セルカが折れない理由
セルカが長いこと黙っていた。
戦いのさなかでもないのに口を閉じるのは、この娘には珍しい。剣を抜くと黙る娘が、剣も抜かずに黙っている。
ティナの話が、まだ場に残っていた。六人のうち五人を、一度に失った話だ。誰もそれを片づけられずにいた。
灯の油だけが、じりじりと音を立てて減っていく。壁の近いこの層では、その音のほかに何も鳴らない。
闇の奥に、冷たいものが一つ居座っていた。音のしない一点だ。そのまわりだけ、岩の反響が痩せて消える。クレイの左手はいまは静かで、熱も筋の張りも引いていた。
ふだんのセルカなら、この静けさを放っておかない。軽口のひとつも投げて、場の翳りを叩き散らす娘だ。それがいまは、剣の柄に手を置いたまま動かない。
クレイはセルカの気配を探った。脈は乱れていない。だが胸のあたりに、言いあぐねているものが一つあった。
ティナの話が終わってから、まだいくらも経っていない。三人はこの静かな層で足を止めたままだ。下りる気配は、誰にもない。冷たいものが後ろにいる以上、うかつには動けなかった。
「なあ」セルカが言った。「ティナが、あんな重たいの出したじゃん」
「うん」クレイが言った。
「あたしだけ手ぶらで座ってるのも、据わりが悪くてさ」セルカが言った。
ティナがペンを止めて顔を上げた。
「無理はしなくていい」ティナが言った。
「無理じゃない」セルカが言った。「聞いてほしいだけ。あんたの番の、次だと思ってさ」
セルカが剣の腹を指の背でこすった。琥珀の目が、灯ではなく暗いほうを向いている。
「あたしの父さん、傭兵くずれでさ」セルカが言った。「食い詰めるたび、あちこちの隊に潜り込んでた。腕はまあまあ。人柄は、まるでだめ」
クレイは黙って聞いていた。傭兵の話をするセルカを、初めて見た。
「その隊がさ、稼ぎのいい山へ移るとするだろ」セルカが言った。「連れてくのは、強いやつだけなんだ。弱ったのや、足の遅いのは」
「置いていく」クレイが言った。
「道端にね」セルカが言った。「担いで歩いたら、儲けが減る。荷物だから」
荷物という言葉が、クレイの胸に落ちた。役立たずと言われて門を出た朝の道は、いまのセルカの話と地続きだった。強い者が先へ行き、要らない者が後ろへ落ちる。順番はどこでも同じらしい。
「あたしは、それをガキのころ見てた」セルカが言った。「隊が発ってく。強いのが先頭で、道の向こうへ消えてく。残されたやつは、動かない背中を見送るだけ」
「一度さ」セルカが言った。「足を潰したじいさんが、道端で笑ってたのを見た」
クレイは黙って先を促した。
「うん。行くやつらに手を振って、達者でなって」セルカが言った。「あたし、あれがいちばんこわかった。置いてかれるほうが、笑うんだよ」
クレイはその笑いを思い浮かべた。置いていかれる側が、送り出す側に気を遣っている。惨めさを笑いで隠す。セルカはそれになりたくないのだ。
「セルカは」クレイが言った。「どっちにいた」
「置いてかれる側」セルカが言った。「父さんは強かった。でもあたしは、ただのちびの足手まといだ」
セルカが指の背で剣を一度はじいた。金物の音が、壁に短く跳ねた。
「だから決めたんだ」セルカが言った。「置いてかれる側には、二度と回らないって」
「どうやって」クレイが言った。
「簡単だよ」セルカが言った。「誰かの荷物になんかならなきゃいい。いちばん前で食らいついて離れなきゃ、あたしを道端に残すやつはいない」
言い終えて、セルカが少し早口になった。照れたときの癖だ。
早口のあいだ、セルカの脈がひとつ跳ねた。言いにくいことを吐き出すと、この娘はいつもそうなる。跳ねて、それからすとんと落ち着く。吐き出したぶん、軽くなったらしい。
クレイはその理屈の裏を見た。役に立たなければ置いていかれる。裏返せば、それは怯えだった。威勢のいい言葉が、細い骨の上に立っている。
この娘が無茶な戦い方をやめない理由が、いま底まで見えた。前に出るのは度胸ではない。後ろへ落ちるのがこわいのだ。役に立っていないと、自分が荷物に見えてくる。
「それで、折れないんだね」ティナが言った。
「折れたら荷物だからさ」セルカが言った。「荷物は、置いてかれる」
「あんたらと組んだときもさ」セルカが言った。「ちょっと、こわかった」
「こわい」クレイが言った。
「駆け出しにまた荷物扱いされたら、どうしようって」セルカが言った。「だから必死で体を張った。荷物じゃないって、見せなきゃって」
その必死を、クレイは何度も見ていた。前へ出すぎて、刃を先に食う戦い方だ。あれは度胸ではなく、置いていかれないための努力だった。
ティナが手帳へ目を落とし、また上げた。書こうとして、やめた手つきだ。
「書かないの」セルカが言った。
「あとで書く」ティナが言った。「いまは、あなたの声で聞いていたい」
ティナは、聞く側に回っていた。前は、この娘が過去を差し出す番だった。今日は逆だ。差し出されたものを、静かに受けている。
クレイは口を開いた。
「セルカ」クレイが言った。「置いていかれる側なら、俺も知ってる」
セルカが顔を上げた。琥珀の目が、まっすぐこっちを向いた。
「勇者パーティーは」クレイが言った。「俺を道端に置いた。いてもいなくても同じだと言って」
「知ってる」セルカが言った。「あたし、ざまあみろって言ったやつだ」
「あのとき」クレイが言った。「俺は置いていかれたほうだった。セルカと、同じ側だ」
セルカが口をつぐんだ。次の言葉を、探している顔だ。
「道端に残されると、背中だけが遠くなる」クレイが言った。「あれはこたえる。だから、わかった」
これは慰めではなかった。事実として、同じ側にいたというだけだ。クレイは道端を知っている。だから、セルカの怯えの形がそのまま読めた。読めてしまうことに、少し驚いた。
思い当たることがあった。祠でセルカが脇腹を裂かれたとき、この娘は腹の底で父の背中を見たと言った。置いていかれる、と思ったとも言った。あのとき巻き戻したのは自分だ。だが、死にぎわになぜ父の背中なのかは読めていなかった。いまなら読める。セルカにとって死ぬことは、いちばん遠くまで置いていかれることなのだ。
クレイはセルカの背へ目をやった。いつも先に立ちたがる背だ。前へ出すぎて、何度も刃を先に食う背でもある。
「セルカが動けなくなっても」クレイが言った。「俺は置いていかない。担いででも連れて帰る」
「ずるいよ、それ」セルカが言った。早口だった。「あたしの台詞じゃん。もうひとりでやらせないって、あたしが先に言った」
「言った」クレイが言った。
「あんたが減るとこに、あたしが立つ」セルカが言った。「それ、まだ生きてるからね。取り消さないよ」
クレイはそれを受け取った。以前は、この手の言葉を胸で撥ね返していた。いまは、受け取っても倒れない。
「死なせるつもりはない」クレイが言った。「昔はそう思ってた。いまは、決めてる」
言ってから、その言葉の向きが変わったことに気づいた。前は、終わったあとに口が追いかける言葉だった。いまは、来る前に置く言葉だ。置いていかれる娘へ、置いていかないと返す。それだけのことだった。
三人がそれぞれの欠けを場に出し終えていた。クレイの手は四つ目に届かず、ティナは一度に五つを失い、セルカは置いていかれるのを怖がる。どれも欠けたまま、たがいに見せ合っただけだ。
「言っとくけど、なんも解決してないからね」セルカが言った。「あたしのこわいの、まだ消えてないし」
「消えない」クレイが言った。
「あんたの四つ目も、あたしの五つもそのままだ」ティナが言った。「抱えたものは、誰も減っていない」
「なのに、なんか軽いんだよな」セルカが言った。「変なの」
「独りで持たなくてよくなったからだ」クレイが言った。それだけで、荷の目方が変わる。
軽いという言葉を、クレイはセルカから借りた。この娘はいつも、重いものを軽いと言う。担ぐ相手を軽いと言い張るのも、たぶん同じ癖だ。
その明るさが嘘でないことを、ティナは書き留めるように見ていた。こわさの上に立てた明るさだった。だが二つとも、本物だった。
「うわ、なんか言いすぎた」セルカが言った。「忘れて。いまの、全部なし」
「もう書いた」ティナが言った。
「消してよ」セルカが言った。
「消さない」ティナが言った。「名前も言葉も、消したりはしない」
「けちだなあ」セルカが言った。「あんときのティナと、おんなじこと言ってる」
「同じことだ」ティナが言った。「あなたのも、その人のも同じ紙に書く」
クレイは、その紙を思った。セルカの死と、ティナの失くした顔が同じ字で並ぶ紙だ。二つとも、まだ名前の入りきらない頁にある。
セルカが帳面へ手を伸ばしかけ、やめた。伸ばしたところで、この斥候が消すはずもない。
そのとき、クレイの左手が引かれた。
いつもの熱ではない。甲の下の筋が、外のいちばん遠くへ向かってぴんと張った。
闇の奥の冷たいものは、ずっと同じ場所にいた。退いても消えず、間合いも変えなかった。
それが、動いた。
一歩、間合いを詰めてきた。これまで一度も、しなかったことだ。
手のなかで、冷たさの輪郭がわずかに近くなる。弱りでも張りでもない。汲むことも読むこともできない、手の外のものだ。
セルカがすぐ剣を取った。口が、また閉じた。
「動いたね」セルカが言った。声が短くなっている。
「あんたの手、あれに効くの」セルカが言った。
「わからない」クレイが言った。「たぶん、効かない」
クレイはその一点の奥へ気を伸ばした。冷たいものの、さらに奥があった。
そこはこれまで空だった。いまは同じ冷たさが幾つも動いている。遠いが、こちらへ寄ってくる。
奥の冷たさは、あの一つと同じ質だった。数がそれだけあるということだ。物見が一つ、その後ろに列。街道の影が列で押し寄せたのを、クレイは思い出した。
街道の影には、手が届かなかった。汲めない相手だった。この冷たいものにも、たぶん同じだ。数がいくつあっても、拾えないなら意味の重さは変わらない。
「一つじゃない」クレイが言った。「奥に、幾つもいる」
ティナがペンを構えた。目が、暗いほうへ細くなる。
「増えた」ティナが言った。「ずっと、あれは一つだったのに」
「あれが魔族なら」ティナが言った。「一つは物見だ。奥のは、その本隊かもしれない」
「決めつけない」ティナが言った。「でも、備える」
「あたしが前」セルカが言った。「あんたら、後ろ」
いつもの声だった。前へ出る娘の声だ。だが今日は、その言葉の重さが違って聞こえた。前に立つのは、置いていかれないためだと、もう知ってしまった。
クレイは腰を上げた。灯を、暗いほうへは向けなかった。見えないほうが、こちらの分がいい。
いつもなら、こういうものはひとりで数えていた。奥の冷たさも、手の外のことも。数えても、渡す相手がいなかった。
いまは、横に二人いる。ひとりは剣を取り、ひとりはペンを取っていた。
剣とペンだ。どちらも、クレイの手にはないものだった。前へ出る力も、起きたことを残す手も、自分にはない。だが、両方が横にある。
どちらも、クレイを置いて先へは行かない。それはさっき、たがいに決めたばかりだ。
奥の冷たさは止まらなかった。近づく数は、一つずつ増えていく。
だがクレイは、もう独りでそれを数えてはいなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前回、ティナが初めて自分の過去を差し出しました。今回はその返礼として、セルカが自分の折れなさの根っこを開きます。傭兵くずれの父の背中、稼ぎのいい仕事に強い者だけが連れていかれ、弱った者が道端に残されていく光景——それを子供のころに見たセルカは、置いていかれる側には二度と回らないと決めました。いちばん前で暴れて役に立てば、道端に残されずにすむ。折れないのは強いからではなく、折れたら荷物になり、荷物は置いていかれるからです。威勢のよさの裏に、その怯えがずっと張りついています。
道端で笑っていたじいさんの話を、書いていていちばん胸に残しました。置いていかれるほうが、送り出すほうに手を振って笑う。その笑いになりたくないという一心が、セルカを前へ前へと押し出しているのだと思います。
この回で、三人の欠けがそろいました。全員は救えないクレイ、一度に五つを失ったティナ、置いていかれるのが怖いセルカ。抱えているものは減らないのに、見せ合っただけで荷の目方が変わる。絆というものを、そんなふうに描きたいと思いました。
そして、ずっと間合いを守っていた灯の外の冷たいものが、初めて動きます。その奥では、同じ冷たさが幾つも動きはじめました。何が近づいてくるのか——どうか続けて見届けてやってください。




