左手の紋の出自
上りの途中に、岩の抉れた窪みがあった。
三人はそこで足を止めた。奥からの冷たさは、もう間合いを詰めてこない。遠くへ退いた気配だけが、道の下でくすぶっている。
セルカが壁へ背をあずけ、脇を押さえた手をそろりと外した。当てた布の赤みは、それ以上ひろがっていなかった。
「止まったね、血」セルカが言った。「あんたのおかげ」
「まだ塞がってない」クレイは応じた。「動くと開く」
「わかってるって」
クレイは自分の左手を、目の前へ上げていた。
甲の線が、まだ熱い。冷たい相手が退けば熱も引くのが、これまでだった。今度は引かない。それどころか、いままでにない色を持ちはじめていた。
線が、光っている。
岩明かりの照り返しではない。皮膚の裏で、線そのものが青白く点いている。
いままでは、熱いだけだった。いまは、光る。
クレイは、その光を裏返して見た。線は皮膚の内側にあるのに、外の岩肌へ薄く色を落としている。自分の体から、明かりが漏れ出ている。それがいちばん、この場の外のことに思えた。
「クレイ」セルカが横から覗いた。「その手、光ってるよ」
「ああ」クレイは短く返した。
「てのひらのほうまで、筋が伸びてってる」
「見えてる」
ティナが窪みの縁に寄り、クレイの手元へ目を落とした。ペンはもう抜いていた。
「前に濃くなったときとは、違う」ティナが眉を寄せた。
「どう違う」クレイは訊いた。
「あれは、浮いて沈んだ。いまは、沈まない」
「引かないんだ」クレイは甲を見た。「一体が退いても」
「退いたのに、点いてる」ティナが甲を見つめた。「向ける先が、いない」
線の光が、脈を打つように強くなった。
強くなるたび、指の付け根の疼きが手首まで這った。傷の深さを読むときの、あの通り道だ。だがいまは、読む相手がいない。誰の弱りも、この道の先にはなかった。
「浮いた」セルカが声を落とした。「皮膚から、離れてる」
細い一本が、肌の下からわずかに起き上がっていた。クレイは手を握った。
握っても、線は指の内で光り続けた。てのひらの中で、熱が集まってくる。
「汲んでもいない」クレイは言った。「向けてもいないのに、集まってくる」
「集まって、どこ行くの」セルカが顔を寄せた。
「わからない」クレイは指の隙間を見た。「ただ、溜まっていく」
クレイは、右手の親指で甲の線を押した。押さえれば、静まるかと思った。
線は、押した指を下から押し返してきた。熱が、指の腹まで昇ってくる。
「押しても、無駄みたいだ」クレイは親指を浮かせた。
「押さないほうがいい」ティナが止めた。「刺激するかもしれない」
「刺激して、どうなる」
「わからない」ティナが言った。「わからないから、触るなと言ってる」
クレイは、親指を離した。離しても、線は自分の速さで光り続けた。自分の手なのに、自分の指図の外にある。その据わりの悪さは、七年ぶんのどれとも似ていなかった。
体温が、前腕から甲へ向かって細く引いていく感覚があった。
いつもは逆だった。外の死へ手を伸ばすと、内側が冷える。今は外に死がない。それなのに、自分の内側から甲の一点へ、温いものが吸い上げられていく。
糸を巻き取られるように、少しずつ。
「クレイ」ティナが目を細めた。「色が、引いてってる」
「減ってる」
「刃も来てないのに?」
「来てない」クレイは言った。「線が、勝手に汲んでる」
セルカが、クレイの手首を掴んだ。
「やめさせなよ、それ」セルカが眉を寄せた。「あんたが減るなら」
「やめ方が、わからない」クレイは言った。
「なんで減るのさ。誰も斬られてないのに」
「線に、訊いてくれ」クレイは言った。
セルカが唇を結んだ。掴んだ手首を、離さずにいる。
「訊いて答えるなら、こんな気味悪くないよ」セルカが言った。
その気味悪さの正体を、クレイは自分の内側で追った。
「減ってるのは、間違いない」クレイは言った。「斥候に張ったときとも違う」
「あのときは、外へ伸びた」ティナが記した。
「いまは、外へ出てない」クレイは甲を見た。「甲の一点へ、溜まっていくだけだ」
何かへ渡す前の、汲みおきのように。
不意に、光がひと跳ね強くなった。
線が一息に張り、前腕の温もりを大きくひと掬いした。体が、道の奥のほうへぐらりと傾いだ。
クレイは岩の縁を掴んで、止めた。
「クレイ」セルカが肩を押さえた。「どこ行こうとしてんの」
「行こうとしてない」クレイは言った。「引かれた」
「あんたの足、下に向いてたよ」
「向けてない」クレイは言った。「線が、先に向いた」
張りは、すぐにゆるんだ。だが甲の一本は、下りの奥をまだ指している。三人が退いてきた、もっと深いほうへ。
「いま、下を向いた」ティナが言った。ペンを止めている。
「向いた」クレイは言った。「奥へ」
「あいつらのいる、ほうか」
「わからない」クレイは言った。「もっと、下だ」
「渡す先が、下の奥にある」クレイは声を落とした。「線は、そこへ渡すために俺から汲んでる」
「誰に渡すのかは、俺も知らない」クレイは続けた。「線も、言わない」
ティナがペン先を止めた。
ティナが、これまでの頁を指でたどった。
「一つずつ、思い出す」ティナが言った。「東の道で、この筋が先へ張った。あのときは、方角へ」
「張った」
「影が来て、熱を持った」ティナが続けた。「あのときは、あれへ向いた」
クレイは、黙ってうなずいた。
「いまは、どっちでもない」ティナがペンを浮かせた。「向ける先がないのに、起きてる。順に、強くなってる」
「上ってきてるんだ」クレイは言った。「この線が」
「上ってきてる」ティナが言った。「熟れるっていうのは、これのことかもしれない」
「かもしれない、で書くのか」
「書かない」ティナが言った。「かもしれないは、頭の中だけだ」
ティナが、頁に短く書いた。書いてから、手を止めた。
「一つ、言えることがある」ティナが言った。
「なんだ」
「これは、あんたが動かしてない」ティナが言った。「あんたの手なのに、あんたの指図で動いてない」
「わかってる」クレイは応じた。
「もう一つ、言えないことがある」ティナが続けた。「なんで動くのか。誰が呼んでるのか。そこは、書けない」
「あいつは、知ってた」
「知ってて、伏せた」ティナが言った。「熟れる前に割るのは惜しいと」
「熟れたら、教えるのか」
「教えない」ティナが言った。「摘む、と言った」
摘む、という一語が、上りの冷えた空気に残った。
「果実なら」クレイは指を折った。「実らせた枝が、どこかにある」
「ある」ティナがペン先を止めた。
「この線が実だとして、枝は誰だ」「摘む手は、誰の手だ」
「そこは、書かない」ティナが答えた。
考えると、足元が薄くなった。クレイは、それ以上その道をたどらなかった。たどった先に名前があるとして、その名前をいまこの手で持つのは重すぎる。
わかるのは、ひとつだ。この光は、俺の外の誰かへ繋がっている。繋がった先が誰かは、まだ知らない。知らないほうが、いまは立っていられる。
それでも、問いは残った。
「七年、この手は死を止めるために動いた」クレイは言った。「俺が動かしてきたつもりだった」
「つもり」ティナが顔を上げた。
「動いてきたのは、線のほうかもしれない」クレイは低く続けた。「俺は、線の乗った手を運んでただけだ」
だとしたら、止めてきたのも俺ではない。止まってくれていた、だけだ。
その止まりが、いま外れかけている。外れた先でこの手が何をするのかは、誰にも書けない。俺自身にも、読めない。
「迷宮の岩が、弱りを層にして届けてくる」クレイは言った。「いつもなら、どれかへ手が向く」
「いまは」ティナがペンを構えた。
「向かない」クレイは甲を見た。「線は、弱りですらない一点を指してる」
生きても死んでもいない、あの冷たさの通り道の、さらに奥。
「あの一体が、言ってた」ティナが低く置いた。「これは、欠けの在りかだって」
「言った」クレイは応じた。
「その在りかが、いま起きてる」ティナが言った。「置かれたものが、目を覚ました」
クレイは、光る線を見下ろした。
置かれたもの、という言い方が戻ってくる。選んだのではない。生まれたときから、この甲にあった。それが、いま自分から動いている。
「その先は、書くのか」クレイは訊いた。
「書かない」ティナが言った。「起きたことだけ書く。線が点いた。沈まない。勝手に汲む。ここまでだ」
「その先は」
「その先は、まだ空だ」ティナが言った。「埋める言葉を、持ってない」
空だ、という一語を、クレイは黙って受けた。ティナが埋めずに空けているものが何なのかは、訊かなかった。訊けば、答えのない欄が一つ増えるだけだと知っている。
クレイは、光るてのひらをゆっくり閉じた。閉じても、光は指の隙間から漏れた。
自分の一部が、自分の外の何かへ向いている。俺が向けたのではない。線が、勝手に。
役立たずと言われた手だった。次に、借りものだと告げられた。いまは、俺の言うことすら聞かない。どれもこの手の話で、どれも俺の話ではないように遠かった。
あの一体は、熟れると言った。熟れたら摘む、と。いま光っているこれが、熟れかけているのだとしたら。
クレイは、その先を数えるのをやめた。数えても、手は答えを返さない。
セルカが身じろぎして、脇をかばった。
「痛むのか」クレイは訊いた。
「引きつるだけ」セルカが言った。「塞がりかけてる。あんたのおかげだよ」
「塞いだのは、時だ」「俺は、止めただけだ」
「その止めるのが、あんたにしかできないんだろ」
クレイは答えなかった。返す言葉が、手のなかになかった。
「クレイ」セルカが、手首を握ったまま言った。「こっち見なよ」
クレイは目を上げた。
「あんたはさ、あんただよ」セルカは目を逸らさなかった。「線がなんて言おうと」
「線は、何も言わない」クレイは甲へ目を落とした。「光るだけだ」
「あたしには、あんたの手にしか見えない」セルカが言った。「七年、誰も死なせなかった手だろ」
クレイは、掠れた息をひとつ吐いた。
「七年、気づかずに減ってた手だ」
「それでも、あんたの手だよ」
セルカの言い方には、迷いがなかった。線のことも、欠けのことも、この娘には端から関係がないらしい。そこにあるのが誰の手か、それだけを見ている。
その真っ直ぐさに、光る甲がほんの少し軽くなった気がした。気のせいだ、と自分で打ち消した。線は、変わらず点いていた。
打ち消しても、セルカの握りは残った。線の熱が甲へ集めるものと、手首を掴む指がこちらへ留めるもの。二つが同じ手首で、逆の向きに引き合っている。クレイは、留めるほうへ少しだけ体重をあずけた。
「ティナさん」クレイは言った。「これ、強くなってるのか」
「わからない」ティナが言った。「でも、さっきより遠くを向いてる」
「遠く」
「あんたの手が、どこまで伸ばされるのか」ティナは言葉を選んだ。「それが、まだ書けない」
クレイは、開いたてのひらをもう一度握った。
いつもは、刃が来てから汲む。汲み終われば、手は静かになる。いまは、刃も来ていない。それなのに、汲んでいる。
次に本物の刃が来たとき、この手は止まる先を知らないかもしれない。止めるのは、いつも自分だった。その自分を、線が追い越そうとしている。
「次に刃が来たら」クレイは言った。「俺は、止まる先を知らない」
「あたしが数えるよ」セルカは声を強めた。「あんたが止まれないなら、あたしが止める」
「止め方が、わからないんだ」クレイは言った。
「わかんなくていい」セルカが言った。「あんたが引きずられたら、あたしが引き戻す。手首、掴んでる」
クレイは、掴まれた手首を見た。セルカの指は、光る甲のすぐ隣で、力をゆるめずにいる。その握りだけが、いま線と反対の向きに引いていた。
セルカが立ち上がり、剣を拾った。脇をかばう動きが、まだ残っていた。
「上がろう」セルカが言った。「ここは、あいつに近すぎる」
「近い」
三人は、上りへ向き直った。
クレイは、光る左手を握ったまま歩いた。握った隙間から、青い光がまだ漏れている。
線は、上りへ運ばれながら、下の奥を向き続けていた。呼んでいるものが、そこにいる。呼ばれているのは、この手だ。
それが誰の呼び声かは、まだ掌のどこにもなかった。
クレイの左手が、この回でようやく自分から動きました。
これまで甲の線は、クレイが死を汲むときか、外の冷たさへ気を向けたときにだけ応えていました。受け身の反応です。今回は違います。汲む死もなく、向ける相手もいないのに、線のほうから起き上がり、点り、浮き、クレイの内側の温もりを甲へ吸い上げていきます。呼んでいるのは、もうクレイではありません。
濃い一体は前回、この印を欠けの在りかだと示しました。その在りかが、いま目を覚ましました。ティナはそこまでを書きます。ですが、その先——誰が呼んでいるのか、これを負う者が何者なのかは、書きません。埋める言葉をまだ持っていないからです。ここは、伏せておきます。クレイ自身も、たどりかけた道の先を、自分でそっと閉じました。
怖いのは、止め方がわからないことです。クレイは七年、自分の手を自分で止めてきました。その自分を、線が追い越そうとしている。次に本物の刃が来たとき、この手がどこまで伸ばされるのか——それはクレイにも、ティナにも、まだ読めません。
線は下の奥を向いたまま、上りへ運ばれていきます。呼ばれているのはこの手だと知りながら、誰が呼んでいるのかは掌のどこにもない。その空白のいちばん深いところで、次の一歩が待っています。どうか続けて見届けてやってください。




