否認
火は、ガイが熾したものだった。
辻の道標の根方で、細い炎が椀の湯を鳴らしている。吐く息が、うっすら白い。夜半を過ぎて、冷えが地面から這い上がっていた。七年のあいだ、火の番はいつもクレイの役だった。追い出した側が薪をくべ、追い出された手が病人のほうへ屈んでいる。順が、どこかで裏返っていた。
クレイは、レフの脇腹へ指を添えた。布の下の熱が、夜のあいだにまた一段上がっている。
「湯だ」ガイが、椀を差し出した。「これで足りるか」
「足りる」クレイは受け取った。「布を浸して、絞る。冷めたらまた頼む」
ガイは、うなずいた。命じ慣れた男が、言われたとおりに動いている。その手つきの不慣れさが、かえって目についた。
温めた布を、クレイは傷の上へ置いた。レフの息が、浅く波打つ。
「しみるか」
「……たいして」レフの声は薄かった。「もう、遠いんだ。何もかも」
遠い。いい兆しではない。指の腹に伝う脈は速く、浅く、間がまばらだった。
「どうなんだ」ガイが、火の向こうから訊いた。「その傷は、戻るのか」
「戻らない」クレイは、目を上げずに言った。「これは、もう戻せない」
「昨日は、戻す傷だと言った」
「戻す傷だ」クレイは布を絞り直した。「だが戻すなら、傷を負ったその息のうちだ。ひと月は、遠すぎる」
ガイが、その言葉を口の中で転がした。息のうち、というひとことだけが、口の中でほどけずに残った。
「何の話だ」ガイが言った。
「手当ての話だ」クレイは短く返した。「いまできるのは、遅くすることだけだ。抜けていくのを、少しな」
「遅く、しかできんのか」
「ここでは、そうだ」
ガイが、詰めていた息を、ひとつ逃がした。聖剣まで差し出すと言った男が、遅くすることだけを差し出されて、その差を測りかねている。
薪が一本、爆ぜた。火の粉が細く上がって、夜のなかへ消えた。
「なあ、小僧」レフが、まぶたを持ち上げた。「西の巣で、俺がやられたときな」
「言うな」ガイが、低くさえぎった。
「あんな傷、昔もあった」レフはかまわず続けた。「もっとひどいのもだ。腕がちぎれかけたことも、腹を割かれたこともある。なのに、朝には立ってた」
「レフ」
「立ってたんだよ、ガイ」レフの声がかすれた。「それが、今度は立てない。同じ傷で、なんでだ」
クレイは、布の端を裂いた。手は止めなかった。指だけが、いつもより固くなっている。
「巣の主が、格上だった」ガイが言った。「深く入られた。それだけだ」
「深さの話じゃない」レフが目を閉じた。「深いのは、前にも入ってた。塞げば戻った。今度は塞いでも戻らない。そこが、違う」
「疲れだ」ガイは言った。「連戦の疲れが、抜けきる前に受けた。だから戻りが鈍い」
レフは、それには答えなかった。荒い息が、火のそばで小さく上下するだけだった。
「熱は」クレイが訊いた。
「昨日より高い」ティナが、レフの額へ手の甲を当てた。「引いてない」
クレイは、白根を薄く削って椀へ落とした。湯を差し、匙で溶く。煎じるひまはない。せめて、舌の下へ置いて熱を下げる。
「口を、少し開けてくれ」
レフが、わずかに顎をゆるめた。クレイは匙の縁を舌の奥へ滑らせた。
「苦いな」レフが眉を寄せた。
「苦い」クレイはうなずいた。「効くやつは、たいてい苦い」
ティナが、帳面を膝に開いていた。ペンは、まだ動かしていない。
「勇者ガイ」ティナが言った。「一つ、教えて」
「なんだ」
「追放の前は」ティナは静かに訊いた。「七年、死人は」
「出てない」ガイは即座に言った。「一人もだ。俺たちは、強かった」
「一人も」ティナが繰り返した。「その七年で、レフの脇腹より深い傷は」
「幾度もあった」ガイの声に、誇りが戻った。「腹を裂かれた。喉を食われかけた。崖から落ちた。それでも、朝には剣を握ってた」
「深い傷は、幾度もあった」ティナは書かずに言った。「なのに、死人は一人も出ていない。追放のあとは、ひと月で塞いでも戻らない傷が一つだ」
「波だ」ガイが言った。「長くやってれば、巡ってくる。上がる時と、下がる時がある」
「波なら」ティナはペンを取った。「上下する。上がって下がって、また上がる。あなたたちのは、片側だけ落ちてる。上がってこない」
ガイが、口を開いて、閉じた。
「それは」ガイが言った。「たまたま、下がりが続いてるだけだ」
「たまたまが」ティナは帳面に一行を落とした。「七年、片側だけ都合よく続いた。それも、たまたまか」
ガイは、答えなかった。火明かりのなかで、その顎が固く結ばれている。
クレイは、匙を椀へ戻した。ティナのペンが、いま何を書いているのかは見なくてもわかる。日付を、揃えているだけだ。名前は、まだつけずに。
だが、揃った日付が向いている先を、この男はまだ見ようとしない。見れば、七年ぶんの誇りが根から形を変える。だから見ない。見ないでいられる、いまのうちは。
波立つな、と胸の内へ言い聞かせる。それでも、吐いた息が、思ったより浅い。七年、あの背中のすぐ後ろに立ってきた。それがいま、火の向こうで聞こえないふりの横顔になっている。
夜が、いちばん底まで下りた。
風が腕木を鳴らし、火がひとまわり縮んだ。ガイが薪を足す。その手が、クレイの膝のすぐ横で薪を組んだ。近い。七年、これほど近くで火を挟んだことはなかった。いつも、いちばん端にいた。
「小僧」レフが、また目を開けた。「お前、俺たちの後ろで何を見てた」
「傷を」クレイは言った。「誰が、いつどこをどれだけ」
「傷を、な」レフが、長い息を吐いた。「戦のあいだ、ずっとか」
「ずっとだ」
「俺は」レフが言った。「一度も、お前のほうを見なかった。剣の先しか、見てなかった」
「それでいい」クレイは言った。「前を見るのが、あんたの仕事だ」
「よかないさ」レフの声が、ひび割れた。「後ろで、誰かが数えてたんだ。俺の傷を、俺より正しく。なのに、俺は一度も」
「レフ」ガイが、また止めた。「休め。しゃべると、息が減る」
「減っても、いい」レフが天を見た。「ガイ。一つだけ、言わせろ」
ガイは、黙った。
「七年」レフが言った。「俺たちは、こいつの手のうえで生きてたのかもしれん」
火が、鳴った。
「やめろ」ガイの声が、低く硬くなった。「それは、違う」
「違うか」
「違う」ガイは言い切った。「俺たちが、強かったんだ。剣を握り前で受けて、倒してきた。こいつは、後ろにいただけだ。荷を持ち薬を練って、後ろに」
言葉が、そこで途切れた。ガイ自身が、途切れさせた。
クレイは、火を見ていた。顔を上げなかった。上げれば、何か言ってしまいそうだった。
あんたが強かったのは、本当だ。剣は本物だった。倒してきたのも、本当だ。ただ、倒したあとに開いた穴を、誰が塞いでいたか——そこだけが、あんたの目に一度も映らなかった。
それを、いま言っても仕方がない。言えば、縋られるか、逆に恨まれるか、どちらかだ。どちらも、レフの息を戻しはしない。
だから、黙って布を絞る。夜のあいだ、これを繰り返すことだけが、いま手のなかで確かだった。抜けていくのを、少しでも遅くする。ただ、それだけを。
決めごとというより、指が昔から勝手にそう動くだけだ。宛先が誰であっても、火のそばにいる限りは。
「クレイ」
セルカの声が、火の外から低く飛んだ。ずっと、輪の外に立って剣を提げていた娘だ。
「なに」
「あんた、平気なの」セルカが言った。「そんな話、聞かされて」
「平気じゃない」クレイは言った。「でも、手は動く」
「動かなくていいよ」セルカが言った。「あたしなら、動かさない。捨てられた相手だよ」
「動かさないと」クレイは布を置いた。「レフが、朝まで保たない」
セルカが、口をつぐんだ。火のなかの薪を、睨むように見ている。
「あたしはさ」セルカが、ぽつりと言った。「置いてかれる側の気持ちなら、知ってる。あんたも、そっち側だったんでしょ。七年、後ろの端っこで」
クレイは、答えなかった。答えの代わりに、匙を洗う手が止まった。
「だから」セルカが顔を背けた。「腹が立つんだよ。あんたが、その端っこからこいつらのために屈んでるのが」
「セルカ」ティナが、静かに言った。「クレイは、こいつらのために屈んでない」
「じゃ、何のために」
「目の前で、一人抜けてくから」ティナはペンを止めずに言った。「それだけだと思う」
セルカは、それきり何も言わなかった。剣の柄を握り直して、また辻の闇のほうへ目を戻した。
白みが、東の丘の際から滲みはじめた。
レフの熱は、白根のおかげで一段だけ下りた。だが息の間は、まだ空いたままだ。夜を越したのは、辛うじてだった。次の夜を、同じ辻の風の下で越せるとは思えない。
「動かすしかない」クレイは言った。「ここは、風が通りすぎる。屋根と、火の絶えない場所へ」
「どこへ」ガイが訊いた。
「北の村なら、半日だ」ティナが言った。「木戸がある。火も、絶やさない」
「村が」ガイが言った。「よそ者を、入れるか」
「一人、うちが縁をつけた」ティナは短く言った。「入れる」
ガイが、クレイのほうを見た。縁をつけた、というのが誰の手柄かを、言われずに察したらしい。だが、礼の言葉は出てこなかった。出せば、負けだとでも思っているように、唇が結ばれた。
「担ぐのは」ガイが言った。「俺がやる」
「あんたが」クレイは言った。「揺らすな。傷に、響く」
「七年、仲間を担いできた」ガイが言った。「揺らし方くらい、心得てる」
その一言だけは、迷いがなかった。前衛の背中を守ってきた、本物の自負だ。クレイは、うなずいた。担ぐ相手を選ぶなら、この男の背は悪くない。
外套を裂いて、担ぎ布を作る。レフの肩の下へ通し、ガイが慎重に背負い上げた。レフの顔が、ガイの首すじの横で歪む。
「……重いだろ」レフがかすれた。
「羽根だ」ガイが言った。「昔から、お前は羽根だった」
レフの口の端が、かすかにゆるんだ。嘘と知って、それでも受け取る顔だった。
嘘だった。レフは大男だ。だがガイの膝は、その嘘を支えて立った。
この男の嘘は、いつもこうだ。仲間を安心させるためなら、平気で本当をねじ曲げる。七年、その嘘に助けられた者は、数えきれない。クレイ自身も、たぶんそのひとりだった。追い出されるまでは。
その嘘が、いちばん近くの手当ての価値には、一度も向かなかっただけだ。
「先、歩くよ」セルカが、剣を担いだ。「東の道は、あたしが知ってる」
「頼む」クレイは言った。
列が、動きだした。前にセルカ、次にレフを負ったガイ、脇にクレイ、しんがりにティナ。かつての勇者と、追い出した手が、同じ列で北の村へ向かう。
こんな並びを、追い出されたあの朝の自分は思い描けなかった。うれしくはない。ざまあみろとも、まだ思えない。ただ、列の重心が、七年前とは別の場所へ移っている。それだけは、指でわかる。
半日の道の、半ばだった。
「なあ、クレイ」ガイが、背に問うた。レフを負ったまま、前を向いている。「一つ、訊いていいか」
「なんだ」
「お前を追い出した日から」ガイが言った。「俺たちは、坂を転げるみたいに落ちた。西で南で、岩窟で。連れが減って、いまは二人だ」
「聞いた」
「それと、お前が抜けたのは」ガイの声が、わずかに掠れた。「関わりがあると、お前は思うか」
クレイは、少し黙った。前を歩くセルカの肩が、ぴくりと止まった。ティナのペンが、帯のなかで鳴った気がした。
この男は、いま、扉の前まで来ている。自分の口で、それを開けようとしている。開けば、七年ぶんの重みが、この男の膝へ一度に乗る。
「それは」クレイは言った。「あんたが、決めることだ」
「俺が」
「俺が関わりありと言えば」クレイは言った。「あんたは、俺のせいだと聞く。俺が無いと言えば、安心して忘れる。どっちも、俺の言うことじゃない」
「逃げるのか」ガイが言った。
「逃げてない」クレイは言った。「数えるのは、あんたの手だ。俺は、もう数え終えてる」
ガイの背が、黙った。しばらく、足音だけが道に鳴った。
「……関わりなんか、ない」ガイが、前を向いたまま言った。「落ちたのは、運だ。上がる時が、まだ来てないだけだ」
言い終えて、ガイの足が、わずかにもつれた。レフの体が揺れる。
「揺らすな」クレイが言った。
「……ああ」ガイが、足を立て直した。
運だ、と、この男はもう幾度口にしたろう。口にするたび、その声が前より痩せていく。
塗り重ねるほど下地が透ける絵のように、否認の下から別の形が滲みかけている。それでも塗る。塗りやめれば、絵が変わってしまうからだ。
痛いのは、こちらの胸のほうだった。恨みなら、まだ手に負えた。名前が、ついているからだ。
だがこれは、恨みにならない。運だと言い張る背中を、まだどこかで庇いたくなる自分がいる。それが、いちばん厄介だった。
道が、丘の肩を回った。
その時、クレイの首筋を、ぞくりと粒立つものが這い上がった。
足を止める。生命感知が、皮膚の表で低く騒いだ。弱りではない。張りでもない。冷たい。
触れたことのある冷たさだった——迷宮の底で、何度も手のひらから熱を抜いていった、あの手ざわりに近い。
「クレイ」ティナが、すぐに気づいた。「いま、何か拾ったね」
「先に、何かいる」クレイは低く言った。「道の、丘の陰だ」
「魔物か」セルカが剣を下ろした。
「たぶん」クレイは言った。「だが、ふつうの弱りが感じ取れない。汲めるものか、まだわからない」
汲めるものか、まだわからない。その一語が、口に出すと重かった。夜のあいだに戻りかけた手のぬくみは、まだ半分だ。線は静かなまま、疼きもしない。
もし丘の陰で誰かの息が切れたら、この手は間に合うのか。取りこぼしたことのない手が、いま初めて、答えを持っていなかった。
「北の異変ってのは」ガイが、背のレフを揺らさぬよう声を落とした。「死んだはずのものが動く、という話だ。村が冷える、と」
「その、冷たさに近い」クレイは言った。「一つだけじゃ、ない」
「王都が召集をかけた相手が」ティナが言った。「こんな辻の道にまで、こぼれてる」
地域の噂だったものが、いつのまにか足もとまで来ている。丘の陰の冷たさは、もう魔王城の遠い話ではなかった。
「セルカ」クレイが言った。「前を、頼む。だが、俺の声の届く内から出るな」
「わかってる」セルカが、剣を構え直した。声から、ふだんの尖りが抜けた。戦いの前の、別人の顔だ。
「ガイ」クレイは言った。「レフを、いちばん後ろへ。あんたは、それを守れ」
ガイが、こちらを見た。命じられることに、一瞬、体がこわばる。だがすぐに、うなずいた。
「守る」ガイが言った。「それは、俺の得手だ」
丘の陰から、冷たさが一つ、また一つと、こちらへ滲み出してきた。輪郭は、まだ見えない。ただ、道の先の空気だけが、朝なのに温みを失っていく。鳥の声が、いつのまにか絶えていた。
クレイは、左手を軽く握った。半分だけ戻ったぬくみが、掌の底にある。届くか、届かないか。それを試す朝が、七年ぶんの相手を並べて、いま来ようとしていた。
「来る」クレイは、低く告げた。「みんな、前を向け」
風が、ひとつ、丘を吹き下ろした。冷たさの先端が、列の影へ差しかかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アーク、旧パーティー再会編の三話目、否認です。
この回でやりたかったのは、事実がぜんぶ出そろいかけているのに、当人だけがそれを組み立てない、という時間でした。ティナは日付を揃え、レフは死にかけの正直さで核心へ手をかけます。それでもガイは、波だ、疲れだ、運だと言い張る。責めたいのではなく、認めれば七年ぶんの誇りが根から形を変えてしまうから、認められない。塗り重ねるほど下地が透ける、そんな否認の質感を書きたいと思いました。
クレイのほうは、もう数え終えています。だから声高に暴きません。数えるのはあんたの手だ、と突き放しながら、運だと言い張る背中をまだ庇いたくなる自分に、いちばん困っている。恨みならはっきりするのに、これは恨みにならない——その濁りを抱えたまま、彼はただ布を絞り続けます。月遅れの傷は、もう巻き戻せない。彼の手が七年支えていたのは、いつも傷を負ったその息のうちだった。だからこそ、今度は間に合わない。その残酷さが、静かに効いてくれるといいなと思っています。
そして、地域の話だったはずの冷たさが、辻の道までこぼれてきました。次の話は、居る時だけ死なない、です。手が半分しか戻っていないクレイと、否認をやめられない暁の剣が、初めて同じ戦いに並びます。どうか続けて見届けてやってください。




