表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
33/46

代償を抱えて

 目より先に、数がわかった。


 ふたつ。近くで息がある。右にひとつ、左にひとつ。どちらも弱っていない。


 クレイはそれを確かめてから目を開けた。


 岩の天井が低く近い。上りの途中の、広間らしかった。壁の窪みで、明かりが一つ細く灯っている。


 どれだけ眠ったのかは、わからない。眠る前の重さが、体の奥にそのまま残っていた。


 七年、この手は外の弱りを読んできた。誰がいつ、どこをどれだけ傷ついたか。その読む手が、いまは自分の内側へ向いていた。


 読めるのは、弱りだ。その弱りが、自分だった。汲まれた跡が、まだ埋まっていない。外の誰かを読むときのあの遠い冷たさが、いまは自分の胸の底にあった。


 初めて、手当てされる側から自分の手を眺めている気がした。


 弱った自分を、誰かが戻してくれるわけではない。この手は、他人にしか効かない。空になった内側は、時をかけて自分で満たすしかなかった。


 「起きた」


 右の息が動いた。身を寄せてくる気配。


 「気分は」セルカが顔を覗き込んだ。


 「わからない」クレイは言った。「体が、遠い」


 「遠いって、なにそれ」


 「手も足も、あるのはわかる」クレイは指を動かそうとした。「動かすと、間がある」


 指は、命じてから少し遅れて曲がった。その間が、埋まらない距離のぶんだけあった。


 「生きてんならいいよ」セルカが息を吐いた。


 「二日、起きなかったんだからね」セルカが早口になった。「心配なんて、してないけど」


 「二日」クレイは天井を見た。


 「あたしとティナで、代わりばんこに見てた」セルカが言った。「あんた、一回も目を開けなかった」




 左のほうで、ペンが紙を擦る音がした。


 ティナが明かりのそばで書いていた。手を止めて、こちらへ顔を向ける。


 「戻ってきた」ティナが言った。「目が、動いてる」


 「戻った」クレイは言った。


 「今度のは、これまででいちばん深い」ティナがペンを置いた。


 「底の下まで、行った」クレイは言った。


 「底の下」ティナがうなずいた。「それがどこなのかは、書けない。戻るのにかかった日数だけ、数えた」


 「何日だ」


 「二日と、半分」ティナが言った。「七回で倒れたときは、丸一日だった。今度は、その倍を超えてる」


 ティナは、その二日のあいだに見たことを並べた。眠るクレイの息が、二度ほど止まりかけたこと。左手の線が、意識のないあいだも下の奥を指していたこと。中が空になるにつれ、その光がゆっくり沈んでいったこと。


 「線が沈んだのは、いい兆しか」クレイは訊いた。


 「わからない」ティナが言った。「汲むものが戻れば、また起きるかもしれない」


 「起きるだろうな」クレイは言った。


 クレイはセルカのほうへ目をやった。剣を膝に、砥石といしを当てている。刃の鳴る音が、生きている者の立てる音だった。


 その音を、しばらく聞いていた。二日前、この音は止まっていた。止まった胸を掌の下に感じたことを、まだ指が覚えている。戻したのは、この手だ。戻したぶんが、この手から出ていった。二日眠って、まだ返ってこない。


 「二日、長かったんだからね」セルカが手を止めた。「あんたが、そっち行くのかと思った」


 「そっち」クレイは言った。


 「奥だよ」セルカが言った。「線が引いてった、あっち」


 「引かれた」クレイは言った。「でも、戻った」


 「あたしが手首つかんでたからだろ」セルカが言った。「離したら、行ってた」


 その手首を、この娘は二日ぶん握っていたのかもしれない。眠るあいだも、線がまた奥を向かないように。クレイは、そうとは訊かなかった。訊けば、この娘の二日をなぞることになる。




 クレイは左手の甲を目の前へ上げた。


 線は沈んでいた。あれほど光っていたのに、いまは皮膚の下で静かにしている。


 「静かだね、それ」セルカが覗いた。


 「汲むものがないからだ」クレイは言った。「俺の中が、空だ」


 「空って」


 「線は俺から汲んで、奥へ渡す」クレイは言った。「渡すものが、いま残ってない」


 セルカが唇を結んだ。


 沈んだ甲を見ていると、あの一体の声が戻ってくる。名などは、あとから貼った札だ。中身は、お前のものではない。借りものだ、と。


 「役立たずだと、言われた手だ」クレイは甲を見た。「七年」


 「知ってる」セルカが言った。


 「次に、借りものだと言われた」クレイは続けた。「魔王の、欠けだと」


 「あんなの、あいつが勝手に言っただけだろ」


 「勝手に、でもだ」クレイは言った。「効かなかったのは本当だ。押し返されたのも」


 効かなかった手のことも、押し返された掌のことも、あの言葉の形にそのまま収まってしまう。始末に負えないのは、嘘だと言い切るための足場が、こちらには一つもないことだった。


 「それが本当かは、まだわからない」ティナが口を挟んだ。「裏づけは、一つもない」


 「わからない」クレイは言った。「でも、ありそうだと思ってる」


 「たどるなよ」ティナが言った。「そこは、まだ空けてある」


 「たどらない」クレイは言った。「たどると、先が暗い」


 この手がどこから来たのか。たどった先に何があるのか。考えかけると、明かりの届かない先と同じ暗さがあった。クレイは、それ以上進まなかった。ティナが空けている欄を、いま自分の手で埋める気はなかった。


 セルカが、砥石を置いた。


 「借りものでもさ」セルカが言った。「あたしは、それで生きてる」


 クレイはセルカを見た。


 「魔王の欠けだろうと、なんだろうと」セルカが続けた。「二日前にあたしを戻したのは、その手だよ」


 「戻したぶん、俺が減った」クレイは言った。


 「減った」セルカの声が落ちた。「あたしを戻して、あんたが空になった。それも知ってる」


 セルカの目は、甲の線ではなく、その下の手そのものを見ていた。出どころなど、はなから問うつもりもない顔だった。戻された自分が現にここにいる——セルカが手放さずにいるのは、その一事だけだった。




 明かりが、細く揺れた。


 「役立たずと言われた」クレイは言った。「借りものだと言われた。俺の言うことも、聞かない」


 「うん」セルカが言った。


 「どれも、この手の話だ」クレイは甲を見た。「どれも、俺が決めたことじゃない」


 しばらく、明かりの音だけがあった。


 追放された朝も、こうだった。要らぬものとして、門の外へ捨て置かれた。あのときは黙って受け取った。受け取るしか、知らなかった。


 いまは、受け取るだけではない。


 手当てのいる誰かは、これからも目の前に現れる。息の止まる者も、また出る。そのとき手を引けば、俺は減らない。だが、目の前で一つ減る。役立たずと言われた手でも借りものと言われた手でも、懐にしまっておくよりは出したかった。減るのは、そのぶんの引き換えだ。安い、とは言わない。それでも、払うと決めた。


 「一つだけ、俺が決める」クレイは言った。「使うかどうかは、俺が決める」


 セルカが顔を上げた。


 「どこから来た手でもいい」クレイは続けた。「借りものでもいい。使うのは、俺だ」


 「減るのは」ティナが言った。


 「知って、使う」クレイは言った。「今度は、知ってる」


 これまでは、気づかないまま減っていた。手が勝手に動いて、勝手に底を掻いていた。今度は違う。目の前で誰かの息が止まれば、この手を出す。出せば減る。それを知った上で、出すと決めた。


 「あんたさ」セルカが言った。「それ、けっこうきついこと言ってるよ」


 「きついか」クレイは言った。


 「きついよ」セルカが言った。「減るってわかってて、それでも出すんだろ」


 「出す」クレイは言った。「決めた」


 「だから、数えるって言ってるだろ」セルカが身を乗り出した。「あんたが減るぶん、あたしが数える」


 「一人で、抱えなくていい」ティナが言った。「私が書く。セルカが数える。あんたは、使う」


 「ティナさんは」クレイは言った。「なんで、書く側に回る」


 「書けなかったものが、あるからだ」ティナが目を落とした。「昔、五人。名前も最期も、何ひとつ書けなかった」


 「それと、俺の減りと」


 「同じだ」ティナが言った。「書いておけば、なかったことにならない。あんたの減りも、あの五人も」


 クレイはうなずいた。ティナの数える手は、失った五人の側から伸びている。だから一つも、こぼしたくないのだ。


 「分けるのか」クレイは言った。「代償を」


 「分けるよ」セルカが言った。「あんた一人のものには、させない」


 代償を分ける、という言い方を、クレイは口の中で転がした。七年、この減りは誰にも見えなかった。自分にすら見えなかった。それを、いま二人が半分ずつ持とうとしている。


 七年、この手を自分のものだと思ったことはなかった。初級回復の、地味な手だと思っていた。次に、蘇生だと知った。その次に、借りものだと言われた。


 どれも、外から貼られた名前だった。


 いま初めて、外の名前ではなく自分でこの手を引き受けた。使うと決めた。減ると知って、決めた。手のなかに、初めて自分の重さがあった。




 ティナが明かりを掻き立てた。炎が、少し伸びる。


 「休んだら、また下りる」ティナが言った。「底は、もう遠くない。この迷宮の、いちばん下だ」


 「踏破、か」クレイは言った。


 「踏破だ」ティナが言った。「あの一体は、熟れる前は来ないと言った。いまのうちに、底を見ておきたい」


 「熟れる前に、こっちが底を見る」セルカが言った。「順番、逆にしてやろうぜ」


 「逆に、な」クレイは言った。


 ティナが前の頁をめくった。


 「一つ、別に書いておいた話がある」ティナが言った。「東の底と、西の綻び(ほころび)だ」


 「西の」クレイは言った。


 「暁の剣(あかつきのつるぎ)」ティナが言った。「あんたが、いたところだ」


 クレイは黙った。


 「勇者サマの」セルカが眉を寄せた。「まだ出てくるのか、あいつら」


 「噂だけだ」ティナが言った。「西で手ひどくやられて、立て直せていない。あんたの噂を、探し始めてるらしい」


 「俺の」クレイは言った。


 「死人返しの噂だ」ティナが言った。「東の底まで届いた。西へも、遠からず届く」


 「届いたら」クレイは言った。


 「探している者は、いつか辿り着く」ティナが言った。「それだけだ」


 噂は足より速い。ティナが前にそう書いていた。西で手ひどくやられた連中が、その速い噂を頼りに東を向く。像は、まだ結ばない。だが、遠い話でもなくなっていた。


 クレイは灯を見た。追い出された朝の声は、もう遠い。恨みは、湧かなかった。だが遠いままでいられるかは、わからなくなっていた。


 クレイは左手をゆっくり握った。


 線は沈んだままだった。中が満ちれば、また光る。そのとき使うかどうかは、もう外の誰かが決めることではない。値を付けるのも、名を貼るのも、こちらの決めることになった。


 「行こう」クレイは言った。「底を見て、その先で考える」


 「その先には」セルカが立ち上がった。「あたしがいる。ティナもいる」


 「知ってる」クレイは言った。


 三人ぶんの息が、狭い広間で一つに混ざっていた。二日前、そのうちの一つは鳴っていなかった。いまは、三つとも鳴っている。


 クレイは、空のままの内側でその三つを数えた。数える側にいたはずの手が、数えられる側にも回っていた。それを、悪くないと思った。



瀕死から目を覚ましたクレイが、この回でようやく自分の手を引き受けます。


 前回、クレイは自分の残りを掻き出してセルカを戻し、代わりに死にかけ側へ落ちました。二日を眠って、この話で目を覚まします。目覚めたクレイが向き合うのは、力そのものです。役立たずと言われ、次に借りものだと——魔王の欠けだと——言われた手。効かなかったことも押し返されたことも、その言葉にきれいに嵌まってしまう。淡々のクレイでも、そこは受け流せません。


 それでも、と書きたかった。どこから来た手でもいい、借りものでもいい、使うのは俺だ、と。七年、この手を自分のものだと思えなかった人が、初めて外の名前ではなく自分の意思で手を握り直します。減ると知って、それでも使うと決める。派手な場面ではありません。空になった体で、静かに一つだけ決める回です。


 支えるのは、戻された側のセルカと、五人を失ったティナです。代償を一人のものにさせない、分けて数える——三人の約束が、ここで少し深くなります。


 底は、もう遠くありません。そして西では、かつてクレイを追い出した暁の剣が、彼の噂を探し始めています。踏破と、その先の再会へ。どうか続けて見届けてやってください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ