居る時だけ、死なない
冷たさが、道の先で立ち上がった。
人の形をしたものがいた。獣の形も、混じっていた。どれも、とうに息の絶えたものの形だ。
それが、朝の光の下で動いていた。土の湿りに、饐えた匂いが低く混じる。生きた息の白さだけが、どれにも無かった。
「弱りが、ない」クレイは低く言った。「張りも、ない。あれは、生きてない」
「じゃあ、なんなの」セルカが剣の柄へ手をかけた。
「死んだはずのものが、動いてる」クレイは応じた。「ガイが、言ってたやつだ」
「五つ、六つ」ティナがしんがりから数えた。「増えてる。丘の陰から、まだ出てくる」
「囲まれる前に、抜けるか」セルカが言った。
「抜けても、追ってくる」クレイは首を振った。「足は遅い。だが、止まらない」
「気持ちわるいね」セルカが低く言った。「死んでるやつと、やり合うの」
「あれ自体は、汲めない」クレイの声が沈んだ。「底で一度だけ、腕にのしかかった冷えだ。手ざわりじゃない。重さのほうが、近い」
「汲めないって」セルカが言った。「あんたの手が、効かないってこと」
「あれには効かない」クレイは返した。「けど、あれに斬られた人には効く」
セルカの息が、一度つかえた。それでも足は退かない。抜くと同時に、口が閉じた。ティナに剣を許された娘の、戦いの前の顔だ。
「クレイ」ティナが訊いた。「手は、どこまで戻ってる」
「半分だ」クレイは言った。「昨日の、半分だ」
「なら、三つは無理」
「二つ保てば、上等だ」クレイは言った。「だから、誰も外へ出すな。届く内で、受けてくれ」
「聞いた?」ティナがセルカを見た。
「聞いた」セルカが言った。「線の内側。いちばん前。いつもの、あたしの場所だよ」
先頭の一体が、道を滑るように詰めてきた。かつては人だったのだろう。肩から先が、鎌のように尖って固まっている。
「セルカ」クレイが声を張った。「俺の声の届く内で受けろ。外へは出るな」
「わかってる」
剣が、上から一体を割った。刃はたしかに肉へ食い込んだ。だが、割られた体は痛みを知らない顔で、そのまま前へ出てくる。裂けた肩口から、湯気のような冷たさが滲んだだけだった。
「ほんとに止まんない」セルカが跳び退いた。
その退き際に、二体目の尖った腕が、横からセルカの首を薙いだ。
クレイの掌が、勝手に上を向いた。
いつもなら、そこから何かがひと息で上がってくる。今日は、半分だった。ゆうべから戻りかけた手は、まだ底が浅い。汲み上げる縄が、途中で細くなっているようだった。
それでも、届いた。
セルカの首を裂いた線が、裂ける前へ返る。血の一滴が、宙で行き場をなくして消えた。首には、何もない。
「セルカ」ティナが叫んだ。「首。入ってた」
「知ってる」セルカが剣を握り直した。「クレイが、返してくれた」
「一つ」ティナがペンを走らせた。「いま、一つ目」
「数えるのか、こんなときに」セルカが言った。
「こんなときだから、数える」ティナのペンは止まらない。「あとで、要る」
押し返してくるものは、なかった。あの濃い一体とは、違う。汲めば、返る。それだけは、確かめられた。
汲むたびに、縄が指の股を擦って、そのぶん短くなる気がした。半分戻った手で、あと幾つ汲めるのか——それを、初めて数えながら汲んでいた。七年、数えたことのなかった手だ。
ガイが、レフを背に庇いながら、こちらを見ていた。セルカの首に刃が入るのを、この男も見たはずだ。血が散る手前まで、見た。それが、次の瞬間には何もない。
「いまのは」ガイの声が掠れた。「……逸れたのか」
「逸れてない」セルカが前を向いたまま返した。「まっすぐ入った。あんたも見たろ」
「見て、ない」ガイが言い張った。「もやで、よく——」
ガイの目が、逃げ場を探して横へ滑った。
「もやなんか出てないよ」セルカが遮った。「朝だ。よく見えてる。あんたが、見ないだけだ」
ガイは、聖剣の柄を握り直した。答えの代わりの、その握りだった。少し、強すぎた。
冷たさが、数を増した。
丘の陰は、もう幾体で埋まっているのか読めない。死んだ獣の背が、死んだ人の肩の上に重なって、ひとつの黒い塊になって道を下ってくる。かつて大陸最強と謳われた暁の剣の、いまは二人きりだ。
「レフを、下ろす」ガイが言った。「ここじゃ囲まれる」
「俺に、かまうな」レフがかすれた。「置いて、前を——」
「黙ってろ」ガイが遮った。「担いだ以上、落とさん」
「後ろは、私が見てる」ティナが言った。「あなたは、前だけ」
「右から、三体」ティナが指した。「セルカ、右」
「行く」セルカが跳んだ。
ガイが、レフの担ぎ布を岩陰へ下ろした。そこから先の動きは、速かった。聖剣が鞘を鳴らして抜かれる。ひと振りで、死んだ二体の首が飛んだ。飛んでも止まらない相手に、この男は容赦なく踏み込んでいく。受けても倒れない体を、七年ぶん信じきった踏み込みだった。
その戦い方を、クレイは横で見ていた。
受けながら、前へ出る。かわすより、当たって進むほうが速いと知っている体だ。七年、そうやって勝ってきた。受けても死ななかったから、受ける戦い方になった。なぜ死ななかったのかを、この男は一度も考えたことがない。考えなくてよかったのだ。後ろに、勝手に数える手があったから。
「勇者サマ、出すぎ」セルカが叫んだ。「線の外だよ」
「かまうな」ガイが返した。「数が、多い。前で削る」
「削れてないって」セルカが叫んだ。「そいつら、死んでる——」
ガイの踏み込みが、深くなった。黒い塊のなかほどまで、一人で割って入っている。冷たさの湯気が視界を白く濁らせ、足場は倒れた死骸で見えない。もう、クレイの声もセルカの剣も届かない位置だ。線の外だった。
「ガイ」クレイが叫んだ。「そこは、俺の——」
遅かった。
塊の奥から伸びた冷たい腕が、ガイの胸のまん中を、鎌の先で刺し貫いた。聖剣の切っ先が、下がる。ガイの膝が、初めて折れかけた。
クレイは、地を蹴った。届く縁まで、二歩詰める。掴めるか、掴めないか。目が合うか。ガイの顔が、こちらへ倒れかけて、その目が一瞬、クレイを映した。
映った。それで、十分だった。
半分しか戻っていない手で、あるだけを汲む。浅い底を、指の腹で掻く。掻いても掻いても薄いところから、それでも一掬いを見つけて、ガイの胸の死を手前へ返した。冷たい鎌が刺した穴が、刺す前へ戻る。白い胸のところに、破れも血もない。
ガイが、ひとつ、大きく息を吸った。その息が、いま初めて吸えた、という吸い方だった。
クレイの肩から、ひとつ力が抜けた。安堵ではない。間に合ってしまった、というただの確認だ。
「——ぐ」ガイが、聖剣を杖にして体を支えた。「いま、俺は」
「しゃべるな」クレイが止めた。「まだ、息が浅い。立て直してからだ」
「二つ」ティナの声が、後ろで低く落ちた。
「クレイ」セルカが叫んだ。「大丈夫か。顔、白い」
「……立ってる」クレイは片膝を道に落とした。「二つで、これだ」
二つ。頭の隅で、数がもう一つ落ちた。半分の手で、二つ。指の先が、もう自分の指の感じがしない。左手の甲の線は、疼きもせず沈んだままだ。今日は、起きてくれない。起きられるだけの中身が、もう無いのかもしれなかった。
昔から、決めていた。死なせない、と。だがその決まりは、相手を選ばない。七年こき使って自分を門の外へ出した男でも、手の内へ倒れてくれば、返してしまう。因果な手だ、と思う。返してから相手の顔を見て、初めて誰だったかを思い出すような。
「ガイ」レフが、岩陰から呼んだ。「お前、いま」
「なんともない」ガイが、胸に手を当てた。「かすっただけだ」
「かすった、で」レフがかすれた。「聖剣を、落としかけたのか」
返す言葉を、ガイは持たなかった。胸に当てた手が、破れのない布をなぞるばかりだ。
白い装束に、破れはない。血も、ない。だが、たったいま、そこを何かが貫いた。感触は、まだ残っている。
刺された刹那のことを、ガイは覚えていた。まず、冷えが胸の芯まで届いた。
それから、音が遠のいた。剣戟も、セルカの声も、耳の奥へ吸われて消えた。
次に、自分の重さがわからなくなった。手足の先から、順に暗くなる。立っていろと念じたのに、脚は、もう自分のものではなかった。
そして、次の息で、何もなくなった。冷えも、暗さも、消えた。気づけば、両足で立っていた。剣を、握っていた。
いまのは、何だ。逸れた、とは言えなかった。切っ先が胸の芯まで届いた感触を、この体が覚えている。あれは、致命だった。前衛を七年やってきた男が、致命かどうかを見誤るはずがない。致命の傷を負って、自分は、立っている。
「勇者サマ」セルカが、剣先をだらりと下げたまま近づいた。その目が、ガイの胸の一点から動かない。「あんた、いま死んだよ」
「馬鹿を、言え」ガイが言った。「立ってる」
「あたしも、立ってた」セルカが返した。「祠で、腹の底が抜けたあとにな。傷ひとつなく、立ってた」
「それが、どうした」
「同じだって、言ってるんだよ」セルカが言った。「あんたが、いま立ってるのも。あたしが、あのとき立ってたのも」
「こいつの手の届く内に、いたからだ」セルカが続けた。
ガイの目が、セルカへ向いた。
「一歩でも外へ出てたら、あんたはいま道に転がってる」セルカが言った。「さっき、出たろ。深く入りすぎた」
「それでも生きてるのは、こいつが間に合ったからだよ」
「七年ずっと」セルカが言った。「あんたが受けても死ななかったのは、強かったからじゃない」
「こいつが、後ろで間に合ってた。ずっとだよ」
ガイは、それを聞いていた。否定の言葉を、口の中で探す。指が、また聖剣の柄を握る。それだけが、返事の代わりだった。
「ガイ」レフが、岩陰から呼んだ。「その娘の言うとおりかもしれん」
「レフ」ガイの声が低くなった。「お前まで」
「俺は、いま聞いたんだ」レフが言った。「お前の、死ぬ音を。あれを聞いて、まだ運と言えるか」
運だ、と言おうとした。だが、その言葉は口の手前で固まった。運は、胸を貫いたりしない。運は、貫いた穴を無かったことにしたりしない。いま起きたことに、運という札は、もう貼れなかった。
「嬢ちゃん」ガイが、掠れた声で言った。「お前の名は」
「セルカだよ」セルカが言った。「あたしの名前くらい、七年後ろにいた男は覚えてる。あんただけだ、いまも嬢ちゃんって呼ぶの」
ガイの唇が、動いて、止まった。
「セルカ」クレイが止めた。「もう、いい」
「よくないよ」セルカが言った。「こいつら、まだわかってない」
「わかる時は、自分で来る」クレイは応じた。「押しても、早まらない」
道の先で、冷たさが退きはじめた。
朝の日が、丘の肩をこえて道へ差した。温みが戻るにつれ、死んだものたちの足が鈍り、来た方へ、黒い塊がゆっくり引いていく。倒しきったのではない。ただ、今日のところは退いた。鳥の声が、どこかで一つ、戻った。
「行った、の」セルカが剣を下ろした。
「退いただけだ」クレイは言った。「日が高いうちは、来ない。たぶん」
「たぶん、ばっかりだね」セルカが息をついた。
「わからないものは、わからないと言う」クレイは言った。「そのほうが、備えられる」
「ティナ」セルカが振り返った。「いくつ、書いた。今日」
「二つ」ティナは帯の手帳を軽く叩いた。「セルカの首と、勇者ガイの胸。どちらも、戻った」
「これまでのと、合わせて」セルカが言った。
「合わせて」ティナはうなずいた。「これで、見せられる」
クレイは、片膝をついたまま、しばらく立てなかった。半分の手で二つ返した。それだけで、膝が地面から離れない。
「立てる?」セルカが、手を差し出した。
「……もう少し」クレイは返した。「二つで、これだ。情けない」
「情けなかない」セルカが、クレイの腕を引いて立たせた。「二つ、生きてる。あんたのおかげで」
立ち上がると、視界の縁が薄く滲んだ。すぐに戻った。今日の手であと五つ来ていたら、と思うと、背の裏が冷えた。三つで止まる手が、いまは三つも持っていない。
ガイが、レフを担ぎ布から抱え直しながら、こちらへ来た。
「クレイ」ガイが言った。声が、掠れている。「さっき、俺は」
「言わなくていい」クレイは遮った。「まだ、決めなくていい」
「決める、とは」
「あんたが、いま何を見たかだ」クレイは言った。「運と呼ぶなら、呼べばいい。だが、その札がまだ貼れるかどうか。それは、あんた自身が知ってる」
ガイは、抱えたレフの重みへ目を落とした。返す声は、その重さの下に沈んだ。喉が、飲み下すものもないのに一度動く。肩が、七年ぶんの何かをいちどきに受けて、わずかに落ちた。怒りは、その顔のどこにもなかった。
「小僧」レフが、ガイの腕のなかで薄く言った。「俺はさっき、なんにも見えなかった。だが、聞こえた」
「何が」クレイが訊いた。
「ガイが、死んだ息の音だ」レフが続けた。「七年隣で聞いてきた息とは、別の音だった。……それが、消えた。次の息で」
ガイの腕が、こわばった。
クレイは、何も言わなかった。言えば、この二人が自分で辿るはずの道を、先に踏み荒らすことになる。数えるのは、この手ではない。とうに数え終えたこの手ではなく、いまようやく数えはじめた、あちらの手だ。
ティナが、帯から手帳を抜いた。
「勇者ガイ」ティナが言った。「一つ、見せたいものがある。ここでは、ない」
「何を」ガイが訊いた。
「数字を」ティナは言った。「七年ぶんの。あなたたちが運と呼んできたものの、中身を」
「村に着いて、レフを寝かせてからだ」ティナは手帳を帯へ戻した。「それまで、逃げないで」
「逃げる、とは」ガイが訊いた。
「見ないふりを」ティナは言った。「あなたの、いちばん得意なやつを」
ガイは、その手帳を見た。薄い一冊が、聖剣より重そうに——鉛でも綴じてあるように、ガイの目に映っているのが、クレイにはわかった。
村までは、あと四半日ほどだ。その道のあいだに、この男が自分の足で辿り着くのか。それとも、ティナさんの数字を見てから崩れるのか。クレイには、わからなかった。どちらへ転んでも、黙って隣を歩く役が、こちらに残る。声をかける言葉は、まだ一つも見つからなかった。
レフの息は、まだ細い。冷たさは、退いただけで、消えてはいない。
クレイは、半分の手を、そっと握った。あと幾つ汲めるか、まだ数えながら。列が、ふたたび北の村へ動きだした。歩く順は、今朝発ったときのままだ。誰も、場所を入れ替えなかった。ただ一つ変わったのは、いちばん前を行く男の首だった。道の先を確かめるはずのその首が、幾度も後ろへ回る。クレイの手のあたりへ。これまで一度も、そちらを向かなかった首だ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アーク、旧パーティー再会編の四話目、居る時だけ、死なない、です。
前回までは言葉と日付で否認を突いてきましたが、今回はとうとう、体で突きつけられる番になりました。ガイは、自分の戦い方そのものが答えだったことに、まだ言葉では気づけません。受けても死ななかったから、受ける戦い方になった——強さだと信じてきたその踏み込みが、じつは後ろの手を前提にしていた。線の外へ一歩出て、初めて自分の死を内側から知る。あの、冷えが胸の芯まで届いて音が遠のいていく感じを、セルカの祠のときとは別の音で書きたいと思いました。
クレイのほうは、達観していません。手は半分しか戻っていなくて、あと幾つ汲めるかを初めて数えながら汲んでいる。三つで止まる手が、今日は三つも持っていない。そのうえで、自分を捨てた男が倒れてくれば、勝手に返してしまう。因果な手だ、と本人も思っています。恨みならまだ手に負えるのに、返したあとで相手の顔を思い出すような、名前のつかない濁りだけが残る。そこがいちばん、書いていてクレイらしいなと感じたところでした。
数えるのは、もう彼の手ではありません。とうに数え終えた手ではなく、いまようやく数えはじめた、あちらの手です。次の話は、四千三百回の真実。ティナの薄い一冊が、聖剣より重くなる番です。どうか続けて見届けてやってください。




