まだ、決めてない」クレイは言った。


 「知ってる」ティナは言った。「だから、待つ」




 小屋の火が、燠になって低く点った。セルカが、木の椀に水を汲んで、レフの唇へ運ぶ。夜のあいだ、その役は代わる代わるだ。


 ガイは、また顔を伏せた。だが、今度は畳まれてはいなかった。膝に手をついて、背だけは、辛うじて起こしている。まだ立ってはいない。だが、倒れきってもいない。


 善い男なのだ、と、クレイは思う。悪意で切ったのなら、こうは崩れない。見えなかったから切った。見えなかったことに気づいてしまったから、いま、根から折れている。悪人のざまあより、この崩れ方のほうが、よほど見ているのがつらかった。


 七年、決めてきたことは一つきりだ。手の届くところで、誰も死なせない。それは、いまも変わらない。ガイが明日また倒れてくれば、この手は、たぶん勝手に動く。


 だが、その手をどこで動かし続けるのか——暁の剣(あかつきのつるぎ)の後ろへ戻るのか、灯の三人といるのか。そこから先は、これまで一度も、決めたことがなかった。決める必要が、なかったからだ。


 クレイは、戸口の隙間から、外の闇を見た。冷たさは、遠くにいる。今夜のところは、来ない。


 動かす先を、どこにするか。その問いだけが、掌の底で、まだ答えを持たずに残っていた。明日、ガイは頼みを口にする。そのとき自分が何と返すのか——七年、迷ったことのなかった手が、初めて、一つの返事を決めかねていた。


 夜は、まだ長い。レフの息は、細いまま、続いている。ガイの伏せた背に、火明かりが、赤く小さく揺れていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アーク、旧パーティー再会編の六話目、命綱を切ったのは、です。


 前の話で声にならなかったガイの慟哭が、今回とうとう外へ出ます。やりたかったのは、悪人ではない人間の崩れ方でした。悪意で誰かを切ったのなら、こんなふうには壊れません。良かれと思って、あるいは何も見えないまま、いちばん大事な手を重りと勘違いして自分で断ち切った——そのことに気づいてしまった善人の、根からの折れ方を、静かに書きたいと思いました。命綱という言葉は、崖の下で綱を握る手の話として組みました。登る側は、綱があることさえ忘れて上ばかり見ています。その綱を、身軽になろうとして自分で切る。身軽になどならず、落ちても止まらない体になるだけだ、というところに、この話のいちばん苦い芯があります。


 クレイのほうは、恨みを晴らしません。溜飲も下がらない。四千三百回この男を拾ってきた手が、崩れる姿を喜べるはずもないのです。かといって達観もしていなくて、返事をしたくない自分の気持ちの出どころさえ、うまく掴めずにいる。動かす先をどこにするか——七年迷わなかった手が、初めて一つの返事を決めかねる。その揺れが、次の話につながります。


 次回、自分で決める。ガイの頼みに、クレイがどう答えるのか。どうか続けて見届けてやってください。

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