代償を抱えて
目より先に、数がわかった。
ふたつ。近くで息がある。右にひとつ、左にひとつ。どちらも弱っていない。
クレイはそれを確かめてから目を開けた。
岩の天井が低く近い。上りの途中の、広間らしかった。壁の窪みで、明かりが一つ細く灯っている。
どれだけ眠ったのかは、わからない。眠る前の重さが、体の奥にそのまま残っていた。
七年、この手は外の弱りを読んできた。誰がいつ、どこをどれだけ傷ついたか。その読む手が、いまは自分の内側へ向いていた。
読めるのは、弱りだ。その弱りが、自分だった。汲まれた跡が、まだ埋まっていない。外の誰かを読むときのあの遠い冷たさが、いまは自分の胸の底にあった。
初めて、手当てされる側から自分の手を眺めている気がした。
弱った自分を、誰かが戻してくれるわけではない。この手は、他人にしか効かない。空になった内側は、時をかけて自分で満たすしかなかった。
「起きた」
右の息が動いた。身を寄せてくる気配。
「気分は」セルカが顔を覗き込んだ。
「わからない」クレイは言った。「体が、遠い」
「遠いって、なにそれ」
「手も足も、あるのはわかる」クレイは指を動かそうとした。「動かすと、間がある」
指は、命じてから少し遅れて曲がった。その間が、埋まらない距離のぶんだけあった。
「生きてんならいいよ」セルカが息を吐いた。
「二日、起きなかったんだからね」セルカが早口になった。「心配なんて、してないけど」
「二日」クレイは天井を見た。
「あたしとティナで、代わりばんこに見てた」セルカが言った。「あんた、一回も目を開けなかった」
左のほうで、ペンが紙を擦る音がした。
ティナが明かりのそばで書いていた。手を止めて、こちらへ顔を向ける。
「戻ってきた」ティナが言った。「目が、動いてる」
「戻った」クレイは言った。
「今度のは、これまででいちばん深い」ティナがペンを置いた。
「底の下まで、行った」クレイは言った。
「底の下」ティナがうなずいた。「それがどこなのかは、書けない。戻るのにかかった日数だけ、数えた」
「何日だ」
「二日と、半分」ティナが言った。「七回で倒れたときは、丸一日だった。今度は、その倍を超えてる」
ティナは、その二日のあいだに見たことを並べた。眠るクレイの息が、二度ほど止まりかけたこと。左手の線が、意識のないあいだも下の奥を指していたこと。中が空になるにつれ、その光がゆっくり沈んでいったこと。
「線が沈んだのは、いい兆しか」クレイは訊いた。
「わからない」ティナが言った。「汲むものが戻れば、また起きるかもしれない」
「起きるだろうな」クレイは言った。
クレイはセルカのほうへ目をやった。剣を膝に、砥石を当てている。刃の鳴る音が、生きている者の立てる音だった。
その音を、しばらく聞いていた。二日前、この音は止まっていた。止まった胸を掌の下に感じたことを、まだ指が覚えている。戻したのは、この手だ。戻したぶんが、この手から出ていった。二日眠って、まだ返ってこない。
「二日、長かったんだからね」セルカが手を止めた。「あんたが、そっち行くのかと思った」
「そっち」クレイは言った。
「奥だよ」セルカが言った。「線が引いてった、あっち」
「引かれた」クレイは言った。「でも、戻った」
「あたしが手首つかんでたからだろ」セルカが言った。「離したら、行ってた」
その手首を、この娘は二日ぶん握っていたのかもしれない。眠るあいだも、線がまた奥を向かないように。クレイは、そうとは訊かなかった。訊けば、この娘の二日をなぞることになる。
クレイは左手の甲を目の前へ上げた。
線は沈んでいた。あれほど光っていたのに、いまは皮膚の下で静かにしている。
「静かだね、それ」セルカが覗いた。
「汲むものがないからだ」クレイは言った。「俺の中が、空だ」
「空って」
「線は俺から汲んで、奥へ渡す」クレイは言った。「渡すものが、いま残ってない」
セルカが唇を結んだ。
沈んだ甲を見ていると、あの一体の声が戻ってくる。名などは、あとから貼った札だ。中身は、お前のものではない。借りものだ、と。
「役立たずだと、言われた手だ」クレイは甲を見た。「七年」
「知ってる」セルカが言った。
「次に、借りものだと言われた」クレイは続けた。「魔王の、欠けだと」
「あんなの、あいつが勝手に言っただけだろ」
「勝手に、でもだ」クレイは言った。「効かなかったのは本当だ。押し返されたのも」
効かなかった手のことも、押し返された掌のことも、あの言葉の形にそのまま収まってしまう。始末に負えないのは、嘘だと言い切るための足場が、こちらには一つもないことだった。
「それが本当かは、まだわからない」ティナが口を挟んだ。「裏づけは、一つもない」
「わからない」クレイは言った。「でも、ありそうだと思ってる」
「たどるなよ」ティナが言った。「そこは、まだ空けてある」
「たどらない」クレイは言った。「たどると、先が暗い」
この手がどこから来たのか。たどった先に何があるのか。考えかけると、明かりの届かない先と同じ暗さがあった。クレイは、それ以上進まなかった。ティナが空けている欄を、いま自分の手で埋める気はなかった。
セルカが、砥石を置いた。
「借りものでもさ」セルカが言った。「あたしは、それで生きてる」
クレイはセルカを見た。
「魔王の欠けだろうと、なんだろうと」セルカが続けた。「二日前にあたしを戻したのは、その手だよ」
「戻したぶん、俺が減った」クレイは言った。
「減った」セルカの声が落ちた。「あたしを戻して、あんたが空になった。それも知ってる」
セルカの目は、甲の線ではなく、その下の手そのものを見ていた。出どころなど、はなから問うつもりもない顔だった。戻された自分が現にここにいる——セルカが手放さずにいるのは、その一事だけだった。
明かりが、細く揺れた。
「役立たずと言われた」クレイは言った。「借りものだと言われた。俺の言うことも、聞かない」
「うん」セルカが言った。
「どれも、この手の話だ」クレイは甲を見た。「どれも、俺が決めたことじゃない」
しばらく、明かりの音だけがあった。
追放された朝も、こうだった。要らぬものとして、門の外へ捨て置かれた。あのときは黙って受け取った。受け取るしか、知らなかった。
いまは、受け取るだけではない。
手当てのいる誰かは、これからも目の前に現れる。息の止まる者も、また出る。そのとき手を引けば、俺は減らない。だが、目の前で一つ減る。役立たずと言われた手でも借りものと言われた手でも、懐にしまっておくよりは出したかった。減るのは、そのぶんの引き換えだ。安い、とは言わない。それでも、払うと決めた。
「一つだけ、俺が決める」クレイは言った。「使うかどうかは、俺が決める」
セルカが顔を上げた。
「どこから来た手でもいい」クレイは続けた。「借りものでもいい。使うのは、俺だ」
「減るのは」ティナが言った。
「知って、使う」クレイは言った。「今度は、知ってる」
これまでは、気づかないまま減っていた。手が勝手に動いて、勝手に底を掻いていた。今度は違う。目の前で誰かの息が止まれば、この手を出す。出せば減る。それを知った上で、出すと決めた。
「あんたさ」セルカが言った。「それ、けっこうきついこと言ってるよ」
「きついか」クレイは言った。
「きついよ」セルカが言った。「減るってわかってて、それでも出すんだろ」
「出す」クレイは言った。「決めた」
「だから、数えるって言ってるだろ」セルカが身を乗り出した。「あんたが減るぶん、あたしが数える」
「一人で、抱えなくていい」ティナが言った。「私が書く。セルカが数える。あんたは、使う」
「ティナさんは」クレイは言った。「なんで、書く側に回る」
「書けなかったものが、あるからだ」ティナが目を落とした。「昔、五人。名前も最期も、何ひとつ書けなかった」
「それと、俺の減りと」
「同じだ」ティナが言った。「書いておけば、なかったことにならない。あんたの減りも、あの五人も」
クレイはうなずいた。ティナの数える手は、失った五人の側から伸びている。だから一つも、こぼしたくないのだ。
「分けるのか」クレイは言った。「代償を」
「分けるよ」セルカが言った。「あんた一人のものには、させない」
代償を分ける、という言い方を、クレイは口の中で転がした。七年、この減りは誰にも見えなかった。自分にすら見えなかった。それを、いま二人が半分ずつ持とうとしている。
七年、この手を自分のものだと思ったことはなかった。初級回復の、地味な手だと思っていた。次に、蘇生だと知った。その次に、借りものだと言われた。
どれも、外から貼られた名前だった。
いま初めて、外の名前ではなく自分でこの手を引き受けた。使うと決めた。減ると知って、決めた。手のなかに、初めて自分の重さがあった。
ティナが明かりを掻き立てた。炎が、少し伸びる。
「休んだら、また下りる」ティナが言った。「底は、もう遠くない。この迷宮の、いちばん下だ」
「踏破、か」クレイは言った。
「踏破だ」ティナが言った。「あの一体は、熟れる前は来ないと言った。いまのうちに、底を見ておきたい」
「熟れる前に、こっちが底を見る」セルカが言った。「順番、逆にしてやろうぜ」
「逆に、な」クレイは言った。
ティナが前の頁をめくった。
「一つ、別に書いておいた話がある」ティナが言った。「東の底と、西の綻びだ」
「西の」クレイは言った。
「暁の剣」ティナが言った。「あんたが、いたところだ」
クレイは黙った。
「勇者サマの」セルカが眉を寄せた。「まだ出てくるのか、あいつら」
「噂だけだ」ティナが言った。「西で手ひどくやられて、立て直せていない。あんたの噂を、探し始めてるらしい」
「俺の」クレイは言った。
「死人返しの噂だ」ティナが言った。「東の底まで届いた。西へも、遠からず届く」
「届いたら」クレイは言った。
「探している者は、いつか辿り着く」ティナが言った。「それだけだ」
噂は足より速い。ティナが前にそう書いていた。西で手ひどくやられた連中が、その速い噂を頼りに東を向く。像は、まだ結ばない。だが、遠い話でもなくなっていた。
クレイは灯を見た。追い出された朝の声は、もう遠い。恨みは、湧かなかった。だが遠いままでいられるかは、わからなくなっていた。
クレイは左手をゆっくり握った。
線は沈んだままだった。中が満ちれば、また光る。そのとき使うかどうかは、もう外の誰かが決めることではない。値を付けるのも、名を貼るのも、こちらの決めることになった。
「行こう」クレイは言った。「底を見て、その先で考える」
「その先には」セルカが立ち上がった。「あたしがいる。ティナもいる」
「知ってる」クレイは言った。
三人ぶんの息が、狭い広間で一つに混ざっていた。二日前、そのうちの一つは鳴っていなかった。いまは、三つとも鳴っている。
クレイは、空のままの内側でその三つを数えた。数える側にいたはずの手が、数えられる側にも回っていた。それを、悪くないと思った。
瀕死から目を覚ましたクレイが、この回でようやく自分の手を引き受けます。
前回、クレイは自分の残りを掻き出してセルカを戻し、代わりに死にかけ側へ落ちました。二日を眠って、この話で目を覚まします。目覚めたクレイが向き合うのは、力そのものです。役立たずと言われ、次に借りものだと——魔王の欠けだと——言われた手。効かなかったことも押し返されたことも、その言葉にきれいに嵌まってしまう。淡々のクレイでも、そこは受け流せません。
それでも、と書きたかった。どこから来た手でもいい、借りものでもいい、使うのは俺だ、と。七年、この手を自分のものだと思えなかった人が、初めて外の名前ではなく自分の意思で手を握り直します。減ると知って、それでも使うと決める。派手な場面ではありません。空になった体で、静かに一つだけ決める回です。
支えるのは、戻された側のセルカと、五人を失ったティナです。代償を一人のものにさせない、分けて数える——三人の約束が、ここで少し深くなります。
底は、もう遠くありません。そして西では、かつてクレイを追い出した暁の剣が、彼の噂を探し始めています。踏破と、その先の再会へ。どうか続けて見届けてやってください。




