死を操る者
冷たいものが、灯のふちを越えた。
ひとつではなかった。後ろに、幾つも続いている。
クレイは膝を立てて身を起こした。奥の数が、もう間近まで来ていた。
物見の一点は、いつもの間合いにいる。その後ろから、同じ冷たさが列になって下りてくる。
街道の影が、列で押し寄せた朝を思い出した。あのときも、こうして肌の内側が鳴った。
だが今日の冷たさは、あのときより数が多い。肌の内側で、幾つもの点がいっぺんに鳴っている。
鳴りの奥に、ひときわ低い一つがあった。ほかの点を束ねるように、深く据わっている。
「来たね」セルカが剣を取った。
「何体いる」ティナが訊いた。
「数えきれない」クレイは言った。「五つより、ずっと多い。数えるそばから、増える」
「奥の数、まだ増えるのか」セルカが言った。
「増えてる」クレイは言った。「後ろから、湧いてくる」
「灯は」セルカが言った。「絞るのか」
「絞らない」ティナが言った。「今日は、見えるほうがいい」
「前、出るのはあたし」セルカが言った。「あんたらは下がってて」
「離れるなよ」クレイは言った。「灯の中にいてくれ」
セルカが灯の前へ回った。切っ先を、暗いほうへ据える。口が、もう閉じかけていた。
いちばん前の冷たさが、灯の中へ入ってきた。人の背丈ほどの影だ。輪郭が、ふちで溶けている。
だがその一体は、後ろの影と違った。冷たさの芯が、ひとまわり濃い。
クレイの左手の甲が、裏から熱を持った。甲の下の筋が、その一体へ向かって張る。
「濃いのが、一体いる」クレイは言った。「奥の連中とは、質が違う」
「どう違う」ティナが言った。
「重い」クレイは言った。「ほかのより、ずっと」
「それが頭か」セルカが言った。
「近い」クレイは言った。「もう、灯の中だ」
横の暗がりから、影が一体すべり出た。セルカが振り向きざまに薙ぐ。
剣は、いつものように霧を抜けた。だが影は退いて、また間合いを取り直す。
「斬れない」セルカが短く言った。「街道のと、おんなじだ」
「本隊は、後ろで待ってる」ティナが言った。「動くのは、あの濃いのだけ」
「囮か」セルカが言った。
「わからない」ティナが言った。「でも、あれを通すな」
「通さない」セルカが言った。
「濃いの、どこ」セルカが言った。
「正面」クレイは言った。「まっすぐ、来てる」
濃い一体が、一歩詰めてきた。冷たさが、灯の芯まで這ってくる。
セルカが前へ出て、その胴へ剣を入れた。
斬れはしない。だが今日は、抜けもしなかった。刃を伝って、冷たさがセルカの腕へ這い上がる。
「っ——」セルカが剣を握り直した。「腕が、動かない」
「セルカ、退がって」ティナが言った。
「退がる」セルカが言った。
セルカが跳んで退がった。腕は、まだ強張っている。
濃い一体が、片腕を持ち上げた。影の先が、細く尖って刃になる。
その刃が、退がるセルカの脇へ流れ込んだ。
セルカが、息を呑んだ。声にはならなかった。
クレイの手が、勝手に動いた。掴めている。目も、合っている。届く距離だ。
いつもなら、これで戻る。死の瞬間を掌で汲み上げ、無かったことにする。四千三百回、そうしてきた。
汲んだ。手のなかに、確かに死があった。冷たくて、重い。
セルカの脇の裂け目が、消えかける。
消えかけて——押し戻された。
汲み上げたそばから、向こうが下から死を返してくる。掌の中で、消したはずの傷がもう一度開いた。
クレイは息を止めた。こんなことは、ない。一度も、なかった。
センのときは、汲むものが無かった。今日は、汲んだものが返ってくる。
届く手が、届かない。疑ったこともない前提が、掌の中で外れていく。
クレイは、初めて自分の手が怖くなった。減るのは知っていた。効かないのは、知らなかった。
「クレイ」ティナが言った。「今の、戻ってない」
「戻らない」クレイは言った。
「もう一回」ティナが言った。「見てる」
クレイはもう一度、汲んだ。深く。底を掻くように、掌を沈める。
汲むほど、死は重くなった。いつもの死は、汲めば軽くなる。
「この死は、逆だ」クレイは言った。「汲むほど、食い込んでくる」
傷が、また薄れる。薄れて——また返された。
汲むたびに、背骨の芯が一段ずつ冷えた。そこから何かが、根こそぎ持っていかれる。
手は届いているのに、死のほうが言うことを聞かない。
「戻したそばから、また傷がある」ティナが言った。「あれが、戻し返してる」
「戻し返す」クレイは言った。
「あんたが消すと、向こうが元へ置く」ティナが言った。「押し合いだ」
「勝てない」クレイは言った。「向こうのほうが、深い」
「押し合いじゃない」クレイは言った。「底の、深さ比べだ」
クレイの掌の底より、向こうの底のほうが遠い。汲んでも、届く前に満ちてくる。
セルカが、片膝を落とした。脇から、血が流れている。
「血が、流れてる」ティナが言った。「あんたの手なら、残らないのに」
「セルカが、斬られてる」ティナの声が飛んだ。
斬られている。傷が、そこにある。クレイの手を通り抜けて、傷が残った。
クレイはもう一度、掌を沈めた。三度目だ。
今度は、底が傾いだ。
「掛かった」クレイは言った。「指に、わずかにだけ」
セルカの脇が、裂け目の縁で止まった。
「止まった」ティナが言った。「でも、塞がってない」
「塞げない」クレイは言った。「血は、まだ出てる」
「ここまでだ」クレイは言った。「押し戻せない。傷の口を止めるので、やっとだ」
「止めるだけでいい」ティナが言った。「止まれば、繋がる」
クレイは膝をついた。腕が、鉛のように重い。
「あんた、手」セルカが言った。「震えてる」
「いい」クレイは言った。「動く」
「セルカ。脇、見せろ」クレイは言った。
「斬られた」セルカが言った。歯の間から声を押し出す。「今の、消えなかった」
「消えなかった」クレイは言った。「押さえてろ。強く」
「あたし、死ぬとこだった」セルカが言った。
「ああ」クレイは言った。「今日は、戻せなかった」
クレイはポーチから布を出した。折って、傷へ押し当てる。両手で、体重をかけた。
「押さえるの、手伝う」ティナが言った。
「いい」クレイは言った。「布、もう一枚くれ」
「ある」ティナが言った。
「塞ぐんじゃない」クレイは言った。「時をかけて、血を止める」
これは、手当てだった。致命の傷へ布を当てるのは、初めてだ。いつもは、当てる前に消えていた。
布は、すぐ赤くなった。クレイは二枚目を重ねる。指の腹に、脈がじかに伝わってきた。
「セルカ、喋ってろ」クレイは言った。「気を、飛ばすな」
「平気だよ」セルカが言った。「まだ、あんたの声も聞こえてる」
セルカの唇から、色が引いていた。声だけが、まだ元気だ。
「指の先は」クレイは言った。「血が、通ってるか」
「寒いだけ」セルカが言った。
「中は、どんな感じだ」ティナが言った。
「冷たい」セルカが言った。「祠のときと、おんなじ冷たさだ」
「あのときは、戻った」ティナが言った。
「今日は、戻ってこない」セルカが言った。「冷たいのが、居座ってる」
「引かないか」クレイは言った。
「引かない」セルカが言った。「あんたの手、いつもはすぐ温くなるのに」
クレイは、布を押さえる手に力を込めた。
「今日は、温くできない」クレイは言った。「追い出せない」
「癒し草、出そうか」ティナが言った。
「あとだ」クレイは言った。「まず、血を止める」
「深いのか」ティナが言った。
「深い」クレイは言った。「だが、血の道は逸れてる」
「助かるか」ティナが言った。
「助かる」クレイは言った。「戻せなくても、繋ぐのはできる」
「繋ぐ、か」セルカが言った。「あんたに繋いでもらうの、初めてだ」
「いつもは、その前に消えてた」クレイは言った。
ティナが、膝を折って傷を覗いた。ペンは、まだ抜いていない。
「傷が、残ってる」ティナが言った。
「残った」クレイは言った。
「あなたの手で、傷が残ったのは初めてだ」ティナが言った。
その声が、いつもの検証の調子から少し外れた。測る物差しを、持っていない声だ。
「距離か」ティナが言った。「掴めてなかったのか」
「掴めてた」クレイは言った。「目も合ってた。届いてた」
「向きは」ティナが言った。「セルカは、こっちを向いてたか」
「向いてた」クレイは言った。「際じゃない。届いてたんだ」
「なのに、戻らない」ティナが言った。
「戻らない」クレイは言った。「汲んだそばから、返された」
ティナが、口をつぐんだ。仮説を、置けずにいる。起きたことが、手持ちのどの法則にも嵌まらなかった。
濃い一体は、動かずにいた。灯のふちで、影の芯を厚くこちらへ据えている。
「あれ、なんで刺さないの」セルカが言った。
「わからない」クレイは言った。
「セルカを、仕留められた」ティナが言った。「なのに、止まってる」
濃い一体の芯が、クレイの左手へ向いていた。刺すでも、退くでもない。ただ、見ている。
「あれ、あんたの手を測ってる」ティナが言った。
「測ってる」クレイは言った。
「私たちが、あんたの手を測るみたいに」ティナが言った。
クレイは、背すじが冷えた。喉が、からからに乾く。傷を負わせた相手が、その傷を残した手をじっと眺めている。
「獲物を、見るみたいだ」クレイは言った。「手を、値踏みされてる」
「あれ、何なの」セルカが言った。「街道の影とは、別もんだ」
「別ものだ」ティナが言った。「たぶん、魔族だ」
「魔族」セルカが言った。
「まだ言い切らない」ティナが言った。「でも、獣じゃない」
「あんたの手が効かない獣なんて、いないもんね」セルカが言った。
左手の甲は、まだ熱い。筋が、その一体へ張ったままだ。
なぜ張るのかは、わからない。なぜ効かないのかも、わからない。
わかるのは、ひとつだけだ。この相手には、届かない。四千三百回で初めて、届かない手があった。
「クレイ」セルカが呼んだ。血の抜けた顔で、こっちを見ている。「あんた、真っ白だよ」
「汲みすぎた」クレイは言った。「三回、空を掻いた」
底からは、汲んだぶんだけ持っていかれている。効かない手でも、代償だけは、いつもどおり払わされていた。
「退くよ」ティナが言った。「セルカが、歩けるうちに」
「歩ける」セルカが脇を押さえて立った。「前も、務まる」
「今日は、後ろだ」クレイは言った。「頼むから」
セルカが、口を閉じた。珍しく、言い返さなかった。脇の血を、掌で押さえたままうなずく。
「あんたが、頼むって言うの」セルカが言った。「よっぽどだね」
「よっぽどだ」クレイは言った。
「わかった」セルカが言った。「今日は、あんたの言うこと聞く」
「入口まで、どれくらい」セルカが言った。
「灯、三つ分」ティナが言った。「ゆっくりで、いい」
セルカが一歩踏み出して、脇を押さえたままよろけた。クレイは肩を貸した。
「掴まってろ」クレイは言った。
「あんたに、掴まる日が来るとはね」セルカが言った。
「今日だけだ」クレイは言った。
「覚えとく」セルカが言った。
三人は、上りへ足を向けた。濃い一体は、追ってこない。
だが、消えもしない。奥の数も、同じ間合いで付いてくる。
「ついてくる」セルカが言った。「灯の外を、横に張りついたまま」
「あれは、また来る」ティナが言った。「今日で、終わりじゃない」
「わかってる」クレイは言った。
「あれの名前、まだ書けない」ティナが言った。
「効かない理由も、わからないままだ」クレイは言った。
「でも、覚えておく」ティナが言った。「わからないものは、消さない」
クレイは、歩きながら掌を見た。汲んでも、届かなかった手だ。
四千三百回、一度も外さなかった。今日、初めて外した。外した死は、セルカの脇に傷として残っている。手のなかには、いま何もない。
いつもなら、掌に青い滲みが残る。今日は、それすらなかった。返された死は、痕も置いていかなかった。
なぜ、あの一体にだけ効かないのか。
答えは、掌にはなかった。左手の熱だけが、後ろの冷たさを指している。
冷たさは、退がらない。三人の背へ、間合いを一つずつ詰めてくる。
クレイは、セルカの脇の血を思った。止めることは、できた。だが、無かったことにはできなかった。
初めて残った傷が、後ろから付いてくる冷たさと、同じ重さで胸にあった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
クレイの手は、四千三百回、一度も外しませんでした。届く相手の死を、掌で汲み上げて無かったことにする——それがこの人の力の、絶対の前提でした。その前提が、この回で初めて崩れます。
掴めている。目も合っている。届く距離にいる。条件はすべて揃っているのに、汲んだ死が、汲んだそばから押し返されてくる。傷が、手を通り抜けて残ってしまう。セルカの脇に初めて本物の血が流れ、クレイは致命の傷へ布を当てました。塞ぐのではなく、時をかけて止めるだけの手当てです。
なぜ効かないのか——クレイにもティナにもわかりません。測ることが仕事のティナでさえ、この現象を嵌める法則を持っていませんでした。わかっているのは、この相手にだけ手が届かない、ということだけです。
そして濃い一体は、仕留められたのに刺してきませんでした。ただ、傷を残したクレイの手を見つめている。何かを、確かめるように。その視線が何を意味するのかは、次でようやく形になります。どうか続けて見届けてやってください。




