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それでも巻き戻す

 線が、体を運びはじめた。


 上りへ向けた足を、左手の甲が下へねじる。セルカに掴まれた手首ごと、奥のほうへ。


 「クレイ」セルカが踏ん張った。「どこ行くの。上だってば」


 「行こうとしてない」クレイは言った。「引かれてる」


 甲の一本が、糸を巻くように張っていた。前腕から集めた熱が、そこで塊になっている。渡す先を、探している。


 その渡す先が、下から昇ってきた。


 退いたはずの冷たさだ。芯のひときわ濃い、あの一体。間合いを詰めてくる。


 「熟れたな」濃い一体が言った。


 声が、前より近い。岩を擦る低さのまま、こちらの内側まで届いた。


 「摘みに来たのか」クレイは目を上げた。


 「呼んだのは、その甲だ」濃い一体が言った。


 線が、応えた。甲の熱が、一体へ伸びる。クレイの体が、また半歩下がりかけた。


 「呼んでない」クレイは足を止めた。「勝手に、伸びてるだけだ」


 「同じことだ」濃い一体。「熟れた実は、枝のほうへ倒れる」


 セルカが、間に入った。剣を、暗いほうへ据える。


 「その実、まだあんたのじゃない」セルカの口が、もう閉じかけている。


 「セルカ」ティナは、ペンを握っていなかった。「今日は退がって。あれは、クレイの手を狙ってる」


 「知ってる」セルカ。「だから、前にいる」


 「その娘を、通してやろう」濃い一体が言った。「邪魔さえ、しなければ」


 「通さない」セルカは、剣を引かない。「こいつの前に、あんたを立たせない」


 「ならば、二度目だ」濃い一体が言った。「前も、そこに立っていた」


 セルカの脇の、癒えかけた傷のことだ。あのとき、この娘は同じ場所に立って刃を食った。


 「セルカ」クレイは言った。「今日は、退がってくれ」


 「やだね」セルカが、剣を握り直した。「退がったら、あんたが線に引かれる」


 「引かれても、俺は止まる」


 「引かれてるって、自分で言ったろ」セルカが言った。「ついさっき」




 濃い一体が、沈んだ。


 影の芯が、いちどに間合いを飛んだ。セルカが剣を落とした。振る前に、懐へ入られたのだ。


 冷たい一点が、セルカの胸のまん中へ吸い込まれた。


 音は、しなかった。


 セルカの体が、糸の切れた形で前へ折れ、クレイの腕の中へ落ちてきた。


 「セルカ」クレイは受けた。


 返事がない。琥珀の目が、開いたまま何も映していない。


 胸から、脈が退いていく。いつもの退き方ではなかった。堰を抜いたように、一息で。


 これは、脇の傷とは違う。芯を、まっすぐ抜かれた。


 置いていかれる側には二度と回らない、とこの娘は言った。いまその娘が、いちばん遠くまで置いていかれかけている。クレイの腕の中で。


 「そんな」ティナの声が、上ずった。「一突きで、こんな」


 「聞こえるか」クレイ。「セルカ、返して」


 「返事、ない」ティナ。「息も、してない」


 ティナが、膝で寄った。両手を、セルカの胸へ重ねる。


 「まだ、間に合う」ティナが言った。「あんたの手なら」


 「間に合わせる」クレイは言った。


 「早く」ティナ。「間に合わせて」


 クレイの手が、勝手に動いた。落ちてくる体は、腕の中にある。


 汲んだ。死の縁へ、掌を沈める。


 沈めた指が、下から弾かれた。


 弾き返したのは、あの冷たさだ。セルカの中に入り込み、内側から死を押さえている。引き上げるそばから、上から蓋をされる。


 「いつもは、汲めば戻る」クレイ。「今日は、入らない」


 もう一度、沈めた。指の先が、縁を掠って滑る。


 「戻らない」クレイ。


 ティナが、セルカの胸へ耳を押し当てた。すぐ、離す。


 「鳴ってない」ティナの声が、上ずった。「クレイ。止まった。心の臓が」


 「わかってる」


 「あれが、押さえてる」ティナが言った。「あんたの手より、奥で」


 「掴めてる」クレイの息が、浅い。「届く距離だ。なのに、入らない」


 「縁に、蓋がある」ティナ。「あの脇のときより、深い」


 「深い」クレイも、縁を探った。「あのときは口を止められた。今日は口にも届かない」


 クレイは、三度目を沈めた。届かない。縁の手前で、掌が滑って戻される。


 「冷たくなってく」ティナ。「芯から」


 「離すな」クレイ。「まだ、間に合う」


 「脈が、遠い」ティナ。「急いで」


 セルカの手が、地に落ちていた。剣を握る、あの厚い手が、力なく開いている。




 線は、まだ張っていた。


 甲に集めた熱を、下の奥へ渡そうと引いている。奥へ、もっと奥へ。呼んでいるものが、そこにいる。


 クレイは、その引きを見た。


 渡す先が、下の奥にある。前に、そう思った。誰に渡すのかは、知らないと思っていた。


 いまは、知っている。


 渡す先は、ここだ。腕の中で止まった、この胸だ。


 クレイは、甲の熱を掌へ回した。奥へ向かう線を、腕の中へねじ曲げる。線が、逆らって鳴いた。


 線は、奥へ帰りたがった。呼んでいるものの力が、そちらのほうが強い。腕一本では、向きを変えきれない。


 だが、腕の中には理由があった。奥の誰かではない。名前を数えてくれると言った、この娘だ。


 これまで、この手は呼ばれるほうだった。行き先は、いつも向こうが決めていた。今日は、こちらが呼ぶ先を選ぶ。


 「渡す先は」クレイは言った。「俺が決める」


 掌を、止まった胸へ重ねた。集めた熱を、そこへ一息に落とす。


 底が、見えた。七回で打った、あの底だ。今日はまだ、そこまで汲んでいない。


 それでも、越えた。底の下へ、手を突き込む。


 底の下には、自分の残りがあった。それを、掻き出して渡す。


 「死なせるつもりはない」クレイは言った。「それだけは——俺の残りと、引き換えでも」


 冷たい蓋を、下から突き上げた。集めた熱で押すほど、蓋がわずかにたわむ。たわんだ縁が緩んで、掌がセルカの死の底へ滑り込んだ。


 届いた底から、止まった脈をひとすくい、上へ返す。


 自分の内側から、大きな塊がひとつ抜けた。抜けた跡へ、外の冷えが流れ込んでくる。


 七年、この手は誰かへ死を返してきた。返す先は、いつも他人だった。今日だけは、返したぶんが自分から出ていく。


 セルカの胸が、跳ねた。


 琥珀の目が、光を取り戻す。大きく息を吸い込んで、咳き込んだ。


 「——っ、は」セルカが喘いだ。「なに、いま」


 「戻った」ティナの両手が、まだセルカの胸にある。「戻ってきた」


 「あたし」セルカの息が、まだ揃わない。「死んで、たよね。いま」


 「死んでた」ティナが言った。「胸が、止まってた」


 「戻したのは」セルカ。


 「こいつだ」ティナ。


 セルカが、クレイを見た。クレイの顔から、色が引いている。


 「馬鹿じゃないの」セルカの声が、震えた。「自分を、こんなにして」


 「減っただけだ」クレイ。


 「減っただけって」セルカが、顔を歪めた。「その顔で、言うなよ」


 「動かないで」ティナ。「あんたも、限界」


 「わかってる」クレイ。




 クレイは、セルカを地へそっと下ろした。その腕が、もう上がらない。


 膝が、抜けた。地面が、下から近づいてくる。


 これは、聞いた感覚だ。祠で、セルカが言っていた。腹の底が抜けて、地面が近づく。置いていかれる、と思う——


 いま、それが自分の番だった。


 音が、綿を一枚はさんだように遠くなった。視界の縁から、色が退いていく。


 「クレイ」セルカの声が、その遠さの向こうで鳴った。「おい。唇の色、なくなってる」


 答えようとした。口が、動かない。


 線は、まだ甲で光っていた。渡し終えたのに、退かない。今度は、クレイの残りを奥へ引く。奥へ、下の奥へ。


 呼んでいるものが、そこにいる。今度こそ、自分が渡される番だった。


 腕を、掴まれた。


 セルカの手だ。さっきまで開いていた手が、クレイの手首を握っている。


 「行かせない」セルカが言った。「あんた、いま奥に行こうとしてる」


 「引かれてる」クレイは、かろうじて言った。「線が」


 「知ってる」セルカ。「引き戻すって、言ったろ」


 セルカが、握った手首を胸へ引き寄せた。奥へ引く線と、逆の向きだ。


 「もうひとりでやらせないって、言ったろ」セルカの、掴む手に力がこもる。


 「死なせるつもりはない」セルカが言った。「それ、あんたの台詞。今日はあたしが返す」


 クレイは、それを受けた。返す言葉は、すぐには出てこなかった。


 「行こうとしてない」クレイは言った。「引かれてる、だけだ」


 「同じだって、あいつが言ってた」セルカ。「引かれるのも行くのも。だから掴んでる」


 クレイの手首の上で、二つの引きが綱を張った。奥へ渡そうとする線と、こちらへ留めるセルカの指と。


 留めるほうが、少しだけ勝った。


 数えられる側に回ったのは、これで二度目だ。一度目は、名がついた朝だった。あのときは、こそばゆいだけだった。今日は、それが命綱になっている。


 「ティナ」セルカが呼んだ。「こいつ、運ぶよ。今度はあたしが担ぐ」


 「担ぐ」ティナは、もう記録していない。片腕をクレイの背へ回す。


 「立てるか」ティナが、顔を寄せた。


 「立てない」クレイ。「悪いが」


 「謝るな」ティナ。「今日は、あんたが運ばれる番だ」


 「悪かった」クレイの声が、薄い。


 「だから、謝るなって」セルカ。「聞こえてんだよ」


 「聞こえてるなら、寝てろ」ティナ。「体力、使うな」




 濃い一体は、動かずにいた。冷たい芯を、こちらへ据えたままだ。


 「渡したな」濃い一体が言った。「奥へではなく、その娘へ」


 「渡す先は、俺が決めた」クレイの声が、掠れて途切れた。


 「決めたか」濃い一体は動かない。「まだ、熟れきってはいなかった。惜しいことをした」


 「惜しくなど、ない」クレイは引かない。「渡し先は、間違えてない」


 「間違いとは、言っていない」濃い一体。「早い、と言った」


 「熟れたら、来るんだろ」


 「来る」濃い一体が言った。「そのときは、その娘では留められん」


 「今日の実は、種を残した」濃い一体。「その種が、また熟れる」


 「熟れる前に、こっちも育つ」セルカが言い返した。


 摘みに来た手が、いちど引いた。


 「次は、待たない」濃い一体が言った。「熟れる前に、来る」


 冷たさが、奥へ流れて遠ざかる。従う数も、それについて退いた。退き際に芯の濃さが際立ち、闇へ溶けて消えた。


 あとには、上りの道と、消えかけの明かりだけが残った。


 「また来るって」セルカが言った。「言い残してった」


 「来る」クレイ。「熟れたら」


 「熟れさせないよ」セルカが、クレイの腕を担ぎ直した。「そのまえに、あんたを上まで連れて上がる」


 「行ったよ」セルカが、上の道を見上げた。「あんたのおかげで、まだ全員いる」


 クレイは、答えられなかった。まだ全員いる、という言葉だけが、抜けた内側にゆっくり落ちてくる。


 ティナが、クレイの顔を覗いた。


 「今日のは、七回の底より深い」ティナが言った。「戻るのに、どれだけかかるか——それは書けない」


 「書けなくて、いい」クレイは、かろうじて声にした。「生きてる。三人とも」


 ティナが、口をつぐんだ。それから、小さくうなずいた。


 「ティナ、明かり持てる」セルカが呼んだ。


 「持てる」ティナが、光を拾った。「まだ、消えてない」


 「なら、先に立って」セルカ。「足場が、危ない」


 「わかった。段差、多いよ」




 クレイは、セルカの背に負われていた。


 祠の帰り、この娘が言ったとおりだ。動けなくなったら、担いででも連れて帰る——あれは、自分がセルカへ言った言葉だった。それが、逆に返ってきている。


 「重いだろ」クレイは、背中で言った。


 「重くないよ」セルカは、歩調を緩めない。「あんたが減ったぶん軽くなってる。それが、こわいんだ」


 「戻すよ。減ったぶんは」


 「勝手に減らすなって、言ってんの」セルカが言った。「あたしが数える側だろ。今日ので、いくつ減ったか」


 「いくつだ」


 「教えない」セルカは、背を軽く揺すった。「起きて、自分で聞きに来な」


 「起きるよ」


 「当たり前だろ」セルカが言った。「置いてかないって、あたしが決めたんだから」


 その決めごとを、クレイは背中で受け取った。数える側と、数えられる側。今日は、はっきり入れ替わっていた。


 線は、まだ光っていた。奥を向いて、クレイの残りを呼んでいる。


 だが今日は、その呼び声より、背中の温もりのほうが近かった。


 横で、ティナの足音が、歩調を合わせていた。三人の影が、上りの道へひとつながりに伸びる。


 クレイは、目を閉じた。落ちる先が、地面ではなく、誰かの背であるのは、初めてだった。



この回で、クレイは自分の残りを引き換えにしました。


 これまでのクレイの手は、汲めば戻る手でした。前回は、その手が敵の力に押さえ込まれて届かなくなり、セルカの脇に本物の血が残りました。今回は、その先を書きたかった。セルカの心の臓が止まり、いつもの汲み方では縁に手が入らない。それでも、クレイは巻き戻します。奥の誰かへ渡ろうとする左手の線を自分の腕の中へねじ曲げ、七回で打つ底の、さらに下まで手を突き込んで、自分の残りごとセルカの死を返しました。


 左手の線は前回、クレイの指図の外で勝手に動いていました。渡す先も、クレイには知りようがなかった。今回はそこを、クレイが自分で決めます。渡す先は、下の奥ではない。腕の中の、この胸だと。呼ばれるだけだった手が、初めて呼ぶ先を選びました。


 代わりに、クレイが死にかけ側へ落ちます。かつて祠でセルカが味わった、腹の底が抜けて地面が近づく感覚を、今度はクレイが味わう。置いていかれる側に二度と回らないと決めていたセルカが、いちばん遠くまで置いていかれかけ、生き返ったその手で、今度はクレイを引き戻す。流儀の言葉が、逆の向きから返ってきます。


 濃い一体は、熟れきる前を惜しんで退きました。次はもう待たない、とも言い残しています。クレイの内側は、七回の底より深く抜けたままです。この手が戻るのにどれだけかかるのか——それは、次でお話しします。どうか続けて見届けてやってください。

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