劣化版
上りの半ばで、後ろから声がした。
人の喉から出た声ではなかった。岩の面を擦るような、低く乾いた響きだ。
三人とも足が止まった。セルカが脇を押さえたまま、首だけで振り返る。押さえた布は、上りのあいだに端が赤く滲んでいた。
濃い一体が、明かりの届かない先に立っていた。退がる三人を追ってきた、そのままの間合いだ。
これまで、この一体は音を一つも立てなかった。刺すでも退くでもなく、ただこちらを眺めていた。
それが、いま初めて言葉を持った。
クレイは、後ろへ半分だけ体を開いた。セルカの肩は、まだ自分の手のなかにある。
「動くなよ」クレイはセルカへ言った。「傷が開く」
「開かないよ」セルカが言った。「それより、あれ」
「わかってる」クレイは言った。
「戻す手だな」濃い一体が声を這わせた。
クレイは動かなかった。声の出どころへ、気だけを向ける。
「あんた、喋るのか」クレイは言った。
答えはない。かわりに、暗い芯がこちらへ半歩、身を寄せた。
「死を、戻す手だ」濃い一体が低く落とした。「久しく見ていない」
効かない相手が、初めてこちらの手を名指しした。
「見てきたのか」クレイは言った。「こういう手を」
「一度だけな」濃い一体の声が、岩の面を低く擦った。「もっと、深いものを」
「戻すのは、否まない」クレイは言った。低く、短く。
名前ならもう知っている。この手が何をしているかも。だがこの一体は、その先を見ていた。
「名などは、あとから貼った札だ」濃い一体が告げた。「中身は、お前のものではない」
クレイの眉が寄った。
「俺のものだ」クレイは言った。「七年、この手でやってきた」
「使ってきた、だけだ」濃い一体が据えた。「授かった覚えは、あるまい」
図星だった。この力がどこから来たのか、思い出せた例はない。物心のつく前から、そこにあった。
「借りものだ」濃い一体が言った。「お前のは、あの方の力の欠けだ」
あの方、という言い方に、ティナのペンが止まった。
「あの方、って」セルカが言った。声が硬い。「誰のことだよ」
「お前たちが、魔王と呼ぶものだ」濃い一体が告げた。
その二字が、暗がりから転がって足元まで来た。
セルカが息を吸った。脇の傷が引き攣れて、顔がゆがむ。
「魔王」ティナが低く言った。断じる声ではなく、置く声だった。
「本気で言ってんの」セルカが噛みついた。「こいつの手が、魔王のものだって——」
「言い切らない」ティナが遮った。「でも、聞いておく」
「あの方は、死を操る」濃い一体が声を低めた。「生き死にの縁を、指で動かす」
「お前のは、その真似ごとだ」濃い一体が続けた。「縁を、戻すだけの」
「戻すだけ」クレイは言った。
「戻すだけだ」濃い一体が言った。「あの方は、奪いもする。お前にはできまい」
クレイの掌が、内から冷えた。
戻すだけの手と、奪いもする力。二つが、ひとつの像を結んだ。
この一体にだけ手が効かなかった理由が、いま形になる。相手は戻す側ではなく、逆へ引く側だ。だから汲んだそばから、下へ持っていかれた。
「それで、押し返したのか」クレイは言った。「あのとき」
「押した覚えもない」濃い一体が言った。「お前が浅いだけだ」
浅い、という言葉が、思ったよりも深く刺さった。クレイは黙って受けた。
「奪うって」セルカが声を尖らせた。「命を、獲るってことかよ」
「戻すことの、裏だ」濃い一体が言った。「戻せる手は、いつか奪う手にもなる」
クレイは顔を上げなかった。いまのは、聞かなかったことにした。だが胸の底で、その一言が錨のように沈んで残った。
「同じことを、逆からやる」濃い一体が言った。「お前が戻し、あの方が奪う」
「どちらが元で、どちらが写しか」濃い一体が続けた。
「写し」クレイの声が掠れた。
「なりそこないだ」濃い一体が言い足した。「よくできた、なりそこないだ」
声の色では、褒めているのか蔑んでいるのか読めなかった。惜しくも、憎くもない。品物の良し悪しを言い分ける者の声だった。
その声を浴びながら、クレイは奇妙に静まっていく自分に気づいた。追放された朝も、こんな声で値を付けられた。いらない、と。あのときと同じ場所に、また立たされている。値を付ける相手が、変わっただけだ。
「その甲の印を、見せてみろ」濃い一体が声を落とした。
言われるまでもなかった。左手の甲は、さっきから熱い。線が皮膚の裏で起き上がり、暗がりの一体へ向いている。
「それが、しるしだ」濃い一体が言った。「欠けの、在りかだ」
クレイは自分の左手を見た。細い線が、いつもより濃く浮いている。
名がついたばかりの力を、外から落ちてきた欠けだと言われている。
「昔から、あった」クレイは言った。「生まれたときから、この甲に」
「そうだろうな」濃い一体が言った。「置かれたものだ。お前が選んだのではない」
置かれた、という言い方にクレイは息を止めた。
「じゃあ、俺は」クレイは言いかけた。「これを置かれた俺は、何だ」
濃い一体は、答えなかった。
「そこまでだ」濃い一体が断ち切った。「いまのお前には、早い」
力の出どころは告げても、それを負う者が何者かは、この一体は言わなかった。
「なんでだよ」セルカが食い下がった。「そこまで喋って、なんで最後だけ」
「言えば、壊れる」濃い一体が言った。「熟れる前の実を、割るのは惜しい」
その言い方が、いちばん寒かった。こちらを気遣っているのではない。ただ、時が来るのを待っている。
「熟れたら、どうなる」クレイは言った。
「摘む」濃い一体が言った。「それだけだ」
ティナが顔を上げた。
「その印が、あんたの言う欠けと繋がってる」ティナは言葉を選んだ。「そう言いたいの」
「繋がっている、ではない」濃い一体が言った。「それが、欠けだ」
「欠けって、なんだよ」セルカが呻いた。「足りないってことか」
「足りない側ではない」濃い一体が言った。「零れた側だ」
「拾えんのかよ」
「拾う手は、一つだ」濃い一体が声を落とした。「お前のものではない」
ティナのペンは、紙の上で止まったままだった。書ける言葉を、まだ持っていない顔だ。
「仮に、そうだとして」ティナは言った。「この人がどこから来たかは、あんたも言わない」
「言わない」濃い一体が言った。
ティナは、それ以上を追わなかった。追えば嘘の欄が一つ増えると知っている顔だった。
「一つだけ」ティナは言った。「あんたは、これを確かめに来たのか。この印を」
「確かめる、まででもない」濃い一体が言った。「見れば、わかる」
ティナがペンを下ろした。相手のほうが、こちらより多くを知っている。その事実だけを、静かに帳面へ置いた顔だった。
「もういい」セルカが絞り出した。脇を押さえた手に、力がこもる。
「あんたの話、こいつに聞かせたくない」セルカが続けた。
「聞かせたくない、か」濃い一体が、擦るような低さで繰り返した。「もう、聞いてしまった」
セルカが唇を噛んだ。剣は今日、この相手に届かない。言葉も、押し返せなかった。
「あんた、なんで刺さなかった」セルカが絞り出した。「あたしのこと。さっき、やれたろ」
「用は、お前ではない」濃い一体が低く落とした。「その手だ」
セルカの喉が鳴った。自分が餌ですらなかったことを、いま知った顔だった。
濃い一体は、それきり口を閉じた。冷たい芯が、暗がりの奥へ半歩だけ退く。
「また来る」濃い一体が言い残した。「印が熟れたころに」
冷たさが、明かりの外を横へ流れて遠ざかった。奥に控えていた数も、それについて退いていく。
あとには、上りの道と、消えかけの明かりだけが残った。
三人は、その場を動けずにいた。
「クレイ」セルカが言った。「あんな言葉、真に受けんなよ」
「受けてない」クレイは言った。
嘘だった。受けていないわけがない。
力の名を知って、まだ幾日も経っていない。その手の元手が、自分の外にあると告げられた。誰かの取りこぼした欠けが、俺の手の中身だと。
七年、この手を役立たずと言われて生きてきた。ようやくそうではなかったと知ったばかりだ。その手が今度は、自分のものですらないと言われている。役立たずと、借りもの。どちらがましかは、すぐには決められなかった。
「あいつ、嘘ついてるかもしれないだろ」セルカが噛みついた。「口だけなら、なんとでも言える」
「かもな」クレイは言った。
「かもって、なんだよ」セルカが言った。「そこは違うって言えよ」
「言えたら、楽だ」クレイは言った。
言いながら、そう思い切れない自分がいた。効かなかったことも、押し返されたことも、あの言葉にきれいに嵌まってしまう。たちが悪い。
「ティナさん」クレイは言った。「あいつの言ったこと、書いたか」
「書いた」ティナは帳面へ目を落とした。「全部、そのまま。裏づけは、まだ一つもない」
「裏づけのないものを、書くのか」クレイは言った。
「消すよりましだ」ティナは静かに置いた。「嘘なら、あとで嘘とわかる。消したら、それもできない」
「書いても、どうにもならないだろ」セルカが言った。
「いまはな」ティナが言った。「あとで効く」
「あとっていつだよ」
「その先で困らないためだ」ティナが言った。
「あんたは、平気なのかよ」セルカが噛みついた。「こんな話、聞かされて」
「平気じゃない」ティナが返した。「だから、書く」
セルカが口をつぐんだ。返す言葉を、見つけられない顔だった。
クレイは小さくうなずいた。ティナの帳面だけが、いま慌てていなかった。
「クレイ」ティナが言った。「一つだけ、確かなことがある」
「なんだ」クレイは言った。
「あれは、あんたの手を欲しがってる」ティナは言った。「壊すつもりなら、もう壊せた」
「壊さなかった」クレイは言った。
「熟れるまで待つと言った」ティナは言った。「つまり、あんたはまだあれの手の内にいる」
「じゃあ、あたしが庇ったのは」セルカが絞り出した。「なんだったんだよ」
「無駄じゃない」ティナが返した。「あんたがいたから、二人とも生きてる」
わかっている、とは言えなかった。手の内にいるのは、自分だけではない。横の二人ごと、間合いの中にいる。それがいちばん、こたえた。
左手の甲は、まだ熱を持っていた。
一体が退いたのに、線が沈まない。いつもなら、冷たい相手が遠のけば熱も引く。今日は引かなかった。
クレイは左手を握った。握っても、熱は指の内でくすぶり続けた。甲の奥で何かが、呼ばれて応えようとするみたいに。
「クレイ」ティナが言った。「あれの言ったこと、全部が本当とは限らない」
「わかってる」クレイは言った。
「でも、印が動いた」ティナは目をそらさなかった。「それだけは、私も見た」
セルカが、クレイの左手を横から覗いた。
「線、濃くなってる」セルカが声を落とした。「前より、はっきり」
「知ってる」クレイは言った。
「痛むのか」セルカが言った。
「痛くはない」クレイは言った。「熱いだけだ」
その熱が、いつもの熱と違うことは言わなかった。言えば、二人にまた一つ荷を渡すことになる。
汲む時とは別に兆した例は、あるにはあった。斥候の気配や東の方角に、甲の下の線が裏から熱んだ。だがそれは、遠くの冷たさへ向くあいだだけだ。向けば張り、遠のけば引いた。いまは、その冷たさが退いている。誰の死も、掌には乗っていない。
なのに、熱い。
しかも、こちらが汲んだのでも、向けたのでもない。線のほうから起き上がって、退こうとしない。浮くものが、こちらの都合とは別に、そこにある。都合の悪いことほど、筋は通る。
三人は、上りへ足を向け直した。
セルカがよろけて、クレイの肩へ手を掛ける。クレイはその重みを、黙って受けた。
その言葉が本当かどうかは、いまはわからない。魔王という名も、あの方という呼び方も、遠い。
わかるのは、ひとつだけだ。甲の下の線が、初めて自分から起きようとしている。これまでは、こちらが汲むか、外の冷たさへ向けたときにだけ応えた。いまは、呼んでもいないのに、線のほうから起きてくる。まるで、遠くの誰かに応えるように。呼んでいるのは、こちらではなかった。
クレイは、握った手の隙間を見下ろした。
線の熱は、そこでまだ、退かなかった。
ここまで付き合っていただき、ありがとうございます。
クレイの手は前回、初めて効きませんでした。汲んだ死を押し返され、セルカの脇に本物の血が残りました。なぜ効かないのか、そのときは誰にもわかりませんでした。
その答えの半分を、今回は敵のほうから差し出させました。お前の戻す手は、魔王の力の欠けだ——生き死にの縁を動かす大きな力に対して、縁をただ戻すだけの、劣ったこぼれ物だと。だから、奪いもする相手に押し負けた。効かなかった理由が、いちばん聞きたくない形で像を結びます。
力に名がついてまだ幾日も経たないうちに、その元手は自分の外から来たものだと言われる。クレイの淡々は、ここで少しだけひびが入ります。取り乱しはしません。ただ、握った手の熱が退かないことだけを、二人には言わずにしまい込みます。
濃い一体は、力の出どころは告げても、それを負う者が何者かは口にしませんでした。「いまのお前には早い」と。その伏せられたところが、この物語のいちばん深い底です。
左手の線は、汲んでもいないのに起きようとしています。次で、その甲が何を始めるのか。どうか続けて見届けてやってください。




