四千三百回の真実
北の村の、いちばん奥の小屋だった。
白髪の老人が、火を絶やさぬ炉のそばをレフに貸してくれた。ティナが縁をつけた、たった一人ぶんの伝手だ。木戸の内は、外の冷えとは切り離された、煤と乾いた薬草の匂いがした。
藁を敷いた床へ、レフを横たえる。ガイが担ぎ布をほどく指は、存外にやさしかった。七年、仲間を運んできた腕だ。
「水を、少し」クレイは言った。「喉の奥へ落とすだけでいい」
セルカが革袋の口をレフの唇へ寄せた。レフの喉が、一度だけ細く鳴った。
外では、日がまだ高い。冷たさは退いたきり、戻ってはこない。だが消えてもいない。村の北の空だけが、朝のうちから灰の色をしていた。
炉の火が、皆の顔を下から照らした。ガイは、壁を背にして座った。聖剣を膝の横へ立てかけている。抜く相手のいない剣だ。
ティナが、帯の手帳へ指をかけた。
「勇者ガイ」ティナが呼んだ。「村まで、逃げなかったね」
「逃げる理由が」ガイが低く返した。「わからん」
「わかってるから」ティナは首を振った。「逃げたかったはずだ」
ガイは答えなかった。膝の上で、両手が組まれて、また解けた。
ティナが、手帳を炉のそばへ置いた。
「見せると言った」その声は静かだった。「七年ぶんの数字を。あなたたちが運と呼んできたものの、中身を」
ティナは、頁を最初から繰らなかった。真ん中あたりを、指の腹で開いた。
「私が書いたのは、ひと月ぶんだけ」ティナは頁へ目を落とした。「あなたたちの七年を、私は見てない。ここにあるのは、あなた自身が話したことだけ。あとは、この目で見たことだけだ」
「なら、七年ぶんの数字なんて」ガイが返した。「あるわけがない」
「ある」ティナは顔を上げた。「あなたが、さっき自分で数えたじゃないか」
ガイの目が、揺れた。
「昨日の火のそばで」ティナは続けた。「私が訊いた。追放の前の七年、死人はと。あなたは即答した。出てない、一人もだと」
「言った」
「そのあと、深い傷はと訊いたら」ティナは指を一本立てた。「幾度もあったと、誇らしげに数え上げた。腹を裂かれた。喉を食われかけた。崖から落ちた。それでも朝には剣を握っていた、と」
ガイは黙った。組んだ手の親指が、もう一方の甲を強く押している。
「その二つを、並べる」ティナは言った。「致命の傷が、幾度も。死人は、ゼロ。……これが、あなたたちの七年だ」
「だから、強かったと言ってる」ガイの声に、なけなしの力がこもった。「腹を裂かれて立ち上がる。それが、俺たちだ」
「腹を裂かれて」ティナは静かに遮った。「人は、立ち上がらない」
火が、小さく爆ぜた。
「大陸の、どこの婆さまに訊いても同じことを言う」ティナは続けた。「死は巻き戻せぬ一線。裂けた腹の底が抜ければ、人は死ぬ。それが千年、一度も破られなかった約束だ」
ティナは、頁の一点を指した。
「なのに、あなたたちは破ってきた。七年、四千三百回。一度も、死ななかった」
「四千三百」ガイが繰り返した。「そんな数、誰が」
「本人が」ティナは、炉の向こうへ目をやった。「そこに座ってる」
ガイの視線が、初めてクレイのほうへ落ちた。
クレイは、炉の縁の低いところに座っていた。
その数を、自分が数え終えたのは、北の村で目覚めた夜のことだ。傷を数える癖が逆回しに動いて、七年ぶんが一列に並んだ。四千三百。数え終えたとき、うれしくも誇らしくもなかった。ただ、途方もなく静かだった。息を吐いても、白い曇りにならない静けさだ。汲むものの何もない掌は、軽すぎて、自分の手の重さがわからなかった。四千三百の一つずつを指でたどり終えるのに、夜明け前のひとときが要った。
「クレイ」ティナが名を呼んだ。「あなたの口から、要る」
クレイは、すぐには答えなかった。ティナさんに名を託したあの夜には、四千三百と、一度だけ声に出した。だが、それきりだ。ガイたちの前で口にするのは、これが初めてだった。声に乗せた途端、口が重くなる。
名を一つ挙げるたび、その日の底冷えが手のひらへ戻ってくる。四千三百ぶんが一度に戻ってきたら、たぶん立っていられない。
「霧の谷」クレイは、低く切り出した。
ガイの肩が、跳ねた。
「一年前だ」クレイは続けた。「魔狼の群れに囲まれた。あんたの喉に、牙が入った」
「あれは」ガイが言った。「掠っただけだ」
「食い破られた」クレイは返した。「血が、鎧の胸まで垂れた。次の息で、傷が無くなった」
ガイの喉が、ひとつ動いた。
「北の渓谷」クレイは、目を上げなかった。「三年前。レフが、崖から落ちた」
藁の上で、レフのまぶたが薄く開いた。
「落ちて、一度冷たくなった」クレイは続けた。「岩の下でな。俺は、十歩の先にいた」
「覚えてる」レフが、かすれた声で漏らした。「起きたら、上にいた。誰かが、引き上げてくれたと思ってた」
「引き上げてない」クレイは打ち消した。「落ちたことが、無くなっただけだ」
レフが、天井を見た。荒い息が、しばらく続いた。
「ミラの番も、あった」クレイは言った。「二年前の冬。毒の沼に、胸まで沈んだ。あの人は、這い上がった覚えもないと言ってた」
「ミラは」ガイの声が、掠れた。「発った。もう、いない」
「知ってる」クレイは応じた。「たぶんあの人も、最後まで運だと思ってた。それでいい」
名を挙げるたび、左手の甲が皮膚の裏で一度、鈍く疼いた。汲むときの熱ではない。古い傷を指の腹で押したような、遠い痛みだった。挙げ終えるたび、クレイはその甲を膝の上で静かに握った。
名を挙げるたび、部屋の温度が一つずつ下がっていくようだった。挙がるのは、みな覚えのある日ばかりだ。運がよかったと、七年しまってきた日ばかりだった。
「三つ、挙げた」クレイは言った。「残りは、四千二百幾つだ。ここで、全部数えるか」
誰も、答えなかった。
「四千三百回」クレイは言った。
炉の火のほかに、音はなかった。
「あんたらが、運と呼んでた数だ」クレイは続けた。「その一回ずつを、俺は覚えてる。誰が、いつ冷たくなったか。ぜんぶな」
「なぜ」ガイが、絞り出した。「なぜ、黙ってた」
クレイは、少し間を置いた。
「言えば、信じたか」
ガイが、口を開いて、閉じた。
「信じられるなら」クレイは言った。「追い出しもしなかったろ」
その一言が、いちばん静かに落ちた。
「だから、黙って数えた」クレイは言った。「四千三百回。独りでな」
独り、という言葉に、力は入っていなかった。恨みを込めれば、まだ楽だった。恨みには、宛先がある。だがこれは、どこへも向かわない。七年も隣にいて誰にも見えなかった。その事実は、恨むには薄すぎ、忘れるには重すぎた。
「気づかれたかったわけじゃない」クレイは言った。「礼も、要らない。ただ、そこにいた。四千三百回、死なせない側にな」
「それだけは、運じゃない。運は、こんなに続かない」
ティナが、静かに引き取った。
「運は、一度きりのものだ」ティナは言った。「まぐれ、と人が呼ぶやつ。一度なら、運でいい。二度でも、まだいい」
ティナは、頁を閉じた。
「四千三百回、片方へ倒れ続けたもの。それは、もう運の顔をしていない。誰かの手だ。ずっとそこにあって、誰にも数えられなかった手だ」
セルカが、壁際で口を開いた。何か言いかけて、やめた。
辻へ来る道で、この娘は言っていた。あんたらのざまあを、思いきり笑ってやる、と。その声を、クレイは覚えている。だがいま、その八重歯は見えない。事実が一つずつ並べられていくのを、剣の柄を握ったまま、じっと聞いている。溜飲が下がる、という顔ではなかった。奥歯を噛んで、下の唇を内側へ巻き込んでいる。笑うためでなく、何かをこらえるために動いている顔だった。
ガイは、その数字を、正面から受けていた。
四千三百。声に出されると、ただの数ではなくなった。一つずつに、日と場所と、仲間の名前がついている。
霧の谷を、ガイも覚えていた。狼の群れの中で、喉が熱く濡れたのを。あのとき、死んだと思った。ほんの一拍、そう思った。だが次の息で、痛みも血も引いていて、自分はまだ剣を握っていた。運がよかった、と皆で笑った。焚き火のいちばん端で、荷持ちの小僧が、薬研を回していた。あの背中を、ガイは見ていない。見る理由が、なかった。
いま、その一拍が、名前を持ってしまった。
狼に喉を裂かれて、自分は一度、死んだ。それを、後ろにいた手が、無かったことにした。数えてもいない、礼も受けていない手が。
思い出せる限りの「運がよかった日」が、順に並べ替えられていく。霧の谷。北の渓谷。ミラの沼。どれもが、名前と、日付と、後ろの手を持っていた。四千三百の運が、四千三百の手に変わっていく。一つ残らず。
いつもの手つきで、胸の内から運という札を探した。指は、そこにあるはずの一枚を、つかみそこねた。
喉を食い破られた感触は、まだ肌に残っている。鉄の匂いのする熱さ。鎧の胸を伝い落ちた血の、生ぬるい重さ。この体が覚えているものを、作り話とは呼べない。作り話でないなら、まぐれでもない。まぐれは、肌にこんな熱を刻んで残しはしない。
ガイの手が、聖剣の柄を探した。握っても、落ち着きは来ない。この数字を斬る相手は、どこにもいない。強いて言えば、強かったと信じてきた七年の自分だけだった。
「証拠は」ガイが、乾いた声で言った。「その手帳の数字に、証拠はあるのか」
「昨日、あんたが証拠だった」クレイは言った。「胸を、貫かれたろ。それでも、立ってる」
ガイの息が、止まった。
「あれを、運だと言えるなら」クレイは続けた。「言えばいい。俺は、止めない」
ガイは、言えなかった。胸に手を当てる。破れのない布の下を、たった一日前、たしかに何かが貫いた。その感触を、この体が覚えている。
「小僧」レフの声が、藁の上から届いた。
クレイは、そちらへ膝を向けた。
「四千三百回、拾ってもらってたのか」レフが訊いた。「俺も、その中に」
「入ってる」クレイは、レフへ目をやった。「北の渓谷のほかにも、何度も」
レフは、しばらく天井を見ていた。
「一度も」レフが呟いた。「振り向かなかった。後ろに、誰がいるかも知らずにな」
「前を見るのが」クレイは言った。「あんたの仕事だった」
「よく言うよ」レフの口の端が、かすかに歪んだ。笑おうとして、うまくいかない歪み方だった。「四千三百も借りて、一度も頭を下げないままだ」
レフの目が、ゆっくりクレイへ向いた。
「返す当てのない借りだな」レフが続けた。「四千三百は、拾ってもらった。四千三百一回目だけが……拾えない傷か」
「そうだ」クレイは言った。
西の巣の傷は、昨日の辻で診てしまっている。息のうちでなければ、戻せない。四千三百回間に合った手が、追い出されたひと月のあいだだけ、間に合わなかった。
レフの喉が、笑うように鳴った。息の絶えかけた、乾いた音だった。
「わるくない、勘定だよ」レフが言った。「四千三百、ただで生きた。一つぶんは、俺が払う。文句を言えた義理じゃ、ない」
「レフ」ガイが、壁際から呼んだ。声が、震えていた。「そんな、勘定みたいに」
「勘定さ」レフが遮った。「命の勘定を、七年ぶん踏み倒してきた。踏み倒した相手が、そこにいる」
ガイは、その相手を見た。膝をつめて座る、痩せた治療師を。七年、いてもいなくても同じだと思っていた男を。
「あたし」セルカが、ようやく口を開いた。「笑ってやるつもりだった」
剣の柄から、手が離れた。
「辻へ来る前に」セルカは続けた。「あんたらのざまあを、思いっきり笑ってやるって決めてた。役立たずって捨てた男に、いま泣きついてる。滑稽だろって」
セルカの声が、いつもの威勢を失っていた。
「でも、笑えない」セルカは言った。「ぜんぜん、笑えないよ。あんたらが四千三百回助かってたのが、こいつが四千三百回独りで冷たいのを触ってたってことなら」
セルカは、クレイの左手のほうへ目をやった。炉の火に、その甲が薄く照らされている。線は、今日は沈んで動かない。
「あたしのぶんも、その中にある」セルカは言った。「首も、脇腹も。あたしが平気な顔してた裏で、こいつが一回ぶんずつ減ってた。……ざまあなんか、どこにもないよ。あるのは、こいつが独りだった時間だけだ」
部屋が、静かになった。
ティナは、手帳を膝へ戻していた。ペンは、指のあいだに挟んだまま、紙へ下ろさない。挟んだ指の先が、書きたいのをこらえるように、一度だけ白くなった。書くことは、もう終わっている。数字は、並べ終えた。あとは、向こうがそれを自分の手で数えるだけだった。
この娘が数字を並べる理由を、クレイは知っている。昔、五人を一度に失って、何ひとつ書けなかった。だから、書ける数字は消さずに並べる。運の一言で流されていくものを、一つずつ床へ置く。それが、この娘の弔い方だった。
「勇者ガイ」ティナが言った。「私は、あなたを責めに来たんじゃない」
ガイが、顔を上げた。
「責めるなら」ティナは続けた。「もっと早く、辻で言えた。滑稽だと。セルカが言いかけたことを、全部な」
「言わなかったのは」ティナは言った。「あなたに、自分で数えてほしかったからだ。私が数えたら、それは私の答えになる。あなたのものには、ならない」
「四千三百回。その中身を、これからはあなたが持つ番だ」
ガイは、動かなかった。
膝の上の両手が、震えていた。それを止めようとして、止まらなかった。震えは、指から腕へ、腕から肩へ伝った。膝の横に立てかけた聖剣の鞘に、こわばった指がぶつかる。柄頭が石の床を打って、小さく鳴った。かつて魔を斬った剣が、いま持ち主の震えを拾って、意味もなく鳴っている。
いてもいなくても同じだ——七年前の焚き火で、そう言った。あの一言を、いま、逆から読み直している。同じではなかった。この男がいたから、四千三百回、誰も死ななかった。この男を外へ出したから、ひと月で一人、戻らなくなった。レフが、いま、床で息を細くしている。
命綱を、と喉まで出かかった。だがその先が、言葉にならなかった。命綱がそこにあったことも、それを自分の手で断ち切ったことも、いま初めて一度に胸へ落ちてきた。落ちてきたものが大きすぎて、まだ形にできない。
ガイの喉が、鳴った。泣くのとも、うめくのとも違う、行き場のない音だった。それは、まだ声にならなかった。声にするには、七年ぶんの誇りを、根から明け渡さなければならない。そのための言葉を、この男はまだ持っていない。
クレイは、その横顔を見ていた。
崩れかけている。だが、まだ崩れきってはいない。四千三百回ぶんの見方を、たった一夜で組み替えるのは、たやすくない。
いい気味だ、とは思わなかった。四千三百回、この男の喉やレフの背を、自分の手で拾ってきた。その手が、いまさら、この男の崩れる姿を喜べるはずもなかった。拾ったものを、あとから憎むことは、どうしてもできない。この手は、昔からそういうふうに動く。
「ガイ」クレイは呼んだ。
ガイが、震える顔を、こちらへ向けた。
「今夜は、何も決めなくていい」クレイは言った。「数字は、逃げない。俺も、逃げない。レフの息が保つあいだは、ここにいる」
「……なぜ」ガイが、掠れた声で訊いた。「なぜ、そこまで」
クレイは、答えを探した。恨みでもない。情でもない。ちょうどいい言葉が、どこにもなかった。
「わからない」クレイは、視線を炉へ落とした。「そこは、まだ暗いままだ」
ガイは、両手で顔を覆った。指のあいだから、押し殺した息が漏れた。まだ、声ではなかった。だが、声になる一歩手前まで、来ていた。
レフが、藁の上で、薄く目を閉じた。
「泣くなら」レフが、かすれた声で言った。「小僧の見てないとこで泣け。……せめて、それくらいの見栄は張れ」
ガイは、顔を覆ったまま、うなずいたようだった。
炉の火が、一段沈んだ。ティナが、無言で薪を足す。外の空は、北のほうだけがまだ暗い。退いた冷たさは、村のどこかで、日暮れを待っている。ガイの震えが声になるのも、たぶん、その日暮れのあとだ。
閉じた手帳だけが、炉のそばに置かれている。四千三百回ぶんの数字を綴じた、薄い一冊だ。ガイの目に、それが聖剣より重く映っているのを、クレイは黙って見ていた。誰も、それをもう運とは呼ばなかった。
手帳は、火のそばで、動かない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アーク、旧パーティー再会編の五話目、四千三百回の真実です。この作品の、ひとつの山にあたる回になりました。
ざまぁ、と銘打った話ですが、罵倒も復讐も出てきません。やりたかったのは、事実だけを静かに床へ並べて、それが勝手に相手を裁いていく、という時間でした。ティナが数字を並べ、クレイが淡々と死にかけの日を名指していく。声を荒らげるほど、たぶん、この話は軽くなってしまう。だから、いちばん重いところを、いちばん静かに書こうと決めていました。四千三百回というのは、四千三百ぶんの誰かの死にかけで、その一つずつを覚えている手がある——そう思うと、勝ち誇るような話には、どうしてもできませんでした。
クレイは、達観していません。名を一つ挙げるたびに、その日の冷たさが指へ戻ってくる。信じられるなら追い出しもしなかったろ、という一言に、七年ぶんの諦めがぜんぶ入っているつもりです。それでも彼は、四千三百回、死なせない側にいることを選んできた。運じゃない、と言い切れるのは、その選択を、独りで積み上げてきたからです。拾ったものを憎みきれない、そこがいちばん、クレイらしいところなのだと思います。
崩れていくガイの慟哭は、まだこの回では声になりきりません。命綱を、と喉まで出かかって、言葉にならないところで止めました。次の話、命綱を切ったのは、で、その声がとうとう出ます。レフの、わるくない勘定だよ、という受け止め方も含めて、どうか続けて見届けてやってください。




