踏破、そして接触
下りるほど、読むものが減っていった。
浅いところでは、弱りも張りも、幾つも重なって届いた。深くなるにつれ、その数が一つずつ抜けていく。いまクレイの手に触れてくるのは、前を行く二人の張りだけだった。
あとは、冷たさばかりだ。
二日と半分ぶん、体の芯がまだ軽い。満ちている者なら肌の手前で止まる寒さが、軽い体には胸の底まで一息に届いた。重さのないぶん、クレイは寒さの通り道になっていた。
「まだ下りるの」前で、セルカが足を止めた。
「下りる」ティナが明かりを掲げた。「底は、もう近い」
「あんた、歩けてる?」振り返って、セルカがクレイの顔をうかがう。
「歩ける」クレイは短く返した。「汲むのは、まだ無理だ」
「汲ませないよ」セルカが言った。「そのために、あたしが前にいる」
セルカは剣を担がず、抜き身のまま下げていた。戦闘のときの、口の閉じかけた顔になっている。
クレイは、その背を見て歩いた。七年、前を行く背を見て歩いてきた。守っているつもりで、守られていた背だ。いまは逆に、守られる側だと知って見ている。
白いものは、じき出なくなった。浅いところではあれほど裂け目から降ってきたのに、この深さには一匹もいない。
「静かだね」セルカが小さく漏らした。「気味がわるいくらい」
「生きてるものが、来ないんだ」クレイは低く答えた。「ここまでは」
「あんたにも、何も触らない?」
「触らない」クレイは首を振った。「弱りも張りもだ。下は、冷たいだけだ」
「じゃあ、下には何がいるの」
「何もいない」クレイは言った。「だから、冷たいんだ」
「怖いこと言うね」
「ほんとのことだ」クレイは低く返した。
ティナが足を止めて、明かりを壁へ寄せた。
壁の窪みに、錆びた籠手が半分埋まっていた。指の骨が、その中に残っている。ずっと古いものだ。
「戻らなかった先客だ」ティナが言った。「浅いところにもあった。ここのは、もっと古い」
「奥へ行くほど、増えるのか」
「増える」ティナがうなずいた。「下りた者はいる。上がった者の記録が、ない」
ティナはそれを書かなかった。ペンを抜きかけて、やめた。
「書かないのか」クレイは訊いた。
「名前が、わからない」ティナはペンを収めた。「名前のないものは、まだ書けない。覚えておく」
「いつか、書けるの」
「上がった者が名を持って戻れば」ティナが言った。「そのとき書く」
冷たさの中に、一つだけ、動くものがあった。
クレイの首の後ろが、かすかに鳴った。弱りではない。岩色の、平たいものが一匹、天井の裂け目から降りてくる。この深さにも、まだいた。
「来る」クレイの声が低く落ちた。「上、ひとつ」
「見えてる」セルカは、もう動いていた。
セルカが跳んだ。剣が、降りてくるものの胴を裂く。裂けた体が二つになって、明かりのふちへ落ちた。届く前に、終わっていた。
クレイの手は、それでも伸びかけていた。誰かが傷を負う——そう読んだ手が、汲むために動く。
「止めて」ティナの声が、鋭くなった。「セルカは、無傷。汲むものはない」
「わかってる」クレイは手を下ろした。
「探るだけでも、いま減る」ティナが続けた。「空の体で、探らないで」
伸ばしかけた手が、行き場をなくして止まった。汲むものがないのに、手だけが古い癖で動く。空の体には、その空ぶりさえ堪える。
「悪い」クレイは言った。「勝手に、動いた」
「謝るのは、なし」セルカが剣を振って、汚れを落とした。「ちゃんと、あたしが間に合ってる」
道が、途切れた。
下りの岩が終わり、平らな地面が広がっていた。明かりの届く先が、闇に溶けて見えない。天井も、遠い。
クレイは、そこで足を止めた。
耳が、痛いほど静かだった。水の垂れる音も、羽虫の羽音もない。
自分の息だけが、やけに大きく返ってくる。明かりの光は、数歩先で闇に食われて、その先へ届かなかった。
肌に触れるものが、何もない。風がなかった。生きているものの気配が、まるごと抜けている。
何も、読めなかった。弱りも、張りも、ここには一つもない。
あるのは、いちばん古い冷たさだけだ。上のどの層より、濃い。それは寒さというより、初めから熱を持ったことのない冷たさだった。
「底だ」クレイの声が、闇に短く落ちた。「これより下は、ない」
「着いた?」セルカが、闇へ目をやった。
「着いた」ティナが明かりを高くした。「地図の、いちばん端だ。誰もここを書かなかった」
セルカが、爪先で地面を打った。硬い音が、短く返る。足裏に伝わるのは、湿りも凹凸もない、平らな冷たさだけだった。
「岩だね」セルカが言った。「土じゃない」
「底の岩だ」ティナが言った。「削れも、崩れもしない」
「湿ってもいないよ」セルカが足の裏で擦った。「上は、あんなに水が垂れてたのに」
「水も、ここまでは下りてこない」クレイは言った。「落ちるものが、途中で尽きる」
「じゃあ、ほんとに何もないんだ」セルカが闇へ声を投げた。
「何もない」クレイは言った。「読むものが、一つもない」
沈んでいた甲の線が、かすかに疼いた。
光ってはいない。中は、まだ空だ。それなのに、甲の奥のほうが、下へ引かれるように、細く熱を持った。
「線が」ティナが目ざとく見た。「起きたのか」
「起きてない」クレイは甲を伏せた。「疼いてるだけだ。……下の、もっと下へ」
「もっと下は、ない」セルカが地面を踏んだ。「底だろ、ここ」
「ないな」クレイも足元へ目を落とした。「なのに、下を指してる」
どこへ渡そうとしていたのか。線がずっと向いていた奥が、この底の、そのさらに向こうにある気がした。クレイは、それ以上考えなかった。ティナの空けた欄が、また一つ増えるだけだ。
「書く」ティナがペンを走らせた。「底で、線が下を指した。理由は——空けておく」
「空けとけ」クレイは言った。「いまは、それでいい」
セルカが、闇のほうへ一歩出た。剣の切っ先が、暗がりの縁でわずかに揺れる。
「戻らなかった連中の、いちばん奥」セルカの声が、闇に吸われて短く消えた。「そこに、あたしら三人で立ってる」
「立ってる」クレイは応じた。
セルカの息が、白く小さく立ちのぼって、すぐ闇に溶けた。ティナの、明かりを持つ手が寒さでかすかに強張っている。誰も戻らなかった底に、生きた三人ぶんの体温だけが、ぽつんと灯っていた。
「ティナ、書いた?」セルカが振り返った。「底に着いたって」
「書いた」ティナが手を止めた。「三人で、とも」
「あんた、二日半死にかけてさ」セルカがクレイの腕を小突いた。「それで、ここまで来た」
「二人が、運んだからだ」クレイは返した。
「借りは、返しなよ」セルカが言った。「上がったら」
「返す」クレイは言った。
「ぜんぶ、な」
「ぜんぶだ」クレイは応じた。
クレイは、二つの張りを読んだ。右にセルカ、左にティナ。どちらも、生きて鳴っている。
この底には熱を持ったものが一つもないのに、手のなかにだけ、二つぶんの温もりがあった。追い出された朝、居ても居なくても同じだと思った手だ。
死なせるつもりはない——七年、その言葉はいつも、終わったことの後ろから口が追いかけていた。いまは、まだ何も終わっていない道の先に、先まわりして置いてある。
この底まで、二人を死なせずに来た。決めた通りに、まだ誰も欠けていない。
「なあ」セルカが振り向いた。「名前、つけようよ」
「名前」クレイは繰り返した。
「あたしら、まだ名無しじゃん」セルカが指を立てた。「パーティーの名前」
「三度生きて帰ったら、と決めた」ティナが顔を上げた。「ずいぶん前の約束だ」
「三度どころじゃないよ」セルカが指を折りかけて、やめた。「もう、数えらんない」
「や、名前なんて」クレイは目を伏せた。「無くても、困らない」
「困る」セルカが唇を尖らせた。「呼ぶとき困る。あたしらを、なんて呼ぶのさ」
ティナが、手にした明かりを見た。
「これだ」ティナが言った。
「明かり?」セルカが顔を寄せた。
「底まで、消えなかった」ティナが明かりを少し持ち上げた。「いちばん濃い冷たさの中でも、これだけは灯ってた」
「灯」セルカが、舌に乗せてみた。「わるく、ないね」
「クレイ」ティナがこちらを見た。「あんたが、決めていい。使う側だ」
クレイは、口の中でその一字を受けた。灯。喉のあたりに、小さくつかえるものがあった。名は、こんなに重さのあるものだったか。
セルカが、返事を待つ顔で口を結んでいる。ティナの目も、ペン先を止めてこちらへ向いていた。
「や、俺は」クレイは言った。「……灯で、いい。悪くない」
「決まりだね」セルカが、八重歯をのぞかせた。「もう、名無しじゃない」
ティナが、手帳をひらいた。前の頁に、太い字で書いた一行がある。東へ向かう、三人、生きて帰る前提で——北の村を出た日の字だ。アビスへ足を向けた、あの朝の。
その隣の、空いていた場所へ、ティナは新しく書いた。
「灯」ティナが読み上げた。「三人。底まで下りて、三人で上がる」
「上がる、ね」セルカが八重歯を見せた。「まだ、上がってないけど」
「これから上がる」ティナが言った。「だから、書いた」
「太い字で、書いた?」セルカが首を伸ばした。
「太い字で」ティナがうなずいた。
三人、と読み上げられた声を、クレイは空のままの内側で受けた。名前が付くと、居場所が一つ、形になる。
追放された朝は、その形が無かった。要らぬものは、名の付く場所を持たない。いまは、灯という名のなかに、確かに一人ぶんの席があった。
上りは、下りよりも長かった。
空になった体には、上りのほうが堪えた。一段のぼるたび、膝が細かく笑い、息が浅く上ずった。何度も足を止め、そのたびにセルカが横についた。
「休みなよ」セルカが肩を貸した。「息、上がってる」
「もう少し、行ける」クレイは壁に手をついた。
「無理すんな」セルカが言った。「二日半、寝てたんだよ」
「わかってる」クレイは言った。「ゆっくり、行く」
「灯って、いい名前じゃん」セルカが言った。「あたしが選んだも同然」
「ティナが選んだ」クレイは言った。
「あたしが最初に声に出した」
「出しただけだ」
「細かいなあ」セルカが唇を尖らせた。「どっちでもいいでしょ」
「どっちでもいい」クレイは言った。
「よくない」セルカが言った。「あたしのおかげ、ってことにしといてよ」
「してていい」クレイは応じた。
「素直じゃん」
「疲れてるだけだ」クレイは言った。
濃い一体は、来なかった。熟れる前は来ないと、あれは言った。その言葉だけは、いまのところ本当だった。
層を一つ上がるたび、読むものが戻ってきた。白いものの気配、遠くの他の一団の張り。生きているものの側へ、一段ずつ帰っていく。
浅層まで戻ったころ、クレイの内側にも、細い温もりが差しはじめていた。まだ、満ちるには遠い。
だが、寒さの通り道でしかなかった体の底に、小さく熱を持つ場所ができていた。落ちてくるというより、内側からゆっくり点りはじめる温もりだった。
「顔の色、ましになった」セルカが横目で見た。「下りるときより」
「戻ってきてる」クレイは言った。「まだ、途中だが」
「途中でいいよ」セルカが言った。「上まで、ゆっくりで」
「もう倒れないでよ」セルカが指を突きつけた。「二度は、いやだからね」
「倒れない」クレイは言った。
「急がない」ティナが言った。「灯は、逃げない」
浅層の広間に、素材採りの何組かが明かりを囲んでいた。地上の風が、上の道から細く下りてくる。
その一組が、三人を見て、顔を寄せ合った。
「あんたら」年かさの男が声をかけた。「もしかして、噂の。死人返しの」
「噂だけだ」ティナが足を止めた。「何か」
「上で、あんたらを探してるのがいる」男が声を落とした。「昨日、辻まで来てた。派手な連中だ」
クレイの手の先が、上の風に混じって、一つの張りを拾った。
遠い。まだ地上の、そのまた向こうだ。だが、詰まった織りの目に、覚えがあった。七年、隣で読んでいた織りだ。古い繕いの痕の入り方まで、この手が諳んじていた。
拾った刹那、指の裏に古いものが立ちのぼった。血止めの薬の匂い。戦のあとの、掠れた指図の声。七年、そのすぐ後ろで手を動かしてきた。忘れたつもりの手順が、いまも指の関節に畳まれていた。
「どんな連中だ」ティナが訊いた。
「背の高い、金の髪の剣士がいた」男が指で背丈を示した。「白い装束で、剣が上等だった」
男は、水を一口含んでから続けた。
「仲間を連れて、死にかけを死なせない治療師を探してるとさ」
「名乗ったか」ティナが訊いた。
「暁の剣、と」男が声をひそめた。「西で名の売れた連中らしいが……いまは、ずいぶん草臥れてた」
「西で名を売った連中が」セルカが鼻を鳴らした。「東くんだりまで、来るんだ」
セルカが、クレイを見た。
「勇者サマだ」セルカの声が尖った。「あんたを、探してる」
「探してる」クレイは繰り返した。
遠すぎて手が届かない、と前に言った。追い出された朝の声は、それくらい遠かった。恨みも、喜びも、そこまでは伸びなかった。
いまは、その織りが、手の先に触れている。遠いが、届かないほどではない。
七年、この手が黙って生かしてきた背が、こんどはこちらを探して東へ来た。自分が黙って積み上げた噂を頼りに。
「会うの」セルカが訊いた。
「わからない」クレイは言った。「まだ、決めてない」
決めてから動く。そう決めたのは、自分だ。いま決めるには、まだ何かが足りなかった。地上へ出れば、あの張りはもっと近くなる。近くなってから、決めればいい。
「あいつら、あんたを役立たずって捨てたんだよ」セルカが眉を寄せた。「よく、探せるよね」
「見えてなかっただけだ」クレイは応じた。「見えてれば、捨てなかった」
「かばうの、そこで」セルカが横を向いた。
「かばってない」クレイは短く返した。「見えてなかったものが、いま見えかけてる。それだけだ」
「ふうん」セルカは、まだ不満そうだった。「あたしは、まだ許してないからね」
セルカの声の底に、いつもの直情とは別のものが、ひとつ沈んでいた。荷物のように道端へ置き去りにされる側を、この娘は知っている。捨てる側の身勝手さを、たぶん、いまも許せないのだ。
「いいよ」クレイは言った。「セルカが、怒っててくれ」
ティナが、手帳をひらいた。前に書いた頁——東の底と、西の綻び。二つを別々に並べておいた頁だ。
「別々の話だと、書いておいた」ティナがペン先で頁を叩いた。「そろそろ、線でつなぐかもしれない」
「つなぐのか」クレイは言った。
「まだだ」ティナが言った。「向こうが東へ来て、こっちが上へ出る」
「近づいてるな」クレイは言った。
「近づいてる」ティナがペンを置いた。「つなぐのは、触れてからでいい」
クレイは、左手をゆっくり握った。線は沈んだままだ。中はまだ空で、地上の張りだけが、遠くで一つ、灯っている。
「上がろう」クレイは言った。「地上で、考える」
「灯、先頭あたし」セルカが抜き身の剣を肩へ乗せた。「今度は、あたしが道をあける」
「はぐれんなよ」セルカが振り返った。「あんた、まだフラフラなんだから」
「はぐれない」クレイは言った。「ついてく」
三人は、地上の風のほうへ上がっていった。上の光が、道の先で細く白んでいる。その光の向こうに、七年ぶんの声が、待っていた。
迷宮探索編、この回で踏破です。ここまで見届けてくださって、ありがとうございます。
東の大迷宮アビスへ三人が向かったのが、第二アークの終わりでした。力の底と寸法を測る、というティナの理屈が入口でしたが、下りてみれば検証どころではなく、上限も、打ち消しも、代償も、ぜんぶ実地で突きつけられる十五話になりました。クレイは空っぽの体のまま、それでもいちばん下まで下ります。底には、生きているものが一つもいません。誰も戻らなかった場所へ、三人でだけ立つ——地味ですが、この作品でいちばん書きたかった絵のひとつでした。
名前のなかったパーティーに、やっと名前がつきます。いちばん濃い冷たさの底でも消えなかった明かりから「灯」と。追い出された朝、クレイには名の付く場所がありませんでした。要らぬものは、席を持たない。その人が、灯という名のなかに一人ぶんの席をもらう回でもあります。
そして底の線は、まだ下を指しています。渡す先の奥が、この底のさらに向こうにある——そこは、あえて空けたまま先へ進みます。
最後に、西です。かつてクレイを役立たずと切り捨てた暁の剣が、草臥れた足取りで、彼の噂を頼って東へ来ました。会うのか、会わないのか。クレイはまだ決めていません。遠すぎて手が届かなかった声が、こんどは手の先に触れています。次のアークで、その端と端が触れます。どうか続けて見届けてやってください。




