凍りついた再会
日の残りが、二人のあいだで細く消えた。
その最後のひとすじが落ちる前に、ガイの目が、クレイの手もとから顔まで昇りきった。
そこで、動きが止まった。
ガイの喉仏が、ひとつ上下した。声は、出てこなかった。
昼のぬくもりが、地面から急に引いていく。土埃の匂いが、足もとに低く沈んだ。
夕闇が街道を浸していくなかで、ガイの顔だけが、色を失っていく。血が引くというより、そこだけ時が固まって動かなくなるような止まり方だった。
「……クレイ」ガイが、その名を口にした。「クレイ、なのか」
七年ぶんの近さで、自分の名を受けた。ガイの声で呼ばれるのは、追い出された朝以来だ。あのときは、名を呼ばれたあとに、要らない、と続いた。
「そうだ」
ガイの右手が、聖剣の柄へ動きかけて、途中で止まった。斬る相手ではない。だが、迎える手つきも作れない。行き場をなくした手が、宙で強張ったまま下りてこなかった。
凍りついたのは、その手だけではなかった。まっすぐだった目の光が、いま、置き場を探して揺れている。七年、この男の目に、こんな色を見たことはなかった。
「お前は」ガイが、声を絞り出した。「王都で、別れたはずだ」
「別れた」クレイは応じた。「あんたが、そう決めた朝にな」
「別人だろう」ガイが、首を振った。「お前は、そんな手じゃなかった」
「そんな手じゃなかった」クレイはうなずいた。「あんたには、そう見えてた」
「見えてた、じゃない」ガイの声が上ずった。「お前は、初級回復も危うかった。深い傷は、触れもしなかった」
「触らなかった」クレイは、静かに返した。「触らなくても、済んでた。あんたらは、それを運と呼んでた」
「運でいい」クレイは続けた。「そう呼んでるうちは、そのほうが楽だろ」
「別人だと言え」ガイが、もう一度言った。今度は、頼むような響きだった。
クレイは、答えなかった。
淡々と、と思うのに、指の先がひとりでに固くなっている。呼ばれた名の重さが、思っていたより長く残った。
セルカが、一歩前に出た。剣の柄に手はかけない。かけずにいるだけの分別を、この娘はいま懸命に守っている。
「あんたらが探してた死人返しは」セルカが低く言った。「こいつだよ。役立たずって放り出した男だ」
ガイの目が、セルカへ移り、また戻った。
「その手を、いま頭下げて探してる」セルカは吐き捨てた。「滑稽だと思わないの」
「セルカ」クレイが名を呼ぶ。「いい」
「よくない」セルカは、こちらを見ずに言い返した。「あたしの中じゃ、こいつらの帳尻はまだ合ってない」
道標の根方で、うずくまった影が身じろぎした。
「……下働きの」レフの声は、薄く裂けていた。「あの、荷持ちの小僧か」
「レフ」クレイは、そちらへ目をやった。「久しぶりだ」
「勇者サマの荷物運びが」レフが笑いかけて、むせた。「死人を返すって。……悪い冗談だ」
「小僧」レフが、荒い息の下で続けた。「お前、俺たちを恨んでるか」
「わからない」クレイは言った。「恨みなら、はっきりしてる。これは、まだ名前がつかない」
「はっきり恨んでくれたほうが」レフが目を閉じた。「こっちも、楽なんだがな」
「楽は、してやれない」クレイは言った。「だが、まだ何も決めてない」
目の前の息は、もう楽になる方向へは向いていない。細く、絶え間なく、抜けていくばかりだ。
塞がれた傷の口ではなく、縫い目の届かない奥のところから、命がにじんで外へ出ていく。街道で遠く拾ったときより、もう一段、細かった。
ティナが、帯から手帳を抜いた。だがすぐには書かず、レフのほうへ膝を向ける。
「一つ、訊かせて」ティナが言った。「その傷は、いつ負った」
「ひと月と、少し前だ」ガイが、反射で答えた。
「塞いでも、戻らない」ティナはうなずいた。「そういう傷は、前にもあった」
「無い」ガイが低く答えた。「七年、一度も」
「七年、一度も」ティナが繰り返した。「なのに、ひと月前から出はじめた」
「何が言いたい」ガイの声が硬くなった。
「何も」ティナは短く言った。「日付を、揃えてるだけ」
ティナは、それ以上訊かなかった。ただ手帳の隅に、一行だけ記す。名前をつけずに置いておく欄が、また一つ増えたのだと、クレイにはわかった。
クレイは、レフのほうへ歩き出した。
ガイの体が、反射のように、その進路へ寄った。仲間と危ういもののあいだへ割って入る、七年見てきた庇い方だ。だが今日は、庇う相手が逆になっていた。追い出した手のほうが、いま、仲間へ近づいていく。
「待て」ガイが、行く手をふさいだ。「お前に、何ができる」
悪意ではなかった。本気で、わからないのだ。回復ひとつまともに使えなかった手だと、この男の目は、いまもそう見ている。その目のまま、七年ぶんの生き延びをこの手が人知れずまかなっていたことには、まだ届いていないのだろう。
「回復ひとつ、まともに使えなかった手だ」ガイが言った。「その手で、何を診る」
「手が変わったんじゃない」クレイは、ガイの脇を静かに抜けた。「あんたの見方が、変わらなかっただけだ」
届かなくていい、と一瞬、思った。すぐに、その考えを畳んだ。目の前で、一人が抜けていく。確かなのは、それだけだった。
「診るだけだ」クレイは、レフの脇に膝をついた。「布を、めくる。痛かったら言え」
「痛みは、とうに越えたよ」レフが薄く言った。「痛けりゃ、まだ生きてる証だろ」
「生きてる」クレイは、指先を傷の上へ移した。「まだ、こっち側だ」
「明かりを、近くに」
「これで、見えるだろ」セルカが、明かりをレフの脇へ下ろした。睨む目はそのままに、手だけは迷いなく動いた。
「熱は」クレイが、指を止めずに訊いた。
「ある」ティナが、レフの額へ手の甲を当てた。「昨日より、高い」
「脈は」
「速い。浅くて、間が空く」ティナが答えた。
「わかった」クレイは、低くうなずいた。
「どうなんだ」ガイが、堪えかねて訊いた。「保つのか、保たないのか」
「いま、そこは訊くな」クレイは短く言った。「手が、逸れる」
布の上からでも、傷の底が見えた。めくる前から、鉄の匂いが薄く立った。縫い目は張っているのに、命はそれを通り越して零れている。
七年、この手が声もなく食い止めていた穴が、いま、手を貸す者のないまま剥き出しになっていた。剥き出しにしたのは、この手を門の外へ出した者たちだ。
そう思うのに、胸の底のものは、澄んだ怒りにならなかった。
「縫い目は、保ってる」クレイは、指を傷の縁へ沿わせた。「だが、塞いだ下で血の道が切れてる。塞ぐほど、内に溜まる。だから戻らない」
「医者も、そう言った」ガイが、掠れた声で言った。「塞ぐたび、悪くなると」
「塞ぐ傷じゃないんだ」クレイは、目を上げなかった。「これは、戻す傷だ」
ガイが、その言葉の意味を、掴みかねる顔をした。戻す、という一語が、宙で行き場をなくしている。
「ティナさん」クレイは言った。「包帯と、癒し草を。ポーチの上の段だ」
「出てる」ティナが、もう手のなかで支度していた。
「頭を、少し高く」クレイが言った。「息の道を、楽にしておく」
ティナが、丸めた外套をレフの肩の下へ差し入れた。
「水は、飲めるか」クレイがレフへ訊いた。
「……少しなら」レフが、かすれた声で答えた。
「なら、いい」クレイは、包帯の端を裂いた。「無理に飲ますな。喉で、詰まる」
「手際は、いいな」レフが、かすれた声で言った。「荷物運びの割に」
「戻せるのか」ガイが、抑えた声で訊いた。「その傷を」
「わからない」クレイは、手を止めなかった。「診てからだ」
「わからない、で」ガイの声が揺れた。「俺は、聖剣まで差し出したんだぞ」
「要らない」クレイは、首を振った。「聖剣も、報酬もだ。金で頼まれて来たんじゃない」
「なら、なぜだ」
クレイは、少し黙った。レフの浅い息が、二つ、三つと過ぎる。
「あんたが、要らないと言った手だ」クレイは、レフの脇に添えた左手を、ほんの少し上げてみせた。「その手を、あんたの仲間にいまから使う」
ガイが、息を呑んだ。
「恨みでじゃない」クレイは続けた。「呼ばれたからでもない。俺が決めた。それだけだ」
「小僧に」レフが、荒い息の下でかすれた。「命を、預けるとはな」
「預けなくていい」クレイは返した。「息だけ、止めるな」
あの朝は、選ぶという手つきさえ知らなかった。出ていけと言われ、背を向けた。いまは違う。自分の膝で、ここへ屈んでいる。その一点だけが、七年ぶんに確かだった。
死なせるつもりはない——その決めごとが、いつから手のなかにあったのか、もう思い出せない。要らないと言われたあの朝も、たぶんもう黙って動いていた。宛先も知らないまま。いまは、その宛先が目の前にある。かつて自分を捨てた顔と、その仲間の細い息が。
「運は運だ」ガイが、誰にともなく漏らした。「あの頃と今は、関係ない」
「便利な言葉だね」セルカが、横から言った。「七年ぶん、ぜんぶ運。そうしとけば、誰も悪くない」
「威勢のいい嬢ちゃんには」レフが薄く言った。「わからん話だ」
「その嬢ちゃんも」セルカが返した。「あんたらより、よっぽど死にかけた。それでも、生きてる。理由、考えたことある」
ガイも、レフも、答えなかった。
「答えないんだね」セルカが、明かりの向こうを睨んだ。「七年こき使って、要らないって捨てた男だよ。なのに、いまその手に助けてもらってる」
怒りだけではない何かが、その声に低く混じっていた。自分の手では、この傷ひとつ塞げない——そういう者の焦りに、どこか似ていた。
「セルカ」クレイは、傷から目を上げずに言った。「手が、狂う」
「……わかった」セルカが、口を閉じた。「黙る。あんたが診てるあいだは」
セルカは、それきり口をつぐんだ。二人のあいだの気配だけが、少し重くなった。
ガイは、膝をついた男の背を見ていた。
七年、焚き火のいちばん端にあった背中だ。話しかけた覚えは、数えるほどしかない。それでも、あの背の形だけは間違いようがなかった。
その背が、いまレフの脇へ屈んでいる。布をめくる指に、迷いがない。荷持ちの小僧の手ではなかった。
まさか、と思う。まさか、あの男の手で、七年ぶんの生き死にが——
ガイは、その先を奥歯で噛んだ。
聖剣の柄を握った手のひらが、じっとりと湿っている。喉が、ひとりでに鳴った。飲み下すものは、何もなかった。
運だ。強かったのは、剣を握っていた自分たちのほうだ。この男は、ただ後ろにいた。
いてもいなくても——そこまで来て、言葉が続かなくなった。いてもいなくても同じだ、と七年前に告げた。その続きが、いま口の中で、初めて味を変えている。
斥候の女が、ひと月前と言わせた。あの下働きが門を出てから、幾日目だったか。数えかけて、ガイは慌てて数を伏せた。
数えれば、西の巣も、南の渓も、みんな一本の線でつながってしまう。それだけは、まだ、たどりたくなかった。
「ガイ」レフの声が、細く上がった。「あの小僧の手、覚えてるか」
「覚えてない」ガイは、短く言った。
「俺もだ」レフが、薄く笑った。「一度も、見ちゃいなかった。後ろにいたのにな」
ガイは、答えなかった。
「ガイ」
クレイの声が、下から届いた。顔は上げていない。
名で呼ばれた。勇者ではなく、ガイと。その一語が、胸の奥で妙に軋んだ。
「湯を、沸かせるか」クレイが言った。「あるだけ」
ガイは、我に返ったように瞬いた。
「……ああ」ガイは、かすれた声で応じた。「沸かす」
命じられたのではない。頼まれたのだ。追い出した男に、いま、手伝いを乞われている。
「ガイ」レフの声が、背に触れた。「……頼っちまえ。いまさらだ」
「ああ」ガイは、足を止めずに言った。
ガイは立ち上がり、荷のほうへ足を向けた。その足取りが、思うように定まらない。
運だ、と胸のなかで、もう一度繰り返した。その繰り返しが、さっきより小さくなっていることには、ガイ自身、まだ気づいていなかった。
辻の立て札が、風にひとつ軋んだ。日は落ちきって、四人の影が街道へ長く伸びている。膝をついた男の影だけが、いちばん低く、いちばん動かずに、そこにあった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アークの二話目、凍りついた再会です。
この回でいちばん書きたかったのは、追い出した側が「気づいてしまいそうになる」その手前の、凍りつく一拍でした。ガイは、目の前の男がかつて自分が切り捨てた下働きだと気づきます。でも、その手が七年ぶんの命を黙って支えていたという事実には、まだ届かない。届いてしまえば、七年が根こそぎ形を変えてしまうから。だから運だ、運だと胸の中で繰り返す。その繰り返しが少しずつ小さくなっていくところを、静かに書きたいと思いました。罵倒や復讐でぶつけるより、事実がそこに置かれて、向こうが自分の足で辿り着くのを待つ——そのほうが、この作品には合っている気がしています。ティナが「日付を、揃えてるだけ」と言って手帳の隅に一行だけ残す、あの静けさが、いちばんの突きつけになればと思いました。
クレイのほうは、恨みで動きません。かといって澄んだ気持ちでもなくて、名づけられない濁ったものを抱えたまま、それでも膝をつきます。あの朝、行き先すら自分の意思ではなかった男が、いまは膝を折り、かつて自分を捨てた相手の仲間へ手を伸ばす。「要らないと言った手を、いまから使う。恨みでじゃない、俺が決めたからだ」——この一言を書いているとき、七年の遠回りがこの一文にたたまれているようで、いちばん胸に残りました。追い出した相手に湯を頼む、その逆転も、静かに効いてくれるといいなと思っています。
事実がひとつずつ突きつけられていくのは、まだこれからです。旧パーティーは、自分たちの不調とクレイをなかなか結びつけられません。次の話は、否認です。北の異変も、静かに近づいています。どうか続けて見届けてやってください。




