縋ってきた依頼
その札は、ガイが自分の手で書いた。
辻の立て札に、勇者の名で一枚。冒険者ギルドの古い触れ書きの上へ、重ねて打ちつけた。死にかけを死なせず戻す手を探す——そう書いた。報酬の欄には、聖剣のほか払えるものはすべて、と書いた。
字は、途中から乱れていた。剣を握って震えたことのない手が、この一枚では震えた。
打ちつけて、半日が過ぎた。名乗り出る者は、まだいない。
風が、四方を指す腕木を鳴らしている。日は丘の向こうへ落ちかけ、街道の半分が影に沈んでいた。道標の根方に、レフがうずくまっている。
「まだ、来ないか」レフの声は薄かった。
「来る」ガイは言った。「噂は本物だ」
「噂に命を預けるのか」レフが笑おうとして、咳に変わった。「勇者サマも、落ちたな」
「落ちたな」ガイは繰り返した。
「認めるのか」
「認める。札まで出したんだ。いまさら勇者ぶっても、始まらない」
レフの脇腹は、西で受けた傷だ。魔獣の巣の主に、深くえぐられた。
塞いでもゆっくり開いていく。道中の医者が三人がかりで縫った。浅い息のたびに、縫い目がかすかに張る。
縫っても、血の色が戻らない。傷とは別の口から、命のほうが先に抜けていく。
「新入りは」レフが訊いた。「戻ってこないのか」
「戻らん」ガイは言った。「塞げるのに死んでいく。見たことがない、とさ」
「ミラは」
「発った」ガイは短く言った。「責めるな。沈む舟だ」
「勇者サマ一人と、半分死んだ俺か」レフが薄く笑った。「大陸最強も、みじめなもんだ」
ガイは答えなかった。返す言葉が、見つからない。
「なあ、ガイ」レフが壁にもたれ直した。「王都の召集は、どうする」
「行けるものか」ガイは低く言った。「この体でな」
北で、異変が続いているという。死んだはずのものが動く。村がまるごと冷える。
王都は各地の腕利きへ声をかけ始め、暁の剣にも書状が来た。
七年前なら、真っ先に駆けた。いまは、レフ一人を戻す手さえ持っていない。国が動きだす前に、自分たちのほうが先に沈もうとしている。
「なあ」レフが目を細めた。「西で、俺がやられたときな」
「言うな」
「塞いでも、戻らなかった」レフが続けた。「あんな傷、昔もあった。もっとひどいのもだ。なのに死ななかった」
「運だ」ガイは短く返した。
「七年、運が続くか」
「続いた」ガイは言い切った。「現に、続いた」
「その運が抜けた日を」レフが目を開けた。「俺は覚えてるよ」
ガイは黙った。
その日のことなら、ガイも覚えている。焚き火の席で、地味な下働きへ、要らないと告げた夜だ。悪いとは思わなかった。感謝はした。だが、いてもいなくても同じだと——そう言って、送り出した。
まさか。あんな男に。回復ひとつまともに使えなかった手に、七年ぶんの生き死にがかかっていたなど。あれば、気づいたはずだ。皆が強かった。俺たちが、強かったのだ。
蓋は、もう閉まりきらなくなっていた。
「勇者様」
声がして、ガイは顔を上げた。素材採りらしい男が、東の道のほうから小走りに来る。
「東から、上ってくる連中がいます」男が息を切らした。「浅いとこで会いました。三人組の。あんたらが探してる、死人返しじゃないかと」
ガイは立ち上がった。膝が、思ったより早く動いた。
「どんな連中だ」
「女が二人と、男が一人」男が指を折った。「男のほうが、その手だと。痩せた、治療師風の」
痩せた治療師。ガイの胸の底で、また蓋が浮きかけた。押し込んだ。いまは、レフだ。誰でもいい。戻せる手なら、誰でもいい。
「レフ」ガイは膝をついた。「来たぞ。もう少しだ」
「勇者サマが」レフが薄く笑った。「他人に頭を下げるのか」
「下げる」ガイは言った。「お前を死なせるよりは、ましだ」
東の道の先で、上りの風が鳴っていた。ガイは、そちらへ体を向けた。
上りの風が、ひとつの弱りを運んできた。
クレイは足を止めた。まだ地上へは出ていない。浅層の広間の、光の差しはじめる手前だ。
「どうした」セルカが振り返った。「顔が、止まってる」
「弱ってる人がいる」クレイは低く言った。「辻の、上のほうだ。もう長くない」
「魔物か」
「違う」クレイは首を振った。「人だ。傷は塞がってる。なのに抜けていってる」
「塞がってるのに」セルカが眉を寄せた。「死ぬの」
「死ぬ。傷とは別の口から、抜けてる」
塞いだのに、命のほうが戻らない。手のなかに、覚えのある形だった。七年、この手が黙って先回りしていた種類の死だ。だから一度も、こうはならなかった。いまは、なっている。
「そばに、もう一つある」クレイは続けた。「弱ってない。詰んだ張りだ」
「知り合いみたいな顔してる」セルカが言った。
「ガイだ」
ガイと口にした途端、肩甲骨の裏がひとりでに引き締まった。あの背中の斜め後ろが、この体の定位置だった。誰が次に膝をつくか、そこからならいつも見えた。
「ガイって」セルカの声が跳ねた。「勇者サマの、ガイ」
「その、ガイだ」クレイは短く言った。
広間の隅で、素材採りの二人が荷を負い直していた。片方が、こちらを見て言う。
「上の連中な」男が声を落とした。「札を出したぞ。死にかけを戻す手を探す、と。勇者の名でな」
「勇者の」ティナが繰り返した。
「連れの一人が、もう保たんらしい」男が肩をすくめた。「聖剣のほか、なんでも払うと書いてある。あの暁の剣がだ」
男たちは、下りへ消えていった。
「一人、保たない」ティナが低く言った。「塞いでも戻らない傷で、医者が匙を投げた。それで、死人返しを呼んだ」
「戻らない傷か」クレイは繰り返した。
「あんたが、七年ふさいでた種類のだ」ティナが言った。「あんたがいなくなって、初めて出た」
手のなかは、まだ静かだった。地上の弱りへ意識を向けても、甲の下の線は起きも疼きもしない。汲んだものが戻りきらないうちは、この手は誰へも伸びなかった。
「聞いた」セルカの声が尖った。「あいつら、あんたを捨てといて。今度は縋るのか」
「縋る、か」
「札まで出してさ」セルカが吐き捨てた。「それ、あんたのことだよ。追い出した、あんたの手のことだ」
辻で一人、死にかけている。塞いでも戻らない傷で。七年、この手が黙って埋めていた穴が、いま向こうで開いたままになっている。
埋める者が、いない。捨てたからだ。埋めていた手を、役に立たぬものとして門の外へ出したからだ。
ざまあみろ、とは思わなかった。思おうとして、うまく形にならない。かといって、気の毒だとも言い切れない。
恨みは湧かない。だが、澄んでもいない。濁ったものが、胸の底で名前もつかずに揺れていた。
「あんた、笑わないの」セルカが訊いた。「あたしなら、ざまあみろって笑うけど」
「笑えない。うまく、出てこない」
「怒らないの」
「怒りも、はっきりしない」クレイは言った。「濁ってる。それだけだ」
死なせるつもりはない——七年、その言葉は、いま丘の上で待っている背中たちのために、黙って手のなかで動いていた。
決意だと思っていた頃も、後追いだと知った日も、その宛先が誰なのかは、ぼやけたままだった。いま初めて、その顔ぶれが、目の前へ上ってきていた。
「行かないよね」セルカが言った。「あんなやつらのとこ」
「わからない」クレイは返した。
「わからない、って」
「一人、死にかけてる」クレイは言った。「それは、あいつらとは別の話だ」
「別じゃないよ」セルカが眉を寄せた。「あいつらの仲間だろ」
「仲間でも」クレイは応じた。「弱ってるのは、その一人だ」
ティナが、明かりをこちらへ寄せた。
「行けば」ティナが静かに言った。「向こうは、あんたの顔を見る」
「見るな」
「見る」ティナが言った。「死人返しを呼んで、来たのが誰か。向こうは、まだ知らない」
「顔を見られて」セルカが言った。「あんた、平気なの」
「平気じゃない」クレイは言った。「さっきから、喉が締まってる」
「なら、行くなよ」
「それとこれは、別だ」クレイは言った。
呼ばれて出ていけば、向こうは初めて、捨てた手の顔を見ることになる。それでも、と思う。
行くか行かないかは、噂が決めることでも、あいつらが決めることでもない。捨てられた朝は、何ひとつ自分で選べなかった。門を出ろと言われて、出た。いまは、違う。
「決めるのは、俺だ」クレイは言い切った。「呼ばれたからでも、恨みでもない。俺が決める」
セルカが、口をつぐんだ。
「戻るの」しばらくして、セルカが訊いた。「あいつらのとこに」
「戻らない」クレイは首を振った。「一人、診に行くだけだ」
「診て、どうすんの」
「決めてない。顔を見て、手を見る。それから決める」
セルカは、まだ何か言いたそうだった。だが、剣を担ぎ直した。
「あたしは、まだ許してないからね」セルカが言った。「あんたが診るなら、前はあたしが歩く」
「頼む」
「ティナは」
「書く」ティナがペンを帯へ挿した。「今日のは、たぶん長い頁になる」
問題は、手の届くその先に、七年ぶんの顔があることだった。
三人は、光のほうへ上がった。
浅層の口を抜けると、辻の風がまっすぐ通っていた。日はもう丘の際にあって、四方の腕木が長い影を街道へ引いている。分かれ道の真ん中に、白い装束の男が立っていた。
「あれか」セルカが低く言った。
「あれだ」クレイは低く言った。
クレイの足が、止まりかけた。七年、その背を後ろから見てきた。前に立つと、こんなに大きかったか。
金の髪は、記憶より艶をなくしている。肩の張りは痩せて、ところどころ強張っていた。それでも、その立ち姿を、クレイの手は一目で言い当てた。ガイだ。
道標の根方に、もう一人。うずくまった影の弱りが、この距離でいっそう細くなる。レフだ。
西で開いた脇腹が、まだ塞がりきらずにいる。あと幾らも、保たない。
「先、歩くよ」セルカが小声で言った。
「頼む」クレイは、うなずいた。
白い装束の男が、こちらへ顔を上げた。東の道から上ってくる、痩せた治療師。男の目は、まずクレイの手もとへ落ちた。死にかけを戻すと聞いた、その手を探すように。
「あんたか」ガイの声が、夕風に乗った。「死人返しってのは」
その声を、クレイは七年ぶんの近さで受けた。喉の奥が締まって、動かない。名乗る一言が、出てこなかった。
ガイの目が、手もとから、ゆっくり上がってくる。
その視線が、まだ顔へ届く前——落ちかけた日の残りが、二人のあいだで細く途切れた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第四アーク、旧パーティー再会編の始まりです。
この回でいちばん書きたかったのは、追い出した側の落ちかたでした。ガイは悪人ではありません。ただ、後ろにいた手の値打ちが、構造として見えていなかった。その見えなかった手を捨てたあと、暁の剣は塞いでも戻らない傷の前で立ち尽くします。仲間が一人、抜けていく。埋める手が、もう隣にいない。恨みで裁くより、事実が勝手に裁いていく——そういう静けさを、アークの入口に置きたいと思いました。ガイが噂に縋って札を出す、その字が乱れているところを、書いていていちばん切なく感じました。
クレイのほうは、恨みで動きません。かといって、澄んだ気持ちでもない。名前もつかない濁ったものを胸に抱えたまま、それでも「決めるのは俺だ」と選びます。呼ばれたからでも、意趣返しでもなく、目の前で一人が死にかけているから診に行く。捨てられた朝は何も選べなかった人が、いまは自分で決める。その一歩だけを、この話の芯にしました。
そして二人は向き合いますが、まだ互いの顔が、それと分かりません。凍りつく再会は、次の話です。北では異変が広がり、話は地域から国のほうへ動きだしています。どうか続けて見届けてやってください。




